シチュエーション
![]() うたた寝をしていたらしい。 BGM代わりに付けていたテレビは、いつの間にか舞台劇の中継に変わっていた。 まだ二日酔いが残っていて、頭がぼんやりとする。明け方まで飲んで、吐き気と頭痛で夕方 頃に起きた。迎え酒を飲んでるうちに、また寝てしまった。カーテンの向こうはすっかり暗い。 どうやら一日を無駄に過ごしたようだ。 最低。女としての人生終わってる。 『どうあっても、わたしと一緒に生きては下さらないと……仰るのですか?』 舞台劇は愁嘆場に差し掛かっていた。ドレスの女が、立ち上がろうとする男に語りかけてい る。動きのあまりない舞台を、目だけで追っていく。切々とかき口説く女優のセリフは、もう 耳に入らなかった。忘れようとしても脳裡から消えない会話が、テレビの映像に重なって聞こ えた。 「いま、なんて言ったの?」 「君とは結婚できない。だからこれ以上一緒にいられないと、言ったんだ」 声はちゃんと耳に届く。でも意味が分からない。 「正月に帰省しただろ?あのとき彼女と、あらためて結婚の話が出てね」 なに……何を言ってるの、この人は。 「そういう事なんだよ……もう付き合って五年になる」 回転を止めていた頭に、言葉の意味がゆっくり沁みてくる。言ってやりたい事が山ほどあった。 沢山ありすぎて、どれから話して良いか検討もつかない。口を開けたり閉じたりして、酸素を 取り入れるので精一杯だ。 彼女って誰よ。そんなの知らないし。 「だから、君とは結婚できない。この半年間、楽しかったよ」 なんでこんな、胸のつかえが取れたみたいな、清々しい笑顔で話せるんだろう。わたしとの 付き合いは、たった今から、楽しい思い出に変わっちゃったんだろうか。そんなの早すぎる。 少しずつ視界に霞がかかっていく。淡々と語る彼の顔が、よく見えない。 「やり直せないのかしら。わ……わたしに、悪い所があったら直すし」 ここは二股かけてた男のほうを、責める時じゃあないのか。付き合い始める前に言ったはず だよ。二股はイヤだって。 ポタンと温かい雫が、手の甲に落ちた。泣いているわたしと目を合わせずに、彼が続けた。 「朝、電話がかかってきた事があったよね。あれ、彼女からのモーニングコールだった」 ガーンと殴られたようなってのは、こんな感じだろうか。頭がぐわんぐわんして、だんだん 耳が聴こえにくくなる。 いつも抱かれるのは、彼の部屋だった。すぐ帰らずに暖かい腕の中でまどろむ時、朝早く電 話が鳴っていた。「お袋からだ」そう言って笑ってたけど……違ったんだ。体を貪った女の隣で、 郷里の恋人からの電話に応えていたのか。 残酷な現実から目を逸らすように、ぼんやりと彼の部屋を見回した。テレビの上、あんな場 所に写真立てなんて、あったっけ? 「君が来るときは、いつも隠してた。ごめん」 訊ねる前に答えてくれた。写真立ての中、生真面目に唇を引き結んだ彼の横には、やさしげ に目を細める髪の長い女性がいた。 はじめまして。あなたが、そうなんですね。 「ごめん」の三文字では済まないけれど、どう謝られても事態は変わらない。 わたし、鈍すぎだ。最悪。 溢れてくる涙を指先で拭った。彼の顔がよく見えなかったから。 「この半年間、君と一緒にいて本当に楽しかった。ありがとう」 肩の荷を下ろしたような表情で微笑まれて、ゲームオーバー。それでおしまい。 回想の旅から戻ってくると、テレビに映る舞台は暗くなっていた。中央にピンスポット、 袖に去っていく男。ドレスの女はソファに崩れ落ち、縋りつくように片腕を伸ばす。 女々しい。未練たらしい。辛気臭い。チャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばす。 ちがう。未練たらしいのは、この演劇じゃない。わたしの方だ。 すっきり別れられたら、いい思い出になったろうに。写真立ての彼女は遠く彼の郷里にいて、 わたしはすぐ近くにいる。この距離はわたしにとって有効かもしれないと、こずるい考えが 湧いた。 理性では駄目と分かっていても、夜になると寂しさが募る。諦めきれずに、夜の街で彼の 足取りを追いかけた。 あの日、清々しい顔で別れを告げた彼が、苦虫を噛み潰したように欲望をぶつける。 「なんでそばにいるんだよ。いたら抱いちまうじゃないかよ」 苛立たしく呟いて、わたしの中で精を放つ。そんな関係が数度続いた。 そして二週間前、彼に電話が繋がらなくなった。アパートの部屋は、もぬけの殻だった。 もう会えない悲しさと同時に、彼をそこまで追いこんだ自分が情けなかった。二股かけら れてフラれ、それでも未練がましくつきまとって男に逃げられた女。それが、わたしだ。最 低最悪。どこをどう切ってもロクなもんじゃない。情けなくって涙も出やしない。 ぼんやりしてる間に、テレビは邦楽に変わっていた。スイッチを切った後の静寂が怖くて、 手の中でリモコンを玩ぶ。音楽をかけに、立ち上がるのも面倒くさい。 喉がひどく渇いていた。テーブルの上にあった、飲みさしの缶ビールに手を伸ばす。これで、 二股フラれストーカー女に、アルコール依存症まっしぐらが追加される。 『君とは結婚できない』 なにバカ言ってんだか。結婚なんて考えた事なかった。 『いたら抱いちまうじゃないかよ』 いいんだって。それでも一緒にいたかったんだから。 口に運んだ缶ビールは、ほとんど中身がなかった。こんな時に限って、冷蔵庫に買い置き がないマーフィー。気のぬけたビールを一口だけ啜りこむ。 エッチな事に詳しそうな顔をして、男のヒトのものを飲むのは、彼が初めてだっだ。舌に 感じる微かなビールの苦味が、あの時の味みたいで、鼻の奥がツーンとした。 テーブルに缶を置くと、急に電話が鳴った。あり得ない事だけど、もし万が一、彼だった らとディスプレイを見つめる。 残念、はずれ。浮き上がった気持ちが萎んで着地する。 「夜分遅くすみません。幸野です」 電話の向こうで目一杯、恐縮した声を出しているのは、同僚で後輩の幸野だった。 「うん。遅いね、すごく」 日曜の夜、十時をまわったところ。軽い嫌味に、回線の向こうが固まっていた。怒ってい るんじゃない。去っていった彼の声が聞こえて来ない事に、わたしが勝手に拗ねてるだけ。 普段から礼儀知らずではない幸野がかけてくるなら、よほどの事態なのだろう。 相手の出方を待つ沈黙が、しばし。 「あの……」「それで……」 ふたりとも同じタイミングで言いかけて、思わずぷっと吹きだした。 「いいよ、起きてたんだし。なにか急ぎの用だったんでしょ。話して?」 促すと、ホッとした様子で話し出した。 幸野が明日の朝に必要としている資料を、わたしが家に持ち帰っているのだと言う。朝に 渡して貰えればいいと思っていたが、休日出勤をしながら準備をしていたら、明日はわたし が直行なのに気づいたので、と。 「M駅でしたっけ。幸野さんが住んでるとこ」 「はい」 最寄り駅から三駅、車で走れば十分ほどで着いてしまう。が、まだ酔いの残っている状態 ではそれもままならない。電車で届けるか、タクシーを拾うかと逡巡する間、また沈黙が続 いた。ふと幸野には普段からこういう所があるなと思った。穏やかに見守られていると、感 じる時がある。 「遅い時間ですが、これから取りに伺ってもいいですか?」 「助かったぁ。実は飲んでいて、出かけるのが億劫だったの」 つい本音を漏らすと、「だと思ってました」と言って、クスクス笑った。 「場所わかります?N公園の近くまできたら電話して。下まで降りていくから」 「了解です。ところで夏目さんは、笙がお好きなんですか?」 「ううん、たまたま。でも……キレイな音ね」 付けっぱなしのテレビからは、か細く、それでいて包みこむような笙の音が流れている。 気づくと、さっきまでの滅入った気分が少しだけ和らいでいた。 幸野からの電話は意外に早く、休日のせいか道路も空いていたと言う。普段着にコートを 羽織って外に出ると、生暖かく感じるぐらいの風が吹いている。雨が近いのか、空気には僅 かに土の匂いが混じっていた。 公園脇の道に、所在なげに立っている幸野の姿があった。こちらを認めると、 「お休みのところ、すみません」 縮こまって会釈をする。 「大丈夫よ。はい、これでいいのかな」 「ばっちりです。ありがとうございます」 手渡した資料を確認しながら、独り言のようにぽつりと呟いた。 「もう、泣かないでくださいね」 「えっ?」 不意の事で胸を突かれた。 「目が少し赤いです。それと……さっき電話の時、泣いてるみたいな声だったから」 「気のせいよ」 わたしの何を知っていると言うのだろう。労ろうとする幸野の気持ちを、素直に受け止め られない。心のうちに踏み込まれるくらいなら、鎧を着こむほうが楽だ。 「じゃ、お疲れさま。また明日」 素っ気なく言って踵を返した。幸野、ごめん。あなたは全然悪くないのに。可愛げのない 自分が嫌になる。でも覆い隠していないと、壊れてしまいそうだから。 目の前に白い指先が一瞬見えた。そのまま背後からわたしを包む。抱き締めようとする幸 野の力は意外に強く、身動きが取れなかった。 「何の冗談よ。人通りが少なくたって、大声だしたら誰か来るわよ」 「今ここで帰したら、夏目さん、また飲んだくれて泣くでしょ」 「余計なお世話っ……」 首だけ捻って睨みつける、つもりだった。幸野の顔が至近距離なのに息を呑んで、わたし を見つめる眼差しに、言葉を失った。たじろいで目を逸らしたくなる。ひたむきな視線を、 痛いほど感じる。 体を包む腕が緩んだ。ゆっくり向き直ると、二本の腕がまた閉じこめる。額を肩に乗せ、 トクトクと鳴る鼓動を聞く。幸野の腕の中は、不思議と居心地が良かった。 「給湯室で泣いてましたよね」 「見られちゃってた……か」 「もう、あんな泣き方はして欲しくない」 彼が去った喪失感に耐え切れずに、一度だけ職場で泣いた事がある。歯を食いしばっても 涙が零れでた。触れられたくない苦い記憶だ。 「恋人になってくれと言ったら……怒りますか」 どくん。心臓が跳ねる。 知っていたのに、今までずっと見ないようにしていた、幸野の気持ち。さっき包まれてい ると感じたのは、笙の音だけではなかった。 「怒ったり、しないけど」 誰かに寄り添うのは暖かい。肩の力がふっと抜けた。嗅ぎ慣れたタバコの匂いを探して、 スーツの胸に顔を埋める。 「…………あ……」 何をやってるんだろう、わたしは。幸野はタバコを吸わない。今はいない男の香りを幸野 に求めるなんて、大ばかものだ。 「待って、夏目さん。こっちを見て」 怯えたように後ずさるのを、幸野は強い力で引きとめた。今のわたしは、亡霊でも見たよ うな顔をしているだろうか。目の前に立つ男に寄り添える資格など、これっぽっちもない。 とっさに掴まれた二の腕が痛かった。痛くて当然だ。わたしは幸野を、別れた男の身代わ りにしようとしたのだから。 「だめなの……まだ、駄目なのよ」 息苦しいほどの視線から逃れたくて、駄々っ子のようにかぶりを振った。 歯軋りしそうに頑なだった、幸野の頬が緩む。 「忘れろなんて無理言いませんから。一緒にいられるだけで」 また穏やかに包まれる。背中に回した手が、わたしを宥めるようにトントンと叩く。その 仕草は幼子をあやす母親みたいで、少しずつ気持ちが凪いでいった。あやされているわたし は、だんだん小さく縮んで卑小になる。 幸野の胸はとても暖かくて落ち着く。けれど、それを甘受するのはいけない事だと思う。 顔を上げて幸野を見つめた。微笑んでいるようにも、苦痛に耐えているようにも見える、 不思議な表情だ。やっぱり駄目だよと言おうとして、胸が苦しくなった。わたしの顔も、 泣き笑いになっているのかな。 両頬が、幸野の手で挟まれた。ひんやりした掌が気持ちいい。 切羽詰まった様子の、幸野の顔が近づく。キスされるのかもしれない。 キスしたいのかもしれない、わたしも。 でも、唇を、舌を、また誰かと比べてしまったら? 目を閉じる寸前で、つと顔を背けてしまった。幸野の唇が頬に触れ、通り過ぎる。頬を挟 んだ手にわずかに力が籠もり、溜め息を吐いたような息遣いが聞こえた。 「ごめ……ん」 謝ろうとしたのに、わたしの語尾は小さく震える。 「夏目さんが謝る必要なんて、ありませんよ」 どこか怒気を含んでいる。怖さではなく申し訳なさで、幸野と目を合わせられない。幸野 の隣で微笑むのは、わたしのような後ろ向きな女じゃなく、もっと朗らかなひとがいい。だ から離れなくては。片頬がすり合うほどの近さで、そんな事を考えていた。 身じろぎして体を離そうとするのと、幸野が顔を伏せるのと、ほぼ同時だった。 首元に押し当てられた唇の感触に、びくりとする。 「ひっ……」 くすぐったくて、ざわざわと皮膚が総毛だつ。 「唇へのキスは、駄目なんですよね?」 「そ、そういう意味じゃ……んっ!」 逃げたくて仰け反った喉に、もう一度降ってきたキス。今度は強く、強く吸われる。シャツ の襟元、隠れそうで隠れない場所だ。 「痕がつくってばっ」 抗議の声をあげると、やっと離れていく。吸われた痛みで、肌がジンとする。 「後で思い出して貰えるように、付けてるんですから」 悪戯っぽく幸野の瞳が煌めいた。 首筋の痛みは、わたしを少しだけ冷静にさせた。振られたてだから、落とし 易いと思われているのでは。口説くにしてもタイミングが悪すぎる。 「離してよ」 「それは無理」 真顔で答えた幸野は、なんだか悲しそうだ。 「泣いてたの知ってるんでしょ?失恋したばかり。そんな気持ちになれないのよ」 「わかっててやっている……と言ったら?」 腹立たしいより意外だった。愕然とするのと、呆れかえるのが半々で、真意 を確かめるように幸野を見た。気弱そうな雰囲気はいつものままだ。 「ずっと見てきて悔しい思いをしていたから。今しか、ないと」 今しか、ない。 短い言葉がリフレインする。わたしにそこまで想われる価値はないのに。 落ち着かせるように、幸野の手が髪を撫でる。その優しさに誰かを思い出す から、今だから、イヤ。 「夏目さんの気持ちが、簡単に手に入るなんて、思ってませんよ」 耳元で繰り返される囁きは、荒みかけたわたしの心にも甘く響いた。幸野が 呟く度にそよぐ、呼気のこそばゆさと相まって、じわり、心に澱を落としていく。 「時々は思い出して貰えるように、痕をつければいい」 唇が耳に触れるほど近づき、ぞわっとする慄きが走った。 「小さい、耳たぶですね」 耳たぶが湿った唇の中に吸いこまれ、舌で嬲られる。 「ひゃ……」 歯で軽く噛まれた後、ちゅるんと水音を立て、幸野の口に含まれていた耳が 開放された。春の夜気がスカートの裾をはためかせる。唾液で濡れた耳もひん やりと、そこだけ体温が下がった気がした。 「バカね、痕なんていつか消えちゃうのに」 時間が経てば消えてしまう。いつまでも一箇所に留まってはいられない。 あの人と、同じ。 幸野の唇はまだ耳元にあり、何かをやらかしそうな気配があった。 「消えたら、また付ければいいだけ」 事も無げに言うと、唇が首筋を滑り降りた。シャツのボタンがひとつ、素早 くはずされる。ブラが見えそうなギリギリの所まで、襟元がくつろげられた。 「なっ……!」 「大声出すと、誰か来ちゃいますよ。こんなとこ、近所の人に見られたいですか?」 恥ずかしさに頬が熱くなった。はだけられた胸元を風が撫でる。誰かに見咎 められたらという恐れで、思わず背後を振り返る。 人も車も、今は通っていない。既に玄関の灯を落とし、寝静まっているよう に見える一戸建て。少し離れた場所にある集合住宅の窓には、何箇所か明かり が残り、見える筈もない視線を感じてシャツをかき合わせる。 「危ない目にあわせるつもりは無いので、安心して」 そういわれて、はい、そうですかと、頷ける訳もなく。 「……信じらんない」 呆れるのにも構わず、シャツを掴んでいた手を握り、そっとどけた。再びシャ ツがめくられ、幸野が顔を伏せる。吐息とも鼻息ともつかぬ荒い息遣いが、肌に 降りかかる。冷静な口調とは裏腹な、興奮の度合いを表していた。 片手を握られ、背を抱き締められている今の状態は、傍からは恋人同士にしか 見えないだろう。熱い吐息を感じながら、動きのない薄茶色の柔らかそうな髪の 毛を見ている。すぐ近くにある心臓が、鼓動を早めた。 そろりと唇が動いた。素肌に少しだけ湿った唇の感触。ブラを縁取るレースの 辺りを、行きつ戻りつして、小高い丘をなぞっている。焦れるほどのゆっくりさ に背筋が震え、目を閉じた。 ここで止まって欲しいのか、先に進んで欲しいのか、自分でもよく分からない。 それでも体の内を、とろとろ炙られているような昂ぶりがある。 肌の上を擦る動きに違和感を覚えた。唇ではなく、なにか硬いモノが触れている。 瞼を開くと、幸野の歯がブラの端を咥え、押し下げようとしていた。 「やめっ……」 この場所で脱がされるのは、とんでもなくまずい。蒼ざめて抗議するのも意に 介さず、夢中で顔を伏せている幸野が、この時はじめて怖いと思った。 ブラが下げられ、少しひしゃげた形で片方の乳房がまろび出る。公園の灯りに 照らされた胸の隆起は、自分でも驚くほど白い。幸野は顔を離し、血走った目で 食い入るように見つめている。春の夜風と視線とに晒されて、その先端が見る間 に固く尖っていく。 こんな乱れた姿を誰かに見られるかもしれないのに、甘く疼いた気持ちになる のは何故だろう。 幸野が顔を伏せ、膨らみの谷間近くを強く吸った。 「あ……」 小さく喘ぎが漏れた。背を反らした拍子に、公園の植え込みで咲き乱れる、白 い花が目に留まった。奔放な春の息吹を感じさせる雪柳が、今を盛りと四方へ枝 を伸ばしている。 ちゅぱっと高い音を立て、吸いついていた唇が離れた。乳房の中ほどに、薄紅 い染みが残される。 「痕ついちゃったね。これ、しばらく消えないよ」 恨みがましく言うと、 「その間は忘れないでしょう。今日のこと」 幸野は満足げに笑った。 遠くで車のエンジン音が響く。あられもない今の姿に、身が竦んだ。はだけた 胸を隠すように、幸野が体を寄せる。そのまましばらく動かずにいた。 「大丈夫、こっちには来ないから」 その言葉で緊張が解ける。危ない目に遭わせないと言ったのは、どうやら本当 で、幸野は周囲に気を配っている。少し安堵して、それから不安になる。 風がまた吹いて、剥きだしの胸を撫でた。ちりっと先端がしこる。そこに懐か しい愛撫があればいいのにと思い、そう考えてしまう自分に幻滅した。 「夏目、さん」 幸野の声が少し震えている。 息を大きく吸う音がして、体を屈め、尖った先端にしゃぶりついた。 じんとする刺激に、足元がふらついた。ちゅくちゅくと捏ねる舌が、忘れがた い官能を呼び覚ます。駄目だ。幸野をあの男の身代わりにしちゃいけない。 両手で幸野の肩を押し返そうとして、できなかった。唾液をまぶされた乳首は、 時に痛いほど不器用に強く吸われる。喘ぎをこらえ、肩にそっと手を置くと、 臆病に思えるくらい弱々しく先端を弄る。 がむしゃらな勢いに混じる優しさが、とても幸野らしい。柔らかく唇に含まれて いる蕾が、焦れるように疼き、両手で幸野の頭を抱えた。 「んっ!」 舌先が跳ねるように乳首を弾き、小さく声が漏れた。それだけで蜜が溢れてくる のが分かる。幸野の瞳がこちらを見つめ、声を出しちゃだめだよと、指でわたしの 唇を覆う。 誰かに見られちゃうかもしれない?すれすれの危なっかしさが怖くて、そして 劣情を煽った。何かあったら、きっと幸野が守ってくれる。そんな勝手な目論みも ある。 胸元から響く執拗な水音がいやらしく思え、誰かに聞かれはしないかと、瞳を巡 らした。ちろちろと動く舌先は、懐かしい愛撫に似てる気もして、少し胸が痛い。 それでも嬲られるたびに、塗り替えられたらいい。 ずるい望みを抱えながら、幸野の指を舌先でなぞった。 それを合図にして、幸野はブラを片手で押し下げ、もう一方の乳房もあらわになる。 二つの膨らみは下着でたわめられ、さして大きくない胸を際立たせた。突き出た部分 が唾液に濡れて、卑猥に光る。幸野は大きく息を吐き、灯りに照らされた胸を凝視し ている。 「ねぇ、やめよう……だめだよ」 「どうして?誰かに見られるかもしれないから?」 「あ、当たり前よっ」 可能性を指摘されただけで、恥ずかしさが蘇る。思わず叫んだ声が大きすぎて、 慌てて口を掌で塞いだ。 「こんなえっちな夏目さんは、独り占めしたいけど」 膨らみを軽く握り、指で乳首を摘む。 「ぁん……」 「見られるかもって思ったら、ヘンな気分になりませんか?」 そんなの、いやだ。想像したくない、考えたくないのに、じわじわと幸野の言葉が 頭の中を染めていく。このまま愛撫に身を任せていいのか、さっきから何度も悩んで いる。 膨らみを揺する掌の動きは優しくて、緩急をつけて先端を嬲る指先はとても意地悪 だ。まるでわたしの体をずっと昔から知っているような。目を瞑ると錯覚しそうで、 切なさばかりが溜まる。 身悶えする代わりに、首を力なく左右に振った。胸の双丘を掴んだ指の隙間から、 さっき幸野が付けた薄紅色のしるしが覗く。どきどきしている心臓に、とても近い ところ。 そうだ、これのせいだ、きっと。 弄られすぎて乳首の先がじんとするのも、快感に押し流されて幸野を止められない のも、多分。 「嘘はイヤだけど、そういう嘘はキライじゃないな」 耳元で幸野がぼそっと呟いた。 シワ加工された薄手のスカートが、たくし上げられる。スカートがめくられた事より、 周囲の様子が気になって後ろを振り返る。 「気になりますか。誰も見ていませんよ、今のところはね」 今は大丈夫でも、その後は?見られなければ、こんな場所で触られていても良いの だろうか。自分の気持ちがわからない。 太腿の内側に暖かな手が触れる。そっと撫で回し、足の付け根にまで至る。羽織って いるコートと長めのスカートが、都合よく幸野の悪戯を隠してくれる。これなら背後で 人が通っても、恋人同士が仲睦まじく語らっているように見えなくもない。 指先がショーツのラインを下へと辿る。その先にある潤みを知られたくなくて、身を 固くした。幸野の息が荒い。下着の上から三角の膨らみを手で覆い、くにくにと揉み解す。 奥にある敏感な突起を揺り動かすように、目覚めさせるように、ゆっくりと。 「はっ……ん!」 「夏目さん、声」 喘ぎが漏れそうになるのを、幸野が人差し指でそっと制した。指はほんの一瞬、唇に 触れただけで、また乳房を弄ぶ。わたしの喘ぎを止めようとするより、激しくなるのを 幸野は望んでいる気がして、ぞくりとした。 スカートの中に潜りこんだ指が、ショーツを片寄せる。頑なに閉じている襞を、指先が 割って開く。 「すごい……」 驚いたような幸野の声に、耳を塞ぎたかった。ショーツが湿っているのは分かっていた けれど、秘裂を指で掻き回されると、堰を切ったように蜜が溢れてくる。熟れきった花芯 を探り当てられて潤みは更に増し、くちゅっと水音を立てた。 これではまるで、幸野にされるのを待ち望んでいるようではないか。 「夏目さんて、濡れやすい?」 「ば……ばかっ」 気持ちより体が暴走している。体が、あの懐かしい感触を欲しがって疼く。 幸野の指が合わさった陰唇を縦になぞって、切なさに泣きそうになった。足元がふら つく。立っていられなくて肩にしがみつく。 粘つく音が耳を刺激し、風がスカートの裾を揺すった。 誰か、止めて。わたしが気持ちよくなるのを、止めて。 指が襞を開いて、膨らんだ突起を剥き出しにする。やさしく撫でる指先に、思わず唇 を噛んだ。 いつまで耐えていられるだろう。声を抑えていられないかも。わたしには、その自信 がない。 襞を掻きわけ、花芯を捉え、指は少しずつ潜りこむ。潤みに指が沈んだ時、わたしは 小さく声を出した。蜜の溢れる場所に、指が抜き差しされる。靴先でぬかるみを掻き回す ような音も、激しくなっていく。聞こえている水音が、自分の体から出ているとはとても 信じられず、打ち消すようにかぶりを振る。 「だめ、幸野さっ……イっちゃう……から、やめて……」 快感に煽られて、立っているのも覚束ない体を揺らし、両腕で幸野の首筋に縋りつく。 「黙って」 幸野は囁くと、ぬかるみから指を抜いた。 「イキたいなら、下着を脱いで」 頂点の手前で取り残されて、頭がぼんやりとする。指を抜かれたすき間が、寂しげに ひくつく。ふと周りを見回した。こんな場所で下着を濡らしながら、わたしは何をして いるのだろう。 「いま誰も来ませんよ。ね、脱いでください」 指先が、下着の上から突起をまさぐる。その場所から疼きが広がっていく。 幸野がわたしの手を取り、ズボンの膨らみに添えた。はちきれそうになっているそれを、 掌でそっと撫でる。 覚悟を決めろという事だろうか。庭園灯の光を受けて、雪柳がまた揺れた。 掌の中にある膨らみは熱く、強張った感触に誰かを思い出しかけた。 蕩けた視界の中で、幸野が息を荒げこちらを見ている。 そう、幸野だ。他の誰でもない。普段は穏やかに見守り、わたしを求めているひと。 すぐに気持ちは要らないと、あの男を忘れなくていいと言った。痕を付けるだけだと。 胸に咲いた紅い染みを見つめる。幸野がわたしに付けた痕。頭の隅で何かが弾けた。 静かに後ろを振り返る。深呼吸をひとつ、した。 俯いたままショーツに手をかける。足首から抜く時、履いていたミュールに引っかかり、 決まりの悪い思いをした。片足だけ脱ぐと、幸野はわたしの顎を掴み、顔を上向かせた。 「声は出さないで」 制すと、スカートの中に手を入れ、膨らんだ花芽を嬲り始める。強く弱く擦りあげ、 そして押し潰す。遮るものがなくなった下肢の合間から、太腿の内側にとろりと蜜が垂れる。 「や……無理。声、でちゃう……」 声を忍んで小さく叫ぶ。それでも鼻にかかった喘ぎが漏れる。 幸野が少し困った顔をして、蜜にまみれた指を引き抜くと、わたしの唇に押しこんだ。 驚く間もなく狭間の奥に再び指が潜り、柔襞を撫で始める。自分の味がするのも厭わず、 口に含んだ二本の指を吸った。ひたすら声を耐えるために。軽く歯を立ててしまったかも しれない。 「噛んでもいいです。夏目さんに噛まれるなら本望」 内壁の感じる部分を、指先が執拗にまさぐった。気持ち良さに、襞が指を食い締める。 もう間違える事はない。幸野の指だと感じとれる。どちらも一杯にされているから。 手を伸ばして、幸野の股間の昂ぶりに触れた。チャックを下ろし、いきり立つものに指を 這わす。息苦しげに反り返っているのを、トランクスから取り出した。自分だけ気持ちよく なっているのが、どこか申し訳ない。はちきれそうな幹を、手でそっと撫でる。熱い強張り をびくびくと震わせ、先走りの汁を零し、幸野が低い呻きをあげた。 「夏目、さん……」 押し殺した囁きに、黙って頷いた。どちらも同じ気持ちだから、多分。 幸野はわたしを抱えあげ、アスファルトの横にある石垣の上に乗せた。公園を背に座らせ、 太腿のあたりまでスカートを捲り上げる。膝のあたりに丸まり、引っかかっている布切れに 目がいく。幸野に脱げと命じられたショーツ。遮るものが無い茂みを、幸野の指先が玩ぶ。 このままだと幸野としてしまう。当然の事ながら。 幸野でない人にも、もしかしたら見つかって……。 わたしの不安を見越したように、幸野の指が狭間に潜る。すっかり準備が整った、濡れた 襞をまさぐる。じわじわと快感を取り戻しながら、覚悟を決めたような、そうでもないような、 中途半端な気持ちだ。迷っているのは、こんな場所でしてしまう事に、だろうか。それとも 幸野との関係が変わってしまう事が、なのか。 乳房を弄っている幸野の手が、先端を指の腹で撫でる。与えられた刺激に、小さく吐息が 漏れた。指先で乳首をピンと弾き、わたしをもう一度濡らしてから、剥きだしの乳房を隠す ようにコートの前を合わせた。 終わりのつもりなのだろうか。怪訝な顔に答えて、 「誰かが来たら、危ないので」 幸野は短く言うと、片手で張り詰めた固いモノを握る。喉に何か詰まった感じで、言葉も 出なければ唾も飲みこめない。しどけなく素足を投げ出して、ただぼんやりと幸野を見つめ ている。時折、肌を撫でる風が寒い。ちりちり鳥肌が立った。 「もし誰かに見つかっても、必ず守りますから」 そうしてくれると信じてる。でもひとつだけ聞きたい事があった。 本当にわたしでいいの? 言葉にできないまま、距離が詰まる。幸野の姿が、道路への視界を遮る影になったところで、 瞼を閉じた。何も考えまい、何も思うまい。ただ感じられるように。 切っ先が入り口を探り、濡れた蜜壷にあてがわれた。互いの体が触れ合う、この一瞬に ドキドキする。躊躇っているのか、弄んでいるのか。焦らすように擦るだけのひと時があって、 待ちくたびれたその秘処から熱い露が滲んだ。はしたなさに顔が赤くなる。 目を瞑っている間に、影が幸野でないモノに変わっていたらどうしよう。ふいに心細く なり薄目を開けると、変わらず幸野の顔があって安らぐ。 その隙に屹立が押し入った。入り口の襞が巻きこまれ、ひきつる感覚に顔をしかめた。 形を刻みつけるように時間をかけ、じわりと抉る。 これが幸野の硬さ、熱さだ。穿たれ、少しずつ埋められながら、そう感じる。 息を詰めていないと甲高い声を上げそうで、唇を噛み、幸野の胸に縋りつく。すべて打ち こまれた時、わたしは長い息を吐いた。 「動きますよ」 「ん……やっ、ゆっくり……」 慣れない態勢に戸惑って、抱き止める幸野の腕に身を委ねた。突き上げられるたび、体が 揺れる。肉茎が内襞を引っ掻き、わたしの中が幸野の形に合うように変えられていく。二人 で立てる水音が聞こえる。擦られた襞が熱を持ち、溶け出している気がした。 その動きが、いきなり止まった。 「どうし……たの?」 「バイクがこっちに来ます」 特徴ある爆音が近づいていた。そんな事も気づかないほど溺れていたのかと、愕然とする。 「ごめん、立ってください。夏目さん」 幸野のほうが数倍冷静だ。抱えられて石垣から下りると、蛇行しながら近づくバイクの ライトが見えた。 「あ、あのね……気づかれないかしら」 バイクは空ぶかししながら、少し離れた場所に止まっている。若い男と小柄な女の二人 連れだ。 「大丈夫でしょう、きっと」 こんな状況で、なぜ幸野は平然としていられるのだろう。 「向こうもカップルだし、こうしてたらこっちも恋人同士に見えますよ」 どう見えるかとか、そういう問題ではなくて。 下を見ると、膝元に丸まっているショーツは無事スカートに隠れていた。とりあえずは ホッとする。 お尻の辺りにムズムズする感触がした。薄手のスカートの上から、幸野の手が膨らみを 撫でている。睨み返そうとしたが、足元がふらついた。 「爪先立ち、きついですか?」 幸野に抱き寄せられているので、態勢自体は辛くない、けど。 舗道に下ろされた時に、幸野のモノはわたしの中から半分ほど抜け落ちた。肉茎が中途 半端に引っかかり、感じやすい箇所を刺激している。繋がりあった部分から、むず痒いような 快感が生まれて、ぞくぞくするのが止まらない。 バイクのカップルの方を見た。薄茶色の長い髪をかきあげて、女性が何か囁いている。 そして二人同時に、こちらの方を見た……ような気がする。こんなところでシてるなんて、 まさか想像もしないだろうけど、万が一気づかれてしまったらどうしよう。 考えただけで体の奥が熱くなる。埋められた部分がひくんと蠢いた。 ダメだ、耐えられない。おかしくなりそうだ。 いっそひと思いに貫いてくれとか、イかせて欲しいとか、そんな言葉が喉元まで出ていた。 「たす……けて、声……でちゃう……」 「辛かったら踵を下ろして」 かぶりを振った。できない。踵を下ろしたら抜けてしまう。 しっかり支えるためにか、幸野の手が腰をぐっと引き寄せた。その振動だけで、すごく やばい。体が小刻みに震えた。とろりと蜜が垂れて、太腿を伝っていく。 幸野の手が、蜜の流れた股間を探る。繋がっている場所に触れる。露に濡れた指で、 膨らんだ花芽をまさぐる。 「すごい。洪水だ」 囁きに頬が赤くなった。じぃんとする刺激が、頭頂まで届く。指先がぬるぬると蠢き、 いやらしさを煽った。 追い上げられている。体の中にキモチイイが溜まって、もうすぐ溢れ出しそう。 「あふ……キス、して……おねがい。……あた……しのクチ、ふさいでっ」 でないと、叫んでしまうから。 「喜んで」 ちっとも喜んでなさそうな掠れた声で、幸野は言った。 「んふぅ」 繋がっているのに、イキそうなのに、これが幸野と初めてのキスなんだ。おそるおそる 啄むような、臆病なその唇を、わたしは貪るように吸った。 両腕で幸野の首筋にしがみつく。あのカップルの目に、わたし達はどう映るだろう。 幸野の言うとおり、恋人同士に見えるかもしれない。そう考えると胸がちくりとした。 わたしは快楽に流され、何かの隙間を埋めるために。幸野はそんなわたしに痕を付ける ために、こうしているのだから。 幸野の肩が僅かに沈んだ。そして突き上げる。衝撃で全身がわなないた。 「んふぅ」 仰け反った拍子に唇は離れ、喘ぎが漏れる。 急に眩しい光に照らされ、バイクのエンジン音が間近に聞こえた。見られているかもと 思ったら、恥ずかしさが膨れ上がる。 「んっ、ん……んーーっ」 ふらつく足元を、幸野がきつく抱き締めて支えた。叫び出す寸前で、荒々しいキスが唇 を塞ぐ。強く吸われた舌が、じんとして痛い。それに応える気力はもう残っていなかった。 周囲の音が遠ざかり、何も聞こえなくなる。二、三度体が揺さぶられ、深く貫かれた。 秘部を抉る肉茎の感触ばかりが生々しく、絡みつくように柔襞がひくひくと痙攣する。 埋め込まれたモノが隙間なく膨らみ、弾ける。 体の奥に熱い樹液を受けながら、わたしは果てていた。 「……夏目さん?」 気が付くと、幸野が必死で呼び掛けていた。ほんの少しだけ意識が飛んでいたかもしれ ない。ずり落ちそうなわたしの体を、一生懸命支えている。 「えーと、その」 こんな時に何を喋ったらいいか分からない。体はまだ余韻が醒めず、熱く火照っていた。 二人の体液が混じり合った股間は、すごい有様になっている。幸野の顔を直視できずに、 視線を彷徨わせた。 「バイクはどこへ行っちゃったのかな」 「Uターンして大通りの方へ」 答えながら目を逸らしているのは、幸野も同じだ。 「だから……」 手を伸ばし、ゆっくりとコートのボタンを留めてくれる。 「夏目さんのイク顔を見たのは僕だけです。安心しました?」 顔が赤くなるような事を平気で言う。もしかしたら、とんでもない奴に見込まれたのかも。 最後のボタンを留める前に、幸野が付けた痕、胸に散った紅いしるしを見つめた。 「もし良かったら、シャワーを浴びてコーヒーでもいかが?」 そう呟くと、幸野が破顔した。 約束の時間にはまだ五分ほどあったが、出かける準備はすっかり出来ている。幸野は多分 時間きっかりに、下から電話をしてくる筈だ。 気温の高い状態が数日続き、桜の開花宣言が出された。花冷えの気候を挟んで、そろそろ 桜も散り始める頃、幸野から連絡があった。「お花見に行きませんか」と言う。あの夜から 一週間が経っていた。 何のことはない、同僚と花見をするだけだ。行き先もセッティングも全て幸野にお任せ コースで、身一つで良いという気軽さに、つい乗ってしまったのだが。 職場での幸野の態度は極めて普通だったので、改めて二人で会う事を考えると、妙に心が 騒ぐ。別に特別な関係が始まったわけじゃない。奔流に押し流されたような記憶はまだ残って いたが、胸のしるしは跡形もなかった。 未だに失恋を引きずり、街中で似た背格好の人を見ると振り返る癖は変わらない。幸野の 言うとおり、強いて忘れる必要もないのだ。それでも、膿んだ傷口にうっすら膜が張るように、 触れるだけで飛び上がるような胸の痛みは、もう無い。少しずつだが、日にち薬が効いていた。 春が行き過ぎるのは早い。N公園の樹木はすっかり様相を変え、あの夜揺れていた雪柳も 新緑の枝葉を茂らせている。満開の桜に誘われて、今夜はそぞろ歩きをする人影がある。 この場所でも花見ができるのではと提案しそうになり、思い止まった。生々しい感覚が蘇り そうになったから。 車の後部座席には、来る途中で買いこんできたらしき、食料の入った手提げ袋があった。 おいしそうな香りも漂って、空腹を刺激する。 「クーラーボックスでビールも冷えてますから」 準備は万端だと幸野がアピールする。 「車、なのに?」 「飲むのは夏目さんですよ、もちろん」 なるほど。遠慮の必要はないらしい。 助手席に乗り込みシートベルトを締めると、フロントガラスを見つめたまま幸野が言う。 「出かける前に、電話の約束を確認させてください」 「どうぞ」 とくんと大きく心臓が跳ねたが、平静を装って答えた。 幸野の手が、膝上からスカートの下に潜る。ストッキングの感触を捉えて、しまったと いう顔をした。 「ストッキングはダメだなんて、言わなかったでしょ?」 「そうですね」 さして落胆する様子もなく、上へと撫で回す。手の動きにつれ、太腿の際までスカートが たくし上げられた。指先が恥丘の茂みに辿りつく。陰毛がストッキングに透け、薄墨色に 翳ったその場所を、ゆっくりと撫でる。 高鳴り始めた鼓動を抑えるため、大きく息を吐いた。 幸野は電話でこう言った。花見に行きましょう、できればスカートで、ショーツは穿かず に来て下さいと。その申し出に強制力は無かった。 「ありがとう。じゃあ、出かけましょうか」 何事も無かったようにスカートの裾を整えると、車は滑り出した。 瞼の奥で雪柳の白い花が揺れる。触れられた部分が、ほんのり熱を持っていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |