シチュエーション
のそのそとした気配を感じて振り向くと、パジャマの襟元に手を突っ込み首筋をボリボリ掻いて佇む おっさ……男がひとり。 「うわぁぁ!びっくりした。ちょっとあんた、それやめてって言ってるじゃん」 「んー……」 気の抜けた返事で向かった洗面所から髭剃りの音が聞こえて来るのを確認すると、ほーっと胸を 押さえて息を吐く。 っとにもう、いつになったらやめてくれるんだろ、あれ。『俺は朝は弱いんだ』っつうけどさ、それは あたしも同じなんですけどね。ただでさえ人相悪い上に心臓にも悪い。個人的にだけど。 「今日の味噌汁どう?」 「……茄子のはあんまし好きじゃない」 「ああそう」 志郎のお椀から麩を残して茄子を引き上げ、自分の方へ移す。 「なに?」 「……別に」 それだけ言うと黙々とお弁当の残りの玉子焼きを口に運ぶ。と、一口食べて変な顔をした。 「……これお前の」 箸をつける前のあたしの小皿をそれと取り替えてやる。 食べかけの玉子焼きを口に放り込むあたしを見ながら、志郎も新しい皿に箸を伸ばす。 「今夜、何?」 「何か食べたいもんある?」 ん、と暫く考えた後 「揚げ物がいい。エビとかカツとか」 と玉子を頬張った。 お弁当を渡すと、靴を履いて背を向ける。志郎が出て行った後はまた鍵を掛けるので、あたしも一緒に 玄関に立つ。 「んじゃ」 「ん」 何となく素っ気ない言葉を交わし、ドアのノブに手を掛けたその状態で突然に、本当に突然だった。 志郎の唇が軽く、けれど確実にあたしの唇に触れた。 「……!?」 離れた瞬間、びっくりして思わず指で口元を抑えた。どくんと胸が鳴り、それが治まらないうちに 志郎の大きな手のひらがあたしの頭を胸元に引き寄せる。 「な……に?」 ふっと見上げてみた顔は困ったような目をしてあたしを見下ろすと、また軽く唇をぶつけ合わせて体を離す。 そしていつもの仏頂面を引っさげて部屋を出て行くのだ。 今日もそれを見送ってから、重い扉の鍵を閉める音をこの耳で確かめる。 *** 「今日のお弁当なーに?」 パートの少し年上の主婦から声が掛かる。 「毎日マメよねぇ〜。やっぱり結婚って女を変えるわね」 「えーそんなんじゃないですって!それにまだ独身ですし」 「似たようなもんじゃない」 あたしと入れ違いに昼休みを終えた彼女は、笑いながらロッカールームを出て行く。 志郎といわゆる「婚約による同棲」を始めてから、あたしは一端この書店での職を退いた。 土日祝休みの彼と販売業のあたしじゃ、休みが全く合わない。だからいわゆる寿退社という事になったんだが、 どうしても人手、それも商品の入る平日入れる者が欲しいと言う店長に頼み込まれ、パートという形で 再就職したわけなのだ。 小さなテーブルにお弁当を広げてお茶を淹れる。 これまでは昼は専ら側の弁当屋やコンビニで済ませてしまっていた。だけど志郎と暮らすようになってから、 節約の意味もあって弁当を作るようになった。だからああいった冷やかしもちょいちょい聞かれる。 志郎の方はどうなんだろうか。 一応「婚約」した事は周囲も知ってる筈だ。けど弁当を毎日となると、同棲してる事実も既にばれて いるに違いない。見てみぬ振りなのか、大っぴらに冷やかされたりはしないだろうか。 どんな顔で食べてるんだろうかと、毎日あたしの作るご飯を好き嫌いという「意見」以外の「感想」を もらさない仏頂面を思い浮かべて冷めた肉じゃがをつまむ。 二人分だけの炊事は結構量の調整が難しく、余るのが勿体無い。あたし一人の時は何日か同じ物を口にしても 平気だったが今はそうもいかないし、諸々の資金繰りのための節約にもと毎日弁当持ちにする事にした。 するとそれを見た志郎が自分もそうしてくれと言ったのだ。 お陰であたしは、あいつの好きな甘いのと自分好みの塩味の効いた二種類の玉子焼きを作らなきゃ ならなくなったわけだ。正直、面倒くさい。 空腹は最高の調味料というけれど、何だろう、なんか物足りない。 お浸しが甘過ぎた?ああ、でも志郎にはちょうどいいかもな。このウインナー失敗かも。やっぱりいつもの メーカーに戻そうか。それとも……? ――足りないものは何だろう。 *** なんか雨降りそう? 出勤前に干していった洗濯物を取り込んでから、夕飯の支度をしにキッチンに立つ。 帰りに立ち寄ったスーパーで買ったエビを下ごしらえする。本当は揚げ物はあまり得意じゃないし好きじゃない。 なんせ後が面倒くさい。けど、やっぱりいつも買って済ませるわけにはいかない。世の奥様はどうされて いらっしゃるのだろうか。だいたいあたしはちまちました作業に向いていないのだ。だから工場の流れ作業に ついて行けなくて、半年で辞めて今の職に就いた。元々本の虫だった上に、意外と力仕事の書店員は天職だと 自負しているあたしが、毎日このような繊細な主婦業がこなせるのであろうかと思う。 志郎はあたしの何が良くて嫁にしようと考えたのか、先日久しぶりに話をした田舎の共通の幼なじみが 首を捻るのにも、悲しいかな反論できないばかりか同意せざるをえないのがまた悲しいかな、である。 揚げ物を終えて一息つくと、さあさあと水の流れる音がする。 お風呂!沸かしておいた筈だけど、水は止めたと思ってたのに〜!! あれ。でもやっぱりちゃんと止まってる。もしや、とカーテンを開けてみれば、すっかり暗くなった 窓の外側にポタポタと雨の雫が流れて落ちてゆくのが見えた。 油の跳ねる音で気付かなかったんだ。 ふと、玄関にあった志郎の傘を思い出して少しの間躊躇った。 駅までの間にバス停が一つある。志郎は大した距離ではないからと歩くようにしているため、使った 事はない。あたしも同じ。ていうか歩くのが好き。 でも雨の中荷物抱えてうろつきながら寒さを我慢するのは、あんまり好きじゃない。あんなだったら 楽しいのかなぁと、バスを待つ相合い傘の高校生らしきカップルを見て、微笑ましく、また少し羨ましいと 昔の自分のちょっとばかり酸っぱい記憶を引き出されては想う。 高校生になってすぐの頃だった。 うっかり定期を忘れてしまって、取りに戻った間にあたしは他の子達に置いてけぼりをくってしまった。 『先に行っていいから』とは言ったものの、本当にそうなると何だか不安な気持ちになって落ち着かず、 誰も居ないバス停に一人ぽつんと佇むしかなかった。 いや、待ってと言えば待ってくれたのだろうが、トイレのお付き合いですら募らないような女だ。 だからみんなもそのノリでいたのだろうと思う。決してハブにされた事など無かったし。 しかし、だ。後から一人バスに揺られて帰ってみれば地元は雨。傘もさせずに帰れる程家までの距離は近くない。 (※この頃は携帯が無いのも珍しくはないし、なにせ田舎の距離はお隣さんですら隣と呼べるものではない) 仕方無くやむのを待っていると、向かいのバス停に反対側からのバスが着いた。 そのバスから一人降りてきた奴とばっちり目が合って、慌てて何事も無かったかのように平然を装って 時間潰しに持っていた文庫本を開いた。 雨はなかなかやまなかった。 中学を卒業してから、別々の高校に通うようになった同級生達とはこうしてバス停で会う事によって、 以前通りとまではいかないまでも交流を保つ事が出来ている。 だけど、こいつだけは苦手だ。向こうも同じなんだろう、時折こっちが気になるのかちらちらと目線を 上げようとはするものの、ベンチに腰掛けた膝の上の拳ばかり眺めていた。 あたしと同じなんだろうな、傘、持ってなさそうだし。じゃなきゃわざわざウマの合わない相手と 道路を挟んでとは言え、二人きりという状況ほど苦痛なものはない。 「お、秋穂じゃん」 ちょうど通りがかった同級生の男が見かねて傘を貸してくれた。彼は同じ高校に進んだ奴で、気心も 知れていたので甘えておいた。 だってあの時、向かいのバス停の男はそいつに向かって 『俺はただ暇を潰してただけだ』 そう言って折り畳みの傘を取り出し、あたしに傘を貸してくれた同級生を誘って一緒に行っちゃったから。 変な奴だと思ってた。 ――それは今でも時々思うんだけど。 駅には突然の雨に立ち往生している人も少なくなかった。タクシー乗り場には長蛇の列が出来ており、 朝とは違うラッシュ時の混乱を味わっていると、ふいに肩をぽんと叩かれた。 「ぎゃあ!」 「お前な……もっとましな反応せんか!誤解されんだろうが!!」 「だっ……何よいきなり叩くからー!声くらい掛けなさいよあんたこそ。ったく……」 いつもそうなんだから。なんのために口付いてんだあんた。 「ブスッとすんな。余計ブスになるぞ」 「るさい。だったら帰る!」 ばーか!と言い捨てて傘をさそうとして、ひょいと取られた。 「あっ!何すんのあんた!?」 「さすんだ。俺の方が背が高い」 「返して」 「ならもう一つよこせ。つか何をしに来たんだお前は」 そこで気が付く。自分の傘忘れた! 「イノシシみたいな女だな。突進する事しか頭にねえ」 くっくっと肩を震わせながら、あたしの肩をぐいと抱き寄せる。 「行くぞ」 濡れんなよ、と言われた途端に首筋に雫がとんで悲鳴をあげかけた。 慌ててしがみついた腕は自然に志郎の腰にまわり、あたし達は嫌でもぴったり寄り添って歩くはめになった。 静かに、けれど確実に体を冷やしてゆく雨の中をくっつき気味に歩けば、抱かれた肩と触れ合う腰や 脇腹が妙に暖かい。 それに慣れてきた頃やっと見えてきたアパートの前で、突然志郎が足を止めた。 肩を抱いたままあたしの顔を覗き込み視界を遮ると、えっと思う間もなく柔らかい唇が重なる。……こんな所で。 「待てなかった」 鼻がぶつかったままでぽつんと呟くと、軽く二、三度唇を啄んで、再びそっと長く触れ合う。 玄関の前で傘を畳み、軽く振って滴を落とす。 「今度から置き傘するか、折り畳み持って行きなよ」 注意を促したつもりが、志郎は 「とっくに持ってる」 と鞄を指差す。 「はぁ!?」 じゃあ出せよ!! 「お前聞かなかっただろ?」 呆然と立ち尽くすあたしを置いて、笑いを堪えられないといった様子で肩を震わせながら風呂に消えた。 「……む、むかつくー!!」 同時にお腹がぐ〜っと鳴った。くそう、腹が減っては何とやら、どうにか奴を辱めてやる術は無いもんかと、 沸騰しそうな頭を抱えながら夕飯の支度にかかる事にした。 *** 冷えたんだから、ゆっくり温まりゃいいのに。 普段の半分の時間で入浴してきたかと思うと、黙々と食事をかっ込んでいく。そんなに腹が減っとるのか? いや、それはいいんだけどね。でもさ……。 あっという間に空になったお皿を自分で流しに運ぶと、さっさと洗い物を始めた。 「食ったらすぐ風呂入れ。……ああ、いい、俺がやる」 ツられてばくばく食べてしまったあたしの食器もさっさと下げられてしまった。 何だか知らないが、せっかくなのであたしもさっさとお風呂をいただく事にした。普段は片付けをして いわゆる腹ごなしをしてから入るので、今日はちと体が重い。 湯船に浸かりながら明日のお弁当の中味を考えているうちに、ふっと胸の中に生じた隙間に気づいて なんとなく目を擦る。 今日のご飯、味わかんなかったなぁ……。 ――いいオトナが何やってるんだろう。 それで、こんな女の何がいいと思うんだろう。 「長かったな。のぼせてんのかと思った」 はあ、本当にそうなりかけましたが何か? 普段寝室に使っている部屋に入ると、既に布団が敷かれてあって、その上で志郎が洗濯物を畳み終えた所だった。 なんか至れり尽くせりじゃない?今日。でも何だか腑に落ちない。なんだろう。 並べて敷いてあるシングルの片方に横になっていると、部屋の灯りが落ちた。程なくして背中に温かい 感触があり、胸元に腕が廻されてくる。 「……秋穂」 低い声で耳打ちされると同時にくるりと躰が向きを変え、目の前にあったものが白い壁から、木目調の クロスの貼られた天井。そして――、 「……お前、どうした?」 キスしようとして、あたしを見下ろし戸惑う志郎の顔。 「何だよ。何で泣くんだよ……お前」 胸の奥から噴き出る疑問や、痛みや、締め付けられて言葉に出来ない複雑な想いが代わりにしょっぱい 雫となって頬に流れた。 「何だ。秋穂、何があった」 何って。 「わからない」 わからないのよ、あたしにも。だから、だから……。 「わからない。何もかも。色んな事がわからないの」 「色んなって何が?」 「色々」 生活とか、結婚とか、これからの人生の事。いずれあたしは志郎の妻になるという。望めば子供を産む 事だってあるのだろう。 何だか半分他人の事のように、少しばかり醒めた目で自分を眺める自分がいる。 「お前は俺が嫌いだと言ったな?」 「うん、言ったね」 大嫌いと言った。他の誰を好きになっても、こいつを好きになる日は来ないとずっと思っていた。 「それは今でも同じか?……後悔してるのか、お前は」 「……っ」 ふるふると首を振る。 違う、そうじゃない。 「なら、何だ」 「……何であたしなの?」 甘い玉子焼きはあたしじゃなくたって作れる。 茄子の味噌汁なんか飲めなくても良くて、毎日の献立にだめ出しをしなくても満足できる、そんな女。 多分あんたなら他にも見つかる。 「じゃあ逆に聞く。お前はどうなんだ。なぜ俺だ」 なんで? なんであたしは志郎なんだろう? 「俺と同じじゃないのか?お前は」 ああ、前にも聞いたなこの台詞。 あたしがこいつのモノになってしまった日だったかな。 「……お前が居ないと寝心地が良くない。調子が狂う。たまに面白い。今日みたいな事されると特に、な。 だから逃がすのは惜しい。だが今みたいに泣かれると正直面倒だ」 「ああそう」 ごめんね。あたしは面倒な女だよ。自分でもそう思うわ。 「だから二度と傷つけないとか前に言ったけど、それでも泣かせてやりたいとか思ったり……ああもう、くそっ!!」 「ぎゃっ!?」 いきなり重い躰を重ねて預けてきたので色気のかけらもない声が出てしまった。 「し……」 「要するに、だ。回りくどい理由は無い。苦手だ。というわけで直接聞いて貰う事にする」 「何を……」 ええと、それはもしかしてもしかしますかね? 「……ヤらせろ」 これで何度目かしら。 必ずと言っていい程、あたしの不満や不安はこうして唇ごとこいつに吸い尽くされていく。 乗っかっていた志郎の重さがふっと消えて、かわりに唇が何度も何度も触れては離れる。 「……すぐごまかす」 違うんだって。あたしが欲しいのはそれじゃないんだ、多分。 「そんなつもりは無い。ならどうして欲しいんだお前は」 「……志郎だったら?」 「そのまんまだ」 パジャマのボタンを黙々と外されていく。 「して欲しいというよりお前にしたい事をしてる。問題あるか?」 「……」 はだけた胸が露わになると、それを見下ろしながら自分も着ているものを脱いでいく。 「ヤりたい女としたい事してるだけだ。お前は違うのか?」 「……違わない、と思う」 多分。あたしは志郎といたいんだろうと思う。だからここにいて、こんな奴の言う事なんかに一喜一憂して 悔しがったり、泣いちゃったりするんだろう。 「素直じゃない女だな」 どっちが。 なんだ。色々と面倒くさい男じゃないか、あんただって。 両方の胸の膨らみの上に手のひらを乗せると、首筋に顔をうずめて息を吸う。 「ひゃっ」 「何だその反応は」 「だってくすぐっ……やっ」 耳たぶを軽く噛まれたあと、裏から肩にかけてゆっくりと舌を這わされた。時折ふっとかかる息が 熱くてくすぐったくて、我慢出来ずに首を竦める。 「いい声だ」 喉の奥からしぼり出される子猫のような鳴き声があがると、志郎は胸に埋めた顔をちょいと上げて、 細く鋭い目を更に細く吊り上げてにやりと笑う。 「う……バカ」 「馬鹿はどっちだ」 志郎の肩に乗せようと伸ばしたあたしの両手をがっしりと押さえつけると、何度か胸の谷間にキスをして、 その唇を僅かな力だけをかけて肌の上を滑らせた。 じりじりとじれったく仰向けの凹凸がかったあたしの躰の上を往復する志郎の唇は、もう少しで届くと いう所で差し出しかけた舌先を引っ込め、痛いくらいにその存在を主張する丘の頂の側を掠めて無視をする。 何度となく繰り返し躰の中心から一番高い場所へと往復される唇からのものに重なって、あたしの唇から こぼれる荒い息が少しずつ深く大きくなっていくのがわかる。ちょっと耳障りなくらい。 もう少し、という所まで志郎の舌の感触がした時、我慢出来ずに背中を反らせて胸を突き出した。 「……ん?」 僅かに顔を浮かせると、すっとぼけた様子で動きを止めた。 「……っ」 火照った躰に急かされじっと見据えて訴えたつもりの視線を、何食わぬ顔で迎え撃たれて、羞恥を 感じずにいられなくなり唇をくっと噛んだ。 「何だ?」 質問を浴びせておいて、その目は明らかに笑みを浮かべてぴくぴくと微かに震える胸先のモノの様子と、 躊躇いながらそれを見下ろすあたしの顔とを交互に見比べ意地悪に歪む。 くそう、むかつく!! 「……も、いいっ……」 ぷいと顔を背けて目を瞑った。 目尻に湧いてくるものに気付いて、そうはさせじとぎゅっと力をこめて溢れるのを堪えようとする。 「秋穂」 聞こえないふりをした。 「俺を見ろ」 それも知らん振りを装った。 「見ろと言ってる」 ぐいっと無理やり顔を向けられた。 「ぎゃっ!?くび、首痛っ!!」 「イかれたくなきゃ言う事聞け馬鹿」 馬鹿馬鹿って、口を開けばそればっかり。あんまり言うと本当になるだろうが、どうしてくれる。 つか逆に馬と鹿に失礼じゃないのか?謝れ、奈良県民と田舎の親戚んちの太郎(♂)に謝れ!! 「可愛くない奴だな」 ため息をついて頬をゴシゴシと擦られ、濡れた跡がなんかひんやりする。お陰で掴まれた手は自由に なったけど。 「悪かったねー……だ」 ふん、と呆れて見下ろしてくる顔から目を逸らした。 だから嫌なのよ。元々地球の南と北程寄り合う事の無かった距離感だったあたし達が、ある日突然 男女の仲になったからと言っていきなりそういう空気を醸し出せるかと言われれば正直無理だ。 元々『女の子らしさ』というジャンルからかけ離れ、色んな意味で鈍臭い青春を送ってきたあたしが、 男がいるというだけで可愛い生き物に進化なぞ出来る筈がない。 ましてや、現在のあたし達の関係を知る人間は皆口を揃えて『何の冗談?』と言われてしまうような二人だ。 幼小中と皆横並びの田舎町での帰省時の同窓会、何度となく事実であることを確認された。 それだけあり得ない組み合わせだったわけだあたし達は。 水と油、磁石の対極。 反発こそすれ、今更素直になんてなれるわけがない。 こんな様で向かい合っていても、どうしてもどこか逃げ場を求めてしまう。 まだ、目を背けてしまう――その事実から。 「見ろと言ってる」 わかってる。本当は、そう言ってる時の苛立った声とは裏腹に、少しだけその目つきの悪さを象徴する 吊り目の端がほんの少しだけ歪むのを、本当はわかってる。気付いてるの。 だけどそれを認められない。 確かなものが本当は欲しい。 それを伝えられない自分が悔しい――。 「簡単な事だ。言え。何が欲しいかちゃんと、俺を見て、話せ。でないとわからん」 「何っ……て」 「俺は自分のしたい事してるだけだって言った筈だが?」 ああそうだ。確かにこいつは何だかんだ言ったって我慢なぞしてないように思う。 ヤりたい時にヤッて、好き勝手にあたしの気持ちを振り回して、今みたいに自分の感情をさっさと さらけ出して――。 「……」 さらけ出す? どこが? だってこいつ、肝心な事は何一つはっきり言った事が無い。 だからあたしはこんなにも不安になってるんではないの? なのに志郎は志郎であたしに素直になれと言う。可愛くない、馬鹿なんて言うクセして、俺を見ろ とあたしの心も躰も締め付ける。 優しくない。 素直じゃないのはそっちじゃないか。言わなきゃわかんないのはあたしの方だ、俺様バカ野郎。 「言わないならヤるぞ」 何も言い返す間を与えずに唇を塞がれた。 乱暴な言い方とは裏腹に、こいつのくれるキスはいつも優しい。そう、キスだけは。 ……ううん、そうじゃない。 本当はそんな事はない。力強く引き下げられるパジャマのズボンが布団の側に吹っ飛ばされても、 そのあとを撫で上げてくる男っぽい手のひらの動きは、とても優しく、暖かでじんわりと爪先まで感じる。 少し乱暴に、ぐいぐいと両手を使って揉みほぐすように掴まれる胸の先に吸い付く唇は、ぽつんと 主張する蕾の周りを啄んで朱く痛みを伴う痕が付くほど暴れておいて、いざそこに食らいつけば、弱々しい 泣き声をあげて身を捩りたくなる程じれったき舌先の悪戯をする。 「……ん」 ふっと自然に吐いているだけと思われる息が掛かるだけで、何気ない声がもれてしまう。それ程に 間近にあるというのに、さっきから舐め回すように眺められるだけで、最初に軽く触れただけの舌が、 微かに開いた口元から見え隠れしながら頬を緩める志郎を憎らしく思う。 「触られたいのか」 「……なっ」 お腹の上に乗せられた両手が肌を滑って、膨らみ盛り上がる乳房の付け根をくっと押し上げて止まる。 「ここで止めるなら、何とか俺も我慢出来ん事もないが?……お前は平気なんだな?」 「なん……あたしぃ!?」 何よ、ヤりたいのはそっちのほうじゃん。いつだってそうだ。あたしが何をどんな風に考えて、どれだけ 悩んで落ち込んで耽って沈んで這い上がっているか、気にしてくれた事があるんだろうか。――あんたのために。 でも、優しい言葉ひとつかけず、掛けられず、それは本当はお互い様なんだろうとは思う。思うのに 何も言えない、訊けない。多分、こわい。 「……っ!!」 「こっちは素直なのにな……?」 片手がいきなり両脚の間に落ちて、ぬるりと滑る窄みを撫でる。 「やぁっ……」 わけもわからないうちに、嵌っていってしまうのが、 「俺が嫌いか?」 「……っ、や……」 ――怖い。 ふるふると頭を振って、ぎゅっと目を瞑る。 だけどもその先がどうしても口に出来ない。 「どうして欲しいんだ。秋穂、俺に何が言いたい?」 「何っ……て、やぁ、ぁぁ……」 ずぶずぶ、と滑りを帯びた指があたしの中に入り込んで、つうっと壁を擦り始めた。 「俺はエスパーじゃない、だから、お前の腹ン中まではわからん。だが、お前が俺を拒絶しない事だけはわかる」 少し乱暴に胸を揉まれ、ツンツンと尖った先にやっと食らいつく。くわえたまま軽く顔をもたげると、 そっちの膨らみだけが重力に逆らって上にひょいと引っ張られ、唇からこぼされるとふるんと揺れ落ちる。 「良いんだろ?」 言うや否やねっとりとした動きの舌にぐるりと先を舐め回されて、拒絶するも何も、躰が跳ねて 無意識に背中を反らせて喘いでしまう。 うわぁ、これじゃあ誘ってるみたいじゃん!なのに……押しのけてやるつもりで志郎の頭に向けた手は、 逆に一番イイ所に勝手に引き寄せ抱き締めて、まるきり愛でてしまっているようで、 「やっぱりカラダに訊くのが一番だな」 「ん、やぁっ……」 ――く、悔しいっ!! 「意地張りやがって、正直なのは下の口だけか」 「……ちょっと!?」 くっ、と中を弄られ、ぐちゅぐちゅと掻き回す指が一点を捕らえた。 「ひゃ、あ、ふぁ、あぁっ!?や、やぁぁっ、んぁ」 このエロ親父、バカ、新聞のポルノ小説かよ――などと頭の中に次々と罵声が浮かぶものの、それを 投げつけてやる前にあたしの方が砕けた。 「声でけぇよ」 「!!……っじゃあ、やめりゃいいじ……あぁぁ!?」 「悪いとは言ってない」 ニヤニヤと胸の上に頬を寄せながら、乳を枕に楽しんでやがる。 「止めるか?」 「……え」 ちゅるりと滑った音を立てて、あたしの中が静かになった。 「こんな状態のまま放置か。可哀想だな、お前の子宮。そうかそうか」 「はっあ〜!?」 なんじゃその言い草!?ていうかなんであんたはそう一々親父臭いのか。一体何で学んで来たんだ? 「この……色情教師……!!」 「ほう、そうくるか。生意気な生徒だな」 「誰が生……きゃっ、何!?何すん」 「黙れ。指導中だ」 体をずらすと、あっという間にあたしの足下まで下がっていく。 「いやぁ!?」 両脚首を掴むと、思いっきり開かされた。 「やだ、バカ離して、何すんの!」 「煩い。減るもんじゃなし」 そういう問題じゃない!何の心の準備も無しになんつう事を、ちょっとこら、じっくり見んな!! 「やだぁ……お願い」 間接照明だけのうす暗い部屋でぼんやりと映るだけでも、そんなモノをじっくりと眺められるなんて イヤだ。それも、一番目を背けられては心が痛み続けた相手に……。 「……お前、俺の子産む気あるか?」 「はい?……いや、あ……っと」 一瞬混乱しかけたけど、黙って頷いた。何となくそれは自然な流れのように思えたから。つうかヤダ、 こんな格好で何言わすか! 「だったら文句言うな。医者に見せられるもんがなんで俺に見せらんないんだてめぇは」 「なっ何それっ?そういう問題じゃ」 「刃向かう気か?ほう、いい度胸だな」 片手を離すと、自由になった片足は布団の上にぱたんと落ちた。 だが、すぐに解放されるとホッとしたあたしの思惑は見事に外れた。 「……や、ゃぁあ、やぁんっ」 内腿を両手でがっしりと抑えられ、ねじ込んできた頭のせいで開かれた脚が閉じられない。 その中心にじゅるじゅると生暖かい肉の蠢く熱と共に、どんどん高みへと押し上げられてく痺れが 背中を伝って天辺までを駆け巡った。 「きゃ……あ……や……やだ、そんなとこだ……めぇ、し……ろ」 じくじくと絞り取られるように、有り得ない場所にある志郎の舌に吸い転がされて、気持ちは引いて いるつもりの腰の動きが実は真逆に向かっているのが、お尻の下のシーツの感触でぼんやりわかる。 「尻浮いてる」 「ひぁ……う……う……」 ぷっと吹いたのがわかったもんで、恥ずかしさに顔を覆った。つか、ひ、人の股の間でなんつう事を。 「酷……」 うわ、涙出てきた。やだ、こんな状態で泣きたくない。素っ裸でよりによってこんな体勢の時に、まじ勘弁。 「お前という奴は……」 あーそうくるか。ああヒけよ、ヒいてくれよ、って誰のせいでしょうかね?ああ!? 「えと、あー……」 体を起こしてあたしの顔の上を覗き込める高さまで這ってくる。 「……っ、ひっ」 ほんの少し柔らかくなった吊り目を見て、途端に涙がぼろぼろ零れた。 普段偉そうな俺様のくせして、あたしが本気でキレて凹んでしまうとそれは影も形も失くなって、 今のように困ったような瞳をして優しい力であたしの頬を拭い、髪を梳く。 正直、こいつの日頃の態度は目に余る、むかつく。でもこんな風にされるのはちょっと嫌。だって、 何だか不利な気がするの。泣いたら負ける、だけど、惚れ込んだりしたらもっと負け――。 志郎の中に取り込まれて、逃げらんなくなるのが怖い。 「秋穂」 目を瞑っておでこを合わせる。 「お前、知らないだろう」 「……なに?」 「俺が考えてる事、想う事、何も知らないだろう?お前は」 「な……わかるわけないじゃん!ばか、そっちこそ、言わなきゃ……」 あ、そっか、それだ。 「そうか」 顔を少し上げ、鼻をぶつけて呟く。 「……なら、これでわからんか?」 あたしの右手を掴むと、自らのソレに導いた。 もうがちがちに堅くなったそれは、少し力を入れて握るとピクッと震えて、上を向いた口からは既に ぬらぬらした液を漏らし始めていて、すっと動かした手のひらの中につるりと滑った。 「うわぁ」 「おい。引くなよ、てめぇ……」 いや、別にそこまでは。ていうか、まともに初めて触った。 思い切って包んだモノを手のひらで上下に揺すると、あ、と小さな呻き声をあげて慌てて腰を引いた。 不思議に思って手を離すと、眺めた手のひらはネバっと濡れて変な感じがする。 「俺がイきたいのはこれで、だ」 「あ……うぅんっ」 再びくっとあたしの中に指を差し込んで、ゆっくりと出し入れする。 「お前は責任取ると言った以上、もう俺のだ。その逆も……そのつもりだと思え」 「は……あっ……はぁ……あぁぁ……」 散々舐め尽くした筈のものを引き抜いた指で押し転がす。 「やぁぁ……っ!!」 目の前が真っ白になる。 「お前は俺がいらないのか?」 「なんでそん……あぁっ!?」 口の中がからからに渇いて、喉が痛い程仰け反った首筋に緊張が走る。意識が全部、志郎の動きに 向かってしまい、脚に力が入らない。 「挿れたい、俺は。でもお前は俺が欲しくないのか?」 「し……」 くちゅりと滴る雫がお尻のほうに伝ってくるのが、冷たくくすぐったい。たまらず腰を捩ると、膝を 使って脚をぐっと広げられた。 「きゃ……あ、いや」 「言えよ。欲しいって」 膝が震えて、限界が近付いてくる。 「楽になれ」 「は……」 言えば楽になれるのかな? イくとこまでイッちゃえば、赦してもらえる?このどうしようもない苛立ちから解放される? いや、こいつといる以上、それは無いだろうな。それでも多分あたしはここを離れたくなるような 事はないだろう。 「志郎……来てぇっ」 細い吊り目を更に細めて目尻を下げる。 ――満足さを浮かべたその顔を見ながら、呆気なく達してしまった。 ごそごそと動く背中をぼうっと眺める。だらんと力の入らない重い脚を開いて持ち上げるように抱え、 ぐいぐいとあたしの中に入り込んでくる。 「く……うぅ……んっ」 手持ち無沙汰な両手はそれぞれに下に敷かれたシーツを掴み、ゆさゆさと動く体にそれがずれて擦れヨレる 様を感じる。 「秋……」 「んっ……」 ゆっくり浅くゆらゆらと動きながら熱っぽい目をしてあたしを見下ろす志郎に、ちょっとだけきゅんときた。 「すげぇ滑るぞ。……くそ、生でヤりてぇな、早……く」 「んっ……?」 「名実共に俺のもんになったら覚悟しとけ。その為に働いてんだ俺は」 ぐりぐりと押し付けるように腰を回され、しゅるりと引かれて悲鳴が出た。 「や、だめっ!」 思わず腕をばたつかせて腰を掴もうと伸ばし、逆に奥まで突き返されて再度声をあげる羽目になった。 「こんな所でやめるかよ!馬鹿」 腕で体を支えながら、ぐいと開いた両脚をそのままに腰を動かしてくる。 「はぁ……あ、あん、あぅ……うっ……」 初めはあんなに痛かったのに、今じゃすんなりと志郎を受け入れてしまう。その上、泣かされる。 緩やかだった動きが徐々に速く激しくなり、小刻みに震え始めると、つられてもれるあたしの声も 揺さぶられて訳がわからない小さな叫びになっていく。 「や、しろ、しろそれ、や……あぁっ、ふぁ、ぁ、ん、やぁん」 ゴムの擦れるねちゃねちゃとした音にそれが被さると、余計に混乱して意識がぶっ飛ぶ。もう何でも どうにでもしてくれとすら思う。 「秋……穂、も、出すぞ」 「うん、う……やぁ、しろ、やあ!?」 がくがくと躰が揺れ、腰のぶつかる音が大きくなった。 一番奥に突き進まれた瞬間、志郎の呻きが耳に届き、同時にリズミカルに聞こえていたシーツのずれる 音がゆっくりと静かになっていく。 「……っ、あき、あ……」 首筋に顔を埋めて何度も名前を読んでくれる。その背中に腕を廻してぎゅっとしがみついた。 この重さを感じるのは嫌じゃない。 だから多分あたしは――。 「志郎…………き」 もしかしたら聞こえてないかもしれない、けどそれでもいい。 百年ぶんの勇気を使った気分だ。 「簡単な事だったのにな」 あたしの布団はぐちゃぐちゃになったシーツを剥ぐのに力尽きたので、志郎の方に潜り込むしか無くなった。 狭いからくっつく為に仕方無く腕枕されて、仕方無く髪を撫でて貰っていたら、志郎がぽつんと呟いた。 「何が?」 「……雨」 外はまだしとしとと弱く雨降る音がする。 「黙って手差し出して、送ってきゃ済んだんだよな。……傘が何の役にも立たなかった」 「はあ」 「お前に出来た事が俺はやれなかった。それは今でも同じかもしれん」 ふいに記憶の中のバス停が浮かび上がる。 何なんだ?このしおらしさは。 「でも俺はこんなだから簡単には変われない。お前がスーパーモデル化するくらい無茶な話だ」 おい、いきなり失礼だな。 「でも俺にはお前みたいな傘が多分必要で、だから……ああ、もういいや、くそっ」 ぎゅうっと肩を抱き寄せ、枕元の明かりを消してそっぽ向く。何だよあんたは。 仕方無いから、抱かれた腕だけは優しいその温もりに免じてとっとと眠りに落ちる事にした。 *** 人を正すならまず自分から。 解ってはいるけど、それって実行するにはなかなか勇気がいる。特にあたしのようなひねた意地っ張りの塊のような女には。 (自覚があるぶん質が悪い) 思い切って言ってみた『おはよう』の挨拶は、あたしが先攻を決めたところであっさり勝負がついた。 一言オウム返しで去っていった志郎は、髭剃りたてのつるつるの顔で戻って来るなり朝から濃厚な キスを仕掛けてきた。 その後何事もなかったような顔してご飯を食べながら、ぽつんとこんな事をもらした。 『俺は飯を残すのは好きじゃ無い。でも苦手なもんはある』 そう言いながら納豆のカラシとタレを出し、小皿に分けてある片方にかけた。あたしはタレも嫌いだ。 しょうゆしか使わない。 『好みは違うけど、人生で一番長く食うのは多分お前の作る飯だろうから、その折り合いはつけておきたい。 お前の味も知っときたいが、お前の作る俺の好みの飯が俺は食いたい』 要するにそれは俺に染まってしまえっつう事では、とも思ったが。 『そうじゃない。それもいいが、譲れんものは線を引く。例えば茄子の時には他の食えるもんを足して くれるとか』 今朝の豆腐ワカメには文句は無かったか、そうか。 『お前の味に慣れたいんだ俺は。だから俺の味にも慣れろ』 言いながら真っ赤になった耳をしてご飯をかっ込む奴を見て、あたしはようやくある意味諦めがついた。 だめだこいつ。 どうやって生徒に公式説いてるんだろう? いわゆる決め事には強い男だ。表向きの挨拶や体裁作りには抜かりない。だって優等生だもの。 だけどあれだ、自分のキャパを超えた感情の絡んだ問題は、型に嵌めて解けないもんだから応用が 利かないんだろうよ。 可愛い大人しい女の子しか相手にした事ないんでしょ? なのにあたしみたいな融通きかない生意気な女なんか嫁に選んだもんだから。 でも、多分それまで素直な女の子しか知らなかったのかもしれなくて(自分から好きだっつった事が 無いって言ってたし)、自分の感情を爆発させた事だってあまり無さそうなあの男が、結構我が儘な お子ちゃまだと解った今は、案外それが嫌いじゃないと思うあたしに気付いてしまった。 今日の志郎はかなり頑張ったに違いない。甘い言葉一つ囁けない男が、あたしのご飯を食べたいと言ってくれた。迎えに 対する礼の言葉は無くとも、代わりに面倒くさがりなあたしの仕事を奪っていく。毎日飽きる程のキスをくれる。 (ヤりたい気持ちもあるんだろうが) あたしには、近所の奥さんに掛けるような気の利いた言葉や優しい笑顔はくれない。けど、抱き締めて くれる腕は強くて暖かい。 そう思えばなんとも可愛いお子ちゃまじゃないか。 まあそう思わなきゃやってらんない気持ちが無いわけでも無いんだけどねぇ……。 いつものようにロッカールームでお茶を淹れ、いただきますと手を合わせた所で携帯が鳴った。 この某ヤクザ映画のテーマは志郎だ。しかもメールじゃない! 一度選曲に文句を言われた気もするが、最高に似合うと思う。このセンスは誉めてほしいわ。 「もしもし?どうしたの。昼休み終わってんじゃない?」 『今は空き時間だ。それよりてめぇ、どういうつもりだ今日の弁当!』 お前じゃなくて、てめぇときたか。おお、対戦モードだ。 「えーだって、可愛いでしょ?いいじゃない、作る方にもそれ位の楽しみがなきゃ」 ハート型にくり抜いた人参をつまみながら、他にも同じにくり抜いたハムや海苔、ウサギのりんごを眺める。 『お陰で食うのに苦労した!蓋と本立てたりしてな』 マンガか!想像して吹いた。 「だって別に関心無さそうだし」 美味いとか、不味いすら何も言ってくれた事無いくせに、だったらどうでもいいじゃん。 『あのな』 大袈裟なため息が聞こえてきた。 幸せが逃げるよーと言ってやりたかったが、本気でキレられても困るんでやめた。 『解れよ馬鹿。この馬鹿女が』 うわ、出た。こいつの定番『解れよ』ってやつ。おまけに馬鹿女ときたもんだ。 「わかんないから。あたしはエスパーじゃないから!」 昨日のお返しだばぁか。 あんたがそういう面倒なお子ちゃまなのはよく解った。でもそれで全てを見通せるわけじゃないから。 あたしはお釈迦様ではありません。甘えるでない。 『……あのなぁ』 イラッと来てるのか、低い声が更に低い。こ、怖っ! 『腹膨らすだけなら、学食だって構わんしコンビニだっていい。けどそれじゃ足りないもんがあるから、 毎日お前に面倒かけさせてるわけだ。俺の持って帰る弁当箱、つまり、……それが答えだ。今朝だって 言ったはずだ』 「……本当に?」 『当たり前だ』 志郎は必ず弁当箱を空にして帰ってくる。 失敗したか!?と思って凹んだ日のおかずだって、作ったあたしが食べ残した物でも、それをそのままに 突っ返された事は一度だって無い。 でもそんな志郎の心の中身なんて、これまた思い切って掛けた『行ってらっしゃい』の後に回れ右して やられたキスの意味が解るまでわからなかったんだよ。 ぶすっと電話の向こうでむくれてるのが手に取るようにわかる。 ああ、回りくどい。面倒くさい男だなぁ。あたしも相当なんだろうけど、こいつには負ける自信がある。 簡単な事なのに。たった一言、伝えてくれたら解るのに。馬鹿呼ばわりされずに済むんだろうに。 返事代わりにキスする奴なんか聞いた事無い。そっちの方がよっぽど面倒だと思うんだけど。ああ、ややこしや。 でもあれかな、足りないもん同士で案外いいかも。マイナスがふたつでプラスになるんじゃん? 『何がおかしい?』 「え……いや別に。笑ってない。笑ってないから!」 嘘です。吹きそうです。 『……今日は飯作らんでいい』 「えっ!何で?」 ありゃ、マジで怒らせたか? 『出前でも取る。……そのかわり』 耳に生々しく残る志郎の声に、食べかけの弁当の蓋をを静かに閉め、意を決して事務所に向かう。 「あの、店長――今日、残業ありません?」 どうやら本当にややこしい男に捕まっちゃったみたいです、ええ。 『……パンツ脱いで待ってろ!』 ――どうやら真っ直ぐ帰るしか無さそうです。 (※蛇足の1レス)志郎のぼやき 俺は寝つきは余り良い方じゃない。その上寝起きもどちらかと言えば悪い方だと思う。 特に機嫌が悪いとかいうわけでもないんだが、仲の良い友人らでさえ慣れるまでは俺の寝起きの人相は ヤバいという。 秋穂の奴もそうだった。初めは声掛けどころか目も合わせてくれなかった。その内それはまあまあ理解 してくれたようだが、『指名手配犯みたい』とまで言い切りやがった。そんなに酷いか? そんなだから、とは言い訳にしか過ぎんが、毎朝台所の秋穂に声一つ掛けられん。何か苦手なんだ。 中坊のあの時分なら兎も角、今更何で女房にするつもりの女にこんなにビクつかなきゃならんのか。 などと今朝も同じく半分眠った脳みそを揺り起こしながら台所に行けば、俺より先にやりやがった。 『……おはよ』 耳を疑った。毎朝人を背後霊か何かのように扱って大袈裟に騒ぐくせに、すっぴんの眠そうな顔で ちらりとこっちを見ながら呟くんだ。 赤らめた顔しやがって、柄にもねえ! 『おはよくらい、言いなさいよね?あんたセンセイでしょ』 『あ……ああ、おはよ……』 『よろしい』 ぷいっと鍋に向けた顔は、こっちに見せた背中同様震えて、多分ニヤニヤ笑っていやがるに違いない。 くそ! 洗面所で髭剃りしながら、思わず弛んでくる我が顔にまたむかついて、気合いを入れて頬をはたいた。 何であいつは、俺がやってやれねえ事をいとも簡単にやってくれるんだ! 傘が無ければ、差し出してくれる。当たり前の挨拶すら躊躇する俺に、自分の方から歩み寄ろうと 声を掛けてくれる。普通なら簡単な事でも、秋穂だから身構えて、馬鹿みてえに怯えてる。情けねぇ、 たかが女一人に腑抜けにされて。 面倒だと言いながら、俺好みの玉子焼きを入れたり、嫌いな物は抜いたりとせっせと作る弁当も、 一生食うつもりの味に慣れる為だと、お前の飯が食いたいから、だから俺の味も覚えて欲しいと巧く 伝える術がない。 それを知ってか知らずか、生意気にそこを突いてくるお前みたいな奴に、俺は――心底イカれとるんだ。 悔しいがお前可愛いんだよ、解れ、馬鹿。 ……死んでも言えねえけどな……。 SS一覧に戻る メインページに戻る |