シチュエーション
![]() ****** 香子を幼なじみの家に預けて新しい土地で生活を始めた。 1人暮らしは初めてで、最初は職場に馴染むの優先に頑張ったせいもあって、なかなかうまく 生活のサイクルが組めなくて困った。 香子からはしょっちゅう心配してメールが送られてくる。 『おはよう。朝はしっかり食べるように!じゃ、いってらっしゃい』 相変わらず卵はよく焦がすし、うっかりパンにカビが生えた。 『今頃お昼休みかなとメールしました。忙しくても野菜はちゃんと食べて』 よく美味しいと評判の店に連れて行って貰うけど、何だか味がしないんだ。 『今日はりっちゃんと帰りに久々に駅ビルに寄り道したら、バーゲンだから激混みで疲れたよ! って遊んでばっかりみたいで申し訳ない。ちゃんと勉強も頑張ってるよ。イチ君も頑張って 仕送りしてくれてるから、無駄遣いはしませーん。欲しいものなんかないから……お休み』 欲のない奴。……俺だって本当に欲しい物は他にあるけど。 かと思えば 『体育で思いっ切り顔面レシーブしちゃったよ(ノ△T)鼻血出た』 なんて勤務中に吹き出しそうになって困ったものや 『今日こっちはいい天気だけどそっちはどう?休みだからってゴロゴロしてないで掃除! 洗濯も、ちゃんとYシャツアイロンかけてる?』 お見通しに慌ててたまった家事を始めたり 『今日ナンパされました』 そんな資格はないと思いつつちょっとムカついてみたり 『りっちゃんデートでおばさん達買い物。1人でお留守番暇〜(`ε´)』 無性に会いに行きたくなったり。 『今何してる?』 そのたびに我慢が切れて電話を掛ける。掛けたが最後、どうしても切る勇気が持てなくて それもギリギリまで耐えてしまう。 どこにいても何をしてても想うのはあのコの事ばかりで、会いたくて仕方がなかった。 だから早く忘れてくれという気持ちと、変わらないで欲しいと思う身勝手な矛盾した考えに 嫌んなって泣きたくなる。 「順調そうで良かったじゃないか」 早川の携帯の待ち受けにある奴の嫁の写メを見ていた。少し膨らみが目立ってきたお腹で 恥ずかしそうにしている。 「最近よく動くんだよ。面白れーから腹触りすぎて怒られた」 「……お前変わったな」 こいつこういうキャラじゃなかったような……。この調子じゃ産まれたら携帯のフォルダは 全部子供で埋まるな、多分。 幸せと愛に満ちた男というのはこうも変わるもんなのか。いや、案外それが本当の中身なの だろう。特別なひとの前でだけ、存分にそれを発揮出来るものなのかもしれない。 そういえば前にボソッと奴の彼女、もとい嫁が言ってたっけ。『むっつりツンデレ野郎』って……。 俺はあの時、出来る限り男としての姿の全てを見せたつもりだった。何もかも晒した上で 嫌われても仕方がないと半ば勝手にやけっぱちになっていた。 それでも香子はまだ、俺を見てくれている。 なのにどうして俺は……。 「お前がヘタレだからだ」 はっきり言うな、早川よ。 「結局一生責任持つのが怖いんだろ?お前。自分基準過ぎるんだよ。幸せなんか主観だろ」 「……じゃあお前、幸せか?嫁さんもそうだって自信もって言えるか?」 「知るか」 「なんだよそれ」 「俺は幸せだからいいんだよ。だから今度はあいつを……マナが幸せだって思えるように 頑張るんだよ、俺は」 俺は幸せだから。 だから、今度は――。 「早川……お前男前だな。マナちゃんが惚れるわけだわ。俺でも惚れる」 「気持ち悪りいわ。昔の誰かさんには負ける」 確かに。ヘタレで女々しくて今の俺は自分でも嫌んなる。 その時。 「はいこちら○○建宅……もしもし?……ええっ!?」 女子社員が取った電話の様子に周りの視線が集まる。ただならぬ空気に自然と緊迫感が 高まっていき何故か胸騒ぎがした。 「あ、あの八神さん。今高速道路で……」 足元でカップの割れる音がした。 車に乗り込んだ途端携帯が鳴った。 「りっちゃん!?」 こちらへかけ直すように言って事務所を飛び出した。本当は危ないのだけれどそんな事は 今はどうでもいい。運転しながら心臓はバクバクしている。 「うん……うん。わかった。何かわかったらまたかけて」 携帯を切ってから、とりあえず会社を飛び出しはしたものの、どうしようと思いながら先ずは 自宅へ向かう。 慌てた声で会社へ掛かってきた電話は香子がお世話になっている家のりっちゃんという子で、 同い年の幼なじみだ。突然の知らせは一瞬にして俺の目の前を真っ暗にした。 香子が乗ったはずの高速バスが先程途中で事故にあったものらしいというのだった。 向こうでは速報が流れたらしい。 『いきなり行って驚かしてやるんだ』 そう言って家を出たそうだ。 ――俺に会いに来るために。 夏休みになったら行っていいか、とは聞かれていたが、休みが取れないとか何とか はぐらかして返事を濁してしまっていたのだ。それにきっと痺れを切らしてしまっていたのだろう。 カーナビをニュースに合わせてみるが、今の時間は再放送のドラマや何かで流していなかった。 念の為、香子の携帯にも掛けてみるが繋がらない。移動中だからなのか、もしくは……!? ばかな、と頭を振った。 信号待ちの車内で最後にきたメール……今朝の内容を確認して眺めた。 『会いたい。側にいきたい』 たった一言がとんでもなく重く切ないものに思えた。 会いたいのは俺もなのに。 側にいたいのは俺だって同じなのに。 何故それをたった一言言ってやれなかったのだろう。 ちゃんとそれを伝えておけば良かったと思った。きっと不安で不安でたまらなかったのだろう。 簡単な事だったのにと激しく後悔している。 守るなんて言いながら守られてきたのは実は俺の方だ。 香子がいるから1人で生きているんじゃないと思えて、支えていてくれたから立っていられた。 アパートの階段をその足で昇りながら、一刻も早くその安否を確かめようと現場へ向かう 決意をした俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。 ドアの前に置かれた見覚えのあるバッグ。 しゃがみ込んだ人影は俺の姿を見ると立ち上がった。 「あ、お帰り」 「…………」 「予定より早い便に乗れたから早く着き過ぎちゃって、どうしようかと思っちゃったよ。 良かった、場所合ってて」 「…………」 「いきなり来てごめんね。びっくりした?」 「…………ああ」 「……怒ってる?」 それには答えず、近づくと思いっ切り抱き締めた。 「香子……!本当に香子か?お前なんだよな!?」 いきなりで驚いたのか一瞬怯んだが、すぐに自ら強くしがみついてくる。 「会いたかったの……どうしても会いたかったの!夏休みになったらだから絶対って…… いきなりごめんなさい……」 「いいよ」 どちらも泣いているようで、互いの声は震えて苦しげにぶつかった。 「いいんだよそんなの……俺だって」 会いたかった。この手で抱き締めたかった。なのに我慢して香子を苦しめ泣かせていた。 「ごめんな。本当ごめん」 隣室の人が気まずそうに通路に立ち尽くしているのに気付くまで大分掛かってしまって、互いに赤面した。 「はい、無事でした。本当にご心配かけてすみませんでした」 りっちゃんちと早川に電話を掛けて会社にも無事を伝えると、ようやく腰を下ろした。 テレビではやっと事故のニュースが流され、その内容から香子が乗るはずだったバスも 数台の玉突き事故を起こしたとかではあったが、幸いにも車は大破したが奇跡的に怪我人が 数名でた程度で済んだらしい。神様はいるのだ、と本心からほっとした。 「うっかり携帯充電忘れちゃって、連絡つかなくて……心配かけてごめんなさい」 荷物の横で申し訳なさそうに座っている体を側に行って抱き締めた。 「いや、俺がしっかりしてなかったからだ。ごめん、本当にごめん。会いたかった。だから 無事で良かったし嬉しい、ありがとうな」 「イチ君……」 「会いたかったよ。俺だって本当は会いたくて仕方がなかった。なのにお前の為とか言って 結局逃げてたんだ。世間の目とか年齢とか、色々気にし過ぎて狡い男だよ俺は……わかったよ やっと。そんなのどうだっていい。生きていればそれでいいんだよな」 そんな事は一度好きな人に先立たれてしまった時に気付くべきだったのに、なんて学習能力の ない奴なんだろうな俺は。 「休み中、居たいだけいていい。俺は仕事で構ってやれないかもしれないけど……」 「いいの?」 「うん。都合悪いの?」 「……女の人、いないんだ?」 「は?居るわけないだろうが。この部屋見りゃ解るだろうが……もしかして」 「うん。案外それで私の事避けてんのかと思ったけど、ないねこの様子じゃ」 部屋は今朝急いでて敷きっぱなしの布団、とりあえずまとめたコンビニ袋のゴミ、乾いた まま畳まずの洗濯物の山。仕方ないなあとそれらを片付けだす。 「んっとに駄目なんだから!……私がいないと」 そうかもしれない。確かに香子がいないと単なるダメ男だ。……いや、元々か。 「ごめ」 「イチ君て謝ってばっかりだよねぇ」 「……」 あと何万回のごめんなさいを俺はこのコに言うんだろう。そして何万回のありがとうを 言うことが出来るのだろう。 「香子」 布団の上で座って洗濯物を片付けていた香子に顔だけ近づけて口づけ、それから肩を 掴んで抱き寄せるようにして押し倒した。 顔を離すと一瞬驚いたように俺を見たが、また強く押し当てた唇からねじ込んだ舌の動きに 従ってしがみつきながら声を漏らした。 何度も何度も離しては繰り返し久々のキスを味わうと、唇の端から引いた透明な糸を拭う のもそこそこにたくし上げたTシャツから覗く胸に目を奪われる。 背中のホックを外してブラを押し上げて顔を埋め頬をすり寄せた。 「イチ君……?」 そのまま動かなくなった俺に戸惑って声を掛けてきたが、じっと静かに胸に耳を押し当てた まま黙っていた。 心臓の規則正しい音が聞こえる。はだけた白い膨らみが微かに上下して震えているのがわかる。 生きてる。 間違いなく今俺が抱いている……いや、抱かれているのはこっちかもしれない。だけど、 この確実に感じる事のできる温もりを、今度こそ絶対に失いたくないと思った。 「何ももう考えない。香子ももう何も心配しなくていい。俺はもうお前を離したくはないから」 「……本当?ほんとうに」 「ああ。これ以上我が儘言ったらばちが当たるよ」 生きてるだけでいいじゃないか、大事な人が側にいたいと願ってくれる、だったら何も いらない。恥じるような関係じゃない筈だ、俺達は。 「何度でも言う。好きだ。いつからかはわからない。けど、守りたい気持ちに変わりはないよ。 香子を愛してる」 「……うん。うん、私も、イチ君じゃなきゃダメなんだよ。寂しかったよ。会いたくて 会えなくてこんなに辛くなるなんて……」 愛おしいその泣き顔にまたキスを落とすと、露わにしたままの胸を揉みしだいた。 「あ……」 すぐに堅く尖った先を指で摘んで転がすと甘い声が上がり始める。 「だ、だめ。まだ明るい……のに。声、聞こえ、ちゃ……ああっ!?」 「構わないよ」 指を離して唇を充ててそれを含んだ。更に乱れる声がする。 そこにいる証を俺に見せて。 頭のどこかで冷静にそういう事を考えながらも、実際は俺の体はせっかちで、早く香子に 挿れたい、繋がりたいとうずうずしていた。 まだ経験の浅すぎる俺達には早急過ぎると思いつつも、少しぺたんと広がった胸を味わい ながら片手はジーンズのファスナーを下ろす仕事に掛かっている。 俺はこういう面白みのない奴なので、あまり女の子と付き合った事がない。だから セックスもほとんど経験は無いのだ。大体すぐに振られてしまうか自然消滅で、長続きも しなかった。 なので、この前の香子との事も仕入れた知識をフルに使って頑張りはしたが、あまり 上手くはないんじゃないかと不安になる。経験のないコだから受け入れては貰えたけど……。 焦るな、と思いながらも我慢が効かなくなってきて、ジーンズそのものを脱がしに掛かった。 クーラーは付けているものの昼間の部屋でこんな事をしてるのはやはり暑くて、じんわり 汗ばんだ躰にぴたりとしたパンツは張りついて剥ぎ取るのに苦労する。 ようやく足から引き抜いたジーンズを放り投げ脚の間に体を割り込ませると、これまでにない 苛立ちでネクタイを外し、Yシャツのボタンを外しながら覆い被さる。 「だめ」 肩を押されて顔を背けられてしまった。 「嫌?」 目を伏せるとううん、と頷いて黙ってしまう。 「じゃ、なに?」 「……明るすぎて恥ずかしいから。閉めてよ」 言われてはっと気が付いた。慌ててカーテンを閉めに行き、そのまま思い出して引き出しを 探る。 (まだ大丈夫だよなぁ……) あれ以来使用していないままのゴムを確認して手に取り戻る。 頬に触れてきた手を握り返してシーツに押し付けながら、横たえた躰を合わせ首筋に這わせた 舌に喘ぐ声に酔い、離した手を下腹部に回した。 はやる気持ちを精一杯抑えながら貼り付いた下着を指でなぞって弄ぶと、その動きにそって 俺の脚に香子の脚がごそごそと絡み付く。 「んん……あっ」 半開きになった唇から零れる声が徐々に高くなる。下着の上から手を差し込むとそれは 小さな悲鳴となった。 「やっ……だめ。そこ、あっ……!」 指先に絡み付く濡れた感触に思わずほっと息を吐く。俺の愛撫に満足いくものかどうか 正直好きに触りながらもドキドキしていた。 「もっと開いてくれなきゃ触れないだろ?」 「だめ。だって」 「仕方ないなあ」 力を入れて開かないように閉じようとしている膝の間に、俺の脚をねじ込んで止める。 「諦めろ」 「んーっ……いやぁ……」 耳元で力を抜くように呟きながら指を動かすと、初めは多少の言葉の抵抗が感じられたものの 仰け反る背中の動きと共に膝の力も抜けていく。 入口を探り当て中指に侵入させつつ親指を堅い蕾に当てると、両の刺激で言葉にならない 声を出し俺の肩にしがみつく香子の力に事後の爪跡を思い浮かべながら、もう自身の 待ちきれないという要求を抑えられなくなってきていた。 「香子……もう」 虚ろな目で俺を見上げながら頷く。その半開きの唇に長いキスをしながら気持ちを少し 落ち着かせ、枕元のゴムを手に離れた。 焦る気持ちを我慢しながらもたもたと準備を終わらせて香子の下着に手を掛けるが、 それすらも待ちきれなくて引っ掛けた指を外す。 「ごめん」 「えっ?……ひゃっ!?」 下着を脱がさずずらしただけでソレをあてがうと、自分も膝までズボンを下ろしただけと いう格好で繋がった。 もう僅かでも待てない。 「んん……」 まだ経験の浅い香子には久々という事もあってか、準備はできてる筈なのに苦痛の表情 が見られる。 「痛い……よな?」 やっぱり急ぎすぎたか。もっと優しくしてやらなきゃと多少落ち着いた頭で考えて、 無理に動くのをやめた。 「今更何だけど、無理だとか本当に嫌ならちゃんと言えよ?これから先だってあるんだからさ」 「これから……?」 「ん。お前としかやらないよ」 「信じていい?ほんとに?」 「うん」 他の誰とも結婚はしないと誓った。最初はあの人にだったのに、いつの間にかそれは 香子に対する自分自身への縛りになっていた。 知らないうちにただそれだけを想って――。 「じゃ、ちゃんとイって」 「え?」 「私大丈夫だから……最後までしていいよ。その代わり、離したりしないで」 「わかった」 離すもんか、絶対に。 できるだけゆっくり出し入れするうちに、香子の眉間に寄っていた皺が消えて、少しずつ 甘い声が漏れ始める。 「痛くない?」 「んん……少し、でも大丈夫だよ……」 赤く色づいた頬や中途半端に身に付けた着衣が却っていやらしくて、腕を伸ばして 見下ろしながら動くとすぐイきそうになって、何度も堪えながらまた動く。 「いいよ、凄く……我慢したかいがあった」 「……自分のより?」 「全然違うよ、ばぁか」 それに満足したのか、嬉しそうに肩に乗せてきた腕を引き寄せようとしたのに応えて 重くならないように気を遣いながら肌を合わせた。 それからあっさりと果ててしまって、背中が汗で貼り付いてしまったYシャツを脱ぎ捨てて 香子を抱き締めながら横になった。 「卒業したらこっち来ちゃだめ?」 「えっ?」 「また一緒に暮らしたい。ここなら、私達の事だってどうこういう人もいないでしょ?」 ここなら。新しい場所で1から……。 「ここはだめだよ」 「…………そう」 胸に顔を埋めて静かになった香子に気付いて慌てて話し掛ける。 「あ、違う、違うぞ!そういう意味じゃなくて。俺の稼ぎじゃもっとボロくなるけど」 きょとんとして上げた顔を見ながら、それが面白可愛くて吹き出したくなるのを堪えて喋る。 「もう一部屋はないと無理じゃん。だからそれでもいいなら一緒に暮らそう?」 「……本当?」 「うん。だから、今度こそちゃんと家族になろう。もっと先でもいいからさ、待つよ」 「……いいよ、待たなくて。春までだって永いよ」 絡めた指にキスをすると、今度は向こうから同じようにそれを返してくる。それから互いの 頬に、唇に。 幸せな甘い気分に浸りながら考えた。 このぶんじゃ、家族があっという間に増えるんじゃないだろうか……? それはそれで楽しみだが。 早川の気持ちがわかる気がした。 香子は夏休みギリギリまで俺の所にいる事になった。 殺風景だった部屋に少しずつ小物が増えていき、2本並んだ歯ブラシや洗顔料なんかが 並んでいくのを見ていると、彼女が出来た男の部屋というのはこういうもんかとウキウキした。 次は冬休みにまた来ると決めて今からその日を指折り数えていると、まだ帰るまで あるだろうがと早川にバカにされた。ほっといてくれや。 それまでに秋に連休があるので、俺からもりっちゃんちに挨拶がてら会いにいこうと思う。 その時にはきちんと話しておくつもりだ。もしかしたら何か思われるかもしれないが、 良い方達なので多分解って下さるんじゃないかと信じている。 自分達がちゃんとしていれば恥じる事はないのだ。 春になったら卒業式にはちゃんと行こうと決めている。そして、彼女を迎えに。 地元へ帰ってしまう日があと数日にせまった夕暮れ、俺は灯りの点いた部屋へ帰り着いた。 「ただいま」 「お帰り。ちょっと遅かった?」 「うん。寄り道してた、ごめん」 部屋に上がると床に座って、香子においでおいでする。 「なにー?」 「いいから。手出してみ?」 ポケットからそれを出す。今の俺にはこれが限度だけど……あの頃と大して変わりはしないが。 「違う、そっちじゃなくてこっちの……そう、そっちの指な」 以前香子にねだられた物はこっちに来るとき処分してしまった。 あれは、あの人のために買った物だから。その時の想いばかりが詰まった物だから……。 そんな物を香子に渡すわけにはいかない。俺の言葉が足りなくて、酷く傷つけてしまった 事はずっと後悔していた。 香子への気持ちを認めた時に、それはもう思い出となってしまっていた事を同時に認めたのだ。 あの雪の日に始まった出来事がこんな結末を迎えるなんて、誰が予想できただろうか。 背中に背負ったあの時の命を今はこの腕に抱き締めながら、降り積もってきたあれからの 悲しみや切なさが少しずつ解けて流れ行くのを感じながら想う。 きょう子さん。 あなたを忘れてしまったように、香子が僕を忘れてしまう事が本当は怖かった。そして 香子を愛したことであなたを裏切ってしまった気もした。 あの時あなたを一生愛しますからと誓った事が嘘になる、それは罪だと。 だけど形は変わっても約束は守り抜くつもりです。僕の気持ちは変わってしまったけれど、 あなたに対する感謝の心は生きています。 香子を大事にします。守ります。それは決して裏切りません、約束します。 あなたが彼女に与えようとした愛情を、その分僕が注ぎます。幸せにしたいと思います。 僕は今幸せだから……。 だから香子を――僕に下さい。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |