シチュエーション
![]() 物心ついた頃から、その人は隣人だった。 工業用機器の設計士で父の友人一家の息子。 私が小さい時に、おじさんはある日突然倒れて、そのまま天国へいってしまった。 残された病気がちのおばさんは、ひとり息子である精一さんを心配しつつ、3年前に亡くなった――。 チョキンッ。 「ユキ、うまくなったなー」 「そう? 少しはおばさんみたく、切れるようになった?」 「う〜ん……それは、まだまだかなー」 精さんの髪は、ずっとおばさんが切っていた。 それを眺めるのが、幼いころから私は好きだった。 というか、自分もやりたくてしょうがなかった。 小4の頃、初めて鋏を持たせてもらえて、精さんをひどく怯えさせたっけ。 おばさんがついててくれたから、多少のことは修正してもらってたけど。 見た目はそうでもないけど、精さんはかなりのくせ毛だ。 床屋さん泣かせ……まあ、どこ行っても精さんが気に入らないのだから仕方がない。 おばさんの散髪屋さんが一番だった、のだそうだ。 「悪かったわね、まだまだ修行が足りませんよ。ま、うまくなるまで実験台ってことで」 「俺、専属なのに実験台もくそも……」 「あ! もー静かにしててよぅ。切り過ぎちゃったよー」 「ああん?! ユキっ、どこを? どのくらい切った?」 「ふっふっふ。そんなに騒ぐでない。私に逆らったら、外歩けなくしてやるよ〜」 「……はい」 どんなことがあっても、私に委ねるしかないという、精さんの無力感が伝わる。 これ、たまんない。 大の大人が、されるがままってやつだよね。 だって、高2である私の16歳年上なのだから。 すっごい優越感に浸れる時間。 そして、彼のとても近くに居られて、彼に堂々と触れられる時間。 孤軍奮闘――そんな精さんを家族ぐるみで見守ってきた、つもりだ。 脳梗塞で体の自由が利かなくなったおばさんの介護のために、5年前、精さんは会社勤めを辞めた。 精さんはおじさんの後を継いで、工業機器の設計士になっている。 仕事は自宅で、おじさんの生きていた時とおんなじスタイルでやってる。 だけど、まだなかなか仕事が増えなくて、苦労しているみたい。 9−5時で、仕事部屋にこもり、規則正しい生活。 自営でこういう仕事って、すごく不規則になりがちだけど、そういうことができるのは、すごいらしい。 うちの父は、同じ設計士だけど、まあまあの大企業のお抱えだ。 つまりサラリーマン。なのに父のほうが帰宅が遅く、不規則になりがち。 ただ、精さんも仕事の期限前は、徹夜でこなしている。 その代り、平日に趣味の自転車でツーリングしたり。 自分のペースで、というより駆け出しでまだまだ仕事の依頼が少ない証拠なんだとか。 自転車もエコなんだけど、おじさん趣味なんだよね、今時は。 でも、精さんは自転車のサークルみたいなのを主催してて、会員は老若男女OK。 だから、若い人もお父さん世代も様々な人が精さん家に集まってくる。 出しゃばる人ではないけど、人に好かれる人なんだと思う。 何度か集まりに顔を出したことがあるけど、主催者らしくない。 仕切り屋さんがいろいろいて(全員かも)、それを楽しそうに見ていたりする。 でも、一応頼りにされて、何よりみんなに好かれているのがわかる。 精さんがいないと、この集まりは成立しない、みたいな感じ。 おかしいけど、私は少し誇らしい気持ち。 ……物心ついた時から、私は精さんが大好きだから。 *** ある日、精さん家に、きれいな女の人が訪ねてきた。 いろんな人が訪ねてくるけど、大概はサークルの人。 それも休日のほうが多いから、こんな平日に来る人なんてと思って気になった。 愁いのある、っていうかすごく顔色が悪い人で、いろいろ心配になってそっと様子を見に行った。 庭に廻ってみると、リビングで立ったままのふたりを見つけた。 あまり見たことない、戸惑った表情の精さん。 あの人は、確か……。 前のカノジョに違いなかった。 泣いていた。 精さんの腕の中で。 あとの記憶はそこから、無い。 あるのは、悲しいことに、同じ位置に立てない自分への苛立ちと嫉妬心。 そして、嫌というほど自覚した、埋めようのない『年の差』という、精さんとの時間。 精さんへの「好き」という気持ちを、どうにか抑え込んでいる自分自身。 私の、幼いころの一番遠い記憶の中には、すでに精さんがいる。 「ミルク飲ませてやったの、覚えてないの? 薄情な奴め」 時々精さんがいう言葉。 私が生まれる前から、母のお腹に語りかけ、撫でてくれたという。 少し照れながら、高校生の精さんが私に向かって呼びかけていてくれたんだと。 その光景を想像すると、胸がきゅうっとなる。 でも、彼には彼の時間が流れていて。 追いつこうとするけど、近すぎる彼との位置関係に、今さらどうしていいかわからない。 以前のように、抱きしめてもらうことはおろか、手をつなぐことさえできないでいる。 この、「好き」という気持ちの変化に、気づいてしまってから。 私は、それと一緒に、どうしようもなく子どもだったんだと思い知らされたから。 長い間想い続けた私の気持ちは、一生追いつけないのかもしれない……。 その日、そのままきれいな女の人と精さんは一緒に出かけ、3日帰ってこなかった。 学校に行っても、授業も友達とのおしゃべりも、上の空だった。 私のもとから、黙って去って行った精さんが憎らしかった。 このまま、帰って来なかったら、と怖かった。 何にもできない自分にも、腹が立ち、悲しくなった。 次の日から私は毎日、精さんの家に時間の許す限り上がり込んで帰りを待った。 それだけじゃなく、ベッドにもぐり込んで。 精さんの匂いに包まれていたかった。それだけでとても落ち着いた。 初めはそれだけのつもりだった。 ……きっかけは、思い出せない。 私は精さんのベッドの上で、自分の体を……自慰ってやつをした。 豊富でない知識を総動員して、おそるおそる手や指で「あそこ」を弄った。 そういうことするのは、初めてじゃない。 でもあの時は、自分でもびっくりするほど感じてしまい、イってしまった。 精さんの匂いのせいかもしれない。 泣きながら、何度も精さんの名前を呼びながら。 最初は恥ずかしい気持があったのに、だんだんどうでもよくなった。 ブラのホックをはずし、胸を触ると、あそこがじん…と痺れた。 乳首を触ると、体の中心からどろどろとした熱いものが湧きだしてくるみたいだった。 布越しに、あそこの窪みを指でなぞると、ずくずくと下着の中が濡れていくのがわかる。 たくさんのため息と声が入り混じって、静かな精さんの部屋の空気が乱されていく。 湧いてきた罪悪感も、強くなっていく快感に身を任せていると、すぐに萎んでいった。 目を閉じて思い出す、男の人にしては綺麗な手指をしている精さん。 あの、大きくて厚みのある掌、太くて長い指で、どんな風に触れられるんだろう。 あの唇や舌で愛撫されたら、私はどんなになってしまうんだろう。 迷ったあげく、たくさん液があふれてるところに、指先を入れてみた。 全身に痺れが回って、あそこがこわばる。 自分の頼りない指先少しでも、こんなに緊張するのに。 「あ……」 男性の……見たことのない、精さんのモノが入ってくるなんて考えるだけで体が竦んだ。 でも、自分の体は、指の動きが欲しくて、ひくひくしている。 指も自分の体の奥底の欲求も怖かったけど、ひっかくように、くいくいと動かしてみた。 きゅーっとあそこの奥深くが疼いた。 「ふや……あーん……っ」 思わず、自分の声じゃないような声が大きく口を衝いて出た。 その時だ。 「ユキ? ユキ、どうした?」 突然の精さんの声に息が止まる。全身が石のように動けなくなる。 いつの間にか、精さんが帰宅して部屋にいた。……いつからそこに? 「あ、ど、して……や……あの、私……」 「何……してる……」 「だめ……だめえ!」 車の運転の時だけするメガネをかけたままの精さんが、入口に立っているのが見えた。 もう、だめだ。 全部見られてしまった。 ブラウスは肌蹴けて、ブラははずれてるし、片方のストラップが腕に絡まってるだけ。 スカートは捲れてしまって、ショーツはお尻の下で一本の紐みたいに丸まってる。 その上、片手を突っ込んでたのも、きっと見られた。 「見ないで!!……やだ!」 「ユキ……」 「やだ! やだ!」 ベッドに突っ伏して、でもせめてショーツだけは腰まで上げておいた。 体を少し起こし、片手で胸を隠しながら、何故か手元にあった枕を力一杯投げつけていた。 もう死んじゃいたい。どうしたらいい? 「落ち着け、ユキ……!」 精さんも思わずだろうけど、大きな声をだした。 出て行って、お願い。 でも、精さんは大股で2歩ぐらい動いて、簡単に私の腕を掴んだ。 「いやああっ」 咄嗟に本能的な動きで、それを振り払ってしまった。 指先が何かに当たった小さい衝撃に、ハッとする。 「あっ」 精さんのメガネが弾き飛ばされたのを見た。 瞬間、大きなものに、肩から強く覆われた、と思った。 「……落ち着け」 耳元に精さんの息がかかる。 ……ベッドに寝転んだままの私は、精さんに抱きしめられていた。 温かい体温と、生身の、いつもの精さんの匂いに包まれる。 「大丈夫だから」 いつもの優しいトーンが返ってくる。 最後に、こんなふうに、抱かれたのは、いつだったろう。 眠れなくて、駄々をこねて精さんのベッドに寝かせてもらったのは、いつだったっけ? 「……ちゃんと見てないし、だから……」 精さんの声に明らかに、戸惑いと照れが混じっているのがわかる。 体からはすっかり力が抜けた。 でも、今度はモヤモヤとイライラした気持ちが湧いてきた。 精さんは知る由もないのに、勝手に裏切られたような気分。 おいてけぼりをくって迷子になったような、そんな不安。それから嫉妬。 自分の中のドロドロとしたもの、そんなものが原因なのに。 『精さんがいけないんだ』 打ち消そうとしても、この数日の私の気持ちは、すごく大きくなっている。 そばにいて欲しい、それだけ言えば、精さんは理解してくれるかもしれないのに。 でも…ホイホイとついていくなんて、私がこんなに悲しいこと、なんでわからないの?! ……ぐちゃぐちゃした気持ちは抑えられず、怒りに変わって、すぐ頭の中一杯に広がった。 「……あの人……」 「ん? 何? ユキ……」 「……あ、あの人は前に付き合ってた人でしょ。み、見たもの、何度も」 「……ああ。そうだよ」 「別れたって聞いたよ。ウチの母さんからっ……あの人は、何しに来たのっ?」 私の知らないところへ、勝手に精さんを連れて行ってしまった。 「……まだ、あの人と関係があるの?!」 「関係って?」 自分の口から出てくる言葉が、止めどなくよどみなく、そしてとても汚い気がした。 「関係って、大人の関係っ……かッ、体の関係があるのかっていう…」 悲しさが込み上げてきた。 最低な言葉を吐いている私。 大好きな人の前で。 しゃくり上げそうになって、顔があげられない。 「ユキ、俺の話、聞けるか?」 精さんは、ベッドに腰掛けて、突っ伏している私の上にケットをかけてくれた。 大きな手が、ゆっくり私の背中を撫ぜていくのがわかった。 精さんの気遣いに、子ども扱いのような気がするのと、素直に嬉しいのが綯い交ぜになり、堪えていた涙が出そうになる。 「ユキの言うこと、少し違うし、少し当たってる、かな」 そう言って精さんは静かに話し始めた。 彼女のお兄さんは、精さんの大学のゼミの先生だったこと。 すごくお世話になったことや、頼れる“先輩”のような人だったこと。 その人が亡くなったこと。 彼女がそれを知らせに来てくれたのがあの日だということ。 「えっと、ユキ。あのさ、彼女には今は旦那さんがいるんだよね」 「え……っ」 おばさんを安心させたい気持ちもあって、結婚を焦っていたこと。 おばさんがどんどん弱っていき、自分の生活と彼女とのバランスがとれなくなっていったこと。 おばさんの介護を含めて、精さんとの将来を考えることができない、と彼女が去って行ったこと。 精さんと4年前に別れてずっと音信不通だったこと。 彼女のことを許せなかったこと。 そして、自分の不甲斐なさにも、と。 「それで、今回会ってびっくりしたことがあってさ。子どもが4歳なんだって」 「……!!」 「今の旦那さんとの子だってさ」 「へ?」 「……ひっでえよなあ。二股かよって」 日が傾いて来て、部屋に差し込んだ茜色が、精さんの横顔を照らし出した。 それが、傷ついた表情の精さんをすごく残酷に、くっきり浮き上がらせた。 目の錯覚じゃない、ほんの一瞬見えた、精さんのホントの顔だったと思う。 でも、すぐにいつもの飄々とした、精さんの顔に戻って笑った。 「俺ってばかだったよなあって」 「……」 “そんなことないよ”そういうことしか言えない私は、やっぱり子どもだと思い知る。 私から見ても、人より何倍も苦労しているのに。 やりたいことをたくさん我慢して、悲しいことや悔しいことを胸にしまって。 大人だから? 私に映る精さんは、いつもポジティブで、そしてポーカーフェイスだ。 今だって、「はははー」って笑いながら、ぽんぽんと私の背中を叩いてる。 「おじさんは部屋出るから、ちゃんと整えて出てこいよ」 なんにも言葉の出ない私に背を向けて、メガネを拾い上げる。 精さんの本心はいつも見えない。大人だから? 精さんに想いを伝えられない私も、また、大人になったから? 大きな背中が、眩しい夕陽を遮って、黒い大きな壁のように見える。 よくおんぶしてもらった、大好きな背中。 幼いころのように、飛びつきたい衝動に駆られ、胸が熱くなる。 「精さん」 思わず呼び止めたけど、そのまま黙って彼は部屋を出て行った。 わずかに見えた彼の耳たぶや首すじが真っ赤になってる気がした。 *** しばらくの間、私と精さんの関係はよそよそしくなってしまった。 私が避けているんだけどね。 だってどんな顔していればいいのか分からない。 精さんはいつも通りに朝起きて、自転車で1時間ほど走って、それから仕事して……。 なんとなくわかってはいるの。 精さんは私を避けているどころか、そっとしておいてくれてること。 今日こそは、精さんに挨拶して学校行こう! そう思って、玄関を出た。 「あ!」 自転車に跨って、『朝練』に出かける精さんがいた。 「おっす!」 「!……」 にっこり精さんが笑った。 か、返さなきゃ、返さなきゃ……顔が熱い! 「ユキ、今日、髪切ってくれない?」 「は……」 「お前さ、こないだうまく切れてなかったとこあるだろ。そこ、やっぱだめだったぞー」 「あ……うん。え、と」 「ほれ、こーこ! すぐ伸びて、跳ねてきやがった。頼むよ、今度は」 「……うん。ごめん。でも……精さんもおとなしくしててよね」 「何言ってる、そろそろ完璧にやってもらわないとなー」 「やってるよ、そっちが勢いよく動くからさあ……」 「おっ、時間、いいのか? 俺は行くよ」 「あーっ! じゃ、学校帰ったら、やったげるから、準備よろしくね!」 「おう、気をつけて行って来い。じゃあなー」 「あ、ちょっ、精さん!」 「なんだよー」 走り出した精さんの背中に向かって、思い切って言った。 「……おはようっ」 ちゃんと言えた。 こちらに背を向けたまま、精さんが返事の代わりに手を振る。 悔しいほど、さりげない精さんの優しさに胸がいっぱいになる。 いつまでも子どもの自分が情けないけど、遠くなっていく精さんの背中は、小さな頃から変わってない、そう思えた。 また湧いてきた、飛びつきたい衝動を飲み込んで、ぐっと顔を上げた。 精さんの隣で自信をもって並んで歩けるように。 もう少し、あともう少し、大人になる時間が私には必要――なんだろうなあ。 がんばろうっと。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |