シーフクラフト〜怪盗トランプの栄光 序章『怪盗』
シチュエーション


夜も深いカシノシティを見渡している影に、一人の警官が大音声で声を投げる。

「今日こそは貴様に手錠をかけてやる!」

その言葉に、優雅な動作で影が応える。

「出来るものならやってみせてくださいませ? のろまなカメさん方」

夜の端にまで響き渡りそうな可憐な声音で言ったのは、まだあどけなさを残した少女であった。
夏と秋の挟間の闇に溶け込みそうな漆黒の衣服に身を包んだ彼女は、挑発するような物言いで警官を見下ろしている。。
数多の警官が取り囲む屋敷は、カシノシティでは知らない人のいない、寿新蔵の弟、寿荘蔵の邸宅だった。そして夜闇を吸い込んだような瓦屋根に一人立つ少女こそ、今カシノシティを湧き立たせている立役者だ。
夜の黒と服の黒。
その中で淡い月明かりに浮かぶ白い顔には、鈍く光を跳ね返す仮面が着けられていた。
仮面は蝶を思わせるデザインで、その銀色はカシノシティの暗黒面を照らすと言われている。

「怪盗風情が図に乗るなよッ! 屋敷の周りは貴様の想像以上に警官が取り囲んでいる。逃げ切れるとは思わないことだな」

口角に泡を浮かせながら、脂ぎった顔を紅潮させた警官が喚く。その必死さを上回る滑稽さに、怪盗と呼ばれた少女はくすりと笑ってしまう。
怪盗少女はちらりと視線を屋敷の周りにめぐらせる。一人の少女に警官が約五十人とは、いささか美学に欠けている。これで逃げられないと思われているということに、彼女は少々鼻白んだ。
あたりを囲んでいる警官は、ヘルメットとガスマスクを装着しているだけだ。今日で何度目の相対だと思っているのだろう。公安は美学以前に、学がないようだ。

さて、と少女は頭の中で逃走プランを組み立てる。
前回が煙幕を使って逃げたから、阿呆な警官たちはヘルメットにマスクを装備しているのだろう。
ぐるりと囲まれている事から、その対策と思われる。
まったくと彼女はにやりとほくそ笑んだ。
夜の闇の中、目一杯見開かれた目は恰好の獲物だとなぜ気付かない?
少女はどこからともなく、しかし警官たちに気付かれない素早さでカードの束を取り出した。
背面に描かれた図形が、今日も彼女を彼女たらしめている。
そのカードを、流れるような動作でばら撒いた。
ふわりと、不規則な軌道を描きながら落ちてゆくカードの群れに、警官は一瞬、釘づけになった。
その瞬間を突いて、彼女はいつのまに忍ばせたのか、掌に置いたサイコロをそっと足下に落下させた。
ぱっ、とあたりがまばゆい閃光に包まれて、警官たちはこぞって「うっ」と目を刺激された。
矢のように夜空を貫いた光は、宙を舞うカードにも反射をし、屋敷を一瞬だけ真昼の明るさに変えた。
数々の怒号が飛び交う中、警官がつ、と見上げた屋根の上に少女の姿はなかった。

ばら撒かれたトランプの中に、一枚だけ予備と思われる白紙のカードがあった。そこには、

『ごめんあそばせ』

といかにも女子らしい筆跡で書かれていた。
裏返せば、そこには天秤の図形が描かれている。
しかし平等を示すでもなく高い低いがはっきりとした天秤の受け皿には、低い方に荷物が、高い方には何も載っていないという奇妙な絵柄だ。
貧には財を、富には罰を。
それを端的にあらわした図形だと、人々は言った。
その不思議なトランプを残していく怪盗を、カシノシティの住民――とくに貧民たちはこう呼んだ。
怪盗トランプ、と。

「ねえねえ、昨日も出たんだって」

教室の中心で話に花を咲かせるのは、クラスでも目立つ女生徒だった。
もっとも、このクロンダイク女学院に男性は教師しかいないのだけど。

「出たって?」
「やだ、あんたってばニュースも見ないわけ?」

和気藹々とした雰囲気で彼女らはおしゃべりを続ける。女という生き物はどの年代においても世間話が大好きらしい。
その会話に無意識に耳を傾けながら、神沢揚羽は手元の小説に目を落としている。

「怪盗トランプが、あの寿弟の屋敷に出たらしいわよ」
「うそ、あの寿?」
「そうそう、あの嫌味ったらしそうな顔した成金親父」

その言葉が出るや、わっと一団が盛り上がった。
寿弟――名を寿荘蔵は、コトブキグループの代表の弟で、その気性の荒さと強面で知られていた。
コトブキグループ。
レアアース代替技術を生み出し、この国に巨万の富をもたらした救世主。
希少土に代わる新物質の人工開発には世界が注目し、彼は一躍時の人となった。
彼は世界的な地位と名誉、そして世界でも五指に入るという屈指の財を手に入れたと言われている。
そして彼は人一倍欲深い人間で、この新技術の開発に至っても様々な無理を通してきたことでも知られている。
社員の過重労働や、脱税、賭博など、あらゆる悪事にも精通しているとメディアはこぞって言っているが、具体的な証拠が何一つ出て来ず、結果メディア側の信頼が落ちたことは耳に新しくはない。
しかし揚羽は、それがまったくの嘘でないことをさる筋から聞き知っていた。
裏賭博場の経営や風俗店の経営を影から牛耳っているらしいこと。
違法な行為を金銭によってもみ消しているということ。
楽しそうに怪盗トランプとコトブキグループの話をしている彼女らを一瞥することなく、揚羽はじっくりと小説を読み進めた。

学校を出た揚羽は、その足であるレストランバーにやって来た。
店の看板には『フラリッシュ』という文字が、西洋風の字体で書かれている。
オーク調の扉を開けて中に入ると、長身痩躯の男性がグラスを磨いているところだった。

「マスター、アイスティーを一つ」

慣れた動作でスツールに腰掛け、揚羽はくるくるとスツールで回りながら言った。
そのいかにも少女らしい振る舞いに、灰色に染まった髪を後ろに撫でつけたマスターは笑みを返した。
ことん、と置かれたアイスティーの透き通った茶色を見つめながら、揚羽は呟くように言う。

「情報は?」

すかさず、マスターは二枚の紙をアイスティーの横に扇状に置いた。
一枚目は先日、怪盗に入られた寿荘蔵の兄、寿新蔵の顔写真と略歴が印刷された紙だった。そこにはカジノ経営などの違法性を説いた文言もある。
二枚目は、当の寿新蔵の邸宅の間取り図だ。新蔵の屋敷は平屋で、荘蔵の家と違って二階はなく屋根も低い。代わりに地下があり、そこに財を保管しているともっぱらの噂だ。
それらに目を通すと、揚羽はふっと笑みをこぼした。

「びっくりするくらい、無警戒なのね。警備員も外にいなければ、ろくにセキュリティシステムすらないじゃない」

あるのはちゃちな防犯カメラくらいのもので、とてもじゃないがあのコトブキグループの会長の邸宅とは思えない。

「まあ、だからこそ、裏賭博や風俗を隠しやすいってことなのかしら?」

まさかとは思ったが、どうやら揚羽の考えは当たっていたようだ。
寿新蔵は、自らの屋敷内で違法な賭場などを営んでいる。

「まさにブラックボックスね」

唇に手を当てて、揚羽は額にしわを寄せる。それらの売り上げが今の寿の栄光の土台だと思うと、にわかには手放しで喜べない。汚い金の上に立つ金の城なんて、まがい物も良いところではないか。
資料を鞄に入れ、汗をかいたグラスの雫を細い指ですくい取る。
グラスを傾けてアイスティーを飲み干すと、代金を置いて揚羽はさっと店をあとにした。


夜になり、揚羽は窓を伝って家の屋根に登る。
黒いストッキングに包まれた細い脚を夜風が撫ぜ、短めのスカートの裾をはたはたと揺らす。
揚羽が身につけているのは、普段では絶対に着ないようなゴシックロリータ風の衣裳だった。
ブラウスとフリルのついたカーディガンは黒を基調としていて、スカートは白が目立つデザインになっている。
底の厚い黒靴をカツンと鳴らす。
何よりも揚羽が気に入っているのは、頭に載せたミニハットだ。被るほど大きなものではなく、頭よりも小さい。
ふわりとしたリボンをあしらったミニハットは、斜めにかぶってみると何となく愛らしい。
じっと寿新蔵の邸宅の方角を睨み、揚羽は笑う。
今日もまた、華麗な蝶のように夜空を舞ってやろう。
どこからともなく取り出した、蝶をあしらったデザインの、顔の半分を隠す仮面をつけると、揚羽はぺろりと唇を舐めた。
そして神沢揚羽は――怪盗トランプは暖かくも涼しい夜風を切りながら、闇の中を舞うように跳んだ。
この時はまだ、怪盗トランプを待ち受けている運命を知るものは一人を除いてはいなかった。






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