初恋を摘む話
シチュエーション


※志郎視点の話





一度目を留めてしまえば、そこから視線を外せなくなってしまうのが解っていたから。
だから逸らした。関わらないようにつとめた。
それが決して正しい選択ではなかった事、ただ逃げていただけだったのだという事に気づいてしまった時には、

それをそう認め呼ぶのには遅すぎた。


***

昨夜はここのところ続いていた激務を終えて出た疲れのためか、いつもより早く床についた。そのせいかもしれない、と
普段なら押すことの無い目覚ましのボタンに触れながら隣で寝息を立てる塊に目をやり、また布団の感触の上に逆戻りする。

あの頃、誰が想像出来たか。
会話どころか、日常の挨拶すらまともに行う事の無いに等しかった相手が、こうして寝食を共にし果ては一生涯の伴侶と
成り得るなどと。
まだ薄暗いカーテンの向こう側から聞こえてくる微かなバイクの音を聞きながら、瞼に残る心地良い重さに逆らわず目を閉じた。



***


『付き合って欲しいんだけど』

ほんの冗談だった。
何言ってんのバカ、とか、なにそれウケる、とか笑いながら返してくれればそれでこちらもそれなりの切り返しをすれば
済んだ話だったのだ。
それが向こうの斜め上を行く行動によって、事態は重くなる。
仲間達が離れた場所から覗いていたのを良いことに、適当に先程のような所謂予想通りの反応であった、と一連の下らない
悪戯の結果報告をしてそれらは終わりを迎えた。

――という事にしておいて、実は密かに続きが存在してあったのだ。

言われた通りに3日待った。

『本気にとるとは驚いた。そんなわけないだろうが、馬鹿かお前』

一言「冗談だ、すまない」と打ち明けていたら、もう少し違ったのだろうか。自分でも何故そこまで、と思う程酷い言葉を
浴びせた。

『あぁ、やっぱりぃ?だよね。やだ、あたしがあんたなんかに靡くわけないじゃん。そっちこそ残念でしたっ!!』

絞り出すように喉の奥からぶつけてきた精一杯の強がりに、あいつは気づかれていないと思っていたのだろうか。

そんなやり取りがあった数時間後の事だった。滅多に人の来ない倉庫の側の階段下で泣いている影を見たのは。
震える身体を丸めながら、顔を突っ伏し声を殺して泣いていた。
一見しただけでははっきり誰それと確信するのは容易ではなかっただろう。だが、その張本人である自分には誤魔化され様
が無かった。
何も見なかった事にしてその場を立ち去れば、先に着替えを済ませてグラウンドへ向かう仲間達の姿が目に入る。
練習前の和やかな談笑中の奴らの中には、今回の事件に密かに関わった者達の姿もあった。
それを知っているのはそいつらだけだ。
だが、それ以降そしてそれ以外を知っているのは俺だけだ。
放課後の図書室の窓から時折、野球部の練習を覗き見していた存在。その視線が何を追っていたのかも知っていた。
そして、知っていたからわざとコントローラーを滑らせて、さも悔しげに拳を握って見せた。
結果、泥を被った。

『ごめん』でも『悪かった』でも言うべき言葉はあった筈だった。
なのにその時俺は、自分にも解らないいら立ちに苛まれ、目の前の罪無く傷付けられ笑い物にされかけた人間に更に塩を
投げかけた。
それを平然とした顔で払いのけながら、腹の中では崩れたプライドの瓦礫の中に震える両脚で踏ん張っている当の人間の
溢れ出した辛さを、否応無しに知らされて無視を決め込む事が出来なくなった。
表面上は他の女子ともさほど接触のある方では無かったので、中でも特に「反りが合わない」という理由で避ける。
HRでは「意見が合わない」と女子代表の看板を背負わされやすい奴と、議長として対立する事で馬の合わなさを見せつける。
自分の意見というものを持っていて、人情に厚く頼りにされる。言い換えれば、人が好すぎる。考えすぎて逆に流される。
だから、家庭の苦労も後々背負いこむことになる。

『秋姉には頭が上がんない』

俺の前で頭を下げて見せた義弟の言わんとする意味が嫌という程身に染みている。

姉の春果さんは、初孫という事で無条件に可愛いがられる立場にあった。そのためかおっとりとした性格で、柔らかな物腰と
地味目だが良く見ればなかなかの美人顔で、密かに憧れた奴らも少なくは無かった。
弟の大地は待望の長男坊だ。親の掛ける期待もあったせいなのか、末っ子特有の我が儘さはさほど見られないが、大事に
手を掛け育てられたのだろうと、そののびのびとした性格から、人に好かれ、奴もまた人を好み和を成す様子から窺える。
そんな中育ってきた真ん中の子供は、次女であるが故に多少の落胆と、過度すぎない期待の中、適度な干渉と放任とを
与えられ影薄く成長を遂げていた。
そんな中で、家長である祖父の死や姉の結婚が相次ぎ、過労が祟った母親に代わって嫌でも表舞台に立たなくてはならなく
なってしまう。
表といっても、結局は家事雑用を切り盛りするというのは所詮裏方に過ぎない地味な役割なのだろうが、それを一手に
引き受ける者がいなければ、遅かれ早かれそこの家庭は崩壊してしまう筈で、それを食い止める為の重要なものだった。
それら全てを引き受けたのだ。
祖父の様態が思わしくないと介護にかかりっきりになった母親の代わりにそれが出来たのは、受験生の弟と年老いた祖母
を除けば自分しか居ないではないか、と。
本来頼りになる筈の姉は、進学により地方に出てしまった。その上予想外の懐妊による帰郷を果たし、祖父の没後は介護等
の疲れによる母親の不調によりそれらの負担は増す一方である中で、当の本人の身の振り方を考える時間さえ持てずにいた。
姉も弟も、それぞれが自分の事で手一杯の時に彼女ひとりを犠牲にしてしまったと思っている。

『秋姉を大事にしてやってほしい』

人懐こい犬ころのような義弟が、一つも笑いを覗かせぬ真摯な瞳で俺に挑んだ。それを破ればたとえ俺でも許しはしない
だろうという覚悟を含んだ頼み事に対し

『努力はする』

とだけ応えて終わった。

『志郎兄がそういうなら』

俺にしては上等な挨拶だったようだ。
真一文字に結んだ唇が一気にくしゃくしゃに崩れていく。
元々の弟はいるが、新しいのは泣いたり笑ったり忙しい野郎だ。

その義弟や早々と自分の道を見つけていた義姉の他にも、彼女を密かに見ていた者を知っている。
当人はそれを上手く隠しきっていると思っていたようだが、生憎俺は気付いてしまっていたから、知らぬふりをするのに
苦労した。
そいつに彼女が向けてきていた熱のこもった眼差しにも。
だから俺は、ちょっと本気を出せば楽につける事の出来た点差を埋めるために手を滑らせ、実は両想いだった筈のそいつら
が互いに無益な傷付け合いをせずに済むように泥を被る決意をした。
大事な友人を守る為とかいうようなそんな立派なもんじゃない。
だったら最初からそんな下らない賭けなぞ乗らなければ良かっただけなのだ。それをしなかったのは、場を白けさせる事や、
そんな事で腰抜け扱いされる方がその頃の自分にとっては耐え難い屈辱だったからなのだろう。
若さと勢いだけに任せた馬鹿な選択だったと思う。人を傷付けるという事の重さがまるで解っていなかったのだ。
口では皆に優しい言葉を掛けてはいても、その実、最も残酷な方法で他人を突き落とした。偽善もいい所だ。
野球部の土埃にまみれた練習の最中に、図書室の窓からちらちらとこちらを窺う女子の姿を見つけた。
その視線の先が俺の傍の人間に向けられていた物であったというのも、解るまではそれ程間が無かっただろう。
授業中の何気ない視線だったり、休み時間、教室移動の時や課外活動でも、すれ違いざまにそいつが居れば慌てて顔を伏せた。
日頃のくそ生意気ないけ好かない態度とは違った仕草に、いつの間にかこちらの方が気持ちをかき乱されるようになった。
奥手で大人しい俺の友人はそいつ以上に不器用で、これまた同じように目を逸らし、顔を合わせても話すどころか声すら
掛けられなかった。
いつも大抵横にいて、大の男が耳を赤くして俯いている。気付かぬ振りをするのも面倒になりそうな程、そんな両者の
やり取りを歯痒い気持ちで眺めた。

周囲に気を遣い、自分を殺し、結局は面倒ごとを起こしたり巻き込まれるのが嫌であったのだろう。今なら俺も解る。
同じようなもんだったのだ、俺もあいつも。
何もかも筒抜けになりがちな田舎の空気の中にあって、たとえ家の中だったとしても、本当の意味で独りになる事は難しく、
泣く場所すら無かったのだろう。
わざわざあんな場所に身を潜めて、搾り出すような声を手の甲に押し当てて堪えながら震える身体を、手すりの角を音を
立てないよう掴んで眺めた。
あんなふうに思い切り傷付けられる程、真剣に誰かの事を考え、思いやれる人間に、俺は負けたと思った。適わないと
感じた。同時に、そんな者を浅い気紛れにあわせて傷付けてしまった事実を思い知り、初めて自分の犯した過ちを後悔した。
それから暫くして、放課後の窓辺の影は現れる事が無くなった。
時期的に、部活動の引退に伴ってというのもあったのだろうが、多分それだけではないのだろう。
事実を知っている俺だけが、そのことに勝手に胸を痛めた。

時は流れ、それぞれ別々のバスに乗り、これまでとは違う場所に通学するようになっても、元クラスメイト達は変わらず
軽口を叩き合って笑顔でじゃれ合っているのに、和やかなバス停の風景の中で、俺達だけは相変わらず互いを蚊帳の外に
置いているようだった。
雨のバス停で偶然一緒になったあの日も、居心地の悪さだけが互いの空気を共通にしていた。
単純な事だったのに、プライドが邪魔をした。それがいかに愚かな人間であると自分に思い知らされたのは、それから僅か
数日後の出来事だった。
学校帰りに立ち寄ったのだろう、鞄の他にスーパーの袋を幾つか抱えた彼女の腕からそれを受け持ってやる俺の知らない
男を見た。
傘どころか、この手すら差し出す事が出来ぬまま、俺のくすぶる気持ちはそのまま息絶えた。

初恋は普通、幼い頃の誰かへの単純な好意を指すものが多い。
だから、それをそう認め呼ぶのには遅過ぎた。
だが、砂を噛むようなどうしようもない苦しみの中、本当の恋の痛みという物を知ったのは、それが多分初めてだ。
だからそれは間違いではなかったのだろう。

***

「うわあああぁぁぁ!?やっば!どうしよどうしよ〜!?」

キッチンの方から聞こえてくる。2人暮らしの朝とは思えんような騒々しさだ。
ほっといてまた布団に潜ろうとしたが、時計を目にして考えを変えた。

「五月蝿いぞ」
「っ!?……ああ、ごめん。……おは……よう……ござります」
「イヤに丁寧だな」

それに妙にしおらしい。普段なら急に話しかけるなだの脅かすなだの(お前と違って無駄な物音を立てないだけだ)と、
新婚の嫁とは思えない程可愛げの欠片も見付からん奴だが、なんだこの大人しさは?却って気持ち悪い。

「狙いは何だ」
「あるかそんなの!!……あ、いや……あの……」

もう少し静かにさせてやるか。

「……今何時だ」
「みっ見りゃわかるでしょ」
「目が泳いでるぞ」

やっぱりな。普段の威勢の良さが見る影もなく引っ込んで、顔面蒼白とまではいかないが、店先にこんな切り身が並んで
あったら例え値引きしてても買う気は失せるような活きの悪さだ。

「言い訳を聞こうか」
「目覚まし……止まってて。寝過ごしたみたい。あの……」
「ああ、もういい。今日は休むから」

郵便受けから抜き取った新聞を手に食卓に着くと、困り顔で俺の様子を見ながら、まだ何も乗っていないまな板を手持ち
無沙汰に撫で俯いている。

「……行かないの?仕事」

俺の言ったことが信じられないのだろう。まあ、当然だ。今日は月曜日だし、週の始めは何かと雑用が重なり忙しい。
まして俺の仕事は、滅多な事がない限りやたらと穴を開けるわけにはいかない。どんな職業でもそれは言える事なのだろうが、
教師という仕事柄、特に模範を心掛けている俺が簡単にそれを覆す真似をするとは思いもよらなかったのだろう。

「……怒ってる……の?」
「あ?」
「だってそりゃ……」

当然だろうと言いたいのだろう。自分のせいで労働意欲を損ない、仏頂面の男が目の前に陣取っているのだ。だが生憎、
俺は職務は真面目に全うするし、面は元々こんなだ。

床を擦るスリッパの音も控え目に目の前に立つと、ぼそぼそと頭上から何ぞ語りかけてくる。

「何だ?」

何となく嫌な予感がして、足元のオレンジのふわふわから伸びている脚から目を外すことがならなかった。と、微かなずずっ
と啜る音に混じってぽとりと染みるものがある。

「ご……めん……」

――ああ、まただ。そんなつもりじゃなかったのに。何度繰り返せば解るんだろう、俺は、――お前は。
一番嫌いなんだ、その顔がな。何より、武器として手段として持ち出すでなく、本当の本心から絞り出すようなその痛さが。

「やめろ。らしくねえ」
「だって!」

ふーっと腹の底から息を吐く。この深い記憶の奥から這い出して来そうな鈍い苦しみの辛さからまともにダメージを
喰らわずに済むように。

「お前のせいじゃない」
「けど、あたしがちゃんと起こせなかったからだし。今からでも急いで、じゃないと……」
「大丈夫だ、クビにはならん」
「そんなのわかんないでしょうがっ!!」

だん!とテーブルを叩く。もう戻ったか。早いな。

「もう恐妻に逆戻りか」
「誰がだ!ああもう、あんたが居ないと困る人いっぱいいるんじゃないの?今日授業ある曜日じゃないの!?……怒ってるなら
何べんだって謝るから……」
「機嫌取ってくれるわけか」

しまった!と言わんばかりの表情を固めて顔を赤らめる。そーっと腰を引き気味に後退りそのまま逃走――といきたい所
だろうが。

「残念だったな」
「うっ!?――はな、や、ちょっとおぉぉ!!」

単純なんだよ、お前は。面倒事を背負い込んで隠すのは得意なくせして、そこから逃げるのはてんで下手くそだ。簡単に
罠に嵌って捕まりやがる。疑い深いが情にも深い。素直な奴だと考えればそうとれなくも無いんだが。

「馬鹿なんだろうな、やはり」
「何ぃっ!?」

沸騰するのも早いが、この顔は嫌いじゃない。
泣くお前が嫌いなんじゃない、泣いた顔が駄目なんだ。それ以上にそんな事をやっちまう俺自身が俺は一番嫌いなんだ。

「何してんのばかっ!そ、んな、ひま、あるな……ら、早く学こ……い……けっ……んっ」
「怒るか感じるかどっちかにしろ」
「ば……かぁ……誰のせ……」
「機嫌取るんだろ、俺の」

膝の上に抱きかかえた秋穂の唇を塞ぎながらエプロンの上から当たりをつけて指を動かせば、面白いくらいに正確にその
位置を知らせてくれる。だが、離すとすぐこれだ。もう少し大人しくして貰うか。今は、な。

「ん……んっ」

深く呑み込むように押し当て差し込んだ舌は、スムーズにその中に入り込み向こうの物と絡み合う。何だかんだ言ったって、
本気で拒絶された事は、無い。
その証拠に、初めは強張った躰が特有の柔らかなふわふわとした温もりに戻っていく。それを感じ取ると同時に、捕まえた
俺の腕の力も緩む。逆に、しがみつく秋穂の指先から伝わる痺れるような震えはどんどん増してゆく。
こうなりゃこっちのもんだ。
パジャマの裾を手繰り上げ、下から上へ向かって肌に指を這わせる。
重なるエプロンの裾が邪魔だが強引に捲り上げ、もう何度も見た中身を頭に思い浮かべながら触り慣れた躰の線をなぞる。

「やっ。こんなところで……」
「ベッドなら良いのか?」

ヤるのは否定しないんだな、と言うのは何とか堪える事が出来た。いらん事で気を削がれても困る。
しっかり反応してしまった下半身に、またもや困った顔で居心地悪げにごそごそと腰を動かす。

「おい、やめろ。 痛え」
「えっ!?ああごめ……だったら降ろしてよ!」
「終わればな」

中途半端に腰掛けた秋穂の脚を開かせ、向かい合わせに膝に跨がらせて体制を整える。嫌がる顔を見るのは好きじゃないが
、それが嫌悪をもっての物か否かは、その赤々しく膨れた頬を見れば一目瞭然だ。

「邪魔だな」
「……もうっ」

背中のボタンを外してやると、片手で俺に掴まりながらエプロンを空いた手で持ち上げ頭から引き抜こうとする。真似して
片手で抱きながら空いた手を貸して引っ張り上げてやり、秋穂を振り落とさぬよう注意しつつエプロンだけをそこらへ投げる。
なかなか面倒だな、これは。

「ねえ、これ、キツいんだけど」
「また太ったか」
「またとは何だ!……ったく一言多いんだよね。肝心なコトは言わないくせして……」

ぶつぶつと呟きながら俺の首に腕を回してぎゅっとしがみつく。

「落ち着かないの、これ」
「たまには悪くはないと思うが」

ズボンの中に突っ込んだ手をさらにその下の布地の内へと忍ばせる。丸みに沿って尻を撫でると、耳元で小さな悲鳴が上がる。
首筋に顔を埋め、俺の襟を噛んだ。我慢するつもりらしいがそうはいくか。

「んくっ!?んっ……ふ……ぁっ……んーっ」

尻にあった手を強引に互いの躰の間にねじ込み生地の上から胸元を弄る。
びくりと一瞬反らせた喉元を見逃さず、顎を押しつけ隙をみて首筋にかぶりついた。
軽く半開きの口から覗かせた舌を這わせれば、ぶるっと震えて首を竦めて逃れようとする。
それをさせないために腰を抱いた腕に力を込めながらずらせた唇で互いの声を塞ぎ合う。

濃密なキスとはこういうものかと、こいつと一緒になってから度々思わせられる。
これまでにだって恋人と呼べる相手が居なかった訳ではない。それ程モテたという自覚は無いものの、自ら行動を起こした
のは秋穂が初めてだ。だから、どの様にして女性を口説けば上手くいくのか全く想像がつかなかった。
少しでも自分に好意があると思えればまだしも、かなりの率でそれとは逆の意識しか向けてはくれないであろう相手に、
必死で振り向いて欲しいとアピールしたつもりだった。
だが、俺の方が場数を踏んでいるに違いないというのに、完全に負けていた。これまでだって自分なりに相手に対しては
誠実でいたつもりだ。浮気などした事もないし、時間も作って会う努力もした。
だが、それは全て相手の要求に流されるまま従っていただけに過ぎなかった。いつしかそんな受け身だけの姿勢に向こうの
方が先に嫌気が差し、ふられる。始まりが相手なら終わりもいつも同じ様に相手によって訪れる。
それが今ではどうだ。追い掛け捕まえるまでは良いが、更にそいつに囚われるとは。

「知らないだろうな、お前は」
「う……ん?」
「いや、いい」

密着した躰の中心がいよいよ疼き出す。俺のそれに乗っかるように跨がった秋穂に向けてわざと腰を突いてやる。

「んっ……

あの日――やっと巡ってきた絶好の機会に、俺がどれだけ心を躍らせたか。
数年振りの再会と、数年越しの苦い記憶が、どれだけお前への歯痒い苛立ちにも似た想いを再認識する事になったのか。

――甘さなど、微塵も感じられないものだった。苦くて酸っぱいだけの出来損ないの蜜柑のような。
実らないというそれを、俺はどうしても手に入れてしまいたかった。遠くから眺めていただけの青く未熟な果実は熟れて
色づき、慌てて手を伸ばした。どこかの奴にもぎ取られる前にと、懐へ隠してしまい込んだ。
焦る気持ちを必死に隠して。

――体や年齢だけが大人になっても、中身だけはまるっきり思春期の餓鬼の頃と何ら変わりは無かったのだ、俺は。
いい歳をしてまともに女一人口説き落とす事すら叶わないなんて、格好悪すぎて言えやしねえ。
にしても、そろそろ毒だな、この体勢。
密着するのは良いが、動きにくいわ、触りにくいのも程がある。何より、ブツに当たりっぱなしの秋穂の躰の熱がさっさと
それにぶち込みたい気持ちに駆り立てられる(口に出すとこいつは怒る)。

「布団入るか」
「えぇ!?朝っぱらからぁ!?」
「ならこのままやるか」

秋穂の躰を膝から下ろし、ズボンのゴムを引っ張り下ろそうとするが、腹をくの字に曲げたり手で払われて拒否される。

「やだバカ!何考えてんのよ。ていうかそんなコトしてる場合じゃな……」
「仕事なら心配ない」
「はぁ?それってどういう……」

説明すんのも面倒臭くなってきた。

「後でな」

一刻も早く事に及びたくなった俺はさっさと寝室に戻り、ベッドに腰掛けた。暫くして、諦めて肩を落とした秋穂が大袈裟
に溜め息をつきながら頭を掻きかき後を追ってやって来る。こうなりゃ俺が引かないというのを解っているから、諦めの心境
なのだろう。もしくは呆れているのかもしれないが、んな事ぁどうだっていい。
本気で拒否られなけりゃ良いだけの話だ。

まだ遮光カーテンを引きっぱなしの寝室は昼間でも薄暗い。それも寝坊の理由になると思う、とぶつくさ文句を言っている。

「だからって言い訳するわけじゃないけどさ……」
「解ってる」

それは俺がよーく解ってるから気にするな。
ベッドに乗っかってきた秋穂の腕を引き、少々乱暴に転がしてのしかかる。

「や……んっ……んん」

五月蝿い口は塞ぐに限る。強く押し当てた唇をほんの少し引くと、秋穂は開き気味にした口元から小さく声を漏らす。
それについては残念だが、それ以上にこの先を楽しみたい俺は、塞ぎすぎない程度に合わせた唇から舌を覗かせてあっちの
口内へと侵入を試みる。
絡ませた舌の感触を味わいながらパジャマの上から胸を弄ると、仰向けに広がり気味の膨らみの一部にあたる堅い突起を
探り当て、ボタンを外すような指先の悪戯な動きに合わせて躰を跳ねさせもぞもぞと悶えては捻る。
鼻に掛かったような甘ったるいとでも言うのか、通常の姿からは想像のつかない声が唇の隙間から息継ぎするのと一緒に
漏れてくる。

「ひゃ……ぁぁぁっ!?いや、んぁ……っ」

キスするのを止めて首筋に息を吹きかけると、びくびくと仰け反って震える。

――もう出来上がってきたか。事に持ち込むまではムードもへったくれも無いもんだが、一旦その気になると驚く程豹変する。
普段はどちらかと言えばツンツンと無愛想な可愛げの無い(と面と向かって言えば『どっちが!』と返って来るだろう)
女だが、

「ちょ……っだめぇっ……」
「無理言うな」

ボタンを外して晒そうとした胸を覆い隠そうとする。今更何だ。こんな時になってしおらしくなっても遅えんだよ。
当然の事ながら聞こえない振り(無視とも言う)でぷっくりと勃ち上がったピンク色の乳首を摘むように指先で弄んでやる。
はだけた肩から耳元にかけて唇を這わせながらつんつんとつつき回して転がすと、

「んんん――っ」

と耳まで朱くして顔を背けて上半身を反らす。
きゅうっとシーツを握り締めた手に俺の手を重ねてやると、びくっと身を震わせこっちを見るが、耳朶を噛んでやると、
へなへなと力が抜ける。面白ぇ。

鎖骨からゆっくりその下の膨らみかけの肌に唇を落とすと、少しずつ吸い付く力をこめてキスする。

「――!!いた……っ」

柔らかな丸みに盛り上がりかけた裾野との境目に狙いを定め、ほんの少しのつもりで立てた歯に顔をしかめ睨みを利かせる
秋穂の顔を上目遣いに確認する。
腕を伸ばして見下ろした肌にくっきりと浮かぶ朱い跡を認めてから、残りのボタンを全て外していき、自分のものも脱ぎ
捨てる。

「すぐそういう事する!!」
「お約束だろ」

痕を付けたがる俺をこいつはすぐ変態呼ばわりしやがる。自分のもんに印を付けて何が悪い。
文句を言いつつも、脱がし易いよう身体を起こし、ズボンに手を掛けると、なかなかのタイミングで尻を浮かせてくる辺り
意外に協力的だとは思っていたが、

「……人の事スキモノ呼ばわりするには説得力に欠けるんじゃないのか、おい」
「なにが……?……あっ」

膝まで引き下げたズボンの下にある物に注目する俺に気付いたのか、にわかに焦りだす。

「やってくれるじゃねえか」
「違うの、えと、それはっ……」
「どう違うんだ」

さっさと剥ぎ取って投げ捨てたパジャマの下から現れたのは、薄紫のショーツ一枚。
両脚の間に躰を割り込ませ、中心のつるりとした生地を中身の筋に合わせて指の腹でなぞってやる。

「俺を誘う気まんまんじゃねえか」
「んなわけっ……ない……でしょっ」
「じゃあ誰に見せんだ」

だったらあの色気のねえパンツはどうした?
週末や休み前日になると、かなりの確率で俺はこいつを押し倒す。それがわかってるからか、結婚祝いと称した悪ふざけで
女子どもがプレゼントしてきた大量の勝負パンツとやらで迎え撃って来やがるようになった。
亭主を喜ばせるような殊勝な女と言うよりは、かかってこいと言った感じなんだろう。本当の意味での勝負下着か。
その証拠に、たまに平日の気まぐれで押し倒してみると、間違い無く安物の機能性重視のパンツなんか穿いてやがる。
本来の姿なんぞそんなもんだ。まあ、脱がしゃ一緒だから関係無いがな。

「……っひ」

ビクンと一瞬だけ大きく跳ねて、後はその躰を小刻みに震わせながら悶える。

「や……ん……あっ」

頭の上から後ろにかけて、くしゃくしゃと髪を撫でる秋穂の手の重みがする。
俺の舌の動かし方に合わせてそれは同じ様に変化する。
息遣いと、時に押さえつける様な秋穂の指の力と、徐々に甲高く降り注ぐ声とが乱れ方を解らせる。
冷静にその流れを眺めていたつもりの自分が今度はそれにはまり込んで、目にするもの触れる所全て味わって堪能する事に
夢中になっていく。
男だから、女という生き物を征服したいのは本能からくる当然の欲望なんだろうが、それ以上に秋穂の感情身体含めた全て
を手に入れていたいと願う気持ちは俺個人の下らない独占欲の塊の成れの果てなのだろう。
俺の知らなかった空白の時間、向けて貰えなかった眼差し――それらを取り戻すべく、何度躰を繋げてでも埋め尽くし
たい。
俺ではない人間に与えられたこれまでの何もかもを、削ってえぐり取って、全部塗り替えて。

「秋穂」

既にされるがまま身体中撫で回されでへろへろになった秋穂を見下ろしながら、レースの縁をなぞりつつそろそろこれも
脱がしてしまおうかと思案し声を掛ける。

「ん……」

ふいに両手を伸ばして俺の首に回そうとする素振りをした。

「何だ?」
「う……んっ」

むうっとむくれて突き出した唇に、頭の中の何かがぷちっと弾けた気がした。
こいつはっ……!!

腕を曲げると、秋穂に掴まられるように引き寄せられ、その唇を塞いでやる。
布越しにぶつかり合う下半身の熱さが耳から脳天まで突き抜けそうな気がした。
まさかだろ!?思春期の餓鬼じゃあるまいし、たかが――口づけ一つ強請られた位で。
顔を上げ、躰を起こすと迷い無く薄紫の布地を剥ぎ取る。

「ちょっ、志郎!?……っ!!いやぁっ――やぁあぁっ!?」

今日聞いた中で一番の泣き声がした。

確かめるまでもなく既にトロトロになってしまっていた筈の場所に差し入れた舌は、潤いすぎた秘部を更にぐちゃぐちゃに
掻き回すべく忙しなく裂に沿って滑りゆく。

「ひぁっ……ふっ……ああっ……やあんっ……いいっ」

どこのエロ女優だと訊きたくなる位の勢いで身を捩らせて喘ぎまくる。
これをたった一度でも見たかもしれない奴が居るのが腹立たしい。

「秋穂」
「な……に?」

気怠く絶え絶えの掠れた声に頭を上げると

「んなとこから覗くな……もうっ」

と文句を付けられ躰を起こす。
秋穂の両脚を掴んで広げたまま折り曲げ中心に収まる。

「俺を見ろ」

剥き出しになり濡れそぼったそれにまだ下着越しの俺のモノをあてがって擦り付ける。

「み……てるじゃん」
「どこをだ?」
「どこって……」
「これが要るんじゃないのか、そろそろ」

硬さに任せてぐいぐいと押し付けると、荒い息遣いに紛れた小さな悲鳴のようなものが混じる。

「何言い出すのかと思えば……っ」

羞恥の中に入り交じる怒りを軽く覗かせて、ふうっと溜め息のような呼吸をした後また俺を睨んだ。

「答えてみろ」
「やだ!」

むっと湧き上がる気持ちを抑えられず、強く擦り付けて躰を押さえつける。

「やっ……何!?いやっ……志」
「欲しいなら言え」

押し当てて湿り気を帯びた自分の下着をとり、秋穂の股に当てた手を動かす。
クチュクチュと指に絡みつく愛液を充血した突起に塗りたくってやると、目を瞑りながらいやいやと髪を振り乱して叫ぶ。

「イっても良いんだぞ」
「ばかっ!!―――きゃあっ――ぁ」

だから秋穂。

「俺を見ろ」

しっかりとその眼で。お前を喰らって犯す男の面を。

「み……てるじゃ」
「あ?」
「あんた……こそどこみてっ……ああっ!!」

ぬるりと滑り込ませた指でついついと壁をつつくと、その腰を引きつつ脚に力が加わっていく。
引っ掛けたままの薄紫のくしゃくしゃの布きれごと掴んでいた足首を手放し、そっと指を抜いた。

ぼんやりと泳がせていた眼をこっちに向けると、にわかに睨み付けて大袈裟に息を吐く。

「怒ってんのか」
「……呆れてんの。つうかもうそんな気力ない」
「ああ?」
「言われなくたって見てるわよ!」

汗を浮かべた額に引っ付いた前髪を鬱陶しそうにかき上げながらぼそりと呟いた。

「あたしあんたの嫁だけどっ!?」

本当に――やってくれるじゃねえか、こいつはよ。
色々言いたい事は他にだってありそうだが、その溜まった鬱憤を全部吐き出して貰っても凹まないで居られるであろう位の
自信を俺に付けさせる程に、膨れっ面の潤んだその真っ直ぐな瞳には、はっきりと、住み込んで居る自分の顔がある。

これが欲しかったんだ、俺は。

揺るぎない、一途で迷い無く返してくれるその――不器用で輝かしい眼差しが。

「秋穂。……いいか」
「いちいち訊く?」

だよな。らしくねえ。

「……しい」
「あ?」
「志郎が欲しいって言ってんの……言わせる?ばかっ」

なん……だ……と?
それというのも、秋穂、お前のせいだ。
何だってお前という奴は、良い具合に俺の期待を裏切り、予想を外してくれやがるんだ。

「――はぅっ……く……ぁ」

ぴたりと押し当てた場所へと入り込んでいくモノは、初めの苦労が嘘のようにすんなりと奥の奥までくわえ込まれていく。

「やぁ……あん……ぁ」

確実な箇所を探って押し引きする腰に合わせて、自らの躰を捩らせ脚を絡ませて捕まえようとして来る。
いつからこんなエロい女になったんだお前は。最初の日は泣きながら抜いてくれと懇願してきやがった癖に。

「や……抜かないでぇ……しろぉ……」

抜かねえよ!というか何だお前は。
ぐいぐいと深く抜き差ししながら、見ているだけだった根性無しの馬鹿な自分を思い出す。
あの頃下らない自尊心をかなぐり捨ててお前に挑んでいれば、誰より先にこうしてお前を“泣かせる”事が出来たんだろうか。
ひいひい泣きながら俺を呼ぶ秋穂を見下ろしながら、俺はつくづくこいつのこういう泣き顔は好きなんだな――と

戻らない時間を埋め尽くすべく

思い切り秋穂を抱き締めた。

あ、やべえ……。
ほんの一瞬素に戻った頭を働かせ、サイドボードの引き出しからコンドームを取り出すべきだったのを思い出した。
いつ孕ませても構わないと思いつつ、安全と思われる日には避妊を怠る時もあった。子供が早く欲しいという気持ちも
あるにはあったが、何より秋穂を繋ぎ止めたいからだというのが第一の理由だったからに過ぎない。現にこれまで別の相手と
そういう機会があっても、そんなやり方に踏み切った事など一度も無かった。考えに及んだ事すら無かったのだから。
けれど、やっと手に入れた所謂恋女房――とでも呼ぶのか――との誰彼憚る事無い生活を手にする事が叶ったのだ。あと
もう少しだけ、それを楽しんでも良いのではないかという余裕らしき物が心の奥に湧き上がりつつある。
なのにこのテンパり振りは何だ。これじゃ、童貞丸出しの高校男子だろうがまるで!!

「志郎?

肩を上下させ息も絶え絶えに俺の姿を捕らえる眼を見下ろす。

「……お前は、俺の事を」
「そんなの言わせない!解りなさいよ……バカ。そっちこそ」
「うるせえっ」

言わせんな。

解れよ、馬鹿。


***

「うわあぁぁぁ〜〜〜〜!?」

今度は何だ。
ぼんやりした頭をもたげて枕元の時計を覗き見て納得した。

「どうしよどうしよ……もう昼じゃん!!うわぁぁ〜何で朝っぱらからヤっちゃったんだろうあたしのバカ、志郎の大バカ!!」

おい、何で俺だけ大が付くんだてめぇ。

「今更ジタバタすんな。大丈夫だと言った筈だが」
「!?……っ、な、何がよぉ、む、無断欠勤で良いわけないでしょうが!このご時世只でさえ風当たりのきつい商売に、んな
呑気に構えてる場合かぁ!?大体のんびり寝てる場合じゃ」
「一緒に二度寝しといて言う台詞か」

あ、黙りやがった。仕方無いが事実だからな。それにしてもこのままじゃ落ち着かねえ。そろそろ許してやるか。

「秋穂」

あわあわと裸を布団で隠しながら(だから今更と言うのに)パジャマをかき集めようと必死になってる奴を力一杯抱き寄せた。

「んな?なに?」
「今日は良いんだよ、仕事は」
「は?何言ってんのあんたは!良いわけないでしょ!?ちょ……離せ、も、もう今日はシないんだからっ……」
「代休を貰った」

腕の中でもがいていた秋穂がぴたりと動きを止め、ぽかんとした面で見上げてくる。

「……なん……だって?」
「俺に休みを与えないつもりか?」

呆けた顔が徐々に目をつり上げ、まるっきり別人の如くその形相を変える。

「今日は休むと言ったろうが」

日曜返上で行事に参加したんだ。翌日は代休を与えられる場合が多い。
悔しいんだろう。真っ赤な顔で鼻息荒くぷるぷる震えてやがる。全く色気の無い。闘牛の牛だなまるで。

「この鬼畜!ペテン師!!ドS野郎がぁ!!」
「いや、案外Mかもしれんぞ」
「どの口が!?」

お前を悲しませて泣かすのは好きじゃない。

「そう言うな。晩飯、予約したから食いに連れてってやる。」
「食べ物で釣る気かぁ!?」
「お前、今日何の日か忘れてんのかまさか」
「まさか!……何よ肝心な事はいつも……」

だが、そうやって膨れて拗ねてみせるお前の怒り顔を見るのは嫌いじゃないからなんだ。

「そうと決まれば、もう一戦交えてもまだ余裕はあるな」
「うっ――嘘でしょお!?」
「ここんとこ忙しくてお預けだったんだ。その分ヤり溜めさせろ」
「やだ何その表現!あたし聞いてないっ」

逃がすか。昨日の夜も疲れてそのまま寝ちまったんだ。そっちの分も取り戻してやる。

「げ……元気過ぎない?」
「当たり前だ。まだ現役だぞ俺は」

何でだろうな。秋穂を見ると餓鬼に逆戻りする。頭が煩悩だらけの頃と同じ仕様になってしまう。だからもしこいつで
ヤれなくなったとしたら、俺の男としての役目は終わりという事になるのかもしれん。

「やぁ……だめっ……もぉ……無理ぃ」
「安心しろ、また好きなだけ泣かせてやる」

初めてこいつをモノにした日が、俺達の始まりの日でもあったというわけだ。
アテにならないものもこの世にはあるものだとつくづく実感した。


――初恋は、実りの無い恋だというから。

END







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