シチュエーション
シャンゼリゼ通りに出ると、 さっきまで飲んでいたウォッカの中に浮いていた冷たい氷に 閉じ込めれたかの様な寒さに思わず身を震わせた。 サルトルと言えば新進気鋭の思想家として耳目を集めているが、 彼の演説を実際に聴くまでは私の彼への印象はと言うと、 昨今ありがちな凡百の思想家の一人だろうという印象だった。 ところが彼の今日の演説を聞くや、私は鋭い錐の様な新鮮な思想を 全身に打ち込まれたかの様な知的興奮に浮かされていた。 ガス灯を眺めながら通りを南に下っていると家と家の間の 小さな通りからうめき声の様なものが聞こえた。 なんだろうと思い、私は立ち止まって通りの奥を覗き込んだ。 暗闇で黒い陰が2つ重なっている。下は男、上は女の様だ。 ふたりとも丸裸だ。 男は女の方にごつい腕を廻し、低い声で呻き続けている。 女は男の上で腰をゆっくりと、しかし容赦なく確実に 動かし続けている。強い動きだ。 おおかた、どこかの飲み屋で知り合い、興奮が高じて そのまま通りの物陰で事に及んでいるのだろう。 私は首を振り立ち去ろうとした。 が、その瞬間、私は背筋が凍り付くのを感じた。 突然男の快楽のうめき声が悲鳴に変わったのだ。 男の両腕は震えながら無茶苦茶に宙をかいている。 女はと言うと、男の顔に俯き、彼の唇に強く吸い付いたまま、 腰をさっきと変わらぬ確実さで動かし続けている。 私がまじまじと覗き込むと、私はその異変に気付いた。 なんと全裸の男は同じく全裸の女の身体にゆっくりととけ込み、 まるで吸収されていっているかの様になっているのだ。 声にならない声を上げ続ける男。 足から、腕から、そして腹部へと次々に女の身体に とけ込んで一体化して行く男。 女は最後の一振りまで快楽に結び続けたいかの様に腰を振る。 「ひっ」 私の悲鳴に女が振り返る。 その姿はごく普通の美しい人間の女だった。 私は足をもつれさせ、倒れそうになりながら必死で通りを駆けた。 後ろを振り返る余裕も無い。 先ほどまでの新思想に浮かされた熱などは目の前の 変事に吹き飛んでいるのだった。 SS一覧に戻る メインページに戻る |