シチュエーション
![]() 「困ったことがあったら、いつでも来ればいい」 先生はそう言って、私に鍵をくれた。 それから私は、別に困ってなくても、先生の家に遊びに行っている。 先生は別に嫌な顔をする訳でもなく、私のつまらない話に付き合ってくれた。 私は甘えているのかも知れない。そう言うと、先生は笑った。 「君は頭いいな。だが、その年なら、甘えられる大人は一人でも多くいた方がいいな」 そうやって頭をくしゃくしゃと撫でられると、私も悪い気はしなかった。 先生の家で勝手にCDを聴いたり漫画を読んだりしていると、時間はあっという間に過ぎる。 「勉強はどうだ?」 「今は、上から三番目」 「素晴らしいな。その調子なら、親御さんの意向通り、医者になるのも難しくはないな」 「まあね」 先生は布団に座って、パソコンで何かプログラムの仕事をしていた。 私はその背中にもたれて、昔の漫画を読んでいた。 「面白いね、この漫画。借りてっていい?」 「駄目だ。親御さんは厳しいんだろう。ここで読んでいきなさい」 「えー?」 「それとその漫画はレアなんだ。失くされては困るんだ」 奥付を見ると、確かに私の生まれる前の年だった。 「はあーい。このCDも格好いいよね」 「大昔のバンドだ。一世を風靡したが、私の生まれた年に解散した」 「そんなの何で先生が持ってるの」 「親が好きだったのさ。大学祝いにコレクション全部くれたよ」 「ふうん。変わったお祝いだね」 「変わった家系だよ、うちは」 日がなそんな変わった会話をしているうちに、日が暮れるのだった。 「さ、帰んな。親御さんに心配されたくないだろう」 「そうですね。じゃ、また、今度の土日に」 「待ってるよ」 先生は玄関まで私を送ると、いつも笑顔で手を振って見送ってくれた。 先生は変わった人だった。東大生なのに東大が嫌いで、東大医学部には行くな、と言っていた。 あそこが東大の中でも最難関だということは、私も一応受験生なので知っている。 でも、家庭教師が生徒に言う台詞とは思えなかった。 「何のために大学に入る?」 「…考えたことない」 「就職のためだ。まっとうな医者になるためなら医科大に入るのが正しい」 そこまではっきりと言い切る先生は初めてだった。 私は先生の携帯番号を訊いて、それからよく一緒に街を歩いた。 私としてはちょっとしたデートのつもりだったが、それが親の癇に障ったらしい。 テストで十番以内に入ったその日、私は先生がクビになったことを知った。 携帯も勝手に解約されていて、私は生まれて初めて親をひっぱたいた。 家の電話で先生を呼び出して、駅前で逢った時、先生は驚いた顔をしていた。 それはそうだろう。私は親に殴り返されて、唇を切っていたのだから。 「女の子の顔に、ひどいことをするもんだなあ」 先生は間延びした声でそう言うと、こっそりと鍵をくれたのだった。 「いいんですか?」 「どうせ私は合鍵を持っているんだ。場所は知ってるだろう」 私は手のひらの鍵を見つめると、ぎゅっと握り締めた。 「分かりました。親にはもう絶対にバレないようにします」 そのとき私は、相当思いつめた顔をしていたらしい。先生は少し困ったような顔をしていた。 「見つからないようにしろよ。私はいいが、君が困るだろう」 「はいっ」 「うん、いい返事だ」 先生はにっこり笑った。 (ああ、そうか) 先生の笑顔を見て、気が付いた。 (私はワルイコなんだなあ) 親に歯向かって、先生に甘えている。それにこれは、ちょっとした秘密の逢引じゃないか。 そう思うと、私もくすくすと笑った。 つまんない毎日が、少しだけ楽しくなるかも知れない。 そう、思った。 私は先生が好きなんだろうか。 先生は私のことをどう思っているんだろうか。 先生は、デートの最中でも、犬や猫を見ると、そっちの方に気を取られる。 可愛い動物に目がないのだそうだ。 (私もひょっとして、そういう小動物扱いなのかなあ) そう思うと少し嫌だったが、あえて口に出すこともないなとも思い、黙っていた。 「楽しいかい?」 「うん」 先生はデートのたびに、一度はそう訊いてくる。 私は楽しいから素直にそう答えるのだが、たまに先生の目が一瞬半眼になっていることに 最近気づいた。 (何でだろう。ひょっとして先生の方は楽しくないのかな) 先生が社会人になってから、徹夜や休日出勤が続いている、ということは知っていた。 本当は休日は寝ていたいのかも知れない。 そう思うと、私のしていることが、先生の迷惑を顧みない、随分と失礼なことのように感じてきた。 そういうときに限って、先生は謎かけのようなことを訊いてくる。 「君たちの年だと…いや、君は、恋愛ということを、どう思う?」 先生の問いかけは、いつも思いつきのようでいて、必ずどこか鋭い刃のように私の胸を刺す。 「…どうしたんですか、先生?」 「純然たる好奇心だ。私はそういうのに詳しくないんでな。分からないというのが悔しいというだけだ」 東大生にも分からないことはあるんだ、と思った。 「好奇心でそういうの訊くのはよくないと思います」 「じゃあ真面目に訊くか。真剣に知りたいんだ」 「さっきと同じことじゃないですか。そういう人には、教えてあげません」 「…ははは、敵わんなあ」 先生はパフェを崩すと、苦笑いをして窓の外を見つめた。 私にはその苦笑いの意味が分かっていなかった。 ただ、先生の眼鏡の奥の鋭さに、とても胸が騒いだ。 先生は何かが不満なんだ。 一体、何が足りないんだろう。 先生の家で、薬を見つけた。 私も馬鹿じゃないから、プロザックという薬が、何かよくない薬だということは何となく知っている。 (何で先生は、こんな薬なんか飲んでるんだろう) たまに先生のことが分からなくなる。とても不安だった。 先生の携帯に着信が入っていた。 私の知らない女の声が入っていた。 とても楽しそうに、小説を返す、と言っていた。 私は、なぜかすごく気分が悪くなり、伝言を勝手に消した。 それからしばらくの間、先生に逢うのが辛かった。 先生の家にはエロ本がなかった。 大抵男の人はエロ本を持っていて、それは布団の下に隠してあるものだと思っていたが、 本当にどこにもなかった。 家捜ししていたら、コンビニから戻ってきた先生が、呆れた顔で私を見ていた。 「見られたくないものもあるから、勝手に家捜しするのはやめなさい」 「んー…エロ本とか?」 「そんなものはない」 「何で?」 「何だっていい。とにかく家捜しは勘弁してくれ」 先生は溜め息をつきながら、買い物袋を置くと、布団の上に座った。 何でそんなことをしたのかは分からない。 私は先生に抱きついていた。 先生は相当驚いた顔をしていた。 私は先生の耳元に口を寄せて、自分でも全く考えもしなかったことを言っていた。 「先生、私のこと、欲しいと思ったことないの?」 多分私はそのとき、小悪魔のような顔をして笑っていたんだと思う。 本当に、何でそんなことになったのか、自分でも不思議だった。 事実、数秒後、私は小悪魔の表情のまま、自分の発言に激しく後悔していた。 (…何を言い出すんだ、私) 先生の驚いた顔は変わらなかった。そりゃそうだろう。自分でも呆れてるんだから。 そのまま、気まずいというか、間抜けというか、よく分からない沈黙がしばらく流れた後、 先生の目が静かに半眼になっていくのを私は見逃さなかった。 「なるほど、そういうことか。分かったよ」 私は恐慌にかられた。どうやら私はまたしても地雷を踏んだらしい。 いくら私が、経験のないただの女の子だとは言え、これが相当大きい地雷だということは 流石によく分かった。 「…君は?」 「え?」 「君がそう言うなら、分かった、と言っている」 「…」 言っている意味がさっぱり分からなかった。 ただ、先生のさっきの刺すような目が、嘘のように優しくなっていた。 しばらくして、私はやっと、自分の招いた事態の意味合いに気づいた。 (貞操の危機だ) (いや、先生ならむしろ) (ちょっと心の準備がまだ) (自分で誘っておいて何) (怖い) (怖い怖い怖い怖い怖い) 先生は私の肩に手を回すと、私の唇を静かに覗き込んだ。 「あ…」 私は動けなかった。頭がパニックになっている。 「そう言えば、今まで一度も言わなかったんだよな、私は」 「え…」 先生は私の唇のすぐ近くで、静かに呟いた。 「好きだよ。君のことが」 そして、 私は考えるのをやめた。 体中にびりびりとした鈍い痺れが走っている。風邪の時みたいだが、嫌な感じではなかった。 唇の上で、肉厚で力強い熱が蠢く。その度に、甘い痺れに、背筋を強張らせた。 先生は私の唇を、それこそ貪るように、何度も唇で摘み、吸い、たまに舌先で軽く舐めた。 (ああ、やっぱり) 先生はずっと、私とこういうことがしたかったんだ。 先生じゃなかったら、気持ち悪い、としか思えなかったんだろうけど。 先生は優しかったから、ずっと我慢してたんだろうけど。 大人の恋人同士なら、こういうことがあって当然なんじゃないか。 「ん…」 自分の体のどこから出てくるのか分からないくらい、いやらしい声が響く。 私の体が、また、震える。 先生の唇が、私の唇から離れる。 軽く目を開けると、唇から糸を引いている先生と目が合った。 「…うん」 先生は照れ臭そうに笑うと、今度は私の首筋に唇を当てた。 「ああっ…!」 私の口から、信じられないほど大きな声が上がった。体中に走っていた痺れが、 先生に吸われている首筋の一点に集中する。 私の体が、びくん、と大きく跳ねた。まるで機械仕掛けの玩具のようだ。 「せんせえ…」 遊ばないで下さい、と言おうとしたが、声が出なかった。 先生の歯が当たる。軽く噛んでいるのだった。まるで吸血鬼じゃないか。 やっぱり、先生は、遊んでいる。 「やあん…」 何か言おうとしても、そんなふにゃふにゃとした声が出てくるだけだった。 私は不意に、自分の醜態が情けなくなってきた。 何だ、この、馬鹿みたいな、反応、は。 気が付くと私は泣いていたらしい。先生の舌が私の涙を舐め取っていた。 「遊びすぎたな」 先生は優しい目のままそう言うと、額にそっとキスをしてくれた。 「でも、止める気はない」 「うん…」 私は下を向くと、自分でセーターを脱いだ。こんなことならもう少し脱ぎやすい服にすれば よかったんだけど、今更言ってもしょうがない。 あと、多分、自分でセーターを脱いでいる女の子って、すごく、格好悪い。 「スカートはどうする?先生が脱がす?」 「いや、そういうのにあまりこだわりがない」 そう言いながら、先生はブラジャーのホックを外した。外すのが大変そうだった。 そりゃまあ、自分でも大変なんだから、当たり前かも知れない。 自分の胸は小さな方だと思う。男の人の趣味は人によって違うんだということは分かっていたが、 こうしてみるとやっぱりもう少しあった方が嬉しかった。 「…うーん…と」 先生は私の乳首を吸おうとしていたようだが、一瞬何か考えると、肋骨の上を強めに吸った。 「ひゃっ…」 遊んでる。完全に遊んでいる。本当に、止める気はないようだった。 (でも、まあ、いいか) 自分は本当に、こういうことについての知識がない。先生に任せた方がスムーズに進むのだろう。 ふと、先生の初めての相手が自分じゃないかも知れないということに気づき、意識が曇った。 そんなタイミングで、あちこちをすすり上げていた先生の唇が、不意に乳首の上にかぶさった。 「ひいっ!」 左の方も指につままれている。そのまま、ゆっくりとこねくり回されて、私は頭をゆすった。 どちらかというと気持ち悪い感覚に、腰が引けてくる。 「強すぎるかい」 「う、うん、まだ」 「そうかい。じゃあ」 先生は割りと素直に乳首を解放してくれた。 私がほっと息を吐いた次の瞬間、先生の舌はへその中に入り込んでいた。 「ああっ!そこも駄目!駄目だったら!先生っ!」 諦めた。やっぱり先生は、全っ然素直じゃない。 自分でスカートを脱ぐ。先生はわくわくした顔で、下から私の方を覗き込んでいた。 (…助平親父) 私は腹の中でぶつぶつ言いながら、ぱさり、とスカートを脱ぎ捨てた。 心臓の高鳴りが、体を内側から突き破る。 (こんなことなら、パンツも勝負パンツにすればよかったなあ) 何の工夫もない白いパンツだったが、先生は楽しそうな顔で、ゆっくりとパンツを下ろした。 こういうところが子供だと思う。 下半身からは、透明な液体が糸を引いていた。この糸がどういうものか、私も知っていた。 私は感じてしまっていたらしい。理由は分からないが、何となく悔しかった。 「…ちゃんとして下さいね」 「うん、それはもちろん」 先生は私を布団の上に寝かせると、足を開かせた。 「…舐めるの?」 「ちゃんとしなきゃ駄目なら、ちゃんとしなきゃね」 もう、恥ずかしいとは思わなくなっていた。先生に体を預けるのも、悪戯されるのも。 舌の感覚は気持ち悪かったが、黙って受け入れた。胸の時よりは意味のある行為だとは知っていた。 少しずつ水の音が大きくなってくる。今の感触から、少しずつでも甘みを味わおうと、 意識を深く沈める。 沈む。 ゆっくりと、波の中に浸かっているような感覚が湧き起こってくる。 波の感覚は、心を落ち着かせて受け入れると、確かに心地よかった。 寄せては返し、たまに深く引き寄せる。そんな感覚に身を委ねているうちに、 私は自分の境界が、猛烈な勢いで曖昧になっていくのを感じた。 眠いとか、そういう感覚とは違った。意識ははっきりしたまま、背中から砂のように流されていく。 このまま全部流されたら、私はどうなるんだろう。 深く潜りすぎた。そう後悔した。よく分からない。落ちる。怖い。飲み込まれる。 慌てて手を伸ばすと、私は先生の手をがっちりと握っていることに気が付いた。 (そうか) 大丈夫だ。先生はここにいる。 融けた全身が、砂時計のような音を立てて、瞬時に固まっていく。 その摩擦熱が、私の意識を焼いた。 気が付いたら、私は先生の部屋の天井を見ていた。 口から、もう自分でもよく分からない悲鳴が上がっていたが、正直それどころではなかった。 「…どうした?」 先生は、いきなり跳ね起きた私にびっくりしていた。私は、全ての元凶である先生を見ながら、 多分怒りで身を震わせていたんだと思う。 「先生、私、今、死ぬかと思った」 「ん?」 先生はよく分かっていない顔で、私をぽかんと見つめていた。 結局私は、そこでやめることにした。 処女を失うのが怖いんじゃないということを、私は馬鹿みたいに必死に説明していた。 逝く、というのが、今の私にとってはとんでもなく恐ろしいことなのだということ。 それを自分で認めたときに、私は泣きじゃくっていた。 結局、私はまだ、まだまだ、子供に過ぎないんだということ。 先生は黙っていたが、やがて私の横に寝転がると、静かに抱きしめてくれた。 「今は添い寝するのが一番落ち着くのかも知れないな」 先生は相変わらず優しい目をしていた。 「ゆっくり昼寝してよう。日が暮れたら起こすよ」 「…怒ってない?」 「何が?」 「だって…先生、最後まで、したかったんじゃないの?」 先生は、少し考え込むと、意外なくらい真面目な顔でこう言った。 「今の体験は忘れるなよ。それに慣れたときに、改めてちゃんと抱いてあげるからさ」 すとんと、意識が体に戻ったような気がした。 先生は私のことを愛してくれている。それが真剣なものだというのもよく分かる。 証を、今、無理に求めなくてもいいんだ。 「分かった」 どっと疲れが出てきた。私は、面白いほど呆気なく、深い眠りの中に落ちていった。 先生は私の肩を、ねんねんころりの要領で指先で軽く叩いて、確かにこう言った。 「いつか、私と一緒に暮らそう。君となら一緒に生きていけるような気がするよ」 私は、眠い目を開けて、先生の方を見た。 先生は、天井を見つめながら、あの鋭い目を浮かべていた。 そして、私はなぜか、これでいいんだ、という気になっていた。 先生のその目が、今の私にはもう怖くなかった。先生は別に怒っている訳じゃないんだ。 何となく、そのことだけは分かった。 どうしてそんな結論に至ったのかはよく分からないまま、私は先生の中で、ことり、と眠った。 「…で、気分はどうよ、犯罪者?」 「その表現はやめてくれ。何であなたに相談したと思ってるんだ」 「いやあ、妬ましくて羨ましくていいことですね。としか」 私は友人に、じっとりとした目でそう糾弾されていた。 「で、何だって?これで、よかったのか?だって?」 「ああ。私はちゃんと、恋愛できているのか?」 「できてるよ、腹が立つくらいにね。君、自分が何やったのか分かってて言ってるのかい? 初めての娘相手なら、それで十二分過ぎるくらいさ。本当に逝かせるか?このエロ」 「…本当に?私のやったことは、そういうことなのか?」 「本当だってば」 私は深く溜め息を吐くと、大分ぬるくなっているアールグレイティーを飲んだ。 「…私はちゃんと、彼氏をやれているのかな?」 「むしろこっちが訊きたいのは、君は彼女のことを、どう思ってるのか、なんだけど」 「素晴らしいね。あんな娘を彼女に出来て、幸せですね、と」 「それなら、そういうことで悩むのはやめにしなよ。彼女に失礼だよ。贅沢な悩みって奴だね」 「ふうん。そういうもんなのか」 何か話の飛躍があったような気がしたが、突っ込むと面倒な話になりそうだったので、軽く流した。 「…これって本当に、ちゃんとした恋愛か?」 「本当にちゃんとした恋愛だよ。しつこいな。彼女は君に金品をせびったりしないんだろ?」 「嫌な表現だな。そんなことしたらただの援交だよ!何言い出すんだ一体」 「じゃあ、それでいいじゃん。最高じゃん。理想形じゃん。この淫行」 「淫行は余計だ。まあ、分かったよ。このままでいいんだな?変な飛び道具使わず」 「そうそう。余計なことは考えない方がいいって今月の占いにも出てるよ」 「分かった。ありがとう、変な相談に乗ってもらって」 「ううん。いいから、君たちさっさと、幸せになっちゃえ。いい話なんだからさ」 「ああ、分かったよ、姐さん」 私は友人から小説を返してもらうと、彼女の分のお茶代も払って、喫茶店を出た。 ずっと悩んでいた問題が解けた。 私にはずっと恋愛が分からなかったが、どうやらこれでいいらしい。 しばらく目の前を覆っていた霧が、すっと晴れたような気がした。 正直、私にはあの娘のことが完全に分かっているとは言いがたい。 あの娘が私に憧れてくれているのはありがたい話だったが、 彼女がどれだけ私のことを理解してくれているかも相当疑わしい。 (だが、まあ、よしとしますか) 経験者いわく、このままでよいそうだ。なら、それを信じて、頑張ってみようじゃないか。 この前みたいに、己の不安を彼女に伝染させるような愚かな真似は二度とすまい。 大丈夫。いつかきっと、分かり合える日が来る。 とりあえず、彼女が大学に入ったら、一緒に南の島にでも行こう。 もう三年間、じっくりと待ってみるのも悪くない。 私は窓から、雨上がりの空を見上げていた。 (しっかし、相変わらず愚かだね、あの子も) 真理を手に入れておきながら、証明ができない限り信用しない。人間関係では悪い病気だというのに。 (ま、いいんじゃないかな、勝手に幸せになれば。私には関係ないし。馬鹿馬鹿しい) 私は、あいつのような戯けた恋愛ごっこを肯定するつもりは毛頭ない。 ただ、彼らの、ふわふわとした砂糖菓子のような幸せが続くことを、祈ってもいた。 (頑張れ。その砂糖菓子が、君の頭の悪い茨の道を救ってくれるよ、きっと) 黒角砂糖を舌の上で転がしながら、私はコーヒーのお替りをもう一杯頼んだ。 その果てしない空を、雲の切れ目から射す光を見上げていると、目つきが悪くなっちゃうよ。 私はその娘を知らないけれど、君はその娘を見ていればいいんだよ。 そうすれば、きっと、もっと幸せな顔になれるよ。 「本当に、馬鹿だねえ。早く幸せになっちゃいなよ」 私は一人でくすくすと苦笑すると、目の前で湯気を立てているコーヒーに唇を付けた。 淹れたてのブルーマウンテンは、黒く、熱く、純粋で、そしてほのかに甘い味がした。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |