シチュエーション
![]() お腹の大きな妊婦が歩いている。 雪の降りつもる街のはずれ、行く当ても無く歩いている。 コートも羽織らず、歩いている。 凍える風に吹かれるまま振り返った妊婦は、いまだ少女と女の狭間にたゆたう様な、未 熟で儚い美しさに満ちていた。 妊婦はお腹を庇うように蹲り、血の気の無い白醒めた唇を開いた。 「パパの子だよ……ねぇ、どうして?……どうして忘れてしまったの?」 妊婦は蹲ったまま、眠るように息絶えた。 幻想的な悲劇はここまで。 街のはずれの森から、野生化した犬の姿が現れる。 一匹、二匹、三匹、………沢山。犬。犬。犬。犬。犬。犬。 噛み合い吠え合い群れながら、犬達は糧とするべく妊婦の身体を引き摺りだした。 死母の少女がもう何も映さない瞳でこちらを見据え、引き摺られながら、 パパの子だよ……ねぇ、どうして?……どうして忘れてしまったの? 言葉にはならず、唇の動きだけでそう言った。 実際は娘が言った言葉だけが事実で、他は後から人伝に聞いた話からの妄想である。 父親には覚えが無かった。 確かに自慢の愛娘であったが、色欲を孕んだ愛では無く、全く無償の愛であった。 娘を初めに貪ったのは犬ではなかった。 インクバスだったのだ。 インクバスは夢魔の一種で、“孕ませる対象が最も魅力的と感じる異性の姿”を模して 現れる。 娘は父親に情欲を抱いていた。 神父から夢魔の話を聞きその事を悟った父親は、シャベルを持って墓地を訪れた。 掘り返した娘の遺体は、多少の肉片を残し大部分は骨となっていた。 埋葬した時には犬に腹を裂かれ子宮を胎児毎食らわれ、そればかりか腕も足もほとんど 食われていたのだ。すべてが骨にならなかったのが不思議なくらいだ。 父親は蛆の沸いた娘の遺体を優しく抱いた。何度も何度も、残った肉片に擦り付け、骨 を愛撫し、慟哭し咽び泣きながら娘を抱いた。 一滴残らず精を絞り尽くし、父親は舌を噛み切った。 娘と朽ちられるならば本望であった……が、それが叶わぬ事を死に際に悟った。 「おじさん、良い趣味してるねぇ。ははははは」 娘の遺体が喋り、顎がカタカタ鳴った。笑っているように見える。 舌の切れ端の詰まった喉と、口中に溢れかえる自らの血に溺れながら、父親は神父の言 葉を思い出した。 夢魔には女性型も居て、サキュバスと呼ばれる。“精を吸う対象が最も魅力的だと思う 姿”をして、男の前に現れる。 薄れ行く意識の中で父親は、自分そっくりの“何か”が、娘の遺体に似た“何か”に向 け、ダンスに誘う様に、手を差し延べていたのを見た。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |