シチュエーション
![]() 「大丈夫だよ」 その温もりの主はそう言った。 「僕がいるから」 ぎゅうっと握り締められた私の左手が、微かに震えていたのを覚えている。 そして、その頬に流れていた涙のことも……。 「ねえ、アレだれかのお兄さん?」 「本当だ。若いね」 今クラスの子達が噂してるのは、歳の頃は20代後半のスーツ姿の男性だ。 高2の冬、来年は受験や就活となる私達は今日は三者面談という事もあり、廊下にちらほら 見える親の顔に皆緊張や興味で、小学生の参観日のように浮き足立っている。 この歳になればそうそう親が出て来る事なんてありはしないから、無理もないのか? 何だかんだ言っても暇なんだ。 そんな中、中年に紛れて1人中途半端に若い(?)のがいたら自然と目に付くのは仕方の ない事なのだろうが、それを感じてか見られている方も落ち着かない様子で益々ぎこちなく 所在なさげに小さくなっている。 「林葉。林葉香子(かこ)」 はい、と呼ばれて立ち上がると私はそのまま男の元へ向かった。 「いくよ、イチ君」 ああ、と小さく返事して私の後につき進路指導室へと向かう。 背中に感じる視線やひそひそと聞こえてくる声にも、もう慣れた。好きに想像して下さいな。 「そんじゃ今日このまま仕事戻るよ。下手すりゃ帰るの午前様かもー。ご飯いいから先に寝てな」 「ん、わかった。行ってらっしゃーい」 役目を終えてホッとしたのだろう。月末の忙しさからなのか(いや、いつもか)ボサボサの 頭を掻きながらまた会社へと急ぐ姿を見送る。 八神伊知朗(やがみいちろう)は私の保護者だ。年は27歳。 かといって兄ではない。血は繋がっていないのだ。 もしママが生きていたら……。 彼は私の――パパになる筈の男だったのだ。 「ただいま」 二間のアパートに戻ると直ぐに茶の間の隅にある小さな仏壇に向かい、まず手を合わせるのが 我が家のルールである。 「ただいま、お母さん」 右側の写真立てにあるふっくらした優しい顔に声をかけ、それから左側の写真立てに挨拶する。 「ただいま……ママ」 2人に手を合わせると台所へ向かった。 「あー何もないな。今日は1人だから卵でも焼くか」 小さな2人掛けのテーブルに1人で着くと、ふと思い出す。あの頃もこうしてママの帰りを 待っていた事を……。 7年前の今頃、雪の降る日に学校から帰ると具合が悪くなって、なかなか帰らないママを 待っているうちに心細くなった私は、徒歩10分程の職場へ自ら歩いて向かう途中に倒れて しまったらしく、気が付いたらママの勤める病院のベッドで寝かされていた。 側にいたのは心配そうに手を握っていたママと、青い顔して私を覗き込んでいた若い男の人だった。 私の顔を見るとホッとした様子で『良かった〜』と呟くと、私の頭をわしわしと撫でた。 その手の温もりとママの顔に安心して、またそのまま眠ってしまったのを覚えている。 当時流行っていたインフルエンザに掛かってしまっていた私は、その後数日寝込んでしまった。 道の真ん中で倒れていた私を背負って近くの病院まで運んでくれた若い男の人は、何度も 家まで見舞いに来てくれて、元気になってもママのいない時の話し相手になってくれた。 当時大学生だった彼は、自分より15も年上の子持ちナースに惚れたのだ。だが大学を卒業 したら結婚してくれと猛アタックし、唯1人の身内である母親の説得を済ませた直後、 ママは事故で呆気なくこの世を去ってしまった。 未婚のまま私を産んだママには頼れる人間は誰もなく、私は1人ぼっちになってしまった。 ママのお墓の前で佇みながらその人は私の手を握り締め、 『大丈夫だよ』 そう言って微笑んだ。 『僕がいるから』 かすかに震えるその右手で私の左手を強く握り締めながら、泣きはらした瞳で。 『僕が守るから』 きっぱりと揺るぎない口調で。 親戚には猛反対されたらしい。当然ながら若さ故の気の迷いだとか、まだ自分も学生の癖に 甘い考えが過ぎるだとか、まあもっともだと思う。だけど、彼は決して私を捨てようとは しなかった。 『きょう子さんに約束したんだ。香子ちゃんも同じように大事にするからって』 その言葉通り、私は大切に守られて今まで暮らしてきた。学生時代はバイト、就職してからは 建設会社で真面目に働いて、私に決してひもじい思いはさせまいと頑張った。 彼の母親も最初は戸惑ったけれど、本当は女の子が欲しかったから、と私を可愛がってくれた。 私も「お母さん」と呼んですぐに懐いていた。 だけど、お母さんも3年前の中2の時に病気で亡くなってしまった。 それから、私は彼――イチ君こと八神伊知朗と暮らしている。 親子でもなければ、兄妹でもない。一体私達は何なのだろう? お母さんが死んでしまってから、経済的な理由もあって今の部屋に越して来たけど、 周りには兄妹だと言ってある。名前が違うので色々噂されているかもしれないけど、 余所の家庭の事情までは皆口出しなど下手に出来ない。学校でもしょっちゅうあったしもう 慣れてしまった。 私達は「家族」という括りの中にいる。それだけだった。 だけど今、私は彼が父親になり損ねた10歳違いの兄のような人間から、「男」という 生き物である事を見せつけられて恐ろしい程動揺してしまっていた。 何気に目についた本棚の裏の隙間から覗くモノ。 思わず引っ張り出して思いっ切り後悔した。そして見なかった事、としてまた元に戻した。 イチ君がいない日で良かった。それだけが救いだった。 「なあ、本当に就職すんの?香子は頭いいんだから大学行ってもいいんだよ。それ位の貯えは あるから」 「いいの!私勉強そんなに好きじゃないし、やりたい事もあるわけじゃないからさ。それに りっちゃんも進学はしないみたいだし」 りっちゃんとはママが生きてた頃からの長い付き合いの友達だ。腐れ縁でもうずっと同じ クラスというから驚きである。彼女んちとは家族ぐるみで付き合いがあるので、私達の事情も 知っている、数少ない関係者である。 「そっか、りっちゃんもかぁ」 「それに私早く一人前になって、イチ君に甘えてばかりじゃなくなりたいんだよ。……もう、 夕べ遅かったんだからさー、寝てて良かったんだよ?今日は出勤遅くでいいんでしょ」 欠伸を繰り返しながらヨレヨレのスウェットで味噌汁を飲むイチ君に、テレビで時間を 見ながらご飯をよそう。 「駄目!朝は一緒がうちのルール」 そうなのだ。昔からどんなに二日酔いで辛くても絶対起きてきて、私と必ず会話するのだ。 だから余程でない限り、1人で朝ごはんを味わった事はない。 お母さんが生きていた頃から学校の行事にも来てくれたし、亡くなってからは尚更。お陰で 私はママが居なくなってからも寂しい思いをした事はなかった。 それを当然のように受けていた。私は大切にされていたのだ。それは成長するにつれ彼への 感謝の気持ちを私の中に満たしていったし、信頼を増す一方のものだった。 だけど今、それがどこかでほんの少しだけ狂い始めている。 今朝、初めて目を合わせずに「行ってきます」を言って部屋を出た。 何故か一刻も早くあの場から離れたくて、余裕はあるのにやたら急ぎ足で駅まで向かった。 1本早い電車に乗りながら、私は胸の奥からどす黒い気持ちが渦巻いては消えようと もがいてるのを感じていた。 何に対してかは解らない。だけど。 「イチ君のばか……」 裏切られたような気がした。 今日も残業か、と彼の分の夕飯をテーブルに残して部屋に引きこもった。 私の机は二間のうちの奥の部屋にあって、寝るのもそこにしていた。 布団を敷こうと押し入れを開けようとして、ふと隅の本棚に目が止まる。背板と壁の隙間 から覗くそれを少し躊躇しながらも引き出すと、怖いもの見たさからついページを捲って しまった。 『Fカップの誘惑』 『現役女子大生のフルヌード』 『特選風俗情報』 袋綴じまで開いてあった。−−絶句。 隠すように置いてあるって事は、やっぱり知られたくないって意味で、私も見ない事にする つもりでいたのに……好奇心と何から来るのかわからない苛立ちが私を襲った。 見なけりゃ良かった。 そう思ってまた元の場所へ、それを汚いものを棄てるような気持ちで押し込んだ。 しばしぼうっとしながら部屋の真ん中で固まってしまっていた。 「あ、洗濯物忘れてた……」 リビングに放り込んだままの塊を思い出して、気持ちを切り替えるようにそっちへ動いた。 彼は寝るときはこっちに布団を運んで寝ている。お母さんがいた時はよく川の字で寝ていた けど、2人になってここへ来てからは一緒の部屋で寝なくなった。 ふと考える。一体いつそんな事してるんだろう……? 私はまだ異性とも、自分での経験もなかった。だけど17歳ともなれば周りには色々な変化は あるし、知識としては既に頭に入っていた。 イチ君のような歳ならまだ若いし、男なのだ。そういう事位は当たり前にするんだろうと 頭ではわかってる。わかってるつもりだった。 だけど私と襖1枚隔てたここで?などと想像してしまうと、生々しくてどことなくぞっとする。 それと同時に胸の奥が押しつぶされそうに痛むのだ。 あのグラビアを見て何を想うのか、もしかしたらどっかでビデオでも観てるのかも……。 そう思うと、何だか苛ついてくる気持ちをどう呼んだらいいのかわからなくて、 なぜか悔しくてたまらない。 洗いたてのYシャツを畳もうと触れて、ふとその大きさに両手で目一杯広げたそれをしげしげ と眺めた。 意識した事無かったけど……こんなおっきな体してたんだ。背は178は軽くあると思う。 痩せてはいないけど、現場に出る事の多い顔はよく焼けていて、がっちりした体格に合ってる。 何気に香る洗剤のと共に男の人の匂いが残っている。気が付くとシャツに顔を埋めていた。 「……なにやってんだろ?ばかみたい」 そう思いながら、ふとそれはどんなものなのだろうかという気持ちに駆られていた。 イケナイ。 なのに私の右手は、パジャマの上からそうっと誰にもまだ触れられた事の無い自身の体を探ろうとする。 どんな気持ちになるんだろう……? 下着を付けていない上からの刺激に、直ぐに先端の尖った様子が生地越にもわかった。 そっと触れると驚く程感覚が鋭くて、小さく声が漏れてしまった。 「あっ……」 何これ?へんな感じ。摘むと少し痛くて、軽く擦るように撫でると痺れるように疼く。 そんなにも強くない程度の暖房の部屋の中、首筋と脇辺りにじわっと汗が流れそうになった。 やだ、やめなきゃ、こんなコト。 そんな風に思うのに、ボタンをはだけて直にまさぐり始めた胸の感覚から逃れられない。 「んんっ……」 終わらさなきゃ。 何故か途中で止めることが出来ないと思った私は、嫌悪を抱きながらも胸の上に左手を 残しながら右手をパジャマの中に入れた。 下着の上からそうっと割れた部分を撫でると、初めてそこがじんわりと熱くなって疼いて 来る感覚にたまらず床の上に投げ出した脚がじたばたと動くのをやめられない。 「あ……」 熱い。何かが中で焼け付くように暴れて、もっともっと、と欲している気がして、それを 知るために躊躇無く直に下着に指を差し入れた。 裂けた深みにそって恐る恐る指を滑らせると、ぬめりを帯びたものが絡まる。そのなめらかさが 益々快感を産んでいくのをどうにも出来なくなっていた。 一心不乱に指をかき回しているうちに小さな芯に触れた。その途端、今までにない程の 快感が全身に駆け巡った。 「っあ……」 発するつもりがないのに自然に吐く息に声が混じる。だめ、やめなきゃ、なのに止まらない。 ふといつの間にか閉じていた瞳を開けると、投げ出したままのYシャツが目についた。 「…………イチ……」 27の男ならどう動くのだろう? 強く胸を掴む。 「こう?」 それとも。 「……はあぁっ、ん」 下着の中を自ら玩ぶ指の、もはや暴走とも呼べる動きを止めることなど出来ず、無意識に脚を 開いては気付いて閉じようと繰り返す。 「イチ……」 何故そうなってしまうのかわからない。口を開けばその名を呼んでしまう。何度も、何度も。 自分の息遣いに紛れて耳を掠める濡れた音が段々と速く流れていく。それは指の動きと同化 して痺れるような疼きを私に送り込んでくる。 「……あっ!た、たすけ、て……イチ……っ」 ぼやけた視界にその顔を思い浮かべながら、呼吸困難に陥ったような感覚のまま私は 眠ってしまった。 「……れ?」 布団の中で目が覚めた。いつの間に?確か夕べは……。 記憶の糸を必死で辿りながら、段々と羞恥心がその中を占めてゆく。 『私……何てこと』 しかし、と考える。自分で布団に入った覚えはなく、あれは夢だったのかと思えば、ふと 確かめた胸元はそのまま2つ程ボタンが外れたままだった。普段きっちりと上まで閉めないと 気が済まない癖があるので、やはりあのまま寝てしまったのか。 「お、起きたか?」 襖が開いてイチ君が顔を覗かせたのでびっくりした。 「12時頃帰ったら部屋の真ん中で大の字になって寝っ転がってたんだぞ?……風邪、ひいてない?」 おでこに手のひらが当たった瞬間、反射的に自分でそれを払いのけてしまった。 「あ、ごめん。大丈夫だから!」 「……へ?あ、なら、いいけどさ。早く起きないと遅刻すっぞ」 卵を焼いた匂いがする。 「……もっと早く起こしてくれたら良かったのに」 少し焦げた匂い。それを嗅ぎながら襖を閉めて制服を取った。 「あ、やっぱ焦げてるじゃん!もう無理しないで起こしてくれりゃいいのに。……イチ君は モノ造る仕事してるくせに、料理のセンスはないんだからさ」 「心が痛っ!ちょっと傷ついたかも。でもそろそろ家事くらいちゃんと出来ないとな」 「何で?今更」 私を育てると言った手前、料理やら何やら頑張ってはくれたものの結果は散々だった。 だから結局の所お母さんがやって、その後は私が頑張ってる。まあ最初は散々だったけど。 「俺だっていつまでも香子に甘えてるわけにはいかないからな」 「え?」 どういう意味かと問おうとして固まった。 「そのYシャツ……」 「ああ、香子がやってるの思い出してやってみたんだけど、難しいなー。高いけどこれからは 形態安定のやつにすっかな」 アイロンまで自分でやったんだ。所々まだ皺が残ったままのシャツを眺めていて、テーブル の隅にある桜色の封筒に目が留まった。 「何これ?」 手に取ってみた途端イチ君が慌てて引ったくろうとするが、私の方が中身を引き抜くのが 一瞬だけ速かった。 「……どこに行ってた?」 まだ昼間なのにカーテンを引いたままの部屋は薄暗かった。 「何時だと思ってる」 「……11時」 はぁ、と溜め息をついて低い声で背中を向けたままもう一度訊かれた。 「どこにいたんだ?香子」 「……どこだっていいじゃん。イチ君には関係ないでしょ?どうせ他人になるんだから」 瞬間振り向いた彼は私の頬を平手打ちした。 「っ…………!?」 焼け付くような熱さと痛みが後から徐々に襲ってくる。 「どれだけ……俺がどれだけ心配したと思ってるんだ!?連絡1つ寄越さないで、もしもの事が あったらって俺がどんなに……」 痛さと腹立たしさで涙が溢れた。その瞳で睨みながら私の中で切れた何かが喉の奥から 次々と気持ちを爆発させてゆくのがわかりながらも、自分を抑える事が出来なかった。 だが、本棚の裏から引き出され大きな音で床に叩きつけられた物を見て、呆然とするイチ君の 顔は何故か妙に冷静に見ている自分もいる。 「イチ君だって男だもんね。わかってるよ、別にこんなのじゃ驚きも何ともしないってば」 彼はそれをばつが悪そうに拾うと、黙ってゴミ箱につっ込んだ。 「……ごめん」 「何で謝んの?」 苛々してきた。頬が痛いのと得体の知れない悔しさが体中を駆け巡る。 「色々。……いきなりぶって悪かったし、ごめんな」 ぶたれた事なんかなくてびっくりした。そのショックで黙っていた私の頬にそっと彼の手が 触れた。だが、 「……触らないでよ!!」 反射的にその手を思い切り払いのけた。 「香子」 「ママが死んでからも7年も経つもんね。本当我慢したよね?いい加減自由になりたいよね? 正式に結婚してたわけじゃないし、私がいなくても……むしろいない方が都合いいよね? 色々と」 ダイニングテーブルにあったままの封筒を掴んで中から二つ折の台紙をまた床に投げた。 和服姿の女の写真がひしゃげた状態で壁にぶつかった。 「それは……上の人が世話好きでたまたま今回持ってきただけだよ。俺だけじゃない」 「そんなの!……じゃあ何で今更家事なんかすんの?私が居なくなるのが当たり前みたい じゃない。あんな……本とか。時々石鹸の匂いさせてくんのもどっか行ってんじゃないの? 最低っ」 「あれは、現場で汚れた時に会社のシャワールームで汗流して来るって言ってるだろ!?」 「どうだか?」 「……もういい。勝手にしたら?」 じっと私を睨みながらも、話にならないと言った様子で首を振りながら溜息をついている。 「俺は誰とも付き合う気もないし、結婚だってしない。……他の誰とも」 「は?何言ってんの。もう頑張んなくてもいいってば。ママだってきっと許してくれるよ? 私には反対する権利はないんだしどうでもいい」 「……本気で言ってんのか?」 冷たく静かながらもきつい声だった。普段の柔らかな喋りからは想像がつかない位堅い。 「本気で言ってんのかよ!?」 手を掴まれて乱暴に引っ張り寄せられた。その強さに負けるように、私の体は床に転がった。 「イチく…っ」 「結婚なんかしないって言ってるだろ!?」 倒れた私の上にのしかかり手首をがっちりと掴まれた。 「や……!」 「何で、何でわかってくれないんだよ……」 何か言わなきゃと開いた唇はすぐに彼のそれで塞がれた。初めてのキス。 思い描いていたのとは違って、強く激しく押し潰されるような感覚に空想の壁が打ち崩されてゆく。 彼の−―男の体の重さに押しつぶされて苦しい。息が出来ない。 乱暴なキスは、押し当てられただけの様な感覚から、徐々に緩く柔らかく軽く啄まれる ものに変わっていった。それに何故か声が漏れる。 「んっ……」 何度も何度も繰り返し唇を重ねられる毎に自然と体の力が抜けていく。不思議。 「香子……」 ようやく離れた唇からその声が漏れた時、私は完全に力が抜けていた。何も抵抗できずに。 「香子」 私の顔の映るその瞳がまた再び近づき距離を無くした。もうされるがままになりつつキスの 雨を受けると、ふいに両手が楽になった。それと同時にブレザーのボタンが外され 一気にブラウスが捲り上げられた。 「!!……いやぁっ!?」 いきなりの事に停止しかけた思考が戻り、おかれている状況に精一杯の対応を試みるも、 剥き出しになったブラのカップが引き下ろされかけて、彼の舌が中に侵入しようとしていた。 「や、だめっ」 頭を押し退けようとして逆にまた腕を掴まれ胸に顔を埋められた。 「香子……香子」 頬や唇の触れる感覚に羞恥と恐怖が入り混じり、もう一度声を上げて抵抗しようとした。 だが、ふと私は開きかけた口を閉ざしてしまった。それと同時に僅かに残る力での抵抗も止めた。 その様子に腕を押さえる力が緩み、胸の重みが消えた。 「……どうして?」 抵抗を止めた事に戸惑ったのか顔を上げた彼と目が合って、恥ずかしくなって逸らした。 「いいよ。好きにしてくれて構わない」 これだけ薄い壁だ。声を出したら近所の誰か通報するかもしれない。そしたら世間の噂になる。 2人とも益々好奇の目に晒されて、きっと何を言ってもダメになる。隣のテレビや外の車の 音が私の耳に届いた時そう感じた。 私は……まだ彼と離れたくはなかった。 「ごめん」 重い体を引きずりながら動くように、ずるずると音を立てて私から離れ立ち上がった。 「ごめん。俺どうかしてる……」 「どこ行くの?」 ジャンパーを羽織る背中に急に不安を感じて声を掛けた。 「……ちょっと友達んとこに行ってくるから。今日は泊めて貰う、本当にごめん」 「……私昨日りっちゃんとこに居た。おじさんたち旅行で居なかったから電話も留守にして 貰って、携帯も切ってた。私こそ心配かけてごめん。酷い事も……」 「わかった。もういいから」 いつもの顔で少し弱々しく微笑む口元には、さっき胸に感じた無精髭が見えた。そういえば Yシャツにネクタイのまま。一晩中私を待っていたのか。かくいう私も制服のままだった。 昨日の朝例の見合い写真を見てから飛び出すように学校へ出て行き、そのまま帰る気がしなく なった私は幼なじみの家へ行った。 無断外泊も初めてだったけど、あんなに叱られたのも初めてだった。 ……もっとも、なるべく波風の立たないように過ごしてきただけの事かもしれないけど。 困らせたいと思った事も一度だってなかった。 玄関が閉まり、足音がしなくなるのを聞いてから小さな引き出しをそっと開いた。 隅っこにひっそりとしまわれていた小箱を取り出すと中を開く。 決して高価とは言えないその中身は−―指輪だった。 ママに渡されるはずだった物。貧乏大学生には精一杯の贈り物だったんだろう。 中学生になった頃にふざけて指にはめてみて言った事がある。 『これ私が大人になったら貰っていい?』 たわいない子供の言葉だったのに、彼は真剣に言ったのだ。 『駄目だよ。それはママのために買ったものなんだから』 それは私の心を静かに、だけど確実に打ちのめした。 それが何であったのかはその時の私にはわからなくて、ただ深く傷ついたのを覚えている。 私達は義理とはいえ父親と娘になり損ねた上に、兄と妹になりきる事も出来ず。 「なんで死んじゃったの?ママ」 あなたさえ生きていてくれたなら。 ごく自然な筈の感情がこんなに自分を傷つけ苦しめる物だったのなら。 「私って悪い事してるの?……」 恋なんか知りたくなかった。 ****** 俺は何という事をしでかしてしまったんだろう。 宝物のように守って来たつもりの香子に酷い事をしてしまう所だった。 ……いや、もうやってしまっているのかもしれない。 いつ頃からか、肩の上で揺れる髪に気軽に触れる事が出来なくなった。スカートから伸びた 脚から意識的に目を逸らすようになり、顔を寄せて喋る事も自然にしなくなっていった。 そんな自分がいつか抑えられなくなる日が来てしまうのではないかといつも恐れていた。 欲望を爆発させてしまうのを防ぐために時折自己処理を施して体の欲求を抑えつけても、 気持ちの高ぶりは置いてけぼりになって益々体と心がバラバラになっていく気がした。 もしそれがバレたらどんなに軽蔑されるかと思っているうちに、それはとうとう見つかって しまった。目の前に突きつけられた時にはまるで犯罪を暴かれたような気持ちになった。 想像はついていた筈だったのに、まるで汚い物を見るような香子の瞳が刺さるように痛くて あんな物さっさと棄てておけば良かったと思い切り後悔した。 なじられたその瞬間抑えていたどす黒い欲望が否応なく噴き出して、気が付けば無抵抗に 躰を投げ出した香子の悲しそうな顔があった。 あのまま助けを呼び叫べばきっと、俺は悪意の塊として香子から引き離される事となって 世間に曝され二度と彼女と逢うことは無くなってしまったかもしれなかった。 そんなことは堪えられないと今の今まで思っていたが、いっそそうなってしまった方が 楽なのではないのだろうか? 昨夜帰宅した俺の目に映ったのは、畳みかけたYシャツを抱き締めて眠る香子の姿だった。 布団に運んだ時にはだけた胸元が見えたが、直そうかと手を出しかけて本心は違う事を 思っているのに気が付いて、触れてしまう前に布団を掛けて隠し離れた。 子供のままの寝顔に密かに見える女としての姿に、俺は……怖くなったのだ。 きょう子さん、あなたが生きていてくれたなら。 あの子を傷つけずに済んだんだろうか……? ****** 鍵が開く音がして、玄関に立った。 「お帰り」 「……ただいま」 あれからずっと、翌日の晩まで彼は連絡一つよこさず。私はいつ帰るのかと問うことさえ 出来ず部屋で待ち続けていた。 「……待ってたのか?」 ラップをかけたまま冷えて並んだ夕飯の皿を見て、申し訳なそうに目を伏せた。 「だって、いらないって聞いてなかったし。……もう済んじゃった?だったら別に」 「いや、まだ。食べるよ」 上着を脱いでハンガーに引っかけ席についたのを見て、温め直した食事を出した。 「……来年から出るつもりなの?家」 突然思ってもみなかった事を言い出されたので、ずっと何となく合わせ辛かった視線が絡んだ。 「は?」 「だって就職したら自活するつもりなんだろ?」 ぽつりとそう言うとゆっくり静かに箸を口に運び、私の方を見ないまま食事を続けた。 「……何でそういう事になるの?」 私は自分も食べ始めるつもりで持った箸をまた置いた。声が震える。 「違うのか?」 「そんな事言ってないじゃん!……私が邪魔?いない方がいい!?」 私自身驚く位の剣幕におののいたのか、彼は箸をくわえたまま目を見開いた。 「……誰もそんな事言ってないよ。ただ、もう俺に頼る気はないような事言ってたからさ」 「あれは、今までみたいに生活の負担をイチ君に全部かけなくて済むようにって意味で……」 役に立ちたかっただけなのに。 「私一度もここを出ようなんて思った事ないよ。だからこれからだって家事なんて私がやるから」 そんなふうに思われてたのか。だから急に出来ない料理なんかやろうとしたんだ。 「そっか……俺の早とちりか、ごめん」 ほっと肩の力を緩めた。だが 「でもいつかはそうなるんだよ」 その言葉にまた私の心が痛みをぶり返した。 「なんで?なんでそんな事言うのよ……」 たった今その気はない事は言った筈じゃないか。 「いつまでもこのままってわけにはいかないだろ?香子だってこれからなんだから」 「何でよ!今までこれでやってきたじゃない。これからだって……」 「無理だよ」 彼はきっぱりとそう言った。 「いつまでもこんな暮らし、不自然だと思うよ?俺は香子の親みたいなもんなんだから。 その代わり……お前が嫁に行くまでは……」 我慢のならない一言だった。 「しないよ。私……イチ君がするまでは」 「俺はしないって」 「だったら私だって好きにするよ。勝手に決めないでよ、そんな事!……やっぱり私がいない 方がいいんじゃない」 それに対して動きを止めた彼は静かに箸を置くと、唇を噛んで瞳を逸らす私の方を見て 信じられない言葉を吐いた。 「そうかもな。その方がいいかもしれないな、俺達は」 まさかそんな事を言われるなんて考えもつかなくて、冷水を浴びたようなショックで 動けなくなった。 「その方がいい。俺達一緒に居すぎたんだ」 「……」 「ごめんな。香子の事大事にするって約束、守れそうにない。ごめん」 涙腺が壊れた。 「……嘘つき」 「うん、ごめん」 「僕がいるって言ってくれたのに!ずっと一緒にいてくれるって……。なのに今になって 私を1人にするの?じゃあ何であんな事……」 しようとしたの?昨日のあなたは。 「ごめん。それしか言えない。ごめんなさい」 テーブルに付くくらい頭を下げ続ける彼をこれ以上見たくはなかった。 「謝らないでよ……謝るような事しないでよ、バカ!!」 いたたまれなくなって席を立つとそのまま部屋に引きこもった。その間、キッチンからは 身動き一つする気配はなく、私は唯流れ続ける涙を手の甲で拭い続けた。 その間、昨日出て行ったままの皺の残るシャツと剃られないままの無精髭がずっと焼き付いて 益々私はたまらなくなるのだった。 翌日の朝からは、食事の用意だけをすませて早めに家を出るようになった。 夜は同じように夕飯をテーブルに並べて置いて、後はずっと部屋に引っ込んで過ごした。 もっとも、連日遅く帰ってくるようになった彼とはどのみち顔を合わさなくなったんだけど……。 もう何日会話していないのだろう。 朝になると必ず空にされて洗い桶に浸けてある食器を眺めては、取り留めのない言葉の やり取りが今となっては遠い日々の事のように思える。 そんな事を考えながら布団に潜って眠れない夜を過ごしていた。時計を見ると11時半。 明日も早いし寝なくちゃ、と灯りを落とした所で玄関の開く音がした。 「ただいま……」 誰も返事のない電気の消えた部屋に小さく呟く声に、胸が締め付けられた。 『おかえり』 その一言がかけてあげられない自分が情けない。 彼の気配に神経が全て向かってしまう。それを悟られたくなくてじっと身を固く耐えていると、 ゆっくりと襖が開いた。 向こうに背中を向けた状態だったので、幸いにも目を閉じてさえいれば寝たふりをする 事ができた。 しゃがんで覗き込んで居るのだろうか?ズボンの衣擦れの音と側での気配がする。 「香子……」 そうっと髪を撫でられて小さな声で囁かれる。 バレないようにひたすら我慢してじっとしていると、髪に絡んだ指がゆっくりと離れた。 「ごめんな……」 そう言って静かに隣室へ消えた彼の後には、微かにお酒の匂いがした。 翌朝洗濯しようとしたYシャツからはやはり友達のだろうか、煙草の匂いがした。毎朝私が 出して置いたシャツを着て出勤する。昨日はこれだった。 文句も何も言わず食べて着て……穏やかながらもそれは何だか冷たく寂しいやりとりに思えて、 ふいに哀しくなって思わずシャツを抱き締めた。 「香子」 まさか起きてくるとは思わなくて慌てて振り向いた。 「俺今日は早く帰るから。……話したい事もあるし」 いきなり脆い足場に立たされたような不安な感覚に陥って、シャツを掴んだ手に力がこもった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |