シチュエーション
彼女を『召喚』した時、私は十四歳だった。 立派な魔女になるために、『魔導アカデミー』へ通っていたけれど、魔力の乏しい私は、いつだって、落ちこぼれだった。 クラスメイトが、黒猫や小鳥を召喚している中で、私だけが必死に、 「……いでよっ! えいっ! このっ! でてきなさいよっ!」 魔方陣が描かれた石床を、空しく杖で、繰り返し叩いていた。 苛立つ私の姿を見て、あちこちから、密やかな笑い声が混じり始める。 「クスクス。ねぇ、フィノ。またアンタだけ、上手くいってないみたいねぇ?」 「うるさい! 気が散るから、黙ってて!」 「こんな単純な魔法なんてさぁ、それっぽく魔方陣書いて、適当に念じてたら誰でも出来るわよ? フツーなら、ね」 「アンタ達の魔導理論は、スマートじゃないのよ。魔力の無駄も大きいし、効率も悪いし、最低よ」 「はいはい。落ちこぼれさんお得意の理論は、いつも立派よねぇ」 「黙ってろって言ったでしょ。言葉も分からない馬鹿は、舌噛んで死ぬといいわよ」 「なんですって、口先だけの、落ちこぼれ魔女のくせにっ!」 顔を真っ赤にしたクラスメイトを無視して、私は再び床を叩き始めた。 こんな調子だったから、私に友達と呼べる人はいなくて、いつも一人だった。 「……見てなさい、アンタ達よりも、凄いの出してやるんだからっ!!」 噛み付くように答えて、もう一度床を叩いた。そして、カツンと音だけが空しく響いて、消えていく。 魔法の勉強が誰よりも得意だった。テストの点数は常に満点で、学年トップの座は誰にも譲ったことがない。 けれど、それに見合う成果が出せなければ意味が無い。只の無能だ。 「なんでよっ……魔力を循環させる理論はあってるはずだし! なんで出てこないのよっ……!」 私はいつだって、書物から得た知識を参考に、魔導理論を組み立てていた。 必要最低限の魔力消費を考えなければ、私には、魔法を使うことが出来なかったからだ。 それなのに、クラスメイト達は、"なんとなく"で魔法を唱えてしまう。 そのことに、酷い憤りを感じていた。 私は誰よりも賢くて、誰よりも知識が豊富にあるのに、それに見合う力が無い。 高いプライドが私自身を、追い詰めていた。 「フィノ・トラバント」 授業を受け持っていた教師が、困った顔をして側にやってくる。 「フィノ・トラバント。残念ですけど、今日はここまでにしましょう。 貴方が日頃から、努力しているのは良く分かっています。ですから、焦らず、ゆっくりやりましょう」 「……まだ授業は終わってないわよっ、先生っ!」 いつもなら、仕方がないわねと言って、頷いていたかもしれない。 だけどこの日だけは、頑なにその言葉を拒んだ。本音を言えば、皆と同じように、可愛い使い魔が欲しかったのだ。 「(……出て来なさいよ! もうすぐ、授業終了の鐘が鳴っちゃうじゃないの……っ!)」 召喚獣の実技試験のために、頭が痛くなるまで難しい本を読み返してきた。 難しい魔術理論も、その日のために覚えてきた。 チョークが短くなって書けなくなるまで、床に魔法陣を書いて消してを、繰り返してきた。 何処かにいるはずの、私の使い魔のために。私だけの使い魔のために。 言葉を紡ぐ。魔法の杖で、必死に、石床を叩きつける。 心が抉られるような想いを込めて、繰り返し、繰り返し、叩き続けた。 だけど応えは帰ってこない。もう一度と思い、大きく杖を振りあげた時だった。 アカデミーの時計台にある大鐘楼が、いつもと変わらぬ澄んだ音を響かせた。 「……なんで……」 あの時、堪えていた涙が零れ落ちたことを、忘れることは出来ない。 放課後、私は一人、こっそりと召喚の間へ訪れた。 本当ならば、アカデミーの生徒は一人で、召喚の儀式を行うことは禁じられている。 術者の予期せぬ『何か』が召喚された際、その抑止力となる熟練の使い手が必要だからだ。 それが分かっていて、私は一人でここに来た。 「……新しいこの理論なら、きっと、上手くいくはず……!」 魔法物質を含んだチョークで、床に魔法陣を書きあげる。 そこには、禁じ手とされる刻印が含まれている。 半人前には、けっして書くことが許されない刻印だった。それでも止める気は、無かった。 「――――狭間の先にいる存在よ……」 世界を隔てる壁の先にいる、魔力を持つ貴方。私の声を、聞いてよ。 貴方を、大切にするから。私のところに、来て! 魔法の杖を握り締める。大きく息を吸いこんで、気合いを入れて振り下ろす。 「フィノ・トラバントの名と魔力を辿り、我が前に、現れよっ!」 心の何処かで恐れていた失敗は、青い閃光が消し飛ばしてくれた。 足元の魔方陣から、力は奔流となって沸き上がる。目の前に、一つの扉が生み出された。 「やった!?」 音も無く開かれた門の先は、奈落の底のように暗かった。しかし恐れは、生まれなかった。 両手を伸ばして、世界の垣根を超えたところへ叫ぶ。 「私は、ここよっ! ここにいるよっ!」 手が触れ合っている感触は無い。温もりも、冷たさも。何も無い。 だけど確かに、私の掌は、何かを、誰かを、掴んでいるという確信があった。 「……絶対、逃さないんだからぁっ!」 大物だという予感。けっして、犬猫などの"ちゃち"な使い魔では無い、 修練を重ねてきた私、『偉大なる魔女』に相応しい使い魔。 「――――ていやああああああああああああぁぁっっ!!」 掴んだその手を、引きあげた。 今思えば、人生最大の失敗だった。 「やーん、そんな、強くパンツ引っ張っちゃ、らめえぇっ!!」 釣れた大物は、半円を描いて、私の側に落下した。 手に持っていた重さがすとんと消える。しかし、手の中には、何かが残っていた。 思わず、まじまじと見つめてしまってから呟いた。 「パ、パンツ……?」 「いたーい、おでこ、ぶつけちゃったじゃないですかぁ!」 間伸びした声を聞いて、慌てて振り返る。 眼尻に涙を浮かべた綺麗な女性が、私と、私が手に持った下着を、仰ぎ見ていた。 「あ、それ、私のパンツ〜」 「――――ご、ごめんっ!?」 あらわになったその場所から急いで目を逸らし、黒い下着を突き返す。 私に呼び出された使い魔は、たいして気にもせず、立ち上がる。 必死にその場所を見ないように気遣う私に対して、使い魔は呑気だ。 「はぁーん、やっぱりパンツ履いてると、落ち着きますよねぇ」 「……普通は、落ち着かないわよ……」 「あれ、この世界は、履いてないのが普通なんですか?」 「履いてるわよっ! パンツの上に、何か履けって言ってるのよ!」 「あ、パンツ丸見えは、恥ずかしいことじゃないですよ。むしろ見せつけてこそ、パンツです!」 「パンツの話はもういいっ! それより貴女……信じたくないけど、私の使い魔としてやってきたのよね?」 「はいですー、ご主人様ぁー!」 私の手を取って、花咲くように笑うその使い魔は、私達と同じ、人間にしか見えなかった。 しかし夜の闇から斬り取ってきたような黒髪が、彼女の黒い翼と尻尾に、しなだれるように寄り添っていた。 それから人の心をざわつかせるような紅い目、無駄に大きい二つの乳房が、彼女は人では無いことを物語っていた。 「私、サキュバスですぅ、よろしくね、小さなご主人様」 「さ……サキュバスって……淫魔の?」 「はいですぅ。自己紹介した方がいいですか? えーと、好きな食べ物は精液、好きな体位はつばめ返し、好きな言葉は太くて長持ち! 好きな……」 「だ、黙りなさいっ、今すぐその口を閉じなさいっ!」 「ふぇ?」 「耳が腐るから、黙りなさいと言ったのよ!」 淫魔、サキュバス。 その悪魔の名を、文献で読んだことはある。人の欲望を煽り精を食らって、己の血肉にするという醜悪な小悪魔。 男を魅了することに長けた尻軽な魔女を、揶揄する時にも使われる名前だった。 「ご主人様、顔真っ赤ですよ。可愛いですねぇ。未開発の素材って、私、大好物なんですよー」 爆弾を抱えて特攻するような発言に、背筋が粟だった。 そぉっと、一歩近づいてくる足取りに、私は急いで後ずさる。 「こ、こないで! 私の脳細胞をこれ以上破壊するなっ、変態っ! それ以上近づいたら、容赦しないわよっ!」 「うーん、杖でぶたれるのも嫌いじゃないですけどぉ、組紐が欲しいところですねぇ」 「帰りなさい。今すぐに、常識という名のお土産を持って、即刻退去を命じるわっ!!」 「いやん、私を呼んだのは、ご主人様ですよぅ。契約するまで、帰らないもん」 「私が、貴方と契約なんて、ありえないわよっ!!」 契約。それは、使い魔を束縛する鎖だ。生涯を、主人のために存在すると誓わせる、絶対に、切れない鎖。 言い換えれば、使い魔を呼び出しただけでは、契約は不完全なのだ。ある記号を与えない限りは。 「アンタに与える"名前"は、無いわよ。今すぐ魔界へ帰りなさい」 「うふふ、意地悪だなぁ。そういうのも嫌いじゃないけど……面倒くさいのって、嫌いなんですよぉ」 「――――なっ!?」 全身で抱きつくように飛びかかられる。どうにか押し倒されることは免れたが、尻持ちをついてしまう。 大きくて柔らかい膨らみが顔に迫り、ぱふぱふと顔を埋めさせられて、苦しい。 「ん〜、いいなぁ、子供って、やーらかいなぁ」 「むぐっ……ちょっとっ! 離しなさいよっ!」 腰の後ろへ回された腕の力が強くて、逃げだせない。 暴れている間に、手から杖が零れ落ちて、床の上を転がっていく。 サキュバスは余裕の笑みを浮かべて、紅い瞳の中に、私の顔を映しだした。 「あれ、ご主人様、もしかして、女の子ですかぁ?」 「な……何よ今更っ! 見れば分かるでしょうがっ!!」 「でもぉ、こうしても分かんないぐらい、あそこがぺったんこですしぃ。すっごく綺麗な顔した、男の子かと思ってました」 「黙れ! 胸は、これから大きくなるのよっ! 成長期は、これからなんだからっ!」 「じゃあこれから、ポインになるんですか、ボインボインですか?」 「ボインボインよっ……って、何を言わせるのよっ!?」 サキュバスは、腹が立つぐらいに、にやにやとしながら、私の顎に手を添えた。 冷たい指先。妖艶な紅い炎の中、悔しそうに顔を歪める私が映っている。 「安心してくださいご主人様。貧乳は、永続固有の貴重なスキルです。 さっきゅんは、おっぱい大きいから、貧乳な女の子が羨ましくて仕方がないです。いいなぁ」 「こ、殺すっ!!」 「それは愛です。お返しに、キスしてあげますね」 「何言ってんのっ!?」 迫る唇から辛うじて逃れた。湿った唇が頬に触れる。 キスをされた場所から、バニラのような甘い香りが浮かぶ。 「……っ!」 「甘くて、とっても気持ちがいいでしょう。さっきゅん百選練磨ですから、任せてくださいな」 「う、うるさい! いい加減に離しなさいよっ!」 「いやですよ。せっかく呼ばれたんだから…………ねぇ?」 もう一度、甘いキスが落とされた。雨粒のように微かな、だけど炎のように熱い口付け。 体を巡る血が火照り、頭がくらくらした。 「委ねてください……かわいい、かわいい、私のご主人様」 サキュバスの紅い眼が、つぅ、と細くなる。 それなのに、口元は楽しそうに、嬉しそうに、愛らしく微笑むのだった。 「……あまり、手間をかけさせないでくださいね」 両腕に込められた力が強くなる。再び赤い唇が近づいてくる。 「……かわいい、かわいい、私の女王様……哀れな下僕に、お零れをくださいな……」 紅い瞳が閉ざされる。熱い吐息の欠片が、すぐ間近にまで感じられた。 「この……!」 それでも心は奪わせない。辛うじて顔を動かして、口付けから逃れる。 代わりに、サキュバスの首筋へ噛みついてやる。容赦などしてやらなかった。 「痛っ……!?」 そして、驚き目を見開くサキュバスの頬を、 「ふざけんじゃないわよっ!!」 思いっきり引っ叩いてやった。空気が震えるぐらいに、良い音がした。 今思えば、一撃と言わず、百発ぐらい食らわせて、その後頭を踏みつけてやればよかったと思う。 「……え? 今、叩かれた?」 「何よ、文句あるの!?」 今でも酷く後悔している。この時、私は蹴りつけてでも、彼女を異界へ送り返すべきだった。 それか、一目散に逃げ出すべきだったのだ。 「ほっぺ…………痛いです」 「な、何よっ、貴女が悪いんでしょっ!」 悪いことをした。微かに、そんな想いを抱いた時だった。 サキュバスの白い肌が、赤く染まっていく。 「ど、どうしよう、ぬ、濡れちゃいそうっ……! あぁん、もう、らめぇ。もっと、もっと殴ってぇ、ご主人様ぁ!」 根っからの変態、手の施しようの無い変態、それが目の前にいた。悪夢だ。 「よ、寄らないでよっ! それ以上何かしたら、殺すわよっ、燃やすわよっ、埋めるわよっ!!」 「えっ、フルコースですかっ!? そんなことされたら気持ち良くって、イきまくっちゃいますっ!!!」 「やめてっ! そんなキラキラした眼で、こっちをみないでっ!?」 「さっきゅんは、変態なのがデフォですから。つまり変態こそ普通、普通は自然、自然な変態」 「やめてぇ! もうそれ以上、喋らないで! 頭おかしくなっちゃうからっ!」 思いだしても、泣きそうになる。 本当の変態とは、同じ言語を用いても会話が成り立たないことを、この時知ってしまった。 「ところで、ご主人様」 「私を、ご主人様と呼ばないで。もういいから、帰ってよ」 「いやです。それよりこの距離で、私の眼を見ても何ともありませんか?」 「何よ。アンタの紅い眼を見たら何だっていうのよ」 「……おっぱいで、ぎゅーってやっても平気ですか?」 「は?」 「こんな感じ。ぎゅー」 「ちょっとおおおおおおおおぉぉぉっ!?」 「くらくらしたり、しませんか?」 「酸欠的な意味で、苦しいわよっ!!」 「エッチなこと、したくなるでしょう?」 「なるわけないでしょっ!」 「本当ですか? 実は今すぐ押し倒して、さっきゅんの巨乳を弄びたくなりません? これはトップシークレットなのですけど、実は、さっきゅんの胸を揉めば、ご主人様の胸も大きくなるんですよ」 「………………!」 不覚にも、本当に不覚にも、少しだけ、胸がときめいた。 「……だ、騙されないわよっ!?」 「はい、嘘です。大きくなるのは、さっきゅんの胸だけです」 「舌噛んで死ね。何で私が、アンタの胸を、それ以上大きくしないといけないのよ」 今思えば、どうして、目の前の汚物を消毒しなかったのか、激しく悔やまれる。 身体から出てくる嫌悪感は耐え難く、頭の中が真っ白になりかけていた。 「私が欲しかったのは、可愛くて、言うことを忠実に聞く使い魔なのっ! アンタみたいなのは、いらないっ!」 言って、扉の中に押し返そうとした。だけどサキュバスが、不意に、悲しそうな顔をしたのだ。 「……そっかぁ、私の力が、あなたには、通じないんだぁ」 私を、ご主人様と呼ぶ彼女。その時の表情は、悔しいことに、今も忘れられない。 その時の言葉が、どんな気持ちで紡がれたのか、今でも正確には、分からない。 ヒトを餌として捕食しているサキュバスは、とても容易く嘘を吐く。だから、その時の言葉も嘘だったのかもしれない。 「……嬉しいな。私、とっても嬉しいです」 「何が、そんなに嬉しいのよ」 「私の力が効かないことが、嬉しいんです――――名前を、教えてください、ご主人様。お願いです」 両手を大きく広げて、再び抱きしめられる。 でもその時だけは、驚くほどに、優しかった。むしろ、抱きしめた方が震えている程に。 「大事にしてくれるって、聞こえたから、お側に来ました。激しく求めるような夜は、もう、お腹いっぱい。 あったかいお日さまの下で、ご主人様と、お昼寝したいです」 「ちょっと、離しなさいよ」 「……やだぁ」 サキュバスが言っていることが、その時の私には、分からなかった。 力を持っていることが辛いなんて、力の無い私には、分からなかった。 「お願いです。一緒に、居てください」 「……何なのよ、貴女は……」 ただ、その声が、あまりにも力細く聞こえるものだから、私までつられて、悲しくなってしまった。 「お願いです。名前を教えてください。それから、私の名前を、貴女の口で呼んでください……」 「……バカじゃないの」 過去は変わらない。過ちも、悔いも、運命も、今となっては、変えられない。 「私は、フィノ・トラバント」 暖かい春の青空に咲く花。丘の上、風に揺られる、小さな花。 優しい白の花びら。狂える程に愛してしまった、彼女の花弁。 「私の使い魔となる者に、契約の名を与える。貴女の名前は、アイリス。 誓うのならば、私の手の甲に口付なさい。その邪な唇で」 私達は今、同じ屋根の下に、二人で暮らしている。 SS一覧に戻る メインページに戻る |