柚子の堕ちる冬至(前編)
シチュエーション


十二月某日、高田邸の大広間では、ゲストを多数
招いての盛大な立食パーティが行われていた。

クラシックの調べがゆったりと奏でられる中、
ドレスアップした紳士淑女がグラスを片手に歓談している。
円テーブルには豪勢なオードブルと上質なワインが用意され、
彼らの舌を滑らかにするのに一役買っていた。
しかし、ゲスト達は談笑しながらもどこか落ち着かない様子で、
上座の壇上をしきりに気にしているようだった。
その視線の先には、真紅のドレスを纏った年配の女性が、
富俗層特有の高慢な微笑みを浮かべてゲスト達を見下ろしていた。

彼女の名は、高田淳子。
このパーティのホストである。
ホテル事業を中心に一代で財を成した名士である一方で、
その悪どいやり口から黒い噂の類が絶えない人物でもあった。

だが、今宵に限ってはゲスト達の視線は彼女本人ではなく、
彼女の左手の豪華な指輪に向けられていた。
彼女もそれは承知しているようで、時折ゲスト達の方へ
手の甲を向けてこれ見よがしにアピールしてみせている。
その度に指輪に散りばめられた宝石がキラキラと輝き、
見る者全てにほうっと溜め息をつかせるのだった。

何故会場の全員がこれほどまでにその指輪を意識しているのか。
その答えは、事前に高田宛てに届けられた一通の手紙にある。

「○月×日、『アフロディーテの涙』を戴きに参ります。
怪盗オレンジペコー」

貧富の格差が著しいこの街に、怪盗オレンジペコーと名乗る
一人の盗賊が出没するようになって久しい。
鮮やかな手口で悪どい資産家から富を奪ってゆく謎の盗賊を
庶民は義賊としてもてはやし、日ごろの鬱憤を晴らしていた。
そして文面にある『アフロディーテの涙』とは、
淳子の左手の指輪につけられた名前である。
つまり、これは怪盗からの予告状に他ならなかった。

「本当に来るんだろうね、その怪盗オレンジペコーとやらは?」

とうとう我慢できなくなったのか、口髭を生やした恰幅の良い男が
サラミを頬張りながら淳子に近づき、核心の疑問をぶつけた。
形式上は単なる晩餐会かもしれないが、
俺達が何を見に来たかってことぐらい分かっているだろう。
そういう内心が透けて見える、不謹慎で不躾な質問であった。

「間もなく来ますわ、予告状の日付は今日ですもの」
「しかしこんなに大勢の人間がいるんだ。
怪盗が怖気づいて逃げ帰ったとしても不思議はあるまい」
「あら、その方が私としては助かるんですのよ?」

淳子が悪戯っぽく微笑んだ瞬間、
突然全ての照明が消えて、大広間が闇に包まれた。

「なんだ!?」「痛いッ」「おい、押すなよ!」

闇の中でゲスト達の狼狽した声がひとしきり聞こえた後、
非常灯が点灯して大広間を薄暗く照らした。
視界が戻ったことにより混乱は収まったようだが、
異常事態に対する不安は会場に色濃く残っている。
やがて、一人のゲストの女性が大声を上げた。

「淳子様、指輪が!?」
「キャッ!?ゆ、指輪が……指輪がないわ!?」

淳子は左手の指輪が忽然と姿を消しているのに気づくと、
悲鳴をあげてあたふたと取り乱した。
しかし、淳子も一代を築いた人物である。
すぐに狼狽を恥じるかのように軽く咳ばらいをすると、
いつもの余裕を取り戻して言った。

「やってくれるじゃない、こそ泥さん」

淳子の睨みつけるような視線の先には、
照明が落ちる前に淳子に近づいた、口髭の紳士がいた。
その右手には、つい先ほどまで淳子の左手を彩っていた
『アフロディーテの涙』がキラキラと輝いている。
苛立ったゲストを演じて淳子との距離を詰めておき、
先ほどの停電による混乱に乗じて奪い取ったに違いなかった。

「やっと気づいたの?待ちくたびれちゃった」

紳士は淳子の糾弾に対して急に高くなった声で返すと、
ニヤリと笑ってその顔を左手で掴み、身を翻した。
ベリベリッ!
衣服の破けるような音がしたかと思うと、
それまで紳士が立っていた場所に、一瞬にして別の人間が現われた。

驚いたことに、人々の眼前に現われたのは、
せいぜい十代後半ぐらいにしか見えない華奢な女の子だった。
「怪盗の正体です」と紹介されて「はい、そうですか」と
すぐさま納得する人は恐らくいないだろう。

邪魔にならないよう後ろで束ねられたダークブラウンの長い髪。
オレンジ色のマスクによって目こそ隠されているが、
その下の美貌を隠すことはまるでできていなかった。
とうとう正体を突き止められたというのに、
ピンク色の小さな唇は余裕の微笑みを形作っている。

さらに人々の目を惹いたのは、少女のコスチュームである。
オレンジ色で統一されたベストにミニスカート。
ベストの下に着ている白いシャツと黒いネクタイが、
少しフォーマルな印象を醸し出している。
ミニスカートから下に視線を移すと一瞬太腿が覗き、
そして黒いニーソックスによって再び覆われている。

総じて人目を忍ばなければならないはずの怪盗には
およそ似つかわしい服装とは思われなかったが、
少女の若く健康的な魅力には不思議とマッチしていた。

「は、あはは……怪盗オレンジペコーが
まさかこんな可愛い子猫ちゃんだったなんてね」

突然の変わり身に目を白黒させているゲスト達と同様に、
さすがの淳子も驚きを隠せないでいる。
しかしそれも一瞬のことで、すぐさま険しい顔つきに戻ると、
淳子はおもむろに右手を高く上げた。
それを合図に数人のゲストが機敏な動きで少女を包囲すると、
一斉に拳銃を構えて狙いを定めた。
大広間のドアからは制服の警官がどやどやと入ってきて、
少女の周囲を幾重にも包囲した。
哀れ、怪盗少女はまんまと罠にかかったのである。

「もう逃げられないわ、観念しなさい」
「うーん、これはちょっとマズいなぁ……」

勝ち誇ったように投降を勧める淳子に対し、
怪盗少女はその台詞とは裏腹にのんびりした様子で呟くと、
ベストの下から一個のオレンジを取り出して床に置いた。

「何をする気ッ……うっ、ゲホッゴホッ!」

ぷしゅー。
床に置かれたオレンジからは橙色の煙が立ち昇り、
その煙は瞬く間に大広間全体に広がって視界を奪った。

「ゴホッ、撃って!撃つのよ!!」
「だ、駄目です、ゲホッ、こんな状況じゃ同士撃ちします!!」

警官達が慌てて窓を開けて煙を外に出した頃には、
怪盗少女はその姿を忽然と消していた。

「ふう、逃げられちゃったわね、残念だわ」

ひとしきり騒いだ後、急に諦めたように
シガレットに火をつける淳子の様子を見て、
呆気に取られたゲスト達が駆け寄る。

「い、いいんですか?淳子様……その、指輪がっ」
「ふふふ、お馬鹿な子猫ちゃんは放っておきなさい。
あれは二束三文のイミテーション、本物は銀行の貸金庫の中よ」

淳子は事も無げにそう呟くと取り巻きを押しのけ、
壇上からゲスト達に向かって高らかに宣言した。

「皆さん、怪盗オレンジペコーは今まさに盗みに失敗したのです!
本日のパーティーの趣向としては上出来ではありませんこと?」
「お、おおお……」
「さすがは淳子様だ」

パチパチパチ……。
ようやく事態が飲み込めたゲスト達が賞賛の拍手を贈る。
その拍手を一身に受け、淳子は勝利の味にうっとりと陶酔していた。
しかし、取り巻きの一人がそっと近寄りある物を手渡した瞬間、
淳子は奈落の底へと突き落とされることになった。

「淳子様、実はあの怪盗が立ち去った後にこんな物が」
「何なの、このみすぼらしいカードは?
なになに……『本物を戴いてもちっとも構ってくれないので、
ついでに偽物も戴いていきます。怪盗オレンジペコーより』
……ですって!?」

警察が慌てて外へ駆け出すのと同時に、淳子は卒倒した。


淳子が置き手紙に気づいて高田邸が大騒ぎしているちょうどその頃、
怪盗オレンジペコーは少し離れた所にあるビルの屋上にいた。
先ほど高田邸で見せた余裕ぶりとはうってかわって、
真剣な表情で眉を寄せ、柵にもたれて夜空を見上げていた。

「由美……これで少しは仇、取れたかな……?」

怪盗オレンジペコーが寂しげに大きな溜め息を漏らすと、
冬の空に白く立ち昇って、消えた。

それは二週間前のこと。
末次 柚子は親友である柴田 由美とファーストフード店に来ていた。
高校のラクロス部の帰りにちょっとだけ寄り道をして、
お喋りに花を咲かすのが二人の楽しみだったのである。
しかし、いつもなら他愛もない話で盛り上がる二人が、
その日に限っては真剣な表情で、涙ぐんでさえいる。

「嘘でしょ、由美?そんな、突然転校しちゃうなんて……」
「柚子……ありがとね。でも、仕方ないの」

由美は諦めたような表情で俯くと、ホットコーヒーの
紙容器を両手で挟み、凍えた手を暖めた。
柚子は「そんな!」と大声を挙げた後で、
何か事情があるのだろうと思い直し、努めて優しい声で尋ねた。

「ねえ、何があったの?私にも話せないこと?」
「ううん……お父さんがね、倒れたの……心労だって」
「え!?だ、だってこの間会った時は元気そうにしてたじゃない」

由美の父親は郊外で工場を経営している。
小さな工場なので、所長とはいえ従業員と一緒になって
汗と油にまみれて働いているのだが、そんな彼の姿は
働く男といった感じで、柚子が見ても格好良かった。
事実、妥協を許さない確かな仕事ぶりは、
取引先からも評判が良かったらしい。

「うん……でもね、あれから高田グループがうちの工場の土地が
欲しいって言ってきて……ずっと立ち退けって言われてたの」
「そんな!そんな自分勝手な話許せないわ」

自分のことのように拳を震わせて怒ってくれる親友の目を、
由美は哀しそうに見つめて、それから首を振った。

「最初はね?お父さんもバケツの水をぶっかけて
追い返したりしてたんだけど……怖い人達が来るようになって、
従業員の人達が怪我させられたりしてどんどん辞めていって……」

そこまで聞いたところで、柚子は理解できない様子で
由美の話にストップをかけた。

「え?でもさ、高田グループは由美の家の工場が欲しいんでしょ?
従業員の人を辞めさせたりするのはおかしくない?」
「違うの柚子。高田グループが欲しがってるのは工場じゃない、
うちの工場が建ってる土地だけなのよ。
なんでも、高田家専用のゴルフ場を作りたいんだって」

……何ということだろう。
由美の父親は自分の工場に、自分の仕事に誇りを持っていた。
そんな工場の技術を欲しがって傘下に入れようとするのなら、
それでも許せないけど、まだ話は分かると思う。
しかし、単なる遊びのための土地が欲しいだけで、
人々が一生懸命に働いている工場を潰そうとするなんて。
由美の父親の無念さが、分かるような気がした。

「だからね、柚子。もういいの。
親戚が遠くで工場をやっていて、誘ってくれたんだ。
一緒ににやらないかって。だからね、もういいんだ」

そういう由美は、辛そうに笑っていた。
涙を見せまいとするその姿が、余計痛々しかった。

(……全然よくないよ。私が、この怪盗オレンジペコーが、
少しだけだけど由美の仇を討ってあげるね)

その晩、柚子は予告状を作った。
ターゲットは高田グループの代表、高田淳子。
すべては親友の仇討ちのために。
貧しきを虐げる富俗層に一矢報いてやるために。

――ひゅう。
冷たいビル風が頬を撫で、怪盗オレンジペコーは我に返った。
いくらお気に入りのコスチュームだとはいえ、
この季節にミニスカートはさすがに冷える。

(早く帰らないと、風邪ひいちゃうな)

ぶるっと体を大きく震わせ、踵を返して帰ろうとした丁度その時、
男達が数人、ビルのドアを開けて屋上に上がってきた。
黒いスーツにサングラス姿の男達はオレンジペコーを
ぐるりと取り囲むと、ファイティングポーズを取った。
力の入れ具合を心得た、まるで隙のない構え。
スーツの上からでも分かる鍛え上げられた体。
高田邸にいた護衛とは段違いの手練れであることがひと目で分かった。

(――まずい、使えそうな道具はもうないわ)

頭の中で警報が鳴り響き、冷や汗が背筋を伝う。
これまでくぐってきた修羅場によって身についた感覚が、
目の前の状況を最悪だと告げている。
こんな所で感傷に浸っていないで、さっさと帰ればよかったのに。
オレンジペコーは自分の浅はかな行動を悔やみ、唇を噛んだ。
でも、やっぱり分からないことがある。それは、

「どうして自分の居場所が分かったのか、って顔だな」

リーダー格らしい男がその疑問を先取りした。
まさか図星ですとも言えず、オレンジペコーはただただ
男達を睨みつけることしかできなかった。

「ふん、分からないか。
実は指輪の入ったケースに発信機を取り付けておいたんだよ」
「――あっ」

自分の犯したミスの大きさに気づき、怪盗は小さく声を上げてしまった。
そんな反応がおかしくてたまらないといった様子で、
男達はにやにやと下卑た笑いを表情に浮かべている。

「そして、この事は淳子様にも内緒にしておいた。
敵を欺くにはまず味方から、ありきたりな策ではあるが
お馬鹿な怪盗さんは見事にハマッてくれたってわけだ」

「……話はそれで終わりかしら?」

罠にはまったことを悔やんでも仕方ない。
そしてこうなれば肉弾戦で活路を見出すしかない。
そう判断したオレンジペコーは決死の覚悟を決めると、
すうっと重心を低くして身構えた。

「があッ!!」

奇声を挙げて勢いよく前に出た男が右ストレートを放つ。
それをすれすれで避けると、カウンターで肘を鳩尾に入れる。
胃液を吐いて倒れ込む男に対して一瞥もくれず、
すぐさま華麗なステップで後ろに跳ぶ。
すると、今までオレンジペコーのいた場所を別の男の蹴りが襲った。
蹴りを外して少しバランスを崩した男の懐に入り込むと、
背負い投げで男の背中をしたたかに打ちつけた。

が、攻勢もここまでだった。
背負い投げを放った隙に、忍び寄っていた男に
後ろから羽交い絞めされてしまったのだ。
組み付かれてしまっては男女の力の差は歴然であり、
いくら振りほどこうとしても男の手は緩むことはなかった。
そして目の前にリーダー格の男がゆっくりと近づいて、

ズムッ。

今度はオレンジペコーの鳩尾に男の拳が食い込む番だった。
オレンジペコーはたまらず苦悶の表情を浮かべると、
ずるずると崩れ落ちて意識を失った。






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