朧月怪盗アンバームーン 『潜入』
シチュエーション


それから一週間後の夜。それは予告状で宣言した決行の日。
香織は自宅の玄関で目を瞑り、深呼吸をしていた。
何度か深呼吸を繰り返すと、目を開けてポケットから『月』のカードを取り出し、
胸の辺りに押し当てた。
すると、カードが柔らかい銀色の光を放ち、やがてその光は彼女の姿を包んだ。
ボブカットだった黒い髪はみるみる肩の辺りまで伸びて銀色に変わる。
小柄で華奢だった体格は、背が伸びて肉感的なボディラインへと成長した。
彼女を包んでいた銀色の光は濃紺のコスチュームへと変化し、
光が収束して消えた後には、あの女怪盗アンバームーンの姿が現れた。

朧月怪盗アンバームーン。
それは、自分のスタイルにコンプレックスを抱いている香織が
『月』のカードの魔力を使い生み出したもう一人の自分。
容姿は性格をも変えるらしく、生生真面目で少し引っ込み思案な性格から
自信家で挑発的な性格へと変わっていた。

「いよいよ飯綱家に赴かれるわけですな」
「うん、あの醜く欲深いオジサマに引導を渡してくるわ」
「……ご武運を、お嬢様」
「……ありがと、神崎。行ってくるね」

カチカチ。

背後で火打石を鳴らしてくれた神崎に礼を言うと、
怪盗アンバームーンはドアを開け、夜の闇へ向かって高く跳躍した。



一時間後。
雑居ビルの屋上から、今回の標的となる飯綱邸を見下ろしていた
アンバームーンはいつになく訝しげな表情を浮かべていた。

「やっぱりおかしい……予告状は確かに送りつけたのに、
 警察も警備員もマスコミもいないなんて……」

そのとき突風が吹いて、彼女は思わず目を瞑る。
乱れた銀髪を手で軽く直し、開いた瞳にはもう迷いはなかった。

「超鈍感な相手だろうが、罠だろうが、必ずタロットは奪ってみせる。」

手入れの行き届いた飯綱邸の庭園を駆け抜けても、警察や警備員が
駆けつけてくる気配は微塵も感じられなかった。

「やっぱり、静かすぎる。
 単に寝静まっているのか、罠を張って息を潜めているのか」

ギイイイィィィィ……

そのとき、豪華な意匠が凝らされた玄関のドアが音を立てて開いた。
警備員の突撃に備え、アンバームーンは腰を落として身構える。
しかし、数秒経ってもそこから出てくる者は誰もいない。

「罠、確定ね……」

彼女に入って来いと言わんばかりに開いたままのドアから、
無人の玄関ホールの様子が見えている。
そしてそこからは確かにタロットカードの魔力が流れ出しているのを感じるのだ。

「虎穴に入らずんば、虎子を得ず……か。
 古臭い諺だけど、今の私を表現するのにはいい言葉だわ」

開いたままのドアから玄関ホールへ抜けると、後方で先ほどのドアが
軋む音を立てて閉まるのを感じた。
期待はしていなかったが、念のために押してみてもやはりびくともしない。
これで退路は完全に断たれたわけだ。

パッ。

必ずしも趣味がよいとは言えない天井のシャンデリアが点灯し、
広い玄関ホールの内装を照らし出す。
床は大理石だろうか。
両脇には各部屋に通じるであろう木製のドア。
目の前には上階への大きな階段。
その階段から、一人の大柄な年配の男が姿を現した。

「今晩は、飯綱家当主、晃さん。お招きいただいたこと、感謝いたしますわ」
「いやいや、楽しんでいかれるといい。使用人たちは今日は暇をとらせた。
 警察やマスコミといった無粋な輩はここにはいない。つまり二人きりというわけだ」

飯綱は、上等なスーツのポケットから気取った手つきでタロットを取り出した。
カードをちらつかせるその仕草は、これが欲しいんだろうと言わんばかりだ。

「残念だけど、オジサマとチークダンスを踊る趣味はないの。
 できれば、そのタロットをプレゼントしていただけると嬉しいんだけど」
「それはご容赦願えますか、ミス.アンバームーン。
 プレゼントしては貴女が早々に帰られてしまいますからね」

余裕ある言葉を交わしてはいるものの、アンバームーンは飯綱の
行動の真意をはかりかねていた。
マスコミや使用人はともかく、警察も私設警備員もここにはいない。
なのにこちらが狙うタロットを不用意に晒している。

敵を前にしてあれこれ考えるのをやめた彼女は、意識を魔力に集中させた。

「それじゃ、パーティを始めさせてもらうわッ!」

そう言うと、タンッと床を蹴って跳躍した。
まだ相当距離があると思われた飯綱の眼前にアンバームーンの姿が迫る。
そう、『月』のカードの能力。
それは無重力を思わせるまでの跳躍力と、それに付随する脚力。
猛スピードで迫るアンバームーンの膝が、飯綱の顔に叩き込まれた。

かに見えたそのとき、飯綱は姿を消していた。
必殺の膝は後に残されたスーツの抜け殻を捕らえたにすぎなかった。
手ごたえ、いや足ごたえがなくすり抜けてしまい、階段に激突しそうになりながらも
辛うじて着地したアンバームーンは、きょろきょろと辺りを見回した。

「上ですよ、ミス・アンバームーン。
 まったく、乾杯はまだだというのに気の早いお方だ」

上を見上げると、蜘蛛を思わせる黄色と黒の縞模様の格好をした飯綱が、
天井から伸びた糸に捕まりぶら下がっていた。
まさか既にカードに秘められた魔力に気づいて引き出していようとは。
アンバームーンはその可能性に思い至らなかった自分の思慮の足りなさを恨んだ。

「『吊るされた男(ハングドマン)』ってわけね……」
「ご名答。でも吊るされるだけではないのですよ?」
「ーーなッ!?」

いつの間にか、床から生えた糸がアンバームーンの足に絡み付いていた。
足を上げて必死で切るのだが、次から次へと伸びてくる糸が彼女を補足する。
いつしか糸は縒り合わさって縄になっていた。

「くぅッ!」

切れないのならなんとかほどこうと足に意識を向けているうちに、
天井から伸びた縄に両手を縛られ、吊り下げられてしまった。

「さて、お待ちかねのパーティの始まりですよ、ミス・アンバームーン」

するすると下に降りてきた飯綱が、凶悪な笑みを浮かべた。






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