シチュエーション
![]() かつて、年下の彼氏がいた。 下請けの出向社員で、私の下についた形になる。社会人三年目で、仕事の速さと丁寧さが目を引いた。 宴会好きで、月二回程度、チームの何人かを集めて何かと呑んでいた。そうやってチームの結束と 情報交換を進めていき、気が付いたら出向組の事実上まとめ役として皆に認められていった。 私のチームの進捗は大幅に上がり、私もおおむね定時で帰れることが多くなっていった。 彼と男女の関係になったのは、やはり宴会のせいである。彼はあまり喋る方ではなかったが、 他人に喋らせるのが上手かった。必要最小限の相槌を打って、後は黙って聞いている。 特に進捗の遅れで参っている出向社員には、親身になって話を聞いてあげていた。 私も実は参っていた。大きな会社だとよくあることだが、入社五年でチームリーダーの一人となるような 女に対する扱いは悪い。すぐ上のマネージャーからは、おそらくは親切のつもりなのだろうが、 婚期の話をよくされた。二十七では確かに世間的にはそろそろ身を固めることを考えるべき 年齢ではある。あくまで私は知ったこっちゃなかった。大きなお世話だ、と思っていた。 何で私がそんな話を彼にしたのかは分からない。気が付いたら二次会でジントニックを三本空けて、 周囲がドン引いていた。しまった、と思った。 彼はいつもの茫洋とした、小憎らしいほど落ち着いた顔で、こう言った。 「もう一杯呑みますか、リーダー」 そこから先のことはよく憶えていない。後で皆に訊いたところ、私は四杯目で綺麗に潰れ、 彼がその後場を丸め込んで、更に三十分皆で呑みまくっていたらしい。 憶えているのは、私が彼の肩を借りて、路上を二人きりでぐらぐらと歩いていたことだ。 「皆は?」 「三次会だそうで。金曜ですから」 「ふーん」 「さっきは話の腰折って済みません」 「まー、あんなところでやる話じゃなかったね。忘れて」 「何だったら、今私だけですし、お話をお伺いしますが」 「あー、いいっていいって、つまんないことだし」 「随分ストレス溜まってたみたいですし、全部喋った方が楽ですよ」 「うるさいわね。お節介」 「済みません。よく言われます」 本当に恐縮して済まなそうに謝るのが可笑しかった。 「どっか喫茶店でも探してるの?」 「そのつもりなんですが……閉じてますね、軒並み」 この辺の喫茶店は割りと早く閉じる。始発まで粘るには向いてない。 「バーならあるじゃん」 「……呑む気ですか?」 「付き合いなさい」 「はいっ」 私は酔っている、と思った。彼に迷惑をかけるにも程があったが、止まらなかった。 小ぢんまりとしたバーで、彼はマティーニをさも愛しそうに呑んでいた。 その横顔に、私は胸の内に溜まっていたものをありったけぶつけていた。頑張って成果を出して へとへとになって、それで結局周囲は私を嫌っている。やれ皆がついていけないだの、 やれ他チームとの連携が取れてないだの、馬鹿じゃないのか。何でお前らは進捗遅いくせして、 開き直ってデカイ面して、進捗の早い私や私のチームに陰口を叩けるのか。恥を知れ。 私だって好きなことがしたいが、会社のために頑張ってるんじゃないか。 女は無能な方がいいのか。その方が心置きなく蔑むことが出来るからか。クソオヤジどもが。 さっさと死ねばいいのに。 彼はそんな、おおよそ聞くに堪えないはずの私の愚痴を、ある種陶然とした表情で受け止めていた。 オリーブを口に含み、奥歯でじんわりと噛み締めると、さらにギムレットを二つ頼んだ。 「リーダー」 「え、何?」 急に彼がぽつりと呟いたので驚いた。 「人や世間のこと気にせず、とりあえずは自分の好きなことやった方がいいですよ」 「……社会人の発言じゃないわね」 「ビルを建てるのと同じですよ。下の階はカッチリ作んなきゃダメです。どんなに見栄えがよくても、 自分の安定抜きで人間関係やステータス固めたら、そりゃ崩れる、って話ですよ。リーダーはそれこそ もう実績があるんだから、もっと体のために休んだり、心のために遊んだりしてみてはいかがですか?」 「出来る訳ないじゃない。そんな人に迷惑かけてまで休んだり遊んだりなんか」 「ん?だって私には愚痴ってる訳ですよねえ」 言葉に詰まった。彼が意地悪そうにこっちを横目で見て笑っている。 「別に非難してるつもりはないですよ。本音で話してもらえて、むしろ嬉しいくらいです」 「な、何よ」 「信頼されてるみたいで」 「なな、なーに言ってんのよ!信頼してるに決まってんじゃない!」 この男のこういう可愛い子ぶるところが苦手だった。私は照れ隠しに彼の背中をバンバン叩いていた。 彼がぎょっとした顔になったが、またすぐ恥ずかしそうに笑った。 軽く胸が躍った。末っ子の私に、二つ下の、小生意気な弟が出来たような気分だった。 赤黒くざわついたものが胸に宿っている。 奇妙な話だが、どうやら、恋をしたようだった。 バーを出た後、彼はまたぽつりと呟いた。 「お送りしますか」 明らかに終電が出た後の時間だった。 「泊まっていくしかないみたいですね」 「そうみたいね」 とてつもなく白々しい会話だった。私は彼にもたれかかったまま、ぎゅっと手を握った。 彼は無言で手を握り返し、最寄のホテルへ向かった。 ベッドの上では、私はほとんどぐったりして動かなかった。彼だけが激しく動いていた。 この男はベッドの上でも勘がよかった。胸の中の赤黒い衝動が燃えている間に、それをさらに 駆り立てるように強く抱き締め、激しく貫いた。愛撫に時間をかけて気持ちよくなる時と、 白ける時とが確実に存在する。彼もそこはちゃんと心得ていたようだ。私はどろどろした意識の中、 何度も重々しく浮き上がり、あるいは深淵に沈んでいった。平衡感覚は既にない。 そんな長い時間ではなかったはずだが、時間の感覚もなくなっていた。酒精を毛穴から吹き出して、 やがて私は失神していた。 気が付いたら、彼に口付けされて目が覚めた。朝になっていた。 手足を伸ばすと、鉛のように重い。体が凍えていた。汗まみれで素っ裸で寝ていたのだから当然だ。 私たちはシャワーを浴びて、歯を磨き、口をゆすいだ。大分意識がはっきりしてきていた。 「でもまだだるーい」 「まあそりゃそうでしょうねえ」 「寒ーい。あったかくして」 「あはは。了解です」 今度はねっとりと全身くまなく愛撫された。体の奥の熱にゆっくりと息吹が吹き込まれていく感覚。 濁った頭に血が上る。じんじんとした頭痛の中、今度は私はバネのように跳ね、ネジのように身をよじり、 溶鉱炉の鉄のように焼け潰れていった。そして彼に奥深くまで丹念に叩き込まれていった。 体の中の滓がゆっくりと抜けていくのが分かる。どこまでも体の中の熱が高まっていく中、 やがて脳が弾け飛ぶような音がして、そこから先の彼の愛撫の一つ一つが全て体の核の部分を 刃のように貫いていった。たまらず私は彼の手を強く握って絶叫していた。 甘強い刺激に滅多刺しにされた私が放心した後、彼は私の横に座って、頭をさりさりと撫でていた。 やはり私はまだ酒精が抜けきれていなかったらしい。そのままとろとろと寝て、今度は昼まで起きなかった。 (こういう恋も面白いわね) 私は随分と楽に生活できるようになっていた。下らないことでぐだぐだ悩んでいたのが嘘のようだった。 確かに人生、楽しんだもの勝ちである。人だの世間だのへったくれは、ある程度勝って来た者が弄ぶもので、 自分は今まで逆に人だの世間だのに弄ばれていたに過ぎないことがよく分かった。そういうことに 気づかせてくれた彼が本当に有難かった。今までの彼氏は優しかったが、そういう意味でためになることは それほどしてはくれてなかったんだな、とも思った。 私は彼をしばしば自宅に泊めるようになっていた。彼と話をするのが好きだった。ほとんど私が 一方的に喋り詰めだったが、たまに彼が口を開くと、私の思いも寄らない話をしてくるのだった。 「中国茶はポットが二つ、茶碗が二種類あるんですよ。ポットはお茶を濃く出しすぎないための工夫で、 茶碗が一つが縦に細長いんです。これに一旦注いでから、普通の茶碗に移し替えるんですね」 「へえ。何で?」 「細長い茶碗は聞き茶用です。香りが溜まるんで、それを楽しむんですよ」 「なるほど。いいなあそれ」 話を聞くだけで楽しい。 「そして月餅は高級品はとにかくデカい!ジャーン!これ一個五百円!」 「うわ本当デカッ!何これ!手のひらサイズって!」 「中はクルミだのアーモンドだの沢山入っててボリューム満点ですよ。てな訳で食べましょう」 「わあい。でも食べきれるのかなあ。一個を半分ずつでよかったんじゃあ」 「そうですね。保存は利くもんなんで、一個は差し上げます。どうぞ」 彼の持ってきた鉄観音茶と月餅を、二人して美味しく味わった。彼は清々しい表情で、 茶の香りを心行くまで楽しんでいた。私にとっても、今までにない安らかな時間だった。 (今まで私は、どれだけ時間を無駄に過ごしてきたんだろう) 本気でそう思った。 ベッドの上では相変わらず彼に押されるままだった。 「大分可愛くなってきましたよ、リーダー」 彼が三時間くらいかけてじっくりと弄んだ私の体にそう呟く。 「もっと可愛くしちゃおっかな。もう一時間くらいかけて」 「い、意地悪言わないで、早く……」 「早く、どうしてほしいんですか?」 唇が触れそうなほど近くで、彼がそんな意地悪を言う。 「私の、ここに、あなたの、頂戴」 「なるほど。続行」 彼は依然として愛撫をやめなかった。確かにじらすテクを少しずつ教えていったのは私だが、 狂うまで愛撫しろなんて恐ろしいことは一言も言ってない。そのうち、悲鳴が単語として 意味を成さなくなってきた。逝っても逝っても彼は許してくれない。 (人間って、気を失っても逝き続けられるんだなあ) 体中の筋肉が緊張を保てなくなっていた。神経だけが悲鳴を上げている。 喉からは最早悲鳴ではなく、空咳だけが出てくる有様だった。 「死ぬ」 かすれた声で、やっとそれだけ呟いた。 「そう?まあ、いいでしょう。よっ、と」 屍同然の私の両足を抱え、彼が侵入してくる。腰だけが若干緊張を取り戻した。 息が詰まって、声も出ない。体の芯が溶けすぎて気化したような感じだった。 体の中を、温泉のような、熱く湿った風が吹く。渦を巻き、身を破る。 心臓が、ずしん、と大きな音を立てる。目を開けているはずなのに、視界が紫色に輝いて、 よく見えない。それが、どこまでも、果てしなく続いた。 今や私は後悔していた。余計なことを教えたらしい。逝き過ぎて身も心もえらいことになっていた。 この分ではまたしても明日は丸一日使い物にならなくなっていることだろう。 (それでも、いい) そんな危険な考えに魅了されている自分に愕然とした。 (私は溺れている) のぼせ上がった脳髄の中で、私はゴムの向こうで、彼が勢いよく果てたことを知った。 今にして思うと、私は彼に少々甘えすぎていたように思う。多少無理のあるスケジュールも、 彼はきっちりこなしてきた。遅れてる出向社員には発破をかけたり、またあえて休ませたりしていた。 そうやって結果的に締め切りに間に合わせてきたのだ。 彼は次第に表情に精彩を欠いていった。私に不満を言うことが多くなってきた。曰く、 現場はオーバーワークだ、短期間で大量の仕事を振るのは勘弁してくれ、このままでは病人が出る。 私は真剣に受け止めていなかった。ちゃんと結果出してるんだから、今のままで上手く行ってるじゃないか。 この男でも弱音を吐くことがあるんだと、私は単純におかしがっていた。 まさか彼が倒れるとは思ってもみなかった。会社の廊下で、大きな音がしたと思ったら、 彼が転んだまま起き上がらなかった。 色々あって、彼の会社から、契約中断の申し入れがあった。ドクターストップによる休職、 ということだった。仕事はひと段落したところだからまだよかったが、それでもこれは ちょっとした問題になった。 私もマネージャーに叱られた。何でこんなことになるまで放っといたんだ、と。 私は黙っていた。まさか彼がここまで疲れているとは思ってもみなかっただの、 もっと目に見えて進捗が遅れていれば気づきようもあっただの、そんな恥知らずなことは 言う気にもなれなかった。他の皆を潰さないように気を遣っていた彼のように、 私も彼の言葉を真剣に受け止めるべきだったのである。 (何て馬鹿なんだ) 自分を呪った。何となく、これが報いだ、と思った。 私は彼の住所を知らない。挙句携帯もメールも通じなくなっていた。番号自体が変わっていた。 要するに、彼はもう私と話をしたくない、ということだった。 その時点で流石に諦めた。私は彼に盲目的に甘えて、結果的に彼を壊したのだ。私が彼なら、 私を絶対に許さないだろう。 もう、二人の関係は終わったのだ。 私は黙って自室を片付けつつ、彼との思い出の品を整理していた。 ほとんどのものが捨てられなかった。白磁の茶器一式、銅製の香炉、細工の綺麗な瑠璃色の ワイングラス。どれもこれも、今なくなったら生活の質が下がるような代物だった。 (そういや、あいつは一人で楽しめるものが好きだったな) 彼との馴れ初めを思い出す。彼は明らかに一人で生きていけるほど強い奴だった。 彼の嗜好も明らかにその方向に特化したものだった。美味しいもの、いい香りのもの、綺麗なもの。 彼の生活は、私は直接見た訳ではないが、一人でも十分に幸せなものだったはずだ。 (私は二人でないと生きていけないな。楽しくもないし) 元々は一人で生きてきたつもりだった。彼と出会って、甘えることの必要性を知った。 彼と別れてその弊害も思い知った。もう元には戻れない。 彼はどうだったか。私に甘えるようなことはほとんどなかった。最後のあれがそうだったと 言えなくもないが、私はそれをスルーしてしまい、結果彼は潰れた。 (彼は私を甘えさせてくれたけど、私は彼を甘えさせてやれなかったんだ) そんな関係を彼が望んでいたとは到底思えない。少なくともこれではとてもいい大人の 恋愛関係とは言いがたい。一人前の大人の男だった彼は、一人前の大人の女である私と 付き合いたかったはずだ。私はそんなことは考えもしなかった。ただ、ありのままに 今ある恋愛を享受していただけだった。 (やっぱり、馬鹿だ) 私は机に突っ伏した。細長い嗚咽が、部屋の中に響いた。 相変わらず私はチームリーダーとして働いている。以前と違うのは、彼がいなくなったことだ。 彼の分まで部下をよく見てやらねばならなくなったが、腹を決めて頑張った。彼のようにうまくは いかなかったが、部下に対して優しく親身になろう、無理はさせないようにしよう、という志は 少しずつ実を結んでいった。そう言えば、要するにこれがマネジメント能力なんだな、と気づいた。 改めて、前途ある彼を潰してしまったことを後悔した。 休日の三時ごろには、仕事を忘れて、お茶を淹れて楽しむのが日課になっていった。 ポット二つと茶碗二つを鍋で温めて、お湯を沸かす。 烏龍茶の葉を片方のポットに入れ、その上にざっと熱湯をかけた後、もう片方のポットに 最後の一滴まで出し切って移し替える。 ポットから細長い茶碗に茶を注ぎ、そこから普通の茶碗に入れ替える。 細長い茶碗を手にとって香りを吸い込み、普通の茶碗から茶をゆっくりと飲む。 (贅沢な時間だな) 花畑に吹く風のような香気と、じんわりとした大地の滋味が体中に広がる。 こうしていると、体の中に、彼の声が響いてくるようだった。 (自分の好きなことやった方がいいですよ、か) 嘘つきだ。結局は私や皆のために、自分を犠牲にして消えてしまったんじゃないか。 (私は気をつけよう) 今度誰かと付き合うことがあったら、優しくし合える相手にしよう。自分の幸せを 壊さないでいい相手と付き合おう。相手の幸せを壊すこともすまい。そう思った。 つくづく、彼を喪ったのが惜しく感じられた。 甘い感傷はない。苦い感傷もない。女の子にセンチメンタルなんて感情はない。 ただ、茶の香気と滋味が、彼のことを思い出させるだけだった。 彼からもらったものは、全て私の中にある。生きていく楽しさも、一人でいる強さも、 人に対する優しさも甘さも、そして愛と陶酔の日々も。これだけ沢山あれば、私はあと数年は しっかりと二の足で立って歩いてられるだろう。 いつか、またどこかで彼と出会うこともあるかも知れない。その時に、彼の前に立って 恥ずかしくない女になっていればよい。それが、彼に対する、唯一の償いだろう。 その日のことを思うと、茶の熱が、体全体にじんわりと広がっていった。 湯気の向こうに、いつかの清々しい表情で茶を喫している、彼の姿が見えたような気がした。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |