いん
シチュエーション


夜空に月が浮かんでいた。この街の匂いは、夜になると消えるどころか、ますます酷くなる。それが嫌いだった。
何よりも、その匂いに包まれて生きるしか無い自分とこの街を、心底呪っていた。
昼間、群れるようにして人が歩いていく一角も、この時間では人気が消える。いっそこのまま、朝が来なければいいのにと思う。

「無理だよね。絶対、絶対、無理だよね。あさはくるー、きちゃうのよー!」

朝日が昇り、明日が来るのが恐ろしかった。さっきまで雨が降っていたらしく、道のあちこちには水溜りが出来ていた。
部屋で『ご馳走』を食べるのに夢中だったから、全然気がつかなかった。
素足でわざと水溜りを踏みつけて、飛び跳ねるように進んでいく。私の全身がドロで汚れていく。気持ちがいい。

「……わーぁ」

私はふと、大きな水溜りの前で足を止めていた。その水面には、紛い物の夜空の中に、やはり紛い物の月と星が浮かぶ。
そこに映る自分の顔もまた、紛い物だ。見慣れたはずの私の顔、
私自身にとって一番印象的なのは、希望も夢も無い、まっくら闇の、ドブ底のような瞳の色だ。
それが今、血のように綺麗な赤い色に染まっている。

「あーか、あーか……あーかーいーいーろー………」

膝をついて、両手を水の中に突っ込んで、ぐぅっと顔を寄せて見た。確かに、間違えようの無い、赤い瞳の色だった。
その瞳は、確かに私自身だ。それを強く思うと、首筋に浮かぶ唇の痣が、不意に疼いた。
どうしても拭えないその印。戯れにつけられたのは、二度と消えない傷痕。

赤の瞳は、魔に属する者である証。
唇の痣は、魔に属する者と交わった証。

あの女の言葉が蘇る。貴方は私と交わったことで、力を得たのよ。得意げにそう言った。あの淫売女。

「――おい、お前、なにやってんだ?」
「じっと水溜りを覗きこみやがって、気でも触れてんのか」

振りかえると、そこには赤ら顔をした、酒瓶を持った中年の男が二人いた。
どちらもヒキガエルのようなツラをして、腹はでっぷりと膨れ上がっている。
げらげらと嘲る声もまた、繁殖期のカエルを思わせた。

「ガキ、神様にでもお祈りしてたのか?」
「そりゃあいい、何を祈ってたんだ。金か、富か、名声か?」

酒臭い息を零しながら、男達は近付いてくる。
私を見下すように立ちはだかった二人の視線には、分かりやすい程の色情が浮かんでいた。

「どうした、逃げ無いのか。少しぐらいは楽しませて欲しいもんだがな。良く見りゃ、随分と綺麗な顔をしてるじゃねぇか」
「腰が抜けて立て無ぇか。まぁ、そりゃこれからのお楽しみか」
「ちげぇねぇ」

何が楽しいのか、二人は揃って、またカエルのような鳴き声で笑った。

「おら、立てよ」

腕を掴まれて持ち上げられた。臭い安酒の匂いが間近に漂ってきて、ウンザリする。

「ふん、上物じゃねーか。いつもの場所で楽しんだ後は、貴族のクソ共にでも売り払ってやるよ」
「そうしとけ。てめぇはいつもやりすぎて壊しちまうからな。せいぜい酒代ぐらいは元を取らねぇとな」

男達は、好き勝手に言葉を交わし合う。私はそれに何も言い返せない。
何故ならば、目の前に、まるまると肥えた道化が二人もいると思うと、ひどく滑稽だったからだ。どうしようもなく笑えてくる。

「なんだこのガキ、笑ってやがるのか。随分な余裕だな。それとも本当にイカレてんのか?」
「ちっ、物怖じしねぇのはつまらんな。よっぽどの淫売か、それともまだ、神様に祈ってる最中か?」
「あはははあは、かみさまー? そんなものは、いないよー?」

愉快だった。とても愉快だった。とてもとても愉快だった。
最悪に塗りつぶされた世界の中で、笑いが込み上げてくる。本当に感謝してるわ、淫売女。
貴方のおかげで、弄ばされる玩具の気持ちが、とてもよく分かったもの。

「あは、あははははっ、えへへへへへ……!」
「気でも狂ったか。まだ始まってすらいねーぞ」
「かみさまはねー、確かにいると思うよ。その証拠に、お金持ちはみーんな、かみさまのおこぼれをもらえるの。
だけど奴隷にはね、そんなおこぼれすら、与えてもらえないの。でもね、あくまはいるんだよ……」
「悪魔だと?」

赤ら顔をした男のすぐ側で、私は大きく瞳を見開いた。その視線に力を込めて、相手をただ見つめて、心を射抜く。

私が契約したのは、淫魔サキュバス。男共を魅了して、隷属させる力。
人間の欲望こそが、今の私の糧だ。世界中の男は、私の餌に過ぎない。

「別にー、ここでもいいんだけどおー……………」

ゆっくりと、私の中に眠る、もう一人の私が目を覚ます。

「…………どうせなら、人目につかない方が、たぁくさん……楽しめるわよ……?」

私を掴んでいた、男の腕の力が抜け落ちる。安酒を閉じ込めた酒瓶が、地面に落ちて転がった。

「おい、どうした―――」

残る一人の男にも、視線をくれてやる。同じように酒瓶を落として、その場で酔いが回ったかのように、ふらふらと揺れている。
そうして少し目を離した間に、最初の一人が呻き声をあげて襲ってきた。ボロ布と変わらない私の衣服が、軽く剥ぎとられる。

「エサの分際で何をしているの。やめなさい」

男の手が止まる。しかしその臭い息と、ぎらりと充血した瞳の色は戻らない。

「聞き分けのない犬は、嫌いよ。駄犬なら駄犬らしく、主人の言うことをお聞きなさい」

私の言葉は、盛んな雄犬の耳にも聞き届けられたらしい。
理性と性欲のギリギリの境界線で踏みとどまって、本物の獣のように涎を垂らしながら、男はどうにか私に背を向けた。
今すぐに私を押し倒せないのが、忌々しいというように、吠えるように吐き捨てながら。

「こっちだ、ついてこい!」

残る男も同じように背を向けて、闇の中を歩いていく。
盛んな雄犬二匹は、光を阻むようにして、路地裏の隙間へと身を隠していった。

左へ右へと折れ曲がり、突き当りとなるところに、扉があった。鍵はかかっておらず、寂れた音がして、押し開かれる。
辿り着いた先は、一軒の廃墟とも思えるような、あばら家だった。入らずともに匂う、カビ臭い匂い。
そして、男と女が混じった強い匂いが鼻をつく。冷たい夜の空気ですら、その部屋の中では腐っていた。
匂いの中心となっている場所には、粗末なベッドがある。側面からは、剥き出しになったバネが飛び出していた。

「素敵な一品物ね?」

皮肉を言葉にした時だった。後ろ手で捕まえられて、ベッドの上に押しつけられた。

「随分、待たせてくれたなぁ……」

苛立ちと期待に満ちた声を響かせる男たちは、既にそそり立つモノを剥き出しになって、私を挟むように立っていた。

「言うことも聞けない駄犬は、嫌いだと言わなかったかしら?」
「ここまで来て強がったところで、おせぇんだよ!」

愛撫も無く、そそり立つそれを押し付けられた。準備を迎えていなかった膣が、痛みに悲鳴を上げる。
しかし悲鳴の逃げ場は既に無い。もう一人の男が、喉元にモノを押し込んでいて、辛うじてくぐもった声が出る程度だ。
それでも淫魔の身体のおかげか、すぐに前と後ろに咥え込んだモノに馴染んでいく。
愛液を噴出させ、舌を踊り、男共の根から養分を吸い取るように、絡み取っていく。痛みが、快楽へと変わっていく。

「……んぅぅ!……む……はむ……んうっ、ふぅ……っ!」
「どうした、威勢が良かった割に、随分とよがってるみたいだな」
「こうして抑え込んだら、所詮ただの雌犬か。大人を甘く見た罰だな。クソガキが」

安っぽい、薄っぺらな男の虚栄心が膨れ上がるのを、肌で感じていく。
気分が一気に腐ったが、それでも極上の快楽には逆らいきれず、胸の内側で罵倒を並べて、行為を続けていく。

「んむ、ふむ、はむぅ……」
「いいぞ、貴族に売ろうと思っていたが、気が変わった。壊れるまで大事にしてやるから、覚悟しろ。ガキ」
「……ん……んんんんっ!!」

ギシッ、ギシッ、と壊れかけのベッドが、一際大きな音を立てて軋み始めた。
酒の興奮の籠った吐息が、顔と背中に降り注ぐ。男たちは弾かれるように、繰り返し、腰を振る。
今にも崩れ落ちそうな家だからか、家全体が揺れているような錯覚を覚えた。

「はっ……想像以上にイイ身体だなぁ」
「こっちもだ、随分……手慣れてやがる」

男達の勢いが増す。頭の中がとろけていく。何も考えられず、世界が、白という汚らしい一色に染まりあがっていく。
ドロと埃を湛えながらも、美しい夜空と星を映していた世界は、ここには無い。
吐き気を催す程に劣悪な、溜まりに溜まった欲望の吹き溜まりだ。玉の汗が、ベッドのシーツをさらに汚していく。

「……おら、そろそろだぞ……!」
「んむぅ……っ!」

咥え込んでいた先から、どろりとした液体が現れ始める。それを吸いつくし、しゃぶりつくすように、前と後ろで咥え続けた。
部屋の匂いが、一層濃くなっていく。今なら同姓に触れられても感じてしまう程に、身体が熱くて仕方が無い。
息がままならない程に苦しいが、しかしその苦しささえも、どうしようも無く心地良かった。
淫魔の心か、それとも女としての性なのか。心の底から、性を貪る行為に没頭していた。夢中になって『餌』を求め続けていた。

「飲め、出すぞっ!」

溜まりに溜まった、限界を抑えきれない咆哮。薄汚い獣が喚き、吠えたてた。
一際強く、一番深いところまで突き立てて、性液が大量に注がれ溢れる。
その僅かな後、口で奉仕していたモノからも勢いよく、粘りつく液体が溢れ出た。

「んんんんんんんんんんぅぅうっ!」
「……これで、終わりだと思ってるんじゃねぇぞ……?」

息を着く暇など無かった。男共は限界を迎えるごとに体制を変えて、その腰を振るい続けた。

「―――ねぇ、ほら、どうしたのー。腰が立たなくなるぐらい、してくれるんじゃなかったのー?」

私は男に馬乗りとなって、腰を振っていた。
さっきまでは、二人同時を相手にしていたのに、一人は既にボロクズのようになって、床に仰向けになって倒れている。
私の下で腰を振る残る一人も、あれだけ荒々しく装っていたくせに、今は既に、息も絶え絶えといった感じだった。
視線もどこか虚ろになっていて、まともに私の顔を見ていない。

「おじさんたち、もう駄目になっちゃったのー?もう一人の私、つまんないって言って、戻っちゃったよ?」
「こ、の……ガキッ……」
「――あ、大きくなってきたっ、いいよっ! おじさんっ! とっても気持ちイイよっ!……って、あれー?」

少しばかり、気分が昂ってきたと思った矢先だった。残りカスのような性を放って、あっさりとそれは萎えていった。

「もっと頑張ってよー。もっともぉっと、気持ちイイことしたいのにー」

腰を離して、くたびれたそれを両手と舌を使って、舐めつくす。
そうすると少しは固くなるのだが、私を満足させてくれるような大きさには、到底足りない。

「私、まだまだ大丈夫だよ。もっと遊ぼうよ」
「……も、もう、やめ……ろ……」

残る男の一人も、降参とばかりに両手足を広げて、泡をふき出した。
これはダメね、もう使えないわ。行きましょう、私。……どうしたの?

「ねぇ、おじさん……やめろって、本気で言ってるの? あはは、あははっ、あはははははっっ!!
それって、私達の、奴隷の台詞だよねぇ! 初めてで、怖くて、辛くって、泣き叫んだ時の顔っ! とってもイイんでしょおっ!?
おじさんも、今、とってもいい顔してるよ。ほら、もっと、頑張ってよ。ほら、ほらぁっ!」
「………………」

まだまだ、月は随分と高いところにあるというのに、男二人は、自分達の底の程度を見せつけるように、がくりと気を失っていた。
私の瞳は、二度と光を宿さない。淀んだドブの底、真っ暗な眼差しから、血のような綺麗な赤に変わっても、変わらない。

「つまんなぁい。もういこーっと。ばいばーい」

男達との行為を終えた私は、再び宵闇の街中を歩いていた。再び水溜りを見つけては、その前に屈みこんで、自分を映した。
何度見ても、私の瞳は血のように赤い。首筋には淫猥な唇の跡が残っている。

「……えへへへへ」

壊れた人形のように笑う私を、もう一人の私が、深い闇の中で見ていた。
淫売女が気まぐれを起こさなければ、私は今も、成金の馬小屋で寝食を続けていただろう。
そして夜は、ブタのような主人の腹の下、他の奴隷たちと一緒に、男根をしゃぶり続けていたのだろう。
その行きつく先は、一つしかない。
そう思えば、この力を得て、男共に復讐ともいえる行為を繰り返すことが出来たのは幸運、だったのだろうか。

「んー……?」

あの男共から授業料と称して、奪ってきた僅かな小銭。しかしそれは、淫魔となった私にとって、何をもたらすのだろうか。
温かい食べ物も、服も、寝床も、男の顔を覗き込みさえすれば、何でも手に入る。
淫魔にとって、最大の快楽行為と、生命を維持する行為は同等だ。

「……なぁんだ、じゃあいらないやー」

硬貨の入った小さな袋を、投げ捨てた。ボロ布と変わらない切れ端さえも、脱ぎ捨てた。
生まれたままの姿で、私は街を歩いていく。再び雨が降ってきた。
冷たい感触を全身に感じ取って、少しでも男の匂いが拭えればいいのに、そう願った。

「……生きていける……生きていけるんだ……あははははっ!」

魔族として生きていくことになった。それでも明日はどうしようと考えている、浅ましい奴隷の私がいる。
それがとても愉快だと思うことで、心の底から這い上がってくる感情を、懸命に抑え込んだ。

「んー、んー、んー♪」

可笑しい、何もかもが可笑しい。大きな声で歌を謡いたい程に。だけど私は歌を知らない。
だからせめてものはなむけに、この汚い世界へと、笑い続けてやった。


魔族の赤い瞳は、闇をよく照らす。それは激しい雨音の中にあっても、変わらない。
それから淫魔は鼻が利く。餌の選り好みを見分けるために、魔力を持つ人間の匂いを嗅ぎ取ることが出来るのだ。
そしてある日、私は見つけた。少し離れたところから歩いてくる、飛びきりの魔力を内包した、一人の男の姿を。

「……あぁ……すごい……おいしそう……」

まだ感じたことの無い、極上の匂い。それだけで、果ててしまいそうになる。

食べたい、食べたい、食べたい、食べたい、食べたい、今すぐに……貴方を、食べたい。

ここへ来て、私を見つけて。明けない夜を、二人で一緒に過ごしましょう?






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