愛人
シチュエーション


「僕の愛人になりませんか?」

隣に座っていた男が私に声を掛けてきた。私は唖然としてその男を見つめていた。
一緒に飲んでいた女友達数人が、「何?この人」「ちょっと失礼ですよ、あなた」
とか言っている。そんな女友達の声などまるで気にしていないように、男は私の顔を
じっと見つめて笑顔を称えていた。少し白髪が交ざり始めた頭髪。年の頃は40前位かな。
男性の年齢はいまいち読めない。でも、間違いなく20代って事もなさそう。
30代後半?眼鏡を掛けた穏やかな顔はとてもその口から「愛人」なんて言葉が飛び出して
来そうにもない、分別をわきまえたいわゆる普通の人、って感じ。

「あの…?」
「これ、僕の名刺と携帯番号です。その気になったら連絡下さい」

男はそういうと、うっすら笑顔を浮かべたまま、席を立った。

「そんなの捨てちゃいなさいよ」
「うわ、度胸ある〜、会社に連絡してやろうか」

等と女友達は男を罵りながら名刺を交互に見て、やがて飽きた様に私の前に名刺を戻して
きた。友達の、男への評価は一様に飢えたオジサン、で、エロ爺いで、変態親父、だった。

「あんなのほっときなよ」

一人が私にそう念押しした。それを切っ掛けに、話は別の話題へと転がっていく
。私はその話題に乗り遅れない様に一緒になって笑いながらも、
何となくその名刺を鞄の中に放り込んでいた。

「それで、どうして僕に電話してきてくれたんです?」

受話器を通して響く男の声はあくまで穏やかで物腰が柔らかかった。
でも、その奥の感情が読みとれない。
電話に興奮した様子も、落としてやろうという様な脂ぎった様子も。

「僕の、愛人になるんですか?」

まるで商談をしているかの様に男はなめらかな口調で滞ることなくそう言った。

「あの……」
「はい?」

電話の向こうの声はあくまで優しい。
優しいけれど何を考えているか分からないからその優しげな声が何となく不気味でもある。
……なんで私、電話掛けているんだろう?

「何で、私だったんですか?」

私は意を決したように、それでも至極当然に、そんな質問を口に出していた。


最近は主婦と言ってもみんなお洒落だし、飲みに行っても遅く帰っても別段平気な人が多い。
私ももちろんその一人だし、そう言った友達と飲みに行くことは嫌いじゃない。
旦那への愚痴、義母への愚痴。子供が出来ない話、夜のオツトメの話。
少し赤裸々で共感を覚える話題は、TVのワイドショーよりも身近で興味深いと思う。
職場の誰々さんが浮気してるんだって。へぇ〜、あんなおばさんでも出来るんだね、
一生女なんだ、なんて事を言いながら無責任な会話を垂れ流す。
みんな、自分が噂の的になるのはイヤだった。
だからこそ、他人への噂は重要な共通の話題だった。

そこへ、愛人になりませんか、なんて声を掛けられて。私は正直焦った。
変に尾ひれが付いて、格好の噂の種になってしまう事を恐れた。
ならば、その場で名刺を破り捨てればよかったのに、と後で何度と無く後悔したけれど
、無意識に鞄の中に入れた名刺は何故か捨てられず持っていた。

斉藤正隆

会社名と共に、印字された名前はごくごく平凡で、何度聞いても数分後には忘れてしまい
そうなくらいありきたりだと思う。
顔だって、本当にごくごく平凡だった。
インパクトのある行動をした割に、今はまじまじ見ていたその面影さえ曖昧でよく思い出せない位に。

なのに、何でこんなに気になるんだろう。
私は名刺を貰ったあの日から毎日その名刺を見つめてはひっくり返し、電話番号を見つめては
名前を確認していた。……何で私はこの名刺を捨てないんだろう?

その理由の一つは何となく判っている様な気がした。
……要は、単純に嬉しかったからだ。
あの面子の中で。他にも可愛い顔立ちの友達はいた。スタイルのいい友達もいた。
男の気を引くとしたらそう言う人たちの筈で、「ほっときなよ」って言うのはいつも
私の役目だったから。

「私ね、今日声掛けられちゃった」

飲み会から帰ってそう旦那に言ってみた。
それでも興味なさそうに「あ、そう」と言うだけの旦那。
少しは妬いてくれるかと思ったのにそれすら無い。
私たちはもう随分と夜のオツトメ自体していない。
私はまだ女でいたいのに。時々、旦那に対してそう思う。
もう、女として魅力無いのかな。
飲みに行くと声を掛けられ、楽しそうに男性と会話を交わす友達。
彼女たちはまだまだ男から女として見られている。でも私は?
旦那からも他の男からも女として見られず、このままオバサン化していくの?
それはとても寂しくて切ない感情を沸き起こす。そして焦燥感を連れてくる。
友達の夜のオツトメの話を聞く度に、セックスレスの自分たちと比較して嫌になる。
浮気をしているらしい人の噂を聞く度に、なら、私も浮気すれば相手は私を女として
扱ってくれるだろうかと思う。そして、自己嫌悪に陥って、女である自分を否定したくなる。
せめて子供でもいたら自分の中で言い訳だって立つだろうに。
子供が出来ないままセックスレスになってしまい、そのまま3年が過ぎた。
恋人の様でいいじゃない、と言われる度に、恋人にすらなれていない関係を嘆いた。
私にだって性欲もあるのに。ただ抱きしめて欲しい夜だってあるのに。
そんな甘い関係すら望めないまま一緒に暮らしている男は、いったい私の何なんだろう?
男から名刺を貰ったのは、ちょうどそんな時だった。

「他にも……私の隣にいた人とか、もっと男性から見ていいと思う人はいたでしょう?
なのにどうして私だったんですか?」
「あなたが一番、面白そうだと思ったからです」

電話の向こうで男の穏やかな声がする。

「面白そうって……」
「確かにあなたの隣に座っていた方は可愛い顔されてましたね。その向こうはスタイルが良かった。
……でも僕はあなたが一番面白そうだと思った。だから声を掛けたんです」
「……よくそうやって声掛けてるんですか?」
「まさか、初めてですよ。僕だって驚いてます」

男の穏やかな声が少し笑う。急に親近感の沸く声になるな、と思う。

「面白いって、誉められてる様な気はしないんですけど」
「そうですか?うーん、困ったな。誉めてますよ、勿論」
「そう?馬鹿にされてる気がします。私、そんなに男にモテなさそうに見えました?
欲求不満そうで、声掛けたら誰にでも着いていっちゃう様に見えました?」
「あれ?もしかして怒ってます?……いや、違うな。怒ってたら一週間も経ってから
電話してきたりしませんよね。その前に僕の名刺破ったり捨てたりする筈ですしね」

穏やかな声のまま、男が言う。

「あなたがモテない様に見えるとか、声掛けたら必ずヤれそうとか思った訳じゃないですよ。
端的に言うと、あなたに対して僕が女を感じたからです。
もっと下世話に言うと、あなたを抱いてる僕、ってのが浮かんだから声を掛けたんです」
「はぁ?」

私は思わず素っ頓狂な声を上げた。何?この人。やっぱり電話なんかするんじゃなかった。
そんな想像されてたなんて。

「あなた、飲んでる最中もつまんなさそうな顔してたでしょ。一緒にいた人たちと話して
笑ってたけど、決して楽しそうじゃなかった。
笑顔だったけど、どこか抑えてる感じがしたんですよ。
で、時折本音の様な表情と、上辺の表情が交錯する感じがね、面白いなぁと思ったんです」
「はぁ……」

「そう言う女性がね、どういう風に感じてどういう風に装うのか、ふいに想像してみたく
なったんですよ。想像してみたらね、本当に見てみたくなった」
「あの……でも私、結婚してますから」
「ああ、そんなことは構いません。僕も結婚しています」

男は躊躇無くそう言う。……あんたが良くても私が困るのよ。

「それに、私お受けするつもりで電話した訳じゃ……」
「じゃあ、どういうつもりだったんです?ずっと僕の名刺持って?
一週間も後にお断りの電話ですか?非通知にせず、番号を晒してまで?」

男は更に穏やかな中にも感情を含ませない冷静な声で理屈だけを述べていく。

「気になったんでしょう?だから電話してきたんでしょう?なら、それでいいじゃないですか」
「でも……」

私の声は男の平静な声に反して徐々に戸惑いを隠せなくなって来ていた。

「明日お逢いしましょう。この間の居酒屋でお待ちしてますよ。来なかったら諦めます。
別に無理強いしたい訳じゃない。話はその時で。……すいません、時間が無いのでこの辺で」

男は一方的にそう言うと電話を切った。私はツーツーツーという切れた電話の音を聞きながら、
その一方的な話の展開に戸惑っていた。行かないわ。行くもんですか。馬鹿にしてる。
面白いだなんて。

それでも、男が私を女として見ていたらしい、という事は、私にとって耐え難い誘惑の
様な気がした。もう思い出せもしない男の顔をぼんやりと思い浮かべる。
あの男が、私の服を剥ぎ、組み伏せる。
……まるで全く想像出来ない事の様にも思える。それでもその下で甘えるように啜り泣く
自分がふっと浮かび上がっては消えていく。
私は慌てて頭を降ってそれを否定した。
……そんなこと、出来やしないわ。 私には旦那がいるんだし、それって不倫じゃないの。

けれど、男の穏やかな、ありきたりな声が耳から離れなかった。
−あなたを抱いている僕ってのが浮かんだから−
私は、あの男の頭の中で、どんな風に抱かれていたんだろう?

「来ましたね」

男が……斉藤正隆、が、カウンターに座って私を見ていた。にこにこと微笑んでいる。
私は少し仏頂面のまま、その隣に黙って腰を降ろす。
どうして私は今ここに腰掛けているんだろう。

「すっぽかされるかな、と不安だったんです」

斉藤は、まるでそんなこと微塵も思っていないような口調でそう言った。

「一方的に電話を切ったじゃないですか……断ろうにも断れなかったから……」

私は呟くように言い訳めいた事を言う。

「ああ、そうでしたね。すいません。よく来てくれました。
……で、わざわざ断りに来たんですか?」
「……そうです」

そう答える私を、意外でも何でもない様な表情で見つめて、斉藤が「ふぅん」と言う。
そして、じっと私を値踏みする様に頭の先から足の爪先まで無遠慮に見ている。
私はじっと身動き一つ取れずに、カウンターの木目だけを見つめていた。
お気に入りのモスグリーンのツーピース。化粧も念入り。
靴も鞄も、一分の隙も無いくらいに考えて悩んで、まるでデートの前の様に胸をドキドキ
させながら来た自分を否定したくてたまらない。
化粧が濃かったかしら?髪型は変じゃ無いかしら。
そんなことを思いそうになる自分を打ち消すように、そんなことどうだっていいじゃない、
とわざと心の中でそう思う。

暫くして、斉藤が喉の奥からくっくっく、と笑い出した。
私は思わず怪訝な顔をして隣の男を見る。じっと私を見つめていた斉藤の目と私の目がぶつかった。

「あ、いえ、失礼。……えーっと、名前伺っていいですか?」

……まだ笑ってる。嫌な男。

「田辺です。田辺由美」
「ありがとう……由美さん、こう呼んでいいかな?……可愛い人ですね」

斉藤はまだくっくっく、と笑っている。私は思いっきり不機嫌な顔になってしまう。

「ああ、ごめんなさい。決して馬鹿にした訳じゃないですよ。馬鹿にするどころか、
本当に可愛い人だなぁと思ったので。……やっぱりあなた、面白いですよ」

急に笑ったり、人のこと面白いって言ったり、かと思えば可愛い人……って、
そんな言葉いきなり言われたって、鵜呑みに出来る訳無いじゃない。
私は更に不機嫌になってしまいそうになりながら、唇をきゅっと噛みしめた。

「面白い……って、色んな意味あるでしょ?僕が言ってるのは興味深いって意味ですよ。
可笑しいって意味じゃ無いです。それを先に言えば良かったですね」
「興味深いって言われても……それでも、いい気分はしませんよ。
何だか私がモルモットか何かで、実験して、その結果が興味深いとか言われてる様な感じしますし」

私は不機嫌なまま下から睨み付けるように斉藤の顔をじっと見た。
斉藤は漸く喉の奥から笑みを漏らすのを止めて、少し驚いた様な表情をしている。

「ん〜そうか。別に僕はあなたを試した訳でもないし、モルモットだと思った訳でもないんですけどね。
……まぁ、取り敢えず乾杯しませんか?」

店の人間に生ビールを注文しながら、斉藤が私に甲斐甲斐しくお箸やら取り皿を並べてくれている。

……まぁ、ね。悪い人ではなさそうなのよね。

「じゃ、改めて。えーっと。再会出来たことに、乾杯」

ビールが来ると、斉藤はそんな事を言ってジョッキを心持ち上に上げ、私のジョッキを軽く叩いた。
コン、と言う音がジョッキ同士で響く。
美味しそうに喉を鳴らしながら半分くらいまで一気に飲んでしまう隣の斉藤を見ながら、
私もビールに口を付けた。

「あ〜、うまい。……実は僕、喉カラカラだったんですよ」

また、ホントか嘘か判らない様な口調で斉藤が言う。
鬢の辺りの生え際が少し白くなっていて、笑うとホント、くしゃっと顔中にしわが寄る。
人当たりの良さそうな、人の良さそうな笑顔。

「何でそんなに喉乾いてらしたんですか?」

斉藤が言った言葉の意味が半分ほど読めていながら、私は敢えてそう尋ねる。

「そりゃぁ、由美さんが来てくれるか不安だったし、今も緊張してますからね」

お決まりの言葉を、私の目を見て微笑みながら斉藤が言う。

……やっぱり読めないわ。本心なんだろうか?それとも、上辺だけの言葉なんだろうか?

「……嘘ばっかり」

私は取り敢えずそう言ってみた。
斉藤は少し目を丸くして、それから少しわざとらしく顔をしかめた。

「ああ……僕、顔の表情読めないでしょ。
本気で言っててもどこかふざけてる様に見えるらしいんですよね」

わざとらしくしかめた表情はやがてすぐにまた以前の笑顔に戻る。

「でも、由美さんから電話が来るまでの一週間、僕はすごく不安だったし後悔もしたし、
自分がしたことにも驚いてたんですよ。知らない携帯ナンバーから電話が来る度に、
あなたかもしれないと思って、胸を弾ませて、違うと思ったら落ち込んで
……本当に、待ってたんですよ」

斉藤は笑顔を浮かべたまま、瞳と口調だけは真面目にそう言った。

「でも、そんな風に聞こえませんでした」

私はビールジョッキの水滴を指先で拭いながら、前を見つめてそう言う。

「心臓はバクバクだったんですよ。由美さんから電話貰った時は。
すぐ判りました。あなただって」

……私が顔すら朧気で思い出せていなかった間、この男は私を想っていたと言う。
それが例え口だけだったとしても、その言葉は何て甘いんだろう。

「正直僕はあなたを抱きたいと思ってます。でも、そう急ぐ歳でもない。
無理強いはしませんよ。ただ、こうやってあなたと一緒に飲んだり喋ったり出来るだけでも構わないんです」

斉藤は穏やかにそう言った。その言葉には、口調には、優しさが込められているような気がした。

「……ええ、それだけなら……」

私は安堵しながらそう答えつつも、どこかで残念に思っている自分に気が付いた。
嘘。私、抱かれたかったの?
斉藤は私の顔を食い入るようにじっと見つめながら、やがて、また喉の奥でくっくっくと笑い始めた。

「……なんですか?」
「いえ、由美さん、やっぱり可愛い人だと思いますよ。
瞳がね、くるくる動いて口より素直なんですね。……可愛いなぁ。
やっぱり、その素直な瞳がどんな風に潤むのか見てみたい気がしますね」

ドキン、と胸が跳ねた様な気がした。何だか見透かされている気がする。
一緒に飲むだけでいいと言われた時に安堵しつつも残念だって思いが沸いた事とか、
昨夜。胸をときめかせて思わず一人で体を火照らせ果てた事とか。

「本当にあなた、断りに来たんですね?」

私はその問いかけに頷く事が出来なかった。
体が硬直したように動かなくて、私は一体、断りたいのかそれとも抱かれたいのか、徐々に
判らなくなっていた。

……この人怖いわ。私を追いつめる……

どう返事すればいいのか判らず、無言のまま体を強ばらせていると、斉藤がそっと私の肩に手を置いた。

「……出ましょう」

その手は大きくて暖かい、と思った。

それはとても自然な流れの様でいて、夢の中の様な情景だった。
部屋の真ん中に据えられたベッド。薄暗い照明。私どうしてこんな所にいるんだろう?
斉藤は慣れた様子でベッドの脇にあるカウチにスーツの上着を脱いで置く。
私は部屋の入り口でその様子を眺めていた。

「何か飲みますか?コーヒーくらいはあるでしょうしね。アルコールの方が良かったですか?」

斉藤はそう言いながらカップが揃えてあるキャビネットの方へ向かう。

「あ、いえ……結構です」

掠れた様な声でそう返事をして、私は俯いた。

「じゃあ、座りませんか?」

斉藤が呼びかけることにすら返事が出来ない。
硬直した体はそこに根を下ろしたかの様に、微動だに出来なかった。
斉藤の視線が体を刺している気がする。痛いような心地よい様な視線。
見ている。彼は私を見ている。
こんなに緊張したのは一体どれくらいぶりだろう?
私はどう答えていいやら判らず、視線を上げてちらりと斉藤を見た。

斉藤は穏やかな表情を崩していない。
そのまま、私を眺めるように見ている。
その瞳は先ほどの、まだ余裕を残している様なものとは違っていた。
あれは……間違いなく男の目だ。
こんな所まで来てしまっておいて今更だけど、少しでも動いたらもう
取り返しの付かない事が起こりそうで怖かった。

やがて、無言の時が過ぎ、斉藤がゆっくりカウチから立ち上がって私に近づいて来た。
肩に手を置こうと手を伸ばしたのが気配で分かる。
……置かれたらもう終わりだ。もう取り返しが付かない。
私はパニックになりながら一歩後ずさり、かなり自分でもビックリするくらい大きな声で

「あのっ」と叫んでいた。
「はい?」
「あの……これって浮気ですよね?不倫ですよね?私、主人います。だからダメ。ダメなの」
「ふぅん……」

斉藤は少し考えた様に私を見つめていた。

私はダメって言いながらすでにそう言ったことを悔いていた。
この、甘くて力の抜けそうな雰囲気。
緊張と恥ずかしさとこれからの期待感が交錯する思いをすべて打ち消してしまうセリフに、
自分でも思わずショックを受けるくらい、後悔が襲ってくる。

「由美さん、じゃあどうしてここまで着いて来たんです?」

斉藤の穏やかな声は、怒りを含んでいる様にも寂しさを含んでいる様にも聞こえない。
先ほどと全く変わらない単調なまでに穏やかな声質。

「僕は構いませんよ。別にここでお茶を飲んでゆっくり話してもいい。……どうしますか?」

その言葉に私は思わず顔を上げた。斉藤の視線とぶつかる。
思わぬ至近距離にある斉藤の瞳に少し驚きながら、それでも瞳を離せなかった。

「あ……の……」

動かした唇からは掠れた吐息の様な音しか漏れ出さなかった。
斉藤の瞳に吸い込まれそうだった。

斉藤の手が、大きな温かい手が私の肩を優しく掴む。
引き寄せられ、そして斉藤の顔が近づいて来る。私はゆっくり瞳を閉じてしまう。
重なってくる斉藤の唇は何だか柔らかく、しっとりと私の唇に吸い付いてきた。
軽くついばまれ、乾いていた私の唇が徐々に濡れ始める。
旦那のものとは違う初めてのその感触は最初違和感を伴っていたけれど、徐々に一体感を帯びてくる。
私の唾液が斉藤の唇を濡らす。斉藤の唾液が私の唇を濡らす。
柔らかい唇が離れてはすぐに互いの唇を求め、また重なる。
ちゅ、ちゅ、という音がついばむ度に唇から漏れ、甘くゾクゾクとした陶酔感が私を襲う。
肩に手を置いていた斉藤はいつの間にか私を抱きしめていた。
私は斉藤の腰の辺りの服をぎゅっと握りしめていた。
力が抜けそうだった。こんなキスは知らない。ただ、唇を重ねるだけのキスしか知らない。
いつまでも重なってこない舌先が欲しくなった。
しっとりと濡れた唇の隙間から自分の荒い息が漏れだしているのが判る。
閉じた目の裏側、その暗闇はねっとりと湿度を帯びて私を包み込む。
上唇を、斉藤の唇が挟み込む。ちゅ、と吸い込む。私は思わず舌先を差し出し、斉藤の下唇をなぞる。

それを合図にしたように、斉藤の舌がゆっくりと私の口を犯し始めた。
歯の隙間から入ってきたねっとり濡れた舌が私の舌と重なる。
ぬるぬるとお互いを弾き合った舌は、やがて求めるように絡まる。
斉藤の唾液の味が私の口に流れ込み、私の味と攪拌されて新しい味になる。
知らない味。新しい味。それがこんなにも甘く心地よいものだなんて、私は知らなかった。

「んっ……ふぅ……んんっ」

私はいつの間にか鼻から抜けるような甘えた声を唇の隙間から漏らしていた。
膝の裏がカクカクして力が入らない。そんな私を支えるように、斉藤は私の腰を抱いていた。
私も、斉藤の服にしがみついていた。

ゆっくりと舌が私の歯茎を、歯の裏を、あごの裏を、舌をなぞって離れていく。
私はそれがあまりに惜しくて舌を思いっきり延ばし、最後まで堪能する。
ゆっくりと瞳を開くと、斉藤の少し紅潮した顔が間近にあった。

「もう、何を言っても遠慮しませんからね?」

斉藤がゆっくりと微笑んだ。穏やかな声がどこか艶めいて感じる。
私は返事をしたのかしなかったのかさえよく分からなかった。
斉藤の指先がゆっくりと首筋を這い上がり、耳の裏を通って髪の毛を逆撫でる。
指の腹でくすぐるように這った指の跡に余韻を感じながら、触られた所から私の産毛が逆立っていく。
指の間で髪の毛を梳き、頭を優しく撫でながら再び重なっていく唇は既に、私にしっとりと馴染んでいた。
貪るように、すがりつく様に斉藤の唇に吸い付き、斉藤の指先に翻弄される。
頬を伝い、鼻筋を撫で、額をくすぐる指先。
顔中を愛撫されるのがこんなに気持ちいいなんて知らなかった。

ゆっくりと斉藤の指が再び首筋を伝い、降りていく。
襟を通り、服の上から指先だけで乳房の膨らみを確認する様になぞっていく。
私はぴくっと体を動かし、重なった唇の隙間から何度も何度も吐息を漏らす。
やがて斉藤の指が胸の膨らみの間にするすると滑り来て、ジャケットを脱がしに掛かる。
その動きに呼応するかのように、私は体を捻り、ジャケットを脱がせて貰う。
そしてまた指先はブラウスの上から私の膨らみを確認するようになぞっていく。
その焦れったいほどの動作は、私の頭の奥を麻痺させていく様だと思う。

斉藤の指先が漸くブラウスのボタンに掛かった時。
私は体を見られる恥ずかしさよりも、その後の期待の方が大きく膨らんでいた。
一つ、二つとボタンが外れる度に、空気に触れていく肌が心地よかった。

斉藤の唇が私の唇から外れ、耳元を通り、首筋へ降りていく。
鎖骨をなぞり、胸の谷間に顔を埋めながら全てのボタンを外していく。

「由美さん、綺麗な肌、してますね」

胸の谷間から、穏やかな斉藤の声が響く。
その声は胸元から這い上がって耳へ届くかの様に、甘く疼いて聞こえる。

……ああ、見られている。見られて触れられている……
それがこんなに気持ちいいものだと言うことを、私は随分長い間忘れていた様な気がした。
直接肌に触れた他人の肌が、唇が、こんなに気持ちよくて興奮を呼び起こすものだと言うことを
忘れていた様な気がした。
やがて、ブラのホックを外され、スカートを降ろされ、私はベッドへゆっくりと押し倒された。

「由美さん、一つ約束してください」

斉藤が私の上に覆い被さり、頬を撫でながら言った。

「……なるべく目を開けていて欲しいんです。瞑らないで、その目を僕に見せて」

私は少し戸惑いを覚えた。こういう時って私、目を開けていられるだろうか?

「なるべくでいいんですよ……。僕は由美さんの目に惹かれたから」

その言葉を聞いて私は小さく頷いた。

「由美さん、目を開けて……僕を見て」

じゅぶじゅぶと指が私の膣壁をこすり上げる度に私は悲鳴を上げて、目を瞑る。
その度に斉藤は私に目を開けろと強要する。無理よ……そんなの絶対無理。
熱く痛いほど気持ちいい指の動きに翻弄されながら、私は腰を捻り、その快感から逃げようと藻掻く。
その腰をしっかり押さえ、私に覆い被さったまま、斉藤は私の中を指先で擦り上げる。

「ああああっ、ああああああっっ」

感じた事も無いほどの強い衝撃。感じたことも無い程の強い快感。
そこを見つけられたのは初めてで、私はコントロールの効かない自分の体を持て余す。
中が焼けただれる様な感覚に、私はただただ、悲鳴を上げ続けるだけ。

「ダメだよ、由美さん。ほら、目を開けなきゃ……止めちゃうよ」

止めて欲しい。止めて欲しくない。その相反する気持ちをどう言えばいいのか。
私は精一杯瞳を開けようとしてまた強烈な快感に顔を歪ませる。

斉藤の愛撫は執拗だった。キスだけで恐らく悠に30分は費やしていたと思う。
時計を見ていた訳じゃないから詳しくは判らないけれど、とても長いような、でも短いような、
そんな感じがした。全身をくすぐるように愛撫するのでキスと同じくらいの時間を費やした様に思う。
焦れったい位のその指の動きはやがて私の体をトロトロに溶かし、
早く肝心な場所へと触れて欲しいと思う位だった。
漸く斉藤が私の股間へ手を伸ばしてきたとき。多分彼も驚いていたと思う。
……私だってビックリした。下着の上から、染み出してきた愛液が糸を引く、だなんて。
そこまで濡れたのなんか初めてだったから。

「ああああ、いや、いやぁ、熱い……っあああああっ……」

喉の奥から振り絞るように私は声を出す。
けれどその悲鳴は既に掠れて、ひしゃげた音となって意味をなさないままに紡ぎ出されていく。
斉藤の指先は、最初はゆっくり私の中をまさぐっていた。
その頃はまだ私も余裕で瞳を開けていることが出来た。
ところが、感じる度に、目を瞑る回数が増え、その度に斉藤はそこを指の腹で押し上げ、
擦り、掻き回した。
じゅぷじゅぷと言う音が私の下半身から響いてくる。嘘でしょ……こんなに濡れるなんて。
私は瞑った目の奥のねっとりとした闇にそのまま抱かれたい、と思った。
けれど、斉藤はそれを許さない。

「由美さん、僕を見るんだ。今由美さんを感じさせているのが誰か、よく見て」

愛液を掻き出しながら、斉藤が指をぐりん、と回す。
その度に焼けるような快感が膣内から脳みそへ直結するように響いていく。
私は汗なのか涙なのか、それとも斉藤の唾液なのか判らないもので顔をぐしゃぐしゃにしていた。
首を大きくのけぞらせ、腰が勝手に浮くのに任せた。
斉藤の指先がぎゅっと私の一番熱い部分を押し上げた。

「…………っっ!!!」

その刹那、大きな波がそこから広がり、全身に波紋を描くように広がって、私は果てた。

ゆっくりと斉藤が私の中を掻き分ける。その張りは私の膣を押し上げ、痛いくらいだと思う。
おなかがいっぱいになる感覚。久々の感覚。

「んっ……あぁ……」

私は喉を反らし、その圧迫感を堪能する。

「由美さんの中……溶けそうな位熱いですよ」

斉藤は騎乗位にさせて下から私を見つめていた。
私は見られるのが恥ずかしくて、俯いたまま目を閉じる。

「ほら……また目を閉じる……ダメですよ。僕を見て……」

斉藤は、ずっと私を見ていた。愛撫した時も。挿入した後も。
騎乗位なんて、腰の動かし方が判らないと言うと、斉藤は感じるままに好きな様に動けばいい、
と言った。私は先刻の、あの熱くただれた場所を探して、腰を左右に振ってみたり腰を反らしたりする。
その度に下から斉藤が突き上げて、私はまた悲鳴を上げる。
こんなセックスは初めてだった。いつもは旦那が私を組み伏せ、腰を動かし、そして果てる。
キスも愛撫も、ここまで執拗で濃厚なのは初めてだった。

私は腰を動かしながら斉藤を上から見つめる。斉藤も私を見つめている。
時折快楽に彼の表情が歪む度、それでも瞳を閉じず私を見つめ続けている度に、
今こうしてこの人の上で自分が腰を振っているのが当然の様な気がして、それがまた不思議でもあった。
ついこの間まで全く知らない人だったのに。さっきまで顔すら朧気だった人なのに。

私はゆっくりと斉藤の上で体を反らした。当たる……クリトリスの裏側。
さっき熱く焼けた場所。そこに斉藤自身が、当たる。
快楽に表情を歪めている自分が判った。
薄目を開けて斉藤を見つめ続けると、斉藤は私の瞳を見つめたまま、腰を突き上げる。

「ぁぁぁぅ…ぁっ…」

突き上げられて更に仰け反りながら、私は腰を小さく前後に振る。
膣がきゅっと締まって、斉藤自身を中から感じる。その形も、その熱さも。

それは何という充足感だろう。
私は段々我を忘れて腰を振り始めた。

感じる所に当たる様に、貪るように、その快楽を逃すまいと必死だった。

「由美さん……ぁぁ……いいですよ、もっと動いて……」

斉藤が私を下から突き上げながら、腰を持ち、私を誘導する。
私は彼の手に自分を委ねる様にして、腰をぐりぐりと前後に動かす。
時折仰け反り、そしてまた慌てて斉藤の瞳を見つめ、また目を閉じ、そして慌てて斉藤の瞳を見つめ。
……そうしていると徐々に、私はこの人に惹かれているんじゃないか、と言う気がしてくるから不思議だった。

「斉藤……さんっ……ああ、ダメ……もう……」

腰をさすりながら支える斉藤の手のひらが熱かった。
中から突き上げる斉藤自身が愛おしかった。
快楽を貪りながら、心地よさに身をよじる自分自身が、愛おしくてたまらなかった。

「イク……イッていい?ああああ…………イク……」

「最後、目を閉じましたね?」

ハァハァと荒い息をしながら体中を優しく拭って貰い、恥ずかしくて慌てて布団に潜り込んだ後、
斉藤は悪戯っぽく私の頬を撫でながらそう言った。

「だって……無理です。開けてられないし。……それに、何でそんなにこだわるんです?」

私は斉藤の顔を下からのぞき込む様にして尋ねた。

「ん〜……僕、由美さんの目が多分好きなんですよ。色んな感情を映し出す目が」
「それだけ?」
「分かりません。でも、感じている時の由美さんの目は、思った以上に色っぽくて潤んで、

とても良かったですよ」
穏やかに、けれどどこか照れたように言う斉藤に、私は何だかこういうのも悪くないかな、と思った。

「……で、愛人のお話なんですけど」
「ああ、はい」
「今時、愛人なんて言いませんよね?……どうして愛人なんですか?」
「あ〜。いや、何となくです。最近って何て言うんですか?こういうの」
「何て言うんだろう……せ、セックスフレンド?」

言ってから、私は思わず狼狽えた。
こういう関係って、そうよ、セックスフレンドになるんじゃない。体だけの割り切った関係。
快楽だけを貪り合う関係。……それって、凄く本能的で厭らしい気がした。

「セックスフレンドですか……う〜ん、情緒が無い様な気がしませんか?
もっとしっとりとした関係を由美さんと築きたかったんですよ、僕。
最初にも言いませんでした?お話するだけでもいいって」
斉藤の指先が、布団に隠れた私の頬を撫でる。

「……そんなに、気に入って貰っているとは思ってませんでした……」
「そりゃぁまぁ、初めて浮気したいと思った位ですからね。余程の事が無いと、そう言う気にはならないですよ」
「え!!」

私は驚いた。愛人って言うのは初めてだったとしても、結構女性の扱いに長けている気がしていたから。

「え、って……由美さん酷いなぁ。僕を何だと思ってたんですか?」

苦笑しながら斉藤が私の髪を少し荒々しく、それでも優しくくしゃっと撫でた。

「飲み屋で隣に座ってたあなたの、話し声、話し方。友達と笑いながらくるくる動く瞳、
時折つまらなさそうに曇ったりしているのに、表情だけ笑ってたり。かと思えば満足そうに
瞳を輝かせてたり。……あなたのね、表情と瞳が一致するトコが見たかったんです」

少し照れた様に言う斉藤が、何だか可愛らしいと思った。変ね。こんなに年上の人なのに。
そんな風に私を見ていた人がいる、というのがこれ程嬉しくて心を暖かくする物だとは思わなかった。

「……斉藤さん。愛人のお話なんですけど」
「ええ」
「改めて、お断りします」

私がそう言うと、斉藤の目は一瞬宙を彷徨った。
ああ……確かに、瞳って物を言うよりも反応が素直だわ。
私は斉藤の瞳の揺れを見ながら、くすくすくすっと笑ってしまった。
怪訝そうな顔で斉藤が私を見つめる。

「……愛人より、恋人がいいかな?」

布団を引っ張り上げ、瞳だけ見せてそう言うと、斉藤の顔がくしゃっと崩れた。






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