朧月怪盗アンバームーン 『世界』
シチュエーション


「何だって!?」

キキィーッ!!
ガクンッ!!

一台のパトカーがブレーキを軋ませて急停止した。
その車のハンドルを握っている棚橋は、フロントガラスに頭から
突っ込みそうになる体をシートベルトでむりやり押さえつけられる
衝撃に、車の動きが止まってからもしばらくゲホゲホとむせ続けた。
後部座席で寝転んでいる香織も運転席と後部座席の間に
落ちそうになりながら、それでもなんとか堪えたようだ。

「警部、警部、大丈夫ですか?」
「やっぱり本官が運転しましょうか?」

後ろからついてきていたパトカーからの無線が口々に入る。
棚橋は震える手でハンドルを握り直し、静かにパトカーを路肩に
駐車させてから缶コーヒーを啜ると、努めて冷静な声を
出すようにしてその無線に応答した。

「だ、大丈夫だ。悪いが……その、先に署に戻っていてくれ」
「そうですか……?それではここで地元警察は解散させます。
アンバームーンは現われなかったようですし問題ないでしょう」

彼を気遣う部下の無線が流れ、地元警察のパトカーは一斉に走り去った。
路上に残っているのは棚橋と香織が乗っているパトカーと、
その後ろに停まっている棚橋の直属の部下二人が乗っているパトカーの二台だ。
棚橋が後ろを振り返ると、部下は事情がわからないながらも
気をきかせているようで、素知らぬ顔でタバコをふかして待機している。
部下に心の中で礼を言いながら、棚橋は前へ向き直って話を戻した。

「それで……ご両親は……」
「はい……その十四年前の事件で……」

車中で目覚めた香織は、棚橋に全てを打ち明けた。
魔力を放出しきって疲弊した彼女の体を気遣う棚橋に、
どうしてもちゃんと聞いてもらいたいからと話し始めたのだ。
それは棚橋にとっては驚きの連続で、そして耳を塞ぎたくなる話だった。

子供のころ強盗に家族を殺されたこと。
それはすべて飯綱の差し金だったこと。
タロットの恐るべき魔力のこと。
世界を守るために怪盗となったこと。

彼女は疲労に喘ぎながらも、休み休みではあったが言葉を繋いだ。
棚橋の制止もまるで聞こうとはしなかった。
全てを話し終わったとき、彼女は涙を流していた。

「だから……私、悪い人なんです。犯罪者なんです。でも、でも……
捕まるならどうしても正弘、いえ、棚橋警部に捕まえてほしかったから。
それでも、全てを知ってか、ら捕まえ、てほしかった、から。
だから……これで、もう……」

そう言ったところで彼女は力尽き、深い眠りへと落ちた。
棚橋はあまりのことにどう受け止めたらいいものかわからず、
しばし呆然としていたが、おもむろに無線を手にとった。

「ああ、すまない。やっぱり運転を頼んでいいか?
ちょっとハンドルを握れそうにないようだ」
「了解しました。じゃあこの車は横山に任せて、
俺がその車を運転します。病院まででいいですね?」
「ああ、頼む」

後ろに停車していたパトカーの助手席から男が一人降りて
棚橋の運転席に駆け寄り、後ろから横山と呼ばれた男の運転する
パトカーが地元の警察署に向かって走り去る。
シートベルトを外してドアを開け、車を降りた棚橋は部下に
運転席を預けると、助手席に移動しようとしてふと空を見上げた。

「暗いな……呑みこまれちまいそうな空だぜ……」

見上げた夜空は闇に包まれ、月は雲に隠れていた。

子供の頃から、ヒーローに憧れていた。
ブラウン管の中で、悪の怪人や怪獣を時には格好良く、
時には傷つきながら倒していく正義のヒーローが活躍するたびに、
自分も大人になったらヒーローになるんだと目を輝かせていた。
学校の卒業文集に下手糞なイラストとともに書いたことだってある。
今振り返れば、臆面もなく「正義」という青臭い言葉が使えるのは
あの頃までだった気がする。

そんな自分もやがて成長し高校へと進学した。
人並みの人生経験を積んでヒーローなんてものはとうに信じては
いなかったが、それでも心の中にはいつでも正義への憧憬があった。
だから、将来警察官になることをいつしか心に決めていた。

もともと悪くはないと自負している頭で必死に勉強した甲斐が
あって、晴れて国家試験に合格した。
あのときは嬉しかった。
これで自分も悪を倒す正義のヒーローになれるんだと思っていた。
いわゆるキャリア組と言われる出世ルートだったが、
上のポストに目をギラギラさせる同期を醒めた目で見ていた。
偉い地位には興味がなく、あくまでも現場に携わっていたかった。
そうでないと悪を取り締まれないではないか。

叔父が古武術の道場をやっていて少年時代からやっていたことも
今思えば天の助けだったように思う。
数ある術の中で一番得意だった鎖鎌術をアレンジして独自に
投げ縄捕縛術ともいえるものを完成させた。
なぜ投げ縄を使うのか、と周囲から奇異の目で見られながらも、
雑音はすべて抵抗する悪人を捕縛することでかき消した。
一人、また一人と犯罪者を捕縛するごとに、投げ縄に対する嘲笑は消え、
代わりに信頼と畏怖を手に入れていった。

そう、すべては「正義」のためと信じていた。
だから頑張れたのだし、頑張ったのだ。
とはいえ犯罪者がすべて悪人なわけではなく、時には彼らの持つ
人の心に触れて思い悩むこともあった。
けれど、それを判断するのは自分ではない。
裁判で情状酌量を汲んでもらえばいいのだと割り切った。
それが法であり、正義なのだから。

だが、そんな信念の炎は今、くすぶり消えそうになっている。
後部座席で眠る彼女、アンバームーンの行ったことはどうだったのか。
確かに盗みを働いたのかもしれない。
もっと穏便なやり方があったのかもしれない。
けれど、盗んだ相手は彼女を傷つけた人間、悪党ばかりだった。
そして彼女の犯行はすべて、世界の平和を望むがゆえだった。

「悪」とはなんだ?
「正義」はどっちにある?
裁判にかけたとして、決して真実は明らかにされないだろう。
いたずらに彼女は傷つき、残されたカードによって世界は確実に狂う。
それでも俺は彼女を捕まえなければならないのか。
棚橋は俯いてじっと考えていたが、やがて顔を上げた。
前を見据えるその眼は、強い決意を浮かべていた。

「ん……んぅ……」

緩やかな風がそよそよと白いカーテンを揺らし、
窓からは昼過ぎの柔らかい陽射しが差し込んでいる。
白を基調とした清潔そうな病室で、香織は目を覚ました。
ぼうっとする意識と、靄がかかったような視界。
むくっと上半身を起こすと、靄を振り払うかのように
頭を軽く振ると、多少なりとも世界はクリアになった。

(あ、私……確かブッキを倒して……どうしたんだっけ?)

うまく働かない頭を叱咤して、なんとか記憶を呼び起こす。
どうやらここは病室のベッドの上のようだ。
淡い桃色の薄いパジャマのようなものを着せられ、
腕には点滴のチューブが刺さっている。
意識を失った自分を、誰かがここまで運んでくれたのだった。
誰だっけ……確か知っている人だ……。

見るともなしに視線を横に向けた。
そこには、自分をここまで運んでくれた張本人が椅子に
座ったままうつらうつらと舟を漕いでいた。

(正弘……?そうだ、私パトカーの中で正弘に……)

全てを思い出した香織の顔が強張る。
ブッキの仕打ちで棚橋に自分がアンバームーンであることを
知られてしまったことも、パトカーの中で自分の生い立ちや
盗みを働いた理由を打ち明けたことも、何もかも思い出した。

(チェックメイト、ね……)

幸いこの病室には他の患者はいなかった。
棚橋が寝ている今なら、逃げられるかもしれない。
しかし逃げたところで、素顔を知られてしまっている今は
明日から全国に指名手配の手続きが取られるだろう。
アンバームーンの正体が全国に知れ渡ってしまうだろう。
そして、どの道、もう棚橋に会えなくなることには変わりない。
それなら、いっそ棚橋の手で捕まりたい。
棚橋に手柄を挙げさせて、はなむけにしてやりたい。
迷いを捨てた香織は、強い意志をもって棚橋の肩を叩いた。

とんとん。

「むにゃ……んぁ?あ、香織。起きたのか」
「はい、棚橋警部……あの、その、か、覚悟はできてます」
「へ?……いったい何の話だ、香織?」
「お願いだからとぼけないでください……
怪盗アンバームーンとして私は自首すると言ってるの」
「ああ、そりゃ無理だよ香織。だって俺、もう警部じゃないから」
「……え?え?け、警部じゃないって……どういう……」
「うん、実は警察辞めてきたんだ」

時が止まったかのように、病室にひとときの静寂が流れる。
風がそよそよと二人の頬を撫でた。
だが、次の瞬間、その静寂は破られることになる。

「ええええええええッ!?ちょ、ちょっと正弘、
警察辞めたって、本当なの?何で?私のせい?」
「やっと名前で呼んでくれたか。でも香織、質問は一つずつに
しようぜ……。とりあえず一つ目はイェス、三つ目はノーだ」

予想外の展開にわたわたと慌てる香織と、その横で微笑んでいる棚橋。
香織を動揺させまいと、落ち着いている素振りを無理に演じている
棚橋だったが、あまりその効果は芳しくなかった。

「じゃ、じゃあ何でなの……?」
「言っただろ、『俺は香織の全てを受け入れる』って。
警察官って立場が枷になるようなら振り切るまでさ」
「そ、それじゃ、やっぱり私のせいじゃない……?」
「いや、違うさ。香織の『せい』じゃなくて香織の『ため』だ。
それにこれは警察に対しての俺なりのけじめでもある」

ぽふっ。
棚橋の厚い胸板に、香織が眼を閉じて寄りかかった。

「本当にバカなんだから……これからどうするの……?」
「あ、それは考えてなかったな。でも少しなら蓄えはあるし、
退職金と失業保険でしばらくは食っていけるさ」
「本当に……バカ……だよ……正弘ぉ……」
「ははは、香織も言うようになったなぁ」

恋人どうしの甘く穏やかな時間が流れていたその時。

ガチャッ。
「宝月さーん、検温の時間ですよー」

突然病室に入ってきた年配の看護婦の大きな声に、
二人は顔を赤くして慌てて体を離した。

それから二日後、香織は無事退院した。
もともと極度の疲労というだけだったので、点滴を打つぐらいの
軽い処置で済んだのだったが、それだけに棚橋が快気祝いにと
持ってきた花束がとても気恥ずかしかった。

「そりゃネブラスカシティまで車出してもらったのは
感謝してるけど……恥ずかしいよこんな大きな花束……」
「いいじゃないか、初めての入院なんだろ?」
「うん……でも車の中、すごい匂いだよ?」
「う……」

軽微な症状とはおよそ不釣り合いな大きな花束。
それを抱きかかえるようにしながら助手席に収まる香織に、
ゆっくりとハンドルを回しながら棚橋は真剣な表情を向けた。

「あと、一枚だな……タロットカード集めも」
「うん……あれ?でもそういえば『教皇』と『運命の輪』の
カードは私持ってないし……あ、それに他のカードも!」
「ああ、それなら心配しなくていい。
警察署に辞表出すついでに、ポーチに入っていた他のカードも
まとめて香織の家の執事さんに連絡入れて預けておいた。
優しそうな爺さんだな、香織のことすごい心配してたぞ」
「え?あ、そうなんだ……」

不意に黙り込んでなにやら考え込む香織。
それを不思議そうに見ながら、棚橋はアクセルを踏み込むと、
病院の駐車場から一台の車が街道へと飛び出していった。

二時間後。
はるばるルシアンバレーまで戻ってきた彼らの車は、
宝月家の駐車場へ入ると静かに停車した。
立派な門構えと瀟洒な造りの邸宅を見て、棚橋はくわえていた
タバコをポロリと落とす。

「す、すごい家だな……香織はお嬢様なんだ」
「ううん、そんなことない。お父様お母様の遺してくれた家ってだけ。
事件の後に引っ越すことも考えたけど、やっぱり思い出の
いっぱい詰まった家だからそのまま住み続けているの」
「香織……」
「行きましょ?せっかくだからお茶でも飲んでいって」

明るい声でそう言うと、香織は大きな玄関の扉を開けて中に入っていく。
少し遅れて後に続きながら、棚橋は嘆息した。

「あーあ……警察辞めたことだし、いっそ使用人として雇ってもらうか」

だがその軽口も、次の瞬間あがった悲鳴に掻き消された。

「きゃああああッ!!あ、あなたは……」
「どうした、香織ッ!?」

血相を変えて宝月家のリビングに入ると、そこには花束が無残な姿で
落ちており、花びらが舞い散っている床の上には三人の姿があった。
まずは香織。その顔は青ざめ、カタカタと震えている。
次に執事の神埼。以前会ったときと同じく穏やかな物腰ながら、
今はその微笑にどこか常人離れした凄みを感じさせていた。
そしてもう一人は……。

「飯綱……晃……!?」
「おや、もう一人舞台に役者が上がってきたようですね」

信じられないことだが、以前アンバームーンを陵辱した挙句
その報復として往来に全裸で投げ出されたあの飯綱がそこにはいて、
昔のままの芝居のかった口調を披露していた。

「それに執事も……どういう、ことだ……?」
「つまり、こういうことですよ。優しい警部さん」

神崎は穏やかな微笑を浮かべたままで、二人に見せつけるかの如く
ポケットから何かを取り出し、すっと右手を前に出した。
その手にはカードの束があり、すいっと指を動かすと
まるでマジシャンがトランプマジックを披露するときのように
カードの束が扇形に開いた。

「タロット……じゃねぇか……それがどうしたんだ?」
「ふふ、門外漢の警部さんはもちろんお嬢様にもお分かりありますまい。
つまりね、これがラストの一枚、『世界』なのですよ」
「え?『世界』ですって?か、神崎……どういうことなのですか?」

何が起こっているのか分からない漠然とした不安を抱え、
棚橋は香織の顔を窺ったが、それは香織も同様らしかった。
どうやら神崎は香織すら知らないカードの何かを知っているらしく、
しかも隣にいる飯綱の存在がそれが愉快なことではないことを伝えていた。
神崎は柔和な表情を崩すことなく、なにやら紙の束を取り出した。

「それではお嬢様、一から説明してさしあげましょう。
このノートと、この紙切れに見覚えはありますかな?」
「そ、それはお父様とお母様の研究メモ……と、
あッ!?それは研究メモの破られた残りではありませんか!?」
「ご名答。十四年前のあの時、私はこれを貴女より先に見つけていたのです。
当然でしょう、私があの覆面強盗団のリーダーだったのですから」
「なんてこと……か、神崎が……」

香織は青ざめながらもキッと強い視線を執事へと向けている。
その横顔に、棚橋は香織の意外な一面を見た気がした。
自分に仕えていた一番身近な人物に裏切られようとしているのに。
弱々しくて、華奢だとばかり思っていたが、その実、内に秘めた
気丈さはかつての部下である警官など足元にも及ばないだろう。
また、そうでもなければ一人の女性が怪盗稼業などできないのかもしれない。

「この研究メモによると、『世界』は他のカードをすべて融合させて
作り出すカードらしいのです。その能力はお嬢様もご存知でしょう?
願いを一つだけ、なんでも叶える能力です」
「カードを……融合ですって……?」
「そう、父上からそれを聞いたときは驚きましたよ。まさか宝月家から
強奪した財宝にそんな秘密があるとは知りませんでしたからね」

今まで神崎の横で不敵な笑みを浮かべながら黙っていた飯綱が、
二人の会話に割って入る。
香織はその言葉に何か小骨のような引っ掛かりを感じて、反射的に問い返した。

「今なんて……『父上』ですって……!?」
「ええ、神崎五郎は偽名です。……私の名は……飯綱剛蔵という」

その瞬間、今まで穏やかな笑みを浮かべ続けていた神崎、いや、
飯綱剛蔵の顔が歪み、代わりに凶悪そうな表情が浮かんだ。

「十四年前、宝月家にある値打ち物のタロットの噂を聞きつけて、
執事に成りすまして入り込んだというわけじゃよ」
「だから易々とタロットを強奪できたのね……何しろ身内がいるんですもの」
「さすがお嬢様、理解が早いの。まあ最初はタロットを盗んだら
おさらばするつもりだったんじゃが、偶然このノートを見つけてな。
そのまま執事として居座ることにしたのじゃよ。
何しろ代わりにお嬢様がタロットを全部集めてくれるようじゃったからな」
「それで、集め終わったら横からかっさらうってわけか……この小悪党が」

ギリッと歯噛みをする棚橋に、晃がにやにやとした視線を向ける。

「小悪党で結構。だが、そのおかげでこうして二十枚のカードが
集まったというわけです。お嬢様には礼を言わなければね」
「ちょっと待て、二十枚だと?」
「ええ、だから二十一番目のカード、『世界』を融合して……」
「だがタロットの大アルカナは確か二十二枚じゃなかったか?」
「ば、馬鹿なッ!?父上、どうなってるんです!?」

棚橋の思わぬ逆襲に、晃は狼狽して剛蔵の顔色を窺う。
だが、黙ったままの剛蔵の顔からは表情を窺い知ることができなかった。
そのとき、今まで様子を窺っていた香織が一枚のカードを取り出して言った。

「タロットカードは『タロット』と呼ばれるまでは『トライアンフ』と
言われていたそうよ。トランプの語源と同じね」
「貴様……何が言いたい……」
「その意味するところは『切り札』……これが私の切り札よ!」

そう言うと、香織はカードを胸に当てて意識を集中させた。
たちまち魔力が光となって溢れ出て、彼女の体を包みやがて収束していく。
そこからは、なんと怪盗アンバームーンの姿が現われた。

「そ、そんな馬鹿なッ!『月』のカードは確かにここに……」

あまりの展開に慌てふためく晃を、剛蔵が静かに手で制した。

「ふふ……『愚者』のカードじゃろう?」
「そうよ、怪盗アンバーフールってわけ。何かあったときのために
他のカードとは別にしておいて助かったわ。なんにせよ、
ここにカードがある以上は『世界』は融合できない」
「そ、そんな……」

計算が狂ったと思い込んだ晃は、意気消沈して床に座り込んだ。
しかし、剛蔵の表情は変わることなく、余裕すら浮かべている。

「寝惚けたか……?以前お前に『愚者』のカードの能力を
見せられたことがあったじゃろう?
そんなワシが『愚者』の存在を忘れるとでも思うたか?」
「け、けどこうして『愚者』はここにあるわ……!!」

香織も棚橋も剛蔵の狙いが分からず、不気味なほど余裕を
浮かべている目の前の老人に対峙することしかできずにいた。
それは晃も同じらしく、床に座り込んだまま剛蔵の顔を見上げて
次の言葉を静かにただただ待っていた。
次の瞬間、剛蔵は両手を大きく広げ、高笑いを始めた。
そのあまりの迫力に、香織はおろか棚橋まで気圧されてしまう。

「ふはははは、考えてもみろ、『世界』を融合させたとしよう。
例えば世界征服を望んだとして、確かにそれは叶えられるじゃろう。
じゃが、その瞬間カードは消える。何の力も持たないこの老人が
世界征服をしたとして、それは下克上に怯える日々に過ぎん。
それではつまらんじゃろう?」
「い、いったい何をする気なの……?」
「つまり、こうするのじゃよッ!!」

そう言うと、剛蔵はその手に持った二十枚のカードを両手で
包み込み、意識を集中し始めた。
二十枚のカードが色とりどりに光りだし、みるみるうちに
魔力が膨れ上がっていくのが肌で感じることができた。
やがて光が収束し、剛蔵が掌を開くとそこには、
『世界』と書かれた一枚のカードが出現していた。

だがやはり一枚足りないせいか、カードとしての形状を完璧には
保つことができずにところどころ歪んでしまっている。
また、魔力が漏れ出ていると見えて、カードの周囲をパリッパリッと
火花のようなものが光っては消えていく。
そのカードを胸に押し当てた剛蔵の体を激しい光が包み、
やがて山羊の角のようなものが頭に生えた剛蔵が現われた。
その体からは夥しい魔力が瘴気となって立ち昇り、その瘴気は
ほどなくしてルシアンバレー全域を覆うまでになった。

「い、いったい何をしたというの……?」
「ふん、敢えて不完全なまま『世界』を融合したのじゃよ。
願望を達成するという正規の能力は使えんが、それでも
タロット二十枚分の魔力はこれでワシのものじゃ。
この力でワシは世界を征服し、この世界の神として君臨する!!」
「させるかッ!!」

バキッ!!

怒り狂った棚橋の渾身の拳が、剛蔵の頬にめり込む。
だが、ダメージはまるで与えられていないようだった。
逆にその拳を掴まれて引き寄せられ、喉元を掴んで宙に持ち上げられる。

「ぐッ……ガッ……」
「正弘ッ!?」
「ワシの創り上げる『世界』には、ワシに刃向かう『愚者』はいらん!!」

ズボォッ!!

「がはッ…………ぐふぅ……」
「正弘ぉーーーッ!!」

棚橋の体を、剛蔵の抜き手が貫通した。
口から、腹部から、背中からどくどくと血が流れ出し、
棚橋は白眼を剥いて呻くと、やがて事切れた。
その体を床に投げ捨てると、剛蔵は言った。

「さて、どうする……?このワシに『愚者』を使ってみるか?」

問いかけられたアンバーフールはそれに答えることができず、
ただ床に打ち捨てられた棚橋の亡骸に縋りつき泣いていた。

「まさひろぉ……うぅ……まさ、ひろ……」
「ふん、抗わぬというなら、このまま大人しく死ぬかの?」

再び問いかけられたアンバーフールは、ゆらりと静かに立ち上がると、
涙に濡れた目をキッと棚橋の仇へと向けると、ようやく問いに答えた。

「……ええ……お言葉に甘えて使わせてもらうわ」

そう答えるとアンバーフールは意識を集中させる。
やがて彼女の手に込められた魔力がどんどんと膨れ上がり、
周囲の空気が歪んで見えるまでに増大していくのがわかる。

「おい、親父……あ、あれマズいんじゃないか……?」
「案ずるな。単なる目くらましの能力に過ぎん」
「……くぅっ……」

目の前で膨れ上がっていく尋常ではない魔力に恐れおののく晃をよそに、
剛蔵はどこ吹く風といった様子で『愚者』の能力を説明する。
自分の狙いを端的に説明され、アンバーフールの顔が歪む。
一度見せて目くらましとわかっている相手には、通じないのは道理である。
それでもアンバーフールはただただ魔力を込め続けた。
溜め続けた魔力は放出されるのを今や遅しと待っているようだった。

「くらいなさいッ!!」

グラッ。
彼女が手をこちらへ向けた瞬間、剛蔵は目眩のような感覚をおぼえた。
そして。

バキッ!!

その隙をついて、アンバーフールの渾身の跳び蹴りが
剛蔵の延髄に綺麗に決まった。
すかさず着地態勢に入った彼女だったが、その脚を剛蔵の手が掴む。

「きゃあッ!!」
「ふふふ……一瞬ヒヤッとしたがの。単なる跳び蹴りが今のワシに
通じると思うたか?」
「くっ……」

剛蔵が手を離すと、アンバーフールはドシンッと床に尻餅をついた。
無理もない、持ち主に驚異的な脚力を与える『月』の能力下での
蹴りであればともかく、ただの女性の跳び蹴りでは『世界』を
身に纏った剛蔵にダメージなど与えられようはずもないのだ。

「さて、晃。お前の受けた仕打ちの報復と行こうかの。
確かお前は往来で辱めを受けたのじゃったな」
「え……あ、ああ、父上。その通りです」
「それではこやつを同じ目に遭わせてやろうぞ。いや、もっと
酷い辱めを与えてやらねば気がすまんの」
「あ……あ……」

万策尽き果てた女怪盗は、こちらを舐め回すように見下ろす
二つの凶悪な視線に、怯えることしかできずにいた。






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