シチュエーション
![]() 意識が戻った時、とっさに、先生が私に触れていないか手を払ったけれど、 側にはいなかった。私からは背を向けて、裸のままベッドの縁に腰掛けている。 背後からでも、闇に慣れてきた目で宙を見ているのが分かる。 私の夢を先生が見られないのと同じぐらい、先生の心は私には分からない。 今、何故男の事を思い出すのかぐらいは分かっている。私が先生との行為で 快楽を覚えたからだ。男との行為で快楽を覚えた以上、少しも不自然ではない。 おぞましいとさえ感じていなかったら、少しの切なさを感じるだけで、何の 問題もなかっただろうに。 丁寧に私の体にかけられていた掛け布だけが、先生の意志を伝えてくれている。 「先生は優しいですね」 「いや、そんな事もないよ」 呼吸音の違いで気付いていたのか、先生は突然声をかけても、驚くでもなく、 また、こちらを振り向くこともなく返してくる。 「長くても、後、三か月もしたら、瀬田さんも僕のことを鬼だと罵ってくれる だろうから」 「どうしてですか」 「頑張ってね、卒論」 「・・・うわあ、現実だ」 でも、これまでのゼミの内容から察すると、鬼と呼ぶのは大変控えめな表現に なる気がしていた。 「先生の方こそ頑張って下さいね、指導と試問」 とにかく起き上がると、被っていた掛け布を先生の方へふわりとかけた。手を 引くと、入ってきてくれる。指がブラウスの襟にかかってきてやっと、こちらが 眠っている間に脱がそうとしなかったどころか、ボタンこそ留め直しはしていない けれど、服の乱れをきっちりと直して寝かせてくれていたらしいことが分かって、 苦笑する。 「こちらは頑張ることではなくて、しなければならないことだから、・・・いや、 少し表現が違うか、何だろう」 それ以上、喋らせないために、唇を舐めた。本当のところは、ちゃんと先ほど していたかどうか怪しかったからだけれど、次に舐めた時にはブラウスの襟が 下方へ下りていき、もう一度舐めると取り払われ、後にはブラが残る。それ以上 舐めることはできなかった。既に口を塞がれていたからだ。呼吸することを 思い出して、息を吐き出したと同時に、ブラが外される。 腕の中から離されないまま、ブラウスとブラが丁寧に畳まれた後、ソファーに 放られた。その間、改めて裸になると、先生の歴代に比べてこの体は どうなんだろうかとか、みっともなく胸の先が立っていたりしていないか、 なんて考えなくてもいい事を思った。 先生は顔を私の方に戻しても、こちらの体を特に観察するでもなく、不安など 当然知らないのだから、抱え上げられて座らされた。ただ、普通に座る時と 違うのは、足を投げ出している先生の上に、やはり足を投げ出している私が 座っている格好になっている事だ。この状態を少しの間観察してから、 聞き辛いけれど、大変な勇気を奮い立たせて、やはり聞いた。 「・・・重くないですか」 「瀬田さんぐらいなら、載せていて却って安心する」 微妙だ。 勿論、私のそんな思いはすぐに放られた。手が、一方が胸の下に回されて胸の 縁をなぞっていき、もう一方が腿を這っていく。どちらも、何という事もない 動きなのに、何となく身じろぎしたくなってくる。少しだけ本当に動いてみて、 こちらの背中が、先生が腕を動かす拍子に動かした体と軽く擦れるのが分かった。 やっと手が離れたと思っていたら、胸の縁をなぞっていた手は腿へ、腿を 這っていた手は胸の縁をなぞり始める。 先生は私を悶え殺すつもりなのだ、と気付いた頃には、一度潤む事を 思い出させられていた足の間が、ひくついているのを自覚していた。もっと手を 上へ、あるいは体の中心へ移動してその手の動きを行ってくれれば、私は嬉しさの 中に埋もれていくだろうけれど、手はいつまでも柔らかな上を這い回り、つい前の、 突然にぬめりに触れてきた時のような事はしてこない。その指を覚えてしまった 後だからこそ、余計にくるおしい。 本当にくるおしい理由は、しっかりと抱きかかえられていて、背中で擦られている、 しっかりとした体の存在があったから孤独感こそ覚えていなかったけれど、 私からは手を前方のどこへ動かしても先生の体を抱えることができなかったから なのかもしれない。そして、あれほどまでに唾棄していた行為を、渇望の対象に あっさりと変えてしまった、自分自身にあったように思う。 今の状況がいつか終わる事を望みながら、いつまでも終わらない事を願っている、 浅ましい自分にだ。 「う、う・・・あっ」 頭を仰け反らせた時、髪をかき分けられたうなじの辺りに先生の口が触れてきたかと 思うと、強く噛まれた。足首の次は首とは、本当に獣みたいだ、と思いながら、 きりきりと歯が動くのを感じていた。 「痛い・・・」 「ああ、そうなるように噛んでいる」 ゆっくりと力を入れて、痛みに耐えられなくなった頃に離れていくやり方は、 慣れると奇妙な安心感さえもたらしていた。言葉や感覚ではなく恐らく経験で、 先生がどう噛まれれば耐えられないのかという事を分かっているからだろう。 それでも私は気持ちよくなりたいのか、痛みから逃れたいのか分からないまま、 先生の手と歯から離れたくてたまらなくなった。両手でもがいてみせるけれど、 宙に何か手がかりがあるわけもない。 あるとすれば、この口から放たれる言葉だけだ。 実際、そうすると言ったのだから、言えば先生は止めてくれるだろう。けれど 私の言う事を聞くのが、先生の意志とは関係があるのかが分からない。義務から 命令してもいいと言っているのではないだろうか。 思えば私が先生を選んだのは、やっと一人になってから私の生活に関わってきた 男性達の中で、一番、私の話を聞いてくれたからであるだけだ。 それは、あの男が私を選んだ理由と、全く同じじゃないのか。 腿を触れていた左手が、頬から唇の表面に来ていた。ゆっくりと形を調べられながら、 やっと違うところを触って貰えた、と手の平に頬を押しつけていると、 「ちょっと失礼」 そう言って、先生の指が私の鼻をつまんできた。 混乱したのは、同時に胸を、最初はもう一方の指先だけで、次第に手の全体を 使って揉んでくるからだった。更に、先生の足が絡んできたために、足の動きも 封じられてしまう。 首を絞められると気持ち良くなる人の気持ちが分かってきそうで、恐くなる。 苦しい分、余計に手で触れられている胸や、もがくほどに擦れる背や、組まれている 足を意識せずにいられない。もがき、あがいても、私をかかえあげた時の事が 嘘のような力で押さえる先生から逃れられない。 けれど、と、胸の先を摘まれると生じる、頭の奥のちらつきと共に思う。 それが、私の望んだ結果なのだ。選ばれて行われた結果ではない。もしも こうやって女の呼吸を止めたくなる嗜好が先生にあったとしても、自分がとても 嬉しい中にいるのだと思い出させてくれた事に感謝を直接、口に出して 伝えたいぐらいだった。 そう、口に出して。 ・・・十秒ほど、たっぷりと深呼吸してから先生に聞いた。 「先生、私の性格、抜けていますか」 「時々は、まあそうだね」 最初から、口は塞がれていなかった。 どっと力が抜けた私の体を、先生は反転させて、丁度ソファーでそうしたように、 座る先生の上に私が膝で立って向かい合う形にした。そうして、自分の顔の前に 持ってきた私の胸を、くすぐり始めた。 「やあ・・・」 声を漏らしてから、自分が先程まで、唇を噛みしめていたことに気付いた。 指が胸の表面を滑っていくのと、情けなさとで先生の頭を抱えた。知らず知らずの 内に体を押しつけていく。 唇を舐めると血の味がした。先生は、私をよく見てくれている。唇に触れただけで、 顔を見てもいないのに唇に歯を立てて食いしばっていたことをあっさりと見抜いてくれた。 しかも私が後ろめたさを感じないように、悪戯のようにして口を開かせてくれる。 「先生・・・」 「何かな」 「・・・私以外の人が誘っても、応じていましたか」 「分からないね」 何度か聞いた事がある、穏やかな中に皮肉をこめた口調で言った。 「応じた可能性を否定はしない。ただ、今、目の前にいるのが君である事の方が 遥かに重要ではないかと思うよ。では、きちんとお互いの体に集中しようか」 「馬鹿正直になっていますよ」 「今の君と足して割れば、丁度いい」 胸を舐められながら、声をあげて笑う日が来るなんて、思ってもいなかった事だ。 その間、胸は先生の手と口との中で、様々に形を変えていく。 見下ろすと、先生の頭が何やら蠢いている。どうして今まで気付かなかったかを、 髪に手をあてて理解した。人の頭に手を置くと安心する。抱きしめても何かに 許されたように楽になる。 先生の唇と舌と手が自在に動くのが、分かる。それよりももっとずっと他の 要素も含めた、ありとあらゆるもので揉まれている気分になる。私は、心臓に もっとも近い箇所を差し出す。先生の手と舌は、腿や腹を探っていた頃より遅い。 肉の薄い手の平でふくらみを擦られ、指先と指全体とを使って先をいじられる。 歯が噛みちぎろうとすることなく、撫でてくることでとどめが刺される。 手で、先生の頭を探った。耳やすっきりとしたうなじから背中にかけて触れると、 どこも温かい。集中しよう、と先生は言ってくれたけれど、先生の体の一つ一つに 集中すればするほど、先生の体が与えてくれるものに集中できなくなる。 先生はどうしてこんな事をしてくれるのだろう。 そう思っていると、何だか泣きたくなってきたので、慌てた。喘ぎながら泣くのは よいかもしれないけれど、泣いているだけでは私は先生に苛められたかのように なってしまう。 髪に唇を落としながらしがみついていると、ゆっくりと寝かされた。私の体の 上に先生の体が張りつき、へそに舌がまとわりついてくる。内臓を舐められたら こんな気分になるのだろうか。飽きずに舌が埋まり続ける理由が、分かるように なってきた。私のへそは出ていないので、噛めないからだ。 私はしがみついていた。先生の手と舌が下方へ下りていくのを感じながら、 かつて見た夢のことを思う。 私が先生に押し潰されるのではない。先生が私に引きずり込まれるのだ。 「先生、好きです」 「そうだね」 先程までの腿の執着が嘘のように、先生は私の足を気もなさそうに折り広げさせた。 そのまま、じっと私を見下ろしている。一度身を起こすと、その目を私の顔に 向けさせたくて、引き寄せて口づけた。どちらも私であることに変わりがないのは 分かっていた。それでも口づけた私に、先生はちょっと困ったような表情を見せた。 今更そんな事を言ったからか、無理に口づけをせがんだからか、あるいは他の何かか。 「でもきっと、先生がたまたま側にいてくれたから、好きになって利用している だけです」 過去に潰される前に、過去を踏みつぶそうとしたのだ。世界に光がない頃に 戻りたいから、私は私との関係に何らかの線を引いてくれる人を好きになったのだ。 手を引けば、その人も結局は線を踏み越えるのを期待したからだ。先生があの男と 違うことを期待しておきながら、先生を同じところへ引きずり込もうとしている。 好きになるなら、もっと未来が良かった。私が大学を出て、再び巡り会った時、 一人の男としてこの人を見て、好きになりたかった。出来ることなら、先生が 子供の頃、子供の私が巡り会えたら良かった。 きちんと、先生が好きだと言いたかった。混じったもののない、真っ直ぐな 気持ちで好きだと言いたいのに、それはきっと一生できない。 すべてが嫌になる。 「ひくついている」 降りかかってきたような声に驚いて、下がろうとすると手で止められた。見ると、 別に先生は驚くでも呆れているでもなく、私を見ている。混乱は、続いて降ってきた 言葉によって深まった。 「なら、責任をとってくれないかな」 「責任、・・・何のですか」 「私を好きになってくれたことの責任をだよ。見られているだけでこんなにして」 先生の指が伝っていった。あっさりと指を濡らしているのがよく分かる。 「っ、あ・・・」 「三度満たしてあげてもまだ足りずに、こんなにも私に欲情している」 「ああっ」 二つの指で固さをほぐされるように摘まれ、揉まれる。息苦しくなるような その痛みが好きだった。先生の指の動きだけで、私の顔が赤く火照る。 嫌で、嫌で、消してしまいたい。自分を。 目を閉じてそう思っていると、体に温かいものがかかってくる。その正体に 気付いて身を引きかけても、入ってくる舌を止める事はできなかった。 「・・・はあっ!や、やあ!」 「逃げずに、自分の気持ちと向き合い続けてくれるね?」 かすれて聞こえる声は、その舌が与えてくれる事以上に私を喜ばせた。実は 先生も私を好きだった、と言われるより、ずっとだ。 でもやはり、その唇が擦られてくると、私はその加減に力をなくした。 私が望んでいる以上に触れてくれる、それが怖い。それは先生を初めて見た時の 恐怖とはそれほど離れていない。 その舌が私を蠢かせる。私が望んでいるよりあっさりと固い先を舐め終わり、 私が望むより以上に中へ入り込んでくる、その食い違いに体が動く。ずっと、 ずっと触れて欲しい。 そうだ、私は先生を恐れていたのではない、先生に欲情していたのに恐怖したのだ。 先生は私に舌を絡ませてくる。今、まさに内臓がめくり上がっているのだ。 「もっと・・・もっと・・・」 よく口に例える人がいるけれど、先生と触れ合っている方がそう告げ、あさましく 呼吸している方が音を響かせる、そんな錯覚に入っていく。 それなのに、先生が私が体を強張らせると逃れ、また触れてくるようになる。 触れても私の欲しているところの外へと明らかな故意で触れて、焦れてきたところへ 的確に先を含まれて逃げられた。 「先生、私、もういや」 腕を引いて、位置を入れ換えても先生はあっさりと受け入れてくれた。今度は 私が先生の脚の上にいる。 軽く握ると柔らかいような、固いような触感が心地よい。昔を思い出そうと してみても、生理中だと告げて握らせようとしてきた記憶や、歪で異様な形状だと 思っている事は共通している事ぐらいしか思い出せない。案外、覚えていない ものだなと思って上下に動かす。でもふわふわとした毛にも触れてみると、 何だか愛おしい。そして、そう思えなかったあの男を、私は遂に許していなかった 事に気付いた。 辛うじて、力の加減は思い出せた。自分の腕のように握る。自分の腕のように 握りすぎない。 触れるのもそうだったけれど、少し舌先で舐めてみたり、口に含んで唇で 吸いついたりする事に抵抗はなかった。最初は嫌がったりすることを正気の 定義にするのなら、私は最初から正気じゃない。 ちろちろと舐めながら先を口に含んで離し、次に根元まですっぽりと加えてから 裏側に舌を動かしつつ引く。口の中で固くなるというより、張ってくるのを 面白く感じた。 「瀬田さん・・・もっとゆっくり・・・してくれないと・・・もたない」 上擦った声に顔が火照る。先生が私に感じている。先生が私で感じている。 嬉しくてもっと強くしようとする自分を抑えて、ゆっくりと勿体ぶって唇を 動かしながら、合間にふざけるように他にも口づけたりする。 こうしていると、正気でないままでいい、と思える。 考え事をしていて、動きもゆっくりだったとしても、しなければならない事が 多いので口の中の感触を楽しむ余裕なんてない。何とか一度顔を上げてみると、 目を細めている先生の手が、髪を撫でてくれた。嬉しくなって又、戻る。 やがて口を離して、もう一度位置を入れ換えた。といっても、今度は先生の 顔が私の顔の上にある。次に何をすべきかはお互い、口に出さなくても分かっていた。 私の肩に手を置いたまま、先生は自分の鞄から箱を取り出して中身を出し、 口で袋を引きちぎって備え付けた。袋をきちんとくずかごに捨てるところは 先生らしいけれど、と思いながら手で押さえるのを手伝う。 被さったのを見てから先生に背を向ける。 「どの姿勢から始めてもいいですか」 「どうぞ」 黙って膝をついた。うつ伏せになり、顔で枕を潰して腰を持ち上げる。 ゆっくりと脚を広げる。 頭が自然と背後を向くので、自分の足の向こうに先生が見える。暗がりなので 先生からは見えるかどうか分からなかったけれど、笑ってみせると先生も 笑ったように見えた。気のせいかもしれない。 ただ、腰から下へと手の平が這い回っていく。ただ見られている感覚がある。 ずっと奥までを見られている。震えてきたところで腰を抱かれ、唇で触れられた。 指で位置をまさぐられる。 入り込んでくる感覚に、枕を握りしめた。 最初に背後からの態勢を選んだせいか、少しきついかもしれない。 「く・・・ん・・・!」 体重をかけないようにとだろう、後ろから抱えてきながら覆い被さってきた 先生の唇が、またうなじをまさぐってきて、幾度も幾度も口づけられ、噛んでくる。 体を抱えてくる手が熱い。それでいて体は早くはないけれど動いている。私は 入ってくる先の形がはっきりと分かるぐらい締めつけていた。 「ん、い、はあっ、はあっ・・・」 抱えてきた手が、そのまま体を探ってくる。どこで感じればいいんだろう。 そう考えていると、手がそのまま腰の方へ戻ってきた。 「・・・ひゃっ!」 腰を探ってくる。堪えられない。指の動きは早くて、私はそれをあさましく 貪る。貪りながら、ぶつかってくる先生の体を受けとめる。 逆説として、私がもっとも無防備になるこの姿勢が、一番抱かれていると 感じられるだろうと思っていた。きっとそれは合っている。 決して今は、強いられている訳じゃない。 「先生、こういう事、前にしたのはいつ?」 「忘れたよ。・・・最近あったけれど言わない、という意味ではないからね」 動くのも忘れて、力一杯訂正するのもどうかと思う。するとまた動いた時、 その動きは違うものに変わった。体の中をかき回されている。 「はあ・・・私・・・先生を、利用している、というのは・・・前に私に触れた 男が・・・」 指が唇にあたって、塞がれた。鼻は閉じられていないのに今度はすぐに気付いた。 「一つだけ聞かせてくれないかな」 触れてくる指の熱さにのぼせながら頷いた。止まっていると触れ合っている 先生の体温が生々しい。 「その男の事が好きだったの?」 首を横に振った。体に伝わってくる震動で、先生が頷いたのが分かった。 「なら私を利用でも何でもすればいい、早く乗り越えなさい。この先どうなろうと、 君を見捨てる事だけはしないから」 言葉が私の中に染み入ってくる。染み入って脆くなった体を再び揺さぶられる。 溶け込む感覚に浸っていると、一旦体が離れて、先生を向かい合って座らされる。 ソファーの上でそうした時よりもっと密着しながら、私が先生の上へ下りていく。 「・・・はあ、ああ、あっ!」 少し涙が出た跡を指ですくわれてから、唇が絡まってきた。擦り合わせるように 何度も重なる。先生が飽いたのか少し顔を離して一息つき、下から腰を上げてきた 時も、私の側から先生の顔を引き寄せて唇を重ねる。体がすり合わさる具合が 大きい。時々舌も入れてみると、強く吸われて驚く。けれどまるでそうしないと 息ができないかのように、呼吸する度に唇をただ合わせるだけでもいい。 腰を擦り寄せると、先生にしがみついている手に力が入る。あまり しがみつかないように、ベッドに脚をつけて体重をそちらにかけようとしても、 かき回される度に忘れて、また腰を擦り寄せてしまう。先生も私の動きに 合わせてくる。それでまた力が抜けてしまう。 先生の顔に手をあてる。目の前にいるのは確かに先生だ。他の誰でもない。 その人が私の舌で体を動かして、唇を求めてくる。 手の平で先生の体を確かめる。いつでも思い出せるように。忘れないように。 「んっ、はあ、ああっ!やあ!」 本当に私の声はバリエーションがない。大体、ある一定の時点を越えたら必ず 嫌という。それも演出として言ったのなら良いけれど、私の言い方ときたら 心底から嫌そうに聞こえる。先生がつい前に私を傷つけたのではないかと 心配してくれたのも無理がないぐらいだ。 こんなに力が抜けきっているのに考えているのは愚かな事ばかりで、それでも 自分の嫌なところを山と見せても突き放されないのを嬉しく思っている。いっそ、 好きでも何でもない男としかこういう事はしないでおこうか、と思った事も あった。そうしなくて良かった。そんな事を繰り返したら、いつかこんなに 楽しい事を憎むようになったかもしれない。 私の好きな人は微かに喘いでいる。私のどこかを前から少しは愛しく思って くれていたらいいと思った。それがどこかは私にはさっぱり分からないけれど、 私より倍は生きてきて、その思考はきっと倍どころではなく複雑に なっているのだから、何とも思っていないのに私に触れていたとしたら、想像も つかないぐらいの虚しい行為だろう。 先生の手が私の胸に触れる。激しいのにちっとも痛く感じられない。手が 離れぬ内に唇で跡までつけられ、噛まれた。 「・・・はあ!」 それでも離れると、もう、どこかを噛まれていない事を物足りなく思っている。 思いながら髪に口づけた。そして、戻ってきた唇にも触れる。 すると頭と体とに手が回されて、世界がもう一度回転した。仰向けになった 私の上に先生が被さる。体重がかかっているけれど重くない。安心するという 言葉の意味を知った。 もう何度目だろう、軽く唇が重なってくる。この態勢でほんのわずかでも 動いていると、目の前の人を引き寄せて触れずにはいられない。動きながら 触れると頭がひりつく。夢中で体のすべてで絡みつき、擦れる。 「・・・あああ!あ!あ!」 段々と、より速い動きを体が欲するようになっているのを分かっていて、 思っている事から外す。すると先生が速める事でそれを崩してしまう。逆もあり、 お互いが同調する方がずっと多い。けれどどんなに速くても、早急さのない 穏やかな、緩やかな動きだった。確実にお互いの体に刻み込んでいくような 動きだ。声をあげ続けても、先生に触れる時は必死に返す。 「・・・い・・・」 又だ、と思った時、それでも口を塞がれる。何度も何度も、口が開きそうに なる度に止められる。 どうしてだろう、と目を開いた。先生の、切なそうでいて、気遣わしそうな 顔と目が合って、慌てて目を閉じる。 「どうしたの?」 目尻からこぼれるものをすくわれながら言われた。私は嘘つきなら先生は 卑怯者だ。お互い、本当にして欲しい事を何一つ言えない。 私に、もっと他の事を口にして欲しいのだ。 「私・・・何にも、・・・先生にしてあげられない」 「どこが?」 漏らしたくなくても声は漏れる。口は塞がれる度に深く絡まっていく。 より深く入り込んでくる。その度に締めつけているのが自分でもよく分かる。 何かを考える余裕を捨てた。とうとう、先生が私の口内を自分の舌が傷つくのも 構わないぐらいの強さでかき回してきながら、私の弱みをすべて掴んだかのように 体の動きを変える。 首を上げる力すら、私から抜けた。 「いや、は・・・あああ・・・!」 ずっと強かったのでも激しかったのでもない分、ひどく長く体は揺さぶられた。 私に触れているすべてが少しでも長引かせようとしているかのようだった。 ただ、私を先生が揺さぶっていることだけが現実で、それもすぐに現実味をなくした。 力が強まり、急激に抜けると、私の上へ倒れかかる直前のところで転がる。 もう一度頭を引き寄せられてから離れたけれど余韻も何もあったものではなく、 先生はベッドの端から身を乗り出したまま、やがて動きを止めた。 「・・・中里先生?」 見ると、呆れてしまう事に、ベッドの端にしがみついたまま、先生は眠っていた。 力づくで引っ張り上げて、仰向けに、それも私の寝る分を空けて寝かせるまでの 苦闘の時間を一々説明しても意味がない。・・・先生に眠りを促すのは、 アルコールだけではないらしい。実をいうと私も大変眠くなり、やっとの思いで 先生の横で目を閉じた時には、指一本動かす気にもなれなかった。 「おやすみなさい」 そのまま、今度こそ夢に入る。 気が付くとうつ伏せになっていた。私はいつも仰向けで眠っているから、 こうなるのは少々おかしい。 まだ朝日も昇っていないらしい時間だ。もう少し寝よう、と体を仰向けに なろうとした。動かない。 上から誰かがのしかかってきて、人の手と口とを塞いできている、と知った時は、 本気で抵抗した。けれど動かない。 「ぐ!ん!ん!んー!」 何ともならない。耳元で嫌な呼吸音が聞こえる。聞き慣れた音だ。決して忘れるものか。 あの男だ。 「・・・はあっ、はあ、はあ、は、は、はあ・・・はあ・・・」 男の手が体中を這い回る。ちっとも気持ちよくない、というと少し違う。 触られているのだから感じる事は感じる。それが気持ち悪いのだ。 起きたばかりの人間の力なんてたかがしれている。私の力は弱すぎて、男に 簡単に押さえ込まれている。 脚の間に、不快な感触がする。何度も私の体にこすりつけられる。 「んー!」 例え体を触れる手の数を減らしてでも、男は私の口から手を離さない。最初の 時、私は何が起きているのか、目が覚めたばかりの頭では分からなかったけれど、 とにかく混乱してあげた叫び声が一階で起きていた母の耳に届き、駆けつけて きてくれたからだ。・・・男はいなくなっていたけれど、私は怖くて、母に 「何でもない」と叫ぶばかりだった。早く眠って、すべてを忘れたかった。 そして忘れた。次に男が覆い被さってくるまでは。 しばらくの間、私は夜に起こった事を覚えていなかった。意識せずに、 忘れるように自分に念じていたのだと思う。それから母に知られるのが怖かった、 という事もあるのだろう。母は子供の私をその生真面目さで何かと心配して、 新しく購入した一戸建てに防犯装置がある事を喜んでいた。自ら、娘に手を 伸ばす存在を引き入れ、しかもよく泊めてまでしていたと知ったら男を責め、 自分を責め、そして私を責めただろう。生真面目とはそういう事だ。そして 何も分かっていない父は、きっと母を責めた。 年月が経つと、私も世の理が少し分かってきたので、逃げる事にした。但し、 全力で逃げる。別に私は美人でも、素晴らしい体を持っている訳でもない。 既に私に飽いた予兆を見せていた男は、私がそうと言えば関係を止めるだろう。 けれど私は私の為に逃げる事で男を切る事にした。この先どのように転ぼうと、 男が両親のところを訪れるのは変えられない。でも逃げれば追ってこない確信が あった。なら、長年の記憶を断ち切るためには、環境から一切を変えたかった。 どうしても遠方の大学でしたい勉強がある、と主張するようになった私を、 両親は何も知らずに受け入れ、受験勉強を応援してくれた。私は第一志望の大学に 受かり、やがて来る日を待った。男には何も言わないつもりだった。男は何とも 思わずに他の遊びを見つけるだろう。そして何事もなかったかのような顔で 再会し、言葉を交わす。それで終わりだ。 花のつぼみが膨らんでいくのを見ながら、したい事を山と見つけて、それらを 片端からしてしまおう、と思った。学びたい日は勉強して、遊びたい日は遊んで 過ごす。 過去がある人間が、明るく生きてはいけない、なんて事があるものか。 「なあ・・・」 男が私の耳に声をふきかけてくる。やめて。そう言いたいのに声が出ない。 「女がいなくて、寂しいんだよ。協力してくれよ」 私は男の声を聞いていない。終わらせて欲しい、ただそれだけをもがきながら 願っていた。 「子供は出来ないようにするから、なあ」 今、この場だけでもいい、早く終わって欲しい、と思っていた。好きな人も いた。友達だって山といた。両親は私の事を考えてくれなかった日なんてなかった。 でも、この場を助けられるのは、自分一人だけだった。 私が拒むと、男は日常の些細な失敗を親に告げると言って脅した。屈する ぐらいなら告げられた方がましと言えるのは昔の話になったからだ。私は夜は 際限なく続くものと思っていた。愚かで小さな、普通の子供だった。とても 疲れた子供だった。 「・・・分かったよ・・・でも、痛くしないで」 胸を摘まれたまま、私は言った。 「そんなの無理だろう、じゃあ、済ませるから」 平然と男が返してきた事まで、それからおもむろに用意していた袋の中身を つけてから私の中に入ってきたことまで覚えている。 痛みに声を漏らすものかと思いながら、木々に花咲く日が来ても、夢の中に 男は出てくるだろうと思っていた。その通りになった。 いくらか眠っていたらしい。風に飛ばされて本や紙の散乱する机から顔を 上げると、窓を閉めて電話へ向かう。この部屋に住み始めた頃はとても電話に 怯えていたのを思い出す。その度にいつも唱えていた言葉も。 うぬぼれるな、自分にそんな力はない。あったのは穴の開いた肉塊としての 価値だけだ。 「はい、もしもし」 『瀬田さん?こんばんは、はかどっているかな』 「いいえ全く」 機械越しに、中里先生が笑っている。落ち着く自分を感じる。 あれから三か月ほどが過ぎたけれど、電話で少し話すぐらいの事しか していない。時期が時期だ。私はやっとこちらで就職が決まると、次に卒論に 追われるようになった。先生は先生で私を含むゼミ生を追い回してばかりいた。 卒論が終わると、当然先生は試問の、私は就職の準備に入る。いつまで経っても 時間がない。 『ああ、そうだ。今日、置いていってくれた途中までの分だけれど、17ページ から21ページまで、それまでの事項の反復になっているから削除した方が 良くなるだろうね』 「・・・先生、それの為に電話をかけてきたんですか」 『そうだよ』 「鬼」 耳の奥で先生が笑っている。私も笑う。 外に目を向けると、路上の木々が吹きつける風に揺れている。剥き出しの 枝から、紅葉を思うのも、花を思うのも私の自由だ。 先生がどこか、口ごもりながらようよう言う。 『まあ、もう少ししたら自由な時間が出来て、ゆっくり休めるから、二人で』 「嬉しいです」 今でも紅葉の頃の夢を見て、それについて思いに沈んでいく事もある。けれど 時々、別の楽しい夢が割り込んでくる。私はお互いの醜態に笑いながら目覚めて、 やがて来る花咲く日を思う。 きっとそれは思っていたより明るくはないけれど、ずっと愛おしい。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |