朧月怪盗アンバームーン 『闇夜』
シチュエーション


棚橋は、自宅アパートで一人物思いに耽っていた。
彼は、ただ自分自身の両手を見つめている。

雨に濡れ打ちひしがれた怪盗を確かに温めていたはずの手。
そして、彼女の体温を確かに感じていたはずの手。
だが、彼女は気まぐれな猫のようにその手からするりと抜けて去っていった。
後には何も残らない。


あの深夜の公園での出来事から、一週間が経っていた。
隊長には怪盗が既に立ち去っていたと嘘の報告をしている。
メッセージカードが現場に残されていなかったことに隊長は若干の
不審は感じたようだったが、特に追求する様子はなかった。
実際、真実をぶつけたとして信じる者はいなかっただろう。

そう、あの不可思議な現象。
怪盗が裸体を晒し、影山は姿を消し、縄が出現し、突然豪雨が降り出した。
ひょっとしてあれは全て夢だったのではないかと何度も思った。
だが、そのたびに胸ポケットのメッセージカードが現実であることを告げる。
彼女の涙も。温もりも。寂しげに強がる表情も。
目を瞑ると、網膜に焼き付いたように彼女の姿が浮かんで離れない。

彼女はいったい何者なのだろう。
影山に受けた仕打ちは、恐らく生半可なものではあるまい。
しかし、彼女は悲壮な決意で前を見据えていた。
その強気な振る舞いの裏には、何を抱えているというのだろう。
そして、自分に彼女の道を遮る権利があるのだろうか。


棚橋は小さく笑った。
馬鹿馬鹿しい。
いくら悪評高い奴ら相手だろうが、人の物を盗むのは悪だ。
そして俺は警察官だ。

しかし。
それだけでは割り切れないのも事実だった。
それじゃ何か? 理由を聞いて納得出来れば協力してやるってのか?
そんなことが出来るわけがないだけど彼女に何もしてやれないのかおかしいぞ
泥棒に何かしてやりたいと思っているのか俺はでもあの彼女の姿が頭から離れな


頭を掻きむしった棚橋の目に入ったものは、ラッピングされた妹への
クリスマスプレゼントだった。
それを一緒に選んでくれた香織の笑顔が棚橋を現実に繋ぎとめる。

「棚橋さん、これなんてどうですか? 毛足が長くて暖かそう」
「わぁー、棚橋さん棚橋さん、これ見て下さい、可愛いですよ」
「ふふっ、棚橋さんは妹さん想いなんですね。妹さんが羨ましいな」

棚橋はそのプレゼントをそっと触った。
そうだ、明日彼女に会いに行こう。
彼女が微笑んでくれさえすれば、俺はまだ戦える。

香織は、寝室で枕を抱きしめるようにして床についていた。
だが、襲ってくる眠気とは裏腹に目が冴えてなかなか寝付けない。
彼女は寝返りを打つと、抗うのはやめて浮かんでくる考えに身を任せることにした。

暗い部屋に独りでいると、息苦しく押し潰されそうになる。
それは十四年前のあの日からずっとだ。

あの日、自分は決意した筈だ。
この手でタロットの魔力から人々を護るんだと。
両親の遺志を継いで平和のために役立てるんだと。
そのためなら、この手が汚れようと、この身が切り刻まれようと構いはしない。
そう思っていた筈なのに、いつしか香織は傷つき道を見失っていた。
まるで満月が雲に隠れ、朧となるように。

生徒に人の道を教える教師を志しながら、その裏で盗みを繰り返す。
そこにどんな理由があったとしても、免罪符になどなりはしない。
義賊よ怪盗よと囃し立てられてはいるが、つまるところ泥棒ではないか。
自分が接している人たち全てを欺いている小悪党ではないか。

嘘。全て嘘。

男の目を奪う美しい姿だって、所詮は嘘で固められた自分の姿に過ぎない。
怪盗の容姿が噂にのぼるたび、貧弱で臆病な自分がどうしようもなく嫌になる。

「男や、オ・ト・コ。宝月にだっておるんやろ?」

茂木の脳天気な言葉が頭の中で反響する。
私だって。そう、こんな私だって。
あの日の棚橋のことを思い浮かべ、香織は枕を強く抱きしめた。

影山に恥辱を受けた自分を、何も言わないで抱きしめてくれた彼。
甘える子供のように泣きじゃくる自分を繊細に慰めてくれた彼。
降りしきる雨の冷たさから戸惑いながら護ってくれた彼。

彼の逞しい腕と、温かい体温を思い出すたび、顔が火照る。
できることならば、彼と一緒に歩いていきたい。
願いが叶うならば、彼の傍で微笑んでいたい。
けれど、その想いの後に訪れるのは、絶望だった。

彼は怪盗アンバームーンを追う警察官だ。
彼にだけは、自分の正体が知れるようなことがあってはならない。
知れたが最後、あの優しい眼差しを自分に向けてくれることはなくなるだろう。

彼に知られるのが怖い。どうしようもなく怖い。
それならば……いっそ彼と会うのを止めよう。
避けて、避けて、この想いを断ち切ろう。
彼は自分を嫌いになるだろうが、全ては嘘だったのだから。


だから……だからせめて夢の中だけでも。
いつしか眠りについた彼女の目からは、涙が一雫こぼれ落ちていた。






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