願い桜
シチュエーション


『桜の木には死んだ人の思いが宿るんだよ』

まだ私が幼かった頃、祖母から聞かされた言葉だ。

『なんだか、こわいよ』

あの時、私は祖母の手を握りしめながら、美しく咲き誇る桜の木を恐る恐る見上げた。

『怖いことなんてないさ』

祖母はそんな私の頭をそっと撫でながら、穏やかな微笑みを返した。
亡き祖母との思い出が残る桜の木は、流れた月日を吸い上げ、見上げた人々の思いを受けとめるように太い枝を空に向かって伸ばしていた。その枝は重たげに花びらをつけ、今まさに満開になろうとしていた。
私があの時の言葉を忘れずにいるのは、あの言葉が、幼かった私に小さな恐怖を与え、大人になった私に切ない希望をもたらしたからなのかもしれない。

私はこの桜の木の下で願っていた。この木に宿っていて欲しい。あの人の思いが。

夜の桜は幻のように闇に浮かび上がり、艶やかさを増していた。
この桜を、あの人と一緒に見られたら、どんなに幸せだっただろう。
思っても仕方のないことを、つい思ってしまう。
人は忘れてしまうことも出来るはずなのに。
それなのに、私の心と躰から、あの人との記憶は消えない。
他の記憶は、切れ切れに千切れてしまっているのに。

私は桜の木の幹をそっとさすった。あの人の躰を愛しむように。
そして、あの人の鼓動を聞くように、幹にそっと頬を寄せる。
私の躰は失った感触を忘れようとしない。
聞き分けのない躰を慰めるように、木の幹をそっと抱きしめた。
ふと、顔を上げると木の後ろに人影が見えた。見覚えのある姿に、私は思わず息を飲んだ。月明かりの下に現れたのは、あの人だった。
幻だろう。そう思いながら、あの人の頬へと手を伸ばした。
触れた瞬間、崩れ去ってしまうかもしれない。震える指先に、頬の柔らかさを感じた瞬間、胸の奥底に沈めてきた思いが堰を切ったように溢れ出した。

『会いたかった…』

あの人はやさしく私を仰がせ、唇を重ねた。求めていたあたたかさに涙がこぼれた。
重なりあった唇から吐息が洩れる。差し入れられた舌先に、ためらいがちに応えると、さらに深く舌を絡めて私の舌を誘い出そうとする。躰の中を心地良い脈が駆けぬける。
唇をそっと離して見つめあった。深みのある黒い瞳に私の姿が映る。
あの人の胸に顔を埋め、あの人の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
それはまるで音のない夢を見ているようだった。

『声を聞かせて』

確かめたかった。夢ではないことを。

『会いたかった…ずっと会いたかった』

低く響いたあの人の声は、私の鼓膜を確かに揺らした。
抱きしめて欲しい。私の躰に触れて欲しい。あの人の手を握り、そっと胸元へと誘う。
耳元にそっと熱い吐息がかかり、耳朶に甘く歯を立てられる。
唇が首筋から鎖骨へと降りてゆく。身に纏うものが取り払われ、肌が露わになってゆく。
木の幹に躰をもたせかけながら、手のひらでそっと胸元を包み込まれる。
やさしく揉みしだくように弄ばれ、熱を帯びた胸の蕾を、唇がやさしく這う。

『ああっ…はああっっ…』

硬く上を向いた蕾を甘噛みされ、舌でやさしく愛撫される。
あの人の唇はさらに下へと降りてゆく。
そして私の足元にひざまづいて、下腹部に顔を埋めた。
しなやかな指先が翳りをかいくぐり、敏感な芽を舌でそっと探られる。
私は、あの人の髪に指を絡め、淫らに腰を遣ってしまう。

『はあっ…ああっっ……』

熱く溢れ出した蜜で、秘芯が溶けそうになる。蜜を舌で絡めとられ、しなやかな指先で
芽を摘まれる。湧き上るような快感が、躰の中で波の花のように弾けた。
繋がりたい。もっと愛されてこのぬくもりを確かめたい。

『お願い…もう…』

あの人は、私の躰をそっと返すと背後から熱くたぎるものをあてがい、一気に貫いた。

『はあっっ…』

木の幹にすがりながら、淫らに腰を突き出す。あの人のものが、私の躰をいっぱいに満たしてゆく。

『また…会える?』

淫らに腰をくねらせながら、私はうわ言のようにつぶやいた。

『また会おう…この花の下で…会おう』

耳元にくちづけるように、熱っぽさを帯びた声が響いた。

『うれしい…』

背後へと回した手で、あの人の頭を抱き寄せくちづけた。苦しいほどに舌が絡まり、唇を濡らす。躰を激しく揺さぶられ、痺れるような甘い陶酔に浸る。
切なそうな吐息とともに、あの人の躰が強く脈を打った。
躰の奥で放たれた精の温かさを感じながら、私の意識は遠のいていった。

あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。
降り注ぐ花びらと、空から落ちてきた雨の雫に、私は揺り起こされた。
木の根に横たえていた躰を起こし、かすむ目であたりを見まわした。
そして、あの人がいないことに気がついた。いくら探しても、あの人の姿はもうどこにもなかった。
あんなに愛してくれたのに。また会おうと約束してくれたのに。
やはり夢だったのだ。そう思うと涙が溢れ出た。
涙は枯れることを忘れたように、次から次へと湧きあがり、頬を濡らしつづけた。
切れ切れになった記憶が少しずつ甦ってくる。
そうだ…私はこの木の下で泣いていた。どのくらいの時が経てば、あの人のことを、涙を流すことなく思い出せる日が来るのだろうと思いながら。
私はそう思いながら…この桜の木を見つめて、いったい、どのくらいの年月を過ごしたのだろう。どのくらいの年月を…。
急に、私の頭の中は真っ白になった。
真っ白な中で、私は切れ切れになった記憶を紡ぎ、ゆっくりと手繰りはじめた。
ぽつり、ぽつりと落ちてきた雨は、やがて煙るような霧雨へと変わった。
躰にまとわりつく湿り気に腕が重くなり、溜まった雨水が足元から染みこんできた。
深い眠りに引きこまれてゆくのを感じながら、私はやっと思い出した。私はもう…。

桜の木が、風にさざめいた。
すべてを思い出した私は、花散らしの嵐に身を任せ、目を閉じた。
あの人の思いはこの木に宿っていたのだ。そして私も…。
雨足はさらに強まり、花びらを容赦なく打ちつけてゆく。
花びらが風に捲かれて舞い落ちるのを感じながら、私はあの人との約束を胸に穏やかな眠りについた。

嵐よ、この花を散らして。ふたたび、あの人に会うために。
この桜が花開くとき、きっとまた、あの人に会える。






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