シーフクラフト〜怪盗トランプの栄光 一章『侵入』
シチュエーション


「ふうん……ここが寿新蔵の邸宅、か」

見上げれば、高さでは寿荘蔵の屋敷には遠く及ばなかった。
圧倒されたのは、その敷地の広さだった。どこにこんな土地があったのかと疑うほどだ。

「しっかし、本当に警備が薄いこと。いや、無警備と言うべきかしら」

寿新蔵の邸宅近くの、木の枝に乗って実を隠しているとはいえ、門番の一人すら立っていない。
それどころか木々の方が屋敷の壁よりも高く、このまま塀の向こうへ軽く跳べば易々と侵入出来る。

(あまりにも……手薄だわ)

トランプは先の資料の内容を頭で反芻する。
寿新蔵の、人となり。
自らの欲望に忠実で、その達成のためならば何ものも惜しまない性格。
かのコトブキグループの技術力のたまものか、急速な経済発展を遂げたこの国は世界的に豊かになった。
それでも解決しない問題は多い。
最たるは、より振り幅の大きくなった貧富の差だ。
今やこの国随一の財力を誇る寿は気にかけてすらいないのかもしれないが、実態はあまりにも凄惨だった。
存在しなかったスラム街が出来るや否や、またたく間に富裕層との明確な壁が出来あがってしまった。
蜜を吸うだけの人間はいつだってそこに存在していて。
いつだってその割を食う存在があるのだ。
そんな折、悪しき手段を用いて儲けていた人間に手を出した人がいた。
自らを『怪盗サルバトーレ』と名乗り、非合法な手練手管で甘い蜜を啜っていた人間に罰を下したのだ。
そして驚くことに、渦中の人はその財を貧民窟にばら撒いたとされている。
ゆえに、このカシノシティ近辺では、怪盗が脚光を浴びる存在となっている。
おおよそ二十年も昔の話で、トランプは生まれてすらいなかったが、今でも怪盗たちの間では伝説のまま生きている。
その怪盗は掟を残したと言われている。

いわく、怪盗は大衆を楽しませねばならない。
いわく、怪盗は素顔と素性をさらしてはならない。
いわく、怪盗は世に背いている事を忘れてはならない。

この三つが、今の怪盗たちの精神、いや、怪盗の在り方そのものを作ったとさえ言えよう。
ゆえに、怪盗には正装が義務付けられている。

一つは目立つ服装や外見であること。
一つは姿を隠すための衣裳であること。
一つは顔を見せないために仮面を着用すること。

それらがあるから、トランプを含めこの国の怪盗たちはみな、怪盗と日常というダブルライフを送っているのだ。
皮肉なことに、当時、怪盗サルバトーレに財を奪われたのは、現在ほどの富力こそなかった寿家。
寿の家系はきっと、初代から末代まで汚い金に関わっている。
トランプはそんな寿に、一矢報うために大きく息を吸い込んで吐いた。
人となり。
そして、もう一つ資料に書いてあった。寿新蔵にまつわる噂だった。
寿新蔵は怪盗に対して異常な執着を見せている。屋敷内には数多の罠が仕掛けられていて、つかまってしまったら最後。
今まで、何人かの怪盗が寿家に侵入したとは、トランプもマスターからの情報で知っている。
それでも。
ぐっと、トランプは足に力を込めて、音のない動作で木から塀に向かってジャンプした。
怪盗少女は、静寂を引きのばすようにひっそりと寿新蔵の邸宅というブラックボックスに足を踏み入れた。

寿の邸宅は豪奢のひと言に尽きた。
鏡のように像を結ぶほど磨かれた木の床は、傍目にもお金がかけられているのが分かる。
鴬張りということはないようだが、たとえそうであっても逃げ切る自身がトランプにはあった。
ふわりとスカートを揺らせながら、音をたてないように、けれど素早い動作で廊下を進む。
部屋の至る所で香でも焚いているのか、心地よい甘美な香りがトランプの鼻を膨らませる。

(さすが成金、いいお香を使ってるわね)

進めど進めど、人の影すら視界には入らない。無人の邸宅なのでは、と疑ってしまうほどだ。
トランプはマスターから貰った邸宅の間取り図を頭に浮かべる。
典型的な家屋で、外側はほとんどが廊下で一周できる。

(たしか地下への入り口は……)

大きな庭には池や灯篭が品よく配置されている。
驚くことに、石庭まであるようだが、そちらは反対側なのでお目にかかることはないだろう。
トランプは目印のししおどしを左に捉え、あたりを警戒しつつちらりと右に神経を集中させる。
木目の引き戸を背にしているため、背後にある部屋の障子にこちらの影は映っていないはずだ。
ここからも、どこか桃の香りを思わせる匂いが漂ってくる。
地下室はこの部屋――間取り図によれば『龍の間』から通じていると記されていた。
古風な囲炉裏に仕掛けが施されていて、そこから入れるとのことだ。
トランプは耳を澄ませてみたが、静寂しか感じられなかった。
そろりと引き戸から顔を少し出して部屋をのぞくも、灯りが付いているだけで人の影は見当たらない。
この部屋に入るには、障子張りの扉を開けるしかない。
その為、この扉を開けたら。という仕掛けがあっても何ら不思議ではない。
警戒しつつ、なさねばならぬと自らに言い聞かせ、トランプは慎重に障子張りの扉をスライドさせる。
一センチ、二センチと徐々に光と、籠った甘い香りが漏れ出てくるも、何がしかの仕掛けが動いている気配はない。
決意をし、トランプは音をたてないように一気に引き戸を開けた。
中には、誰もいなかった。
あるのは情報通りの囲炉裏と、新しそうな畳、掛け軸や壷といったものばかりだ。

(ここにも……いない?)

明らかにおかしな状況だった。
周囲に神経を注ぎつつ、一つ一つ、部屋の物を検めていく。
掛け軸の裏や、壷の中には何もなかった。

「あとは……囲炉裏だけ」

そして囲炉裏をぐるりと一周しようかとした時、ずぶりと足が沈んだ。

「ッ!!」

咄嗟に片足を引いたものの、その中から伸びてきた手に細い足首をがっしりと掴まれる。

「やっ、放しなさいよ!」

トランプはカードを取り出すと、それを抜けた畳の下へと鋭く投げた。

中からくぐもった呻き声が聞こえてきて、いよいよトランプにも状況がつかめてきた。
囲炉裏は正方形をしていて、地下に行くならばここから梯子か何かで、と考えていたのだ。
しかしそれは間違いだった。
トランプは決死の思いで手を振りほどくと、一目散に戸外へ出ようと試みたが、

「な……な、に、」

がくんと膝が落ち、頭が中から揺すられるような激しい眩暈に襲われた。
一瞬、お香が原因という発想が脳裏を駆けた。
けれど怪盗になるために、トランプは睡眠薬や痺れ薬などに対する訓練は済ませている。
並大抵の、それこそ通常の薬物でこのような状態に陥ることはないと思っていた。

「やれやれ、まったく怪盗というのは格式ばっていて、実に驕り高い種族だな」

震える頭を声に向ければ、そこには豊かな髭を蓄えた老人が立っていた。
その顔には、見覚えがあり過ぎていた。
今回の標的でもあり、先日、トランプが怪盗に入った人間の上に立つ者。
寿新蔵、その人だった。

「――ど、どう、し、て」

顔を苦痛に歪めながらも、トランプは新蔵を見上げて訊ねる。
歯を食いしばり、恨めしそうにしているトランプを見て、新蔵はにたりと不気味な笑みを漏らす。

「だから貴様らは驕っているというのだ。正義のためとかいう標榜を掲げて、まったく下らん」

新蔵はトランプの元に歩み寄ると、予備動作なしで彼女の腹部につま先をめり込ませた。

「うッあ」

鈍い痛みが広がり、しかし手で押さえることもできずにトランプは呻き声をあげた。

「おい、やれ」

新蔵が顎で芋虫のように這いつくばっているトランプを示すと、傍らに立つ男に命令を下した。
男は小瓶を取り出すと蓋を開けて、息を求めて喘ぐトランプの口に何かの液体を飲ませた。

「んうっ」

トランプの抵抗虚しく、その熱くどろっとした液体は彼女の喉を通りすぎていった。
薄らと暗くなっていく視界の隅で笑う老人の顔が、妙に憎たらしかった。
トランプの意識は、そこで途切れた。






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