次期当主はメイドさん!?
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シチュエーション


「す、すみません。目覚ましを止めてしまったみたいで……」

あらかじめ考えておいた言い訳をする。

「あらあら……たしかに春眠暁を覚えない時季だしね。あ、でも紫さんの場合は、遅くまでお勉強してたからかな?」

穏やかな気性のメイド長は別段怒ってはいないようだ。
そもそも、この朝餉の支度の手伝いは、紫が自主的にやってることなのだから、2、3日サボっても差し支えはないだろう。
それでも、律儀に代理として葵を寄越す紫も紫なら、それに従う葵も葵、似た者同士の生真面目さんなのだろう。
もっとも、目の前のメイド長には、今の葵は「紫」に見えているワケだが。

「ええっと、今からだと何をお手伝いしましょうか?」

紫の格好をした葵(ややこしいので、以下「ゆかり」と表記する)は、テーブルを見渡したが、すでにほとんどの料理は出来上がっているようだ。

「うーん、あとは焼き魚だけだけど、それも焼き上がるのを待つだけだから……あ、お漬物を切っておいてくれる?」
「はい、わかりました」

味付けその他の難度の高い作業を任せられなかったことに「ゆかり」はホッとした。

こう見えても(いや、見かけ通りという説もあるが)家庭科の成績は優秀なのだ。
沢庵やキュウリ、茄子の漬物を切って盛りつけるくらいならわけない。
流しのそばの調理台にまな板を置き、鼻歌混じりに包丁を使う「ゆかり」。
1分と立たずに、皿には色鮮やかな漬物が盛り付けられていた。

──が、それをビックリしたような目で見るメイド長。

「紫さん、腕を上げたわね。いつもは、いちいち確認しながらゆっくり丁寧に切り分けてるから結構時間かかるのに」
「!あ、あはは……練習、したんですよ、これでも」

忘れていた。紫の数少ない欠点……と言うか不得意なジャンルが料理だったのだ。
無論、あの優等生で努力家の紫のことなので、料理が全然出来ないとか激マズな代物が出来上がる──ということはない。正確には、この屋敷に来た当初はそれに近かったのを、根性で克服したのだが。
とは言え、掃除や洗濯、裁縫などに比べて、不得手な分野であることには変わらず、未だなみならぬ苦労しているようだ。あるいは、朝食の支度を手伝っているのも、その練習のつもりなのかもしれない。
対して、手先の器用な葵の方は先ほども言った通り、家庭科や図画工作は得意とするところ。
さらに、剣士としても、標準的な打ち刀を振るう紫に比べて、葵は小太刀や懐剣などの短めの得物を使う方に適性がある。包丁程度の刃物であれば、それこそ己が手の延長のように自在に操ることが可能だ。
その気になれば、キャベツ丸一個の千切りを30秒フラットで終えられるという、あまり意味のない特技も持っているくらいだ。
「まぁ、紫さんは、相変わらず頑張り屋ねぇ」

一瞬冷っとしたが、幸い普段の紫の性格から、怪しまれることはなかったようだ。

「ん、お魚も焼けたわね。さ、お盆に並べて、旦那様達のおられる居間まで、運びましょ」
「はい、わかりました」

(あぶないあぶない……ユカ姉の普段の行動を詳しく思い浮かべて、それをなぞるようにしないと)

内心、冷や汗をかきながらも、メイド長の指示に従い、配膳の準備をしていく「ゆかり」なのだった。

食器を満載したお盆を両手で持ち、メイド長の晴香のあとに続く。
ちなみに、「メイド長」という大層な肩書がついているものの、この屋敷に常勤するメイドは彼女以外にふたりしかいない。あとは、臨時アルバイトが水金と火木、土日にそれぞれひとりいる程度だ。
紫は、まだ学生との二足の草鞋だし、葵直属ということもあって、厳密にいえば晴香の指揮系統には所属していない。
もっとも、調理・清掃・裁縫といったメイドに必要な家事技能もさることながら、仕える相手を思いやり、快適な生活をサポートするという点において、先代メイド長である母の薫陶を受けた晴香は、非常に有能だった。
その流れるような挙措と言い、的確に主の意を汲んで動くタイミングと言い、メイドとして見習うべき部分は多々ある。

(……って、まじめなユカねえなら、考えるだろうな)

実際、今まで給仕される側だったから気付かなかったが、紫の立場に立てば見えてくるものは色々あった。「ゆかり」としても、それだけでこの入れ替わりは実行してよかったと思う。
また、前から思っていたように、やは自分は人から指示されて動くなら、それなりに器用な働きを見せられるようだ。

(何せ、これまで見てただけのメイドさんの業務を、それなりにしっかりこなせてるもんなぁ)

いくら常日頃「見ていた」とは言え、また、彼が家庭科方面に秀でているとは言え、ぶっつけ本番に近い紫の代役を、こうもスムーズに果たせているのだ。やはり人間、適性というものはあるのかもしれない。

──もっとも、実は、そればかりが理由ではないのだが、幸か不幸か「ゆかり」はそのことに気付かなかった。
座敷に入り、晴香と手分けして料理を卓上に並べ終えたちょうどその時、「あおい」──葵の格好をした紫が、部屋に入って来た。

「おはようございます、葵様」「……ございます、「あおい」様」

傍らの晴香に一拍遅れて「ゆかり」も頭を下げて挨拶する。

「おはようご……おはよう、晴香さん、「ゆか姉」」

どうやら「あおい」の方も、何とか間違えなかったようだ。
チラッと「ゆかり」が目配せすると、「あおい」も小さく頷いた。
程なく、この家の当主である葵の父、桐生院馨が姿を見せた。

「「おはようございます、旦那様!」」

今度は晴香と声を揃えて挨拶することが出来た。
それにしても、自分の父親に対して「旦那様」と呼びかけるのは、何だか奇妙な気分だった。
もっとも、今の彼は「ゆかり」なのだからコレが自然だし、考えようによっては、あの厳格な父を悪戯(ペテン)にかけているようなモノだから、これはこれで面白いかもしれない。
今朝は紫が給仕をする当番のようだが、その程度なら普段のみよう見真似でもなんら問題はない。
「ゆかり」はメイド服のスカートの裾さばきに気づかいつつ、楚々とした動作で馨と「あおい」への給仕を済ませた。
朝の食卓は、いつも通りほとんど会話らしい会話無しで進んだ。重苦しい沈黙、というわけではなかったが、当主の馨が食事中の会話をあまり好まないので、こればかりは仕方がない。
もっとも、ここに葵の母にして馨の妻たる夕霧がいれば、まったく様相は異なったのだろうが……。
いかにも淑やかな大和撫子風な外観に似合わず、夕霧は気さくで話好きなタチだった。彼女がそこにいて笑うだけで、この厳格な屋敷の空気も、随分と明るく華やいだものに変わったものだ。

「──紫くん?」

馨に呼びかけられて、一瞬追憶に入りかけていた「ゆかり」は自分を取り戻した。

「へ!?あ……何でございましょうか、旦那様?」

かろうじて、「メイドのゆかり」らしい態度を保持する。

「いや、そんなに畏まらないでくれたまえ。以下の話は、「葵付きの侍女」としてではなく、「我が姪にして葵の従姉」たる君への話だと思ってくれ」

意外な馨の言葉に、「ゆかり」のみならず「あおい」もまた、驚きに軽く目をみはる。
しかし、それ続く彼の言葉はさらにふたりに当惑をもたらすものだった。

ふたりを執務室へ招き、楽にするように言うと、馨は話を続けた。

「実は、夕霧の容体がだいぶ安定してきてな。今すぐというワケではないが、ひと月後くらいに退院して、自宅療養に切り替えて様子を見ることになる」

桐生院家当主たる馨のその言葉は、その場にいる誰にとっても朗報であり、緊張していた「ゆかり」と「あおい」は、ホッと胸を撫で下ろした。

「お…おばさまが!?それはおめでとうございます」

かろうじて「お母さん」と言うのを堪えた「ゆかり」こと葵が、晴れやかな笑顔を見せる。

「よかった。長かったね、お…父さん」

こちらも「おじさま」と呼ぶのを間一髪言い直す「あおい」こと紫。

「うむ。アレがいない間、おまえたちにも色々苦労をかけたな。とくに、葵」

普段の「厳格な当主」としての顔ではなく、珍しく「我が子を慈しむ父親」の表情になって、息子(に見える紫)に馨は声をかけた。
「?何でしょう?」
「昨日、その件でアイツに怒られたよ」
「「!」」

夕霧の体調がよいこともあって家族の近況報告などをしていた際、自分の仕事の一部を葵に「当主見習い」として代行させていると言ったところ、こっぴどく叱られたらしい。
いわく、「子供は勉学と遊ぶことが仕事」、「そもそも、カヲルさんだって当主の仕事を始めたのは大学時代の、しかも成人後」、さらに「息子の体調不良に気づけないようでは父親失格」。

「いちいちもっともで耳が痛かったぞ」

苦笑しつつも嬉しそうなのは(別に罵られるのが好きなマゾだからではなく)、妻とのコミュニケーションを十分に行うことができたからだろう、たぶん。

「そういうワケで葵、今預けている仕事はともかく、今後新しく仕事を預けることは──少なくとも高校在学中はしないでおこうと思うが、どうだ?」

そう問われた「あおい」(=紫)は、素早く頭を回転させる。

「そうですね。仕事を減らしていただくという点については、正直ありがたいです。
ですが、我がままを承知で言えば、重要度の低い仕事を今の半分程度任せていただけるなら、半人前のボクでも何とかなります」

傍らで聞いている「ゆかり」(=葵)などは「えっ!?」と思ったのだが、何か考えがあるのだろうと、この場は自分を演じる従姉に任せる。

「ほぅ……いいのか?」
「はい。その代わりと言ってはナンですが、正式にゆか姉──紫サンをボクの秘書兼相談役として任命してもらえませんか?」
「──なるほど、独力では無理でも二人三脚ならば、と言うワケだな。ふむ。ワシとて、金勘定の面では弟の輝の助けを借りているわけだし、信頼できる腹心を持つのも、当主の度量か。
どの道、紫くんに関しては、卒業したらそれに近い立場になってもらうつもだったのだから、少し早まるくらいはいいだろう。それと……」

謹厳実直な馨にしては珍しく、いたずらっぽい光が目で踊っている。

「これは、夕霧や輝夫婦とは内々に話し合っていたことなのだが……紫くん、君は葵のことをどう、思っているのかね?」

あまりに直球な質問に、顔にちょっと困ったような表情を浮かべつつ、内心では「ちょっと」どころではないパニックに陥る「ゆかり」。

「えぇっ!?そ、それは……そうですね。従弟であり、もっとも親しい幼馴染であり、大切な弟、というトコロでしょうか」

立場を入れ替えていることもあり、とりあえず無難なコトしか言えない。
当然、その程度の答えでは、当主は満足しなかった。

「ふむ……では、葵、お前の方はどうなんだ?」

「ゆかり」としては、「あおい」の方も、当然、それに類する無難な返事をすると思っていたのだが……。

「──幼馴染のイトコ、というのはもちろんですけど、それ以上に、守りたい、そして共に歩んでいきたい、大事な人です」

その言葉は、明確にそれ以上の関係──恋人、いやむしろ「伴侶」という関係を視野に入れたモノだった。

「ほほぅ、言うではないか!」

息子(実は、姪っ子)の漢らしい物言いに、ニヤリと笑う馨。

「紫くん、葵はこう言ってるが、キミの気持ちはどうなのかね?」
「あの、その……こ、光栄です」(ポッ)

今なら、仮に例の認識変換が行われていなかったとしても頬を染めて恥じらう葵の姿は「女の子らしく」可憐に見えたことだろう。

「はははっ!うむ、ふたりとも両想いなら、問題ないだろう。実は、盆で一族が集まる際に、紫くんを正式に葵の許婚とすることを発表しようと思っているのだ」

上機嫌な馨と2、3言葉を交わしてから、ふたりは執務室を出て、葵の私室へと戻って来た。

「ふぃ〜、やっぱり緊張したわね」

さすがの学園一の才媛も、やはり一族当主の迫力の前では、少なからずプレッシャーを感じるらしい。無論、「今のふたりの状態」も関係しているのだろうが。

「そりゃ、ね。でも、ユカねぇ、あんなコト言って良かったの?」
「あら、アオイちゃんは、わたしと結婚するのは嫌なのかな?」
「そんなワケないよ!僕にとってはユカねぇは憧れだし……。でもユカねぇなら、桐生院家を出て行っても自由に生きられるし、僕よりもっといい男性(ひと)だって見つか……ムグッ!」

言い募る「ゆかり」の唇を、「あおい」が自らの唇で塞ぐ。
そのまま長い口づけを交わすふたり。
いつの間にか、「ゆかり」が「あおい」の胸にすがるような格好になっている。着ている服もさることながら、「あおい」に「ゆかり」が抱きしめられていることもあって、まるで本当に「男」と「女」のように見えた。
ようやく、ふたりの唇が離れた時、思いがけないキスに頬を染め、目を潤ませている「ゆかり」の瞳を、「あおい」が覗き込んだ。
「馬鹿。そのつもりがあるなら、2年前にこの家で学生兼業メイドになろうなんて思うはずないじゃない。言ったでしょ、「守りたい、そして共に歩んでいきたい、大事な人」だって」
「!ありがとう……すごく、うれしい……」

よりいっそう真っ赤になりつつ、それでも素直にそう答える「ゆかり」を見つめながら、「あおい」はニヤッと人の悪い笑みを浮かべる。

「──そう言えば、小さいころのアオイちゃんの口癖は、「ぼく、ゆかおねーちゃんのおよめさんになる」だもんね♪」
「はぅわッ!」

それは葵にとって、遠い日の思い出したくない記憶のひとつ、いわゆる黒歴史というヤツだ。
当時は、「けっこんする」と言うことの意味もよくわかってはおらず、ただ、好きな人と「けっこん」するには「およめさん」になればいいのだ、程度の知識しかなかったため、そんな言葉を漏らしてしまったのだ。

「……お、お願いだから、忘れて、ユカねぇ」
「だ〜め。それに、今の状態なら、ソッチの方が自然でしょ、「ゆか姉」?」

都合良く、この立場入れ替わり状態をネタに「あおい」にからかわれる「ゆかり」なのだった。

「ところで、どうするの、コレ?」

「ゆかり」の立場になっている葵は自らが着ているメイド服をつまんで、紫──「あおい」に改めて聞いてみた。

「今晩、もう一回、アレを使って元に戻る?」
「あ、今晩は無理ね。あの鳥魚相換図って、一度使ったら最低でも中一日は空けないと使えないらしいから。たぶん、魔力だか霊力だかが溜まるのに時間がかかるんじゃない?」
「ああ、そう言えばそんな注意書きもあったね。でも、24時間なら昨日より少し遅めに寝ればいいんじゃないの?」
「その時間の計算が、「使用者が朝目覚めた時」からの計算だったら?溜まりかけた力を無駄に浪費するだけだったら意味ないでしょ。それに……」

ふと真面目な顔になって「ゆかり」の肩に両手を置く「あおい」。

「さっき、叔父様とああいう話になったけど、アオイちゃんも精神的にはまだ疲れてるんでしょ。明日までこのまま、わたしが残りのお仕事を処理してあげるから、アオイちゃんは「ゆかり」としてのんびりして頂戴。
今朝も言ったけど、「ゆかり」の仕事の方は今日の5時までで、明日はお休みだから」
「えーっ、そんなぁ……ユカねぇに悪いよ。明後日からは学校あるのに」

精神的ストレスが主体の葵と異なり、メイドと女子高生を兼任している紫は身体を休める時間が必要なはずだ。

「いいからいいから。弟分のピンチを救えないなんておねーちゃん失格でしょ。それに、実際問題として、さっき叔父様にああいうタンカ切った以上、「あおい」が真面目に仕事に励んでみせないと不自然だし」

正論と感情論を交えて説得されては、押しの弱い葵に抗するすべはない。不承不承うなずく。

「……わかった。今回は、ユカねぇにお願いする」
「アハハ……もぅ、そんな顔しない。
──じゃあ、これからボクは部屋に籠るから、「ゆか姉」はメイドのお仕事、頑張ってね」

部屋のドアから送り出しつつ、「ゆかり」のほっぺにチュッと軽くキスする「あおい」。

許婚のそんな愛情表現に、つい舞い上がってしまった「ゆかり」は、ボーッとしたままフラフラと歩き出し、気が付けば紫の部屋のベッドに腰かけていた。

「あれ、いつの間に……」

そう思いながら立ち上がる。
ふと傍らの姿見を覗き込むと、そこには幸せそうに顔を上気させた「メイド娘」が映っていた。

「や、やだ……あおい様にキスされたって、わかっちゃうかな?」

とくにキスマークなどがついてるワケでもなかったが、このまま台所に行ったら晴香さんあたりには見透かされそうな気がする。
自分の気を落ち着ける意味も込めて、「ゆかり」は鏡に向かって髪と服装を整え、軽くリップを引く。

「……これでよし、っと」

時計を見ると早くも10時半を回っている。そろそろ昼食の手伝いをしに台所に行ったほうがいいだろう。
パタパタと忙しく「自室」を出て台所に向かう「ゆかり」は、だから気づいていなかった。

自分が、ごく自然に「あおい」のことを「あおい様」と呼んでいたことを。
とくに気負うでもなく、ごく自然に「女の子としてのみだしなみ」を整えていたことを。
そして──誰から教えられたワケでもなく、今日の紫の予定が頭に入っていたことに。

その後のゆかりの働きぶりは、いつもにもまして勤勉で素晴らしいものだった。
「自室」を出て、最初に向かった台所では昼食の用意の手伝いをする。と言っても、野菜の皮むきなどの下拵えが主なのだが、朝以上に巧みな包丁さばきにメイド長が感心したくらいだ。
昼食の配膳と給仕も「メイドとして」完璧にこなしてみせる。
あおい達の食事が終わってから厨房で昼食をとり、ひと息入れたのち庭の花壇に水を撒き、雑草を抜いて手入れする。
そのあとは進んで風呂場の掃除を引き受ける。
ストッキングを脱ぎ、メイド服の袖を肘までめくりあげて、柄付きブラシで桐生院家の大浴場を丁寧に掃除する様は、誰が見ても「生粋のメイドさん」だったろう。

「ふぅ……あ、そろそろ、あおい様にお茶を持って行って差し上げないと!」

風呂掃除が終わっても、休む暇もなく、本来の「主」の世話に戻る。
傍から見ていると忙しくて大変だろうと思えるのだが、本人はこういう「家の中のお仕事」が好きらしく、あまり苦にならないらしい。
優れたメイドの必須技能である「美味しい紅茶」を淹れ、ティーポットとクッキー、そしてふカップをふたつ銀色のトレイに載せて、ゆかりは「自室」で仕事をしているだろうあおいの元に向かった。

──コン、コン。

「どうぞ〜」

中から許可があったのを確認してから、ゆかりは扉を開いた。

「失礼します」

トレイを提げ持ちつつ、軽く会釈して葵の部屋に入る。

「あおい様、あまり根を詰めないほうがよろしいか、と。そろそろご休憩なされてはどうですか?」

ゆかりの言葉に、ようやくあおいは机から顔を上げ、振り向いた。

「──そうだね。ちょっと休憩しちゃおうかな。よかったら、一緒に雑談につきあってよ」

あおいの言葉にニッコリ微笑むゆかり。

「はい、ありがとうございます♪実は、そう言っていただけると思ってました」

カップをふたつ持って来たのは、それが理由である。

「本日はダージリンのファーストフラッシュにしてみました」

透明度の強い液体から爽やかな香りが立ち上る。

「あ、いい匂い……紅茶淹れるの上手いなぁ」
「恐縮です」

お茶とお菓子、そして他愛もない雑談を、しばし楽しむふたり。

「それにしても……フフッ」

会話が途切れた際に、フッと苦笑するあおい。

「?どうかしましたか、あおい様?」
「いやいや……すっかり、わたしになりきってるなぁ、と思って。ね、「ゆか姉」」
「!!」

途端に真っ赤になるゆかり──こと本物の葵。

「か、からかわないでよ〜、ほかの人にバレないように、必死なんだから」
「あはは、ごめんごめん。でも、さっきまでの仕草とか言葉づかいとか、わたしなんかよりよっぽどパーフェクトなメイドさんに見えたよ?」

まぁ、その辺りはふたりの本来の性格の違いだろう。
紫は、文武両道な学校一の才媛で、前任者からの指名と全校生徒9割以上の信任を受けた生徒会長でもある。
ここ1年ほど前から葵付きの侍女をやっているとは言え、本来はむしろリーダーシップをとって他の者を引っ張り、あるいは新たな企画を実現させるようなことを得意としている。
対して葵は、性格的に言えばどう見ても補佐役向きだ。強引なリーダーの気がつかない部分をフォローし、あるいは裏方として支える方が性に合っている。
さらに言えば、経営者になるより料理人や園芸家の方が絶対に適職だ。小学校のころの作文で、将来の夢として「コックさんかお花屋さん」と書いたのは伊達ではない。
このふたりの悲劇は、生まれる親を間違ったところだろう。
もし、紫が本家の娘で、葵がその弟筋の生まれであれば、有能な女当主と気が利く秘書(あるいは執事ないし婿?)として、極めてスムーズに一族やグループ会社の運営に当たれただろう。
あるいは、葵が家を離れて、コックになるなり花屋を営むなりの選択も許されただろうに。

「でも、まぁ、仕方ないよ。誰だって生まれは選べないんだし……それに、僕にはユカねぇがいてくれるし」
「うん、その点だけは、安心してくれていいわ。わたしから離れることは絶対ないから……ついでに言うと、アオイちゃんを逃がす気もね」

ニヤッと笑う様子は、何と言うか「おとこまえ」な感じで、葵の服を着て男装していることもあって、下手な男よりよっぽど「カッコよく」見えた。
思わず、ポーッと見とれてしまう、ゆかり。

「ん?どうかした?」
「──い、いえ、何でもありません、あおい様」
「そ。ならいいけど。じゃあ、そろそろボクは仕事に戻るよ。あとひと息でキリのいいところまでできそうだし」
「はい、承知致しました。では、お夕飯になったら、またお呼び参りますね」

ゆかりはカップ類を片付けてトレイに載せ、両手を腰の前で揃えて深々と一礼すると、トレイを持って葵の部屋を出た。

台所に戻りながら、ふと物思いにフケる。

(それにしても、私なら今日一日掛けても終わらないくらいの量があったはずなのに……さすがは、あおい様、手際良くお仕事片付けてらっしゃいますね)

そんなコトを考えながら、些細な違和感を感じる。

「あら?何かヘンな気が」

台所の前まで来たところで首をひねっていたゆかりだったが……。

「あ、紫さん、ちょうどいいトコロに。この瓶のフタがちょっと堅くて。開けてみてもらえないかしら?」

メイド長に頼まれて我に返る。

「あ、はい、いいですよ〜、貸してください」

そんな風に、メイドとしての業務に呑み込まれてしまったが故に、結局「彼女」は違和感の正体に気がつかなかった。
葵の部屋で本物の紫に指摘されるまで、そして今も、自分が特に意識せずに「あおい付きのメイド、ゆかり」として振る舞っていることに。

結局、朝方聞かされた夕方5時の勤務時間めいっぱい……どころか、それを軽く1時間はオーバーした6時半頃まで、ゆかりは夕食の支度を手伝うことになった。

「ごめんなさいね、紫さん。もうとっくに勤務時間は終わってるのに……」
「いえ、気にしないでください、晴香さん。私が好きでやってることですから」

ニッコリ微笑みながら、手を動かすゆかり。本物の「紫」も優等生らしく如才ないから同様の行動をしたかもしれないが、ゆかりの場合は、コレが素だ。
元々人の良さと人当たりの良さに関しては天性のものがあるのだ。さらに言えば、気配りも上手い。あおいが半ばフザけて「いいお嫁さんになれる」と言うのもむべなるかな。接客業やサービス業の現場に於いては、得難い才能と言えるだろう。

「本当にありがとう。配膳はあたしがやるからいいわ。紫さんは……そうねぇ、葵様にそろそろお夕飯だって知らせておいてもらえるかしら。あ、紫さんの分は台所に用意しておくから」
「はい。それじゃあ、お先に失礼しますね」

ゆかりはメイド長に一礼してから、台所を出て「葵の部屋」へ向かう。
コンコンと軽くノックすると、すぐに中から「どうぞ」という返事が返ってきた。

「失礼します。ゆかりです」

断った上でドアを開けて中に入り、キチンと頭を下げてから「自らが仕える主」に要件を報告するゆかり。

「晴香さんから、「そろそろお夕飯の支度ができました」とのことです」

真剣な顔つきで机に向かっていたあおいは、ゆかりのその言葉を聞いて、ようやく顔を上げてコチラを見た。

「あれ、もうそんな時間なんだ。ついさっき、ゆか姉とお茶を飲んだばかりだと思ったのに……」
「あれから、優に3時間は経ってますよ。そろそろ7時前ですから。
あおい様の集中力はいつもながら感心しますけど、先ほども申しました通り、根を詰め過ぎると身体に悪いですよ?」
「いやぁ、ついついのめり込んじゃって」

心配そうなゆかりの視線にポリポリと頭をかくあおい。
一見したところ、普段の桐生院邸と変わらない光景に見えなくもない。
だが、もし神の視点を持つ者がその場を目撃すれば、いつもと異なるその「奇妙さ」について、すぐに気付いたことだろう。
無論、ふたりのキャスティングが入れ替わっているからだが、そればかりではない。
本来のふたりの関係は、「弱気で頼りない従弟・主と、しっかり者の才女な従姉・メイド」なのだが、それが本来の各人の個性に沿って「意思が強く負担を苦にしない従弟・主と、心配性の可愛らしい従姉・メイド」に微妙に改変されているのだ。
しかも。

「うん、わかった。すぐに行くって、晴香さんには言っておいて」
「はい、かしこまりました」

ゆかりとあおい──いや、葵と紫のどちらも、その光景になんら違和感を感じておらず、今の役柄を平然と演じていることこそが、異常の証であった。

「あ、そうだ!ゆか姉、このあとは暇……だよね?」

一礼して部屋を退出しかけたゆかりを、あおいが呼びとめる。

「ええ、勤務時間はこれで終わりなので、お夕飯をいただいて着替えたら、手は空くと思いますけど」
「じゃあ、ちょっと相談したいことがあるから……そうだなぁ。9時過ぎにでも、来てもらえる?あ、それとコレは仕事じゃなくプライベートだからね」
「──わかりました。それでは、また後で」

悪戯っぽく笑うあおいの言葉に、ほんの少しだけ胸をときめかせながらも、ゆかりは平静を装って返事する。

あおいの部屋を出たゆかりが、台所へ足を運ぶと、すでに晴香が用意した使用人向けの夕食が並べられてあった。
配膳と給仕をしているメイド長の晴香を待とうかと思ったのだが、ほかならぬ本人から「冷めちゃうから先に食べてて」と言われてしまっては是非もない。
ありがたく、賄いとは思えぬ美味な夕食を、ひと口ひと口、丁寧に味わうように口にする。自分が料理する際に味付けなどを参考にするためだ。
無論、食べたあとの食器を自分で洗い、乾かしておく気配りも忘れない。
現実問題としては、桐生院家の台所には食器洗いマシンや乾燥機もあるので、ひとり分の洗い物が増えてもさしたる手間ではないのだが、こういうのは心がけの問題だ。
このあたりの行動をごく自然できてしまあたりが、このゆかりが「本物」よりメイド適性の高いゆえんなのだろう。

夕食後、自室──もちろん紫の部屋だ──に戻ったゆかりは、まずはメイド服のエプロンを外して、洗濯かごに入れた。
続いて胸元のボタンを外し、紺色のワンピースも脱ぎ捨てる。とは言え、こちらは、別途専門の洗濯業者にクリーニングに出すため、普通の汚れものと一緒にするわけにはいかないが。
白のスリップと黒のパンティストッキングという、ある種のフェティッシュな趣味のある人間が泣いて喜びそうな格好のまま、特に気負うでもなく箪笥を開けて普段着を取り出すゆかり。
朝方、あれほど女装することに抵抗を示していたのが嘘のようだ。

もっとも、何も知らない人間がここにいれば、いまのゆかりを(「本物」に比べて、やや胸元は寂しいが)まぎれもなく16、7歳の少女、それもかなりランクの高い美少女だと思い込んだことだろう。
元々の優しい女顔な容貌や華奢な肢体もさることながら、仕草や雰囲気自体から、どことなく女らしさが醸しだされていたからだ。

ゆかりが選んだのは、オフショルダー気味なニットのスプリングセーターと、タータンチェックの赤いミディスカートと言う組み合わせだった。
本物の紫からすればごくありふれた選択だが、ほかならぬゆかりがこの組み合わせを選んだという点は、なかなか興味深い。
いくらメイドとして働いているとは言え、そこは年頃の女の子。紫とてワードローブの数は、同年代の少年と比べれはかなり多い。
その中には、生成りダンガリーシャツやジーンズといったマニッシュな服もあったし、実際に紫がそれらを着ている場面を葵も見たことはあるはずなのだ。
それなのに、あえて普段の紫らしい──いや、むしろよりフェミニンな服装を選んだゆかりの真意は……はたしてどこにあるのだろうか?

「──あれ?」

着替えを済ませてドレッサーの前に座り、少し乱れた髪を櫛で整えたあと、鏡を覗き込みながら唇にリップを塗っているところで、ゆかりはふと我に返った。

「なんで、ぼく、こんなコトを……」

戸惑いながらも手は止まらず、淡い色つきのリップで口元を彩る。
微かに困惑した表情を浮かべながら、身だしなみをチェックするゆかり。

「えーと……うん、問題なし。……じゃなくて!」

記憶が飛んでいるとか、体が意に反して勝手に動くとか言う訳ではなく、今まで自分がやっていた行動自体は、ちゃんと覚えているし理解もしている。
最初は普段の紫になりきるべく演技をしていたはずなのに、気が付いたら意識せずとも、「桐生院家のメイド」としてごく当たり前のように働いていたのだ。
より厳密には、普段の紫と完全に同じ行動をとっていたワケではない。ないのだが、それでも「彼女」なりに現在の「立場」にふさわしいと思われる行動をとっていたのは確かだ。

それは、考えようによってはヒドく危険で恐ろしい事のはずなのだが……どういうワケか危機感や恐怖心といった切迫した感情がいっこうに湧いて来ない。
むしろ、そうあること──紫に代わって「メイド」あるいは「あおいの従姉」として行動するのが、ごく自然なことのように思えてくるのだ。
いや、むしろ、紫に代わって新たな自分なりの「ゆかり」像を築きあげていくことに、密かな喜びさえ感じている。
自分達以外の誰にもふたりの「入れ替わり」に気付かれず、周囲の人間に「紫」として扱われる度に、自分は背筋がゾクゾクするような興奮を感じていたのでは……。

──ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン!

ゆかりの耳に、屋敷の1階玄関前にかけられた振り子時計の鳴る音が聞こえてきて、思索に沈みかけていた「彼女」の心を浮き上がらせた。

「あ、いけない!そろそろあおい君の部屋に行かないと」

あおいとの約束を思い出したゆかりは、あわてて思考を切り替え、「従弟」の部屋へと向かう。
そしてその結果、「彼女」が予想外な事態の進行を止める貴重な機会は、失われてしまったのである。

──コン、コン

銀盆を手にした「少女」が、桐生院邸の葵の部屋のドアを軽くノックする。

「あの……ゆかりです。入ってもいいですか、あおい君?」
「ゆか姉?どーぞー」

「部屋の主」の許可を得て扉を開け、ゆか姉と呼ばれた「少女」は中へ足を踏み入れる。

「ごめんね、わざわざ来てもらって……あ、コーヒー、持って来てくれたの?」
「ええ、この時間ならその方がいいかと思って……あら?」

あおいと呼ばれた「少年」は、どうやら未だ書類仕事をしていたらしい。もっとも、夕食前にはまだ半分くらいあったはずの書類の山は、驚くべきことに残りわずかになっている。

「お仕事、だいぶ片付いたんですね」
「うん、思った以上にはかどったよ……これなら、なんとかなりそうかな」

驚嘆と感心を等分に込めたゆかりの言葉に、何でもないという風にうなずくあおい。

「?」
「うん、今日中に片づけて、明日はのんびりしようかと思って」
「それはいい考えですね。何かお手伝いできることがあれば……」

と目を輝かせるゆかりの様子に苦笑するあおい。

「いや、あとちょっとだからいいよ。それにしても……また、なりきってる?」
「え?……あ!!」

眼の前の「従弟」に指摘されて、初めて「彼女」──「ゆかりとして振る舞っている葵」は、ハッと我に返った。

「え、えーと……そのぅ……」

真っ赤になって言い訳しようとする葵を不自然なほどニコヤカに見つめる紫。いわゆる「生暖かい視線」というヤツだ。

「あははは、そんなに、わたし──六道紫として振舞うコトが気に入ったの?」
「い、いや、別にそういうワケじゃ……」

否定の言葉が尻すぼみになるのは、実のところ満更でもないからだろう。

「ま、元からアオイちゃんは流されやすいほうだしねぇ。それに下手したらわたしよりよっぽど「良妻賢母」の資格アリだし♪」
「はぅぅぅ〜」

意地が悪い(けれど的確な)紫の言葉に、耳まで赤く染めて恥らう葵の様子は、たしかに「可憐な少女」の風情たっぷりだ。今の紫から見て、抱きしめたいほど愛らしい。

──というか、気がついたら、実際にギュッと抱きしめていた。

「え?え?あの、ユカね……」
「うーん、やわらかくて、あったかくて、いい匂いがする……絶好の抱き心地だね!」

その様子は、傍目から見れば、少女と見まがう(って言うか生物的には♀な)美少年が、同い年くらいの美少女(ただし性別は♂)を情熱的に抱擁しているようにしか見えなかった。
最初こそ戸惑いの声を漏らしていた葵も、すぐに自らを支える腕のぬくもりに安らぎ、いつしか目をトロンとさせて、心地よい抱擁に身を委ねながら、最愛のイトコの顔を見つめている。

「もぅ!そんな顔されたら我慢できなくなるよ!」

耳元でそうささやくと、情熱的に「彼女」の唇を奪う。無論、「彼女」も抵抗せずにソレを受け入れた。

ウブな恋人同士の拙い抱擁と接吻が一段落したところで、あおいはゆかりにこの部屋に招いた本題──「明日、ふたりで出かけないか」という提案を伝えた。
「えっと……それってもしかして……デートのお誘いですか?」
「うん、そのつもりだけど。嫌かな?」

少しだけトーンの下がった許婚の声に、慌てて首を横に振る。

「ううん、そんなことない。むしろ、うれしいです!」

その後、時間や行き先について簡単な打ち合わせをしたのち、ゆかりは部屋を辞した。
これ以上、あおいの前にいたら、また妙な雰囲気になりそうな気がしたからだ。というか、ほぼ絶対になることは間違いない。そうしたら、行き着くトコロまで行ってしまう公算も高い。
もともと幼馴染で、ゆくゆくは結婚して夫婦になる身とは言え、正式に恋人同士になったばかりの、その日の内に抱かれる(性的な意味で)というのは、さすがに抵抗があった。

(そりゃ、あおい君と結ばれること自体が嫌ってワケじゃないですけど……ちょっと早すぎますよね?)

ポポッと頬を赤らめながら、弾むような足取りで「自分の部屋」に帰るゆかりの頭からは、その時すでに「自分が本来は桐生院葵である」という事実は、先程指摘されたばかりだと言うのに、すっかり消えうせているのだった。

翌日の日曜日。
朝から気もそぞろなゆかりは、いつの間に起きて顔を洗ったのか……それどころか、朝食を食べたのかもわからないような状態だった。

それに引き換え、あおいの方は落ち着いたものだ。立場を入れ替えたとは言え、こういう部分は、やはり元の性格などに左右されるのだろうか?

「ふむ。葵、今日は紫くんとデートだそうだな?」
「なんですか、お…父さん、やぶから棒に」

朝食の席で、父からそのことを聞かれても、本物のように狼狽えたりしないあたりに、その個性がよく現れている。

「フッ……ひとり息子が、許婚と初デートに出かけようと言うのだ。男親として、多少は気になっても致し方あるまい」

もっとも、これまでの父・馨なら、このテのことに口を挟むことはなかったろう。やはり、妻の回復が当主の精神的な余裕につながっているのだろう。

「相手があの紫くんだから、余分な心配する必要はないとは思うが……お前もまだ16歳だ。
初めての逢引に浮かれて、いかがわしい所に行ったりはするなよ?」
「しませんよ!ぼくを何だと思ってるんですか!?」
「ははは、まぁ、お前にそんな度胸はないだろうがな。とは言え、やはり男として彼女をキチンとエスコートしてあげるんだぞ」
「ええ、それはそのつもりですけど……そう言えば、お父さんとお母さんのはどうだったんですか?」
「ふむ、それはだな……」

和気藹藹と「父子の会話」(本当は伯父と姪なのだが)を繰り広げているふたりとは対照的に、ゆかりの方は「自室」でタンスから出した数着の「今日のお出かけ着」候補を前に、うんうん唸っていた。

──コンコン!

「どうしたの紫さん、とっくに朝ご飯出来てるんだけど……もしかして体調でも悪い?」

ドア越しにメイド長の晴香の声が聞こえてくる。どうやら、やはり朝食を食べるのも忘れていたらしい。

「はるかさぁ〜ん、たすけてぇー!」

これ幸いと上司を部屋に招き入れて泣きつくゆかり。
晴香の方は、「やっぱり病気!?」と一瞬焦ったものの、ゆかりの「お願い」──デートにー着て行く服に迷っているという言葉を聞いて、ガックリと肩を落とす。

「──普段はしっかりしてるのに……紫さんて、意外に恋愛事に免疫がないと言うか、奥手なのね」
「うぅ、でもでも初デートだし……!」

上目使いの涙目で、抗議するように見つめる「彼女」の様子は、確かに本来の紫にはない凶悪な可愛らしさではあった。

「(何着てても、その目つきでどんな男もイチコロだと思うけど)はいはい、わかったわかった。あとで相談に乗ってあげるから、まずはご飯食べちゃいましょ」

ちょっと呆れながらも、微笑ましさを感じた晴香は、朝食後にしばし時間を作ってゆかりの服選びにつきあってくれた。
それだけでなく、普段の紫がしないちょっと気合いの入ったメイクまでゆかりの顔に施してくれたのは、嬉しい誤算だった。

「うわぁ……これが私?夢みたい」

鏡の中に映る自分の笑顔に思わず見とれるゆかり。

「アハ、元々の素材がいいからね。まぁ、紫さんは若いから、まだお化粧に頼る必要はないでしょうけど、殿方にたまに違う面を見せるのも女の甲斐性ってヤツよ」

そう言いながら、晴香も自分の成果に満足そうだ。

と、その時、部屋の外から、あおいの声がした。

「ゆか姉ー、そろそろ行かない?」
「え、やだ、もうそんな時間?うん、今行くから、あおい君は玄関で待っててくれるかな?」
「オッケ〜」
「じゃあ、晴香さん、私、もう出ます。あと、お洋服選びとお化粧手伝ってもらって有難うございました」

ペコリと頭を下げる紫の様子に相好を崩す晴香。

「なんのなんの。あたしも可愛い子でリアル着せ替えが出来て、ちょっと楽しかったしね。
ま、初デート、めいっぱい楽しんできなさいな」
「はいっ!」

「お待たせしちゃって、ごめんね、あおい君」

パタパタとはしたなくならない程度の早足で、ゆかりは桐生院家の玄関──正確には門柱の外で待っているあおいの元に駆け寄る。

「いや、まだそんな遅いって程じゃないし……へぇ」

振り返ってゆかりの姿を目にしたあおいは、軽く驚きに目を見張った。
首元がセミタートルネックになったライトパープルのカットソーと、ふくらはぎまでの丈のクリーム色のティアードスカートというと取り合わせは、「彼女」をその年齢以上に大人っぽく、また淑やかに見せていた。
服の裾と袖口のギャザーや、蝶結びにした首のスカーフがよりフェミニンな印象を強めている。前髪をまとめているベロア地のカチューシャも、その印象を補強していた。
本来の紫は、どちらかと言うとタイトで動きやすい服装を好むので、こういうタイプの服はあまり持ってないはずなのだが、よく見つけてきたものだ。
足元は肌色に近いストッキングに、ちょっとヒールがあるサンダル。靴のサイズが紫と違うから、ベルトで多少調節できるサンダルを選んだのだろうが、服とのマッチングも悪くなかった。
よく見れば、ナチュラルではあるが、それなりに凝ったメイクもしているようだ。

(ふーん……晴香さんの入れ知恵かな?)

本人達以外には今の葵は紫に見えているとは言え、例の「絵」の効力が消えて今の「彼女」の容貌がそのまま他人に見られたとしても、どこに出しても恥ずかしくない掛け値なしの「美少女」と、万人が認めたことだろう。

「えっと……ど、どう、かなぁ?」

視線を意識して恥じらう

「うん、可愛いと思うよ。それに、ゆか姉によく似合ってる」

本来の葵なら、たぶんヘドモドしてまともに答えられなかったろうが、こちらのあおいは、スマートに称賛を口にする。

「ホント?えへ、ありがとう、あおい君」

想い人の賛辞に、ゆかりは満面の笑みを浮かべる。

「じゃあ、行こうか、ゆか姉」

そう言いながらあおいは、右手を広げてゆかり方に差し出す。
一瞬、そのポーズに首を傾げたものの、すぐにその意味を悟り、ゆかりはほんのり頬を染める。

「!そ、そ、それじゃあ、その……」

おずおずとあおいの手をとり、左手でギュッと握り締める。それだけで、ゆかりの顔はもう真っ赤だった。

「さ、さぁ、あおい君、レッツ・ゴー、なのですよー!」

テンパって口調まで何だかヘンになってるゆかりの様子に苦笑しながら、あおいはしっかりとゆかりの手を引いて歩き出したのだった。

「あ、この服なんか、ゆか姉に似合うんじゃないかな?」

商店街の店先を、いろいろ冷やかしがてら見て回るふたり。

「そ、そう?私にはちょっと可愛い過ぎるんじゃないかな」

セーラーカラーの白い半袖ワンピースは、確かに本来の「六道紫」にとっては、ちょっとイメージが異なる服装だったろう。
しかし……。

「でも、今のゆか姉ならピッタリだと思うよ」
「えっと……もしかして、あおい君、こういうのが好み?」
「そうだね。女の子が着てるのを見るぶんには」
「そ、そうなんだ……」

そう言えば、この人、確かに下級生の女の子とかにこういう可愛らしい服着せるのが好きだったよね……と、本来の「葵」としての記憶が、ゆかりの脳裏を一瞬だけよぎる。

「よかったら、買ってあげようか?」

ジーッとワンピースを見つめているゆかりの視線を見て、勘違いしたのか(あるいはワザとか)、あおいがそんな事をニコやかに言いだす。

「え!?でも、その……悪いよぉ」
「なぁに、今日のデートの記念さ。ゆか姉は気にしないでいいよ」

爽やかにそう告げると、店員を呼んで包んでもらうよう頼むあおい。
まるで絵に描いたような「デート時に於ける理想の男性の行動」だった。このあたりは、やはり、今の「あおい」が本当は女性であることも影響しているのかもしれない。
しかしながら、店員からワンピースの入った包みをうれしそうに受け取っているあたり、ゆかりの方はかなり「女の子」としての立場に感化されているようだ。

商店街を出たあと、散策を続けたふたりは、町の中心部からやや離れた場所にある丘の上の公園まで足を伸ばしていた。

「ここに来るのも久しぶりだね」
「うん、そうかも……前に来たのって小学生3、4年の頃だっけ?」

見晴らしのよい展望台で風に吹かれながら、しばし感慨にふける。
こういう時、イトコ同士かつ幼馴染であり、思い出の大半を共有している間柄というのは、何も言わずとも通じ合っているような気がして、心地よかった。
「あ、そうだ!あおい君、そろそろお昼にしよっか?私、お弁当持って来たんだ」
「うん、そうだね。ちょうどおあつらえ向きなベンチもあるし」

ゆかりが広げたランチボックスを挟んで、ベンチに腰かけるふたり。

「どう、かな?」

モグモグと弁当の中身を口にするあおいを、心配げに見守るゆかり。

「うん、美味しいよ、ゆか姉。もしかしてひとりで全部作ったの?」
「うーん、実は半分ぐらいは晴香さんに手伝ってもらっちゃった」

ペロッと舌を出す様が愛らしい。

「いやいや、それにしたって大したもんだよ。驚いたなぁ」
「あは、料理するのは好きだしね」
「やっぱり、ゆか姉はいいお嫁さんになれるよ」
「え!?や、やだぁ、からかわないでよ……」

つい昨日も同じような事を言われたのだが、その時以上に女らしい仕草で照れた表情を見せるゆかり。
その後も、「恋人同士のお約束」である「あーん」や「膝枕でお昼寝」を、あおいに対して嬉々としてやってる事から見ても、どうやら完全に己れの立場に染まっているようだ。

それに比べればまだあおいの方は、完全に男の子としての立場に染まり切ってはいないようだが、コレは元からどちらかと言うと「意志の強い、男前な女の子」であったからかもしれない。
ありていに言って、ほとんど自然体で行動しても、さしたる問題がないのだ。
逆に、ゆかり──本物の葵の方は、元の「真面目で気の弱く、守られがちな弟分」から「よく気がつく世話好きのお姉さん」へと立場が劇的に変化し、また周囲の目もあってそう演技せざるを得なかった点が大きいのだろう。
あるいは、葵の方が流されやすい性格であることも影響しているのかもしれない。

その後も、夕暮れの公園で抱き合ってキスしたり、「手をつなぐ」ではなく腕を組む(より正確には、あおいの差し出した腕に、ゆかりが抱きつく)形で帰路についたりと、いかにもなイベント続出で、ふたりの仲は大いに進展した。
もっとも、それとともに、ゆかりの精神的な「女性浸食度」も大幅にアップしたことも間違いない。
なにせ、このデートの間中、「彼女」は自分が本当は「葵」であるという事実を一度も思いださなかったのみならず、女の子としての立場や行動にも、なんら違和感を感じていなかったのだから。
そればかりか、桐生院家の自室に戻った途端、買ってもらったワンピースにさっそく袖を通し、鏡の前で今日のデートに於けるあおいのイケメンぶりを思いだして悦に入ってる始末。もはや完全に「恋人にメロメロな女の子」状態だった。
心のどこかに、その自覚はあるのだが、それが心底快いと感じてしまっているのも、また事実なのだ。
それは、「桐生院葵」としての日々では得られなかった安らぎだった。

だからだろうか。そんな馬鹿な提案をしてしまったのは。

「えっと……ねぇ、もう一日。もう一日だけ、このままでいちゃダメかなぁ?」

日曜の夜、そろそろ元に戻ろうと例の絵を持って来たあおい──紫に向かって、ゆかり──葵は、気が
ついたら、そんな言葉を口から発していた。
葵自身も意外だったくらいだから、当然のことながら紫も目をパチクリさせている。

「え!?そりゃもう一日くらい構わないけど……でも、明日は学校があるよ?」
「う、うん。と言うか、むしろ、だからこそ、なんだけど……」

モニョモニョと言葉を濁す葵を見て、ピンと来たのか、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる紫。

「ははぁん……葵ちゃん、もしかして学園(ウチ)の女子制服が着てみたい、とか?」
「そ、それは、その…………うん」

一瞬口ごもったものの、覚悟を決めて自分の心に素直になる葵。
ふたりが通う私立杜宮学園の男子制服はごく普通の紺の詰襟(ボタンでなくファスナータイプ)だが、女子の制服は可愛らしいデザインで人気が高い。「ゆかり」としての立場に流されつつある葵なら、袖を通してみたいと思っても不思議はなかった。
もっとも、そればかりではなく、せっかくなら「六道紫」としての女子高生ライフも体験してみたいという好奇心があることも、理由のひとつではあったが。
「うーーん……ま、いいか。ぼくも、男子高校生の日常ってヤツに興味はあるしね」

咎められるかと思ったのだが、案外簡単に紫は納得してくれた。

「あ、それじゃあどうせなら、来週いっぱい金曜まで、このままで過ごそうか。家庭科の授業で活躍したり、体育の着替えでアタフタしたり、生徒会で「会長」してたりする葵ちゃんも見てみたいし♪」

それどころか、突拍子もない提案を出してきたりする。

「え?ええっ!?」
「ん、異論はないみたいだから決まりだね!じゃあ、おやすみ〜」

葵に口を挟ませる余裕を与えず、畳みかけるようにそう宣言すると、紫は「あおい」として「自分の」部屋に帰っていった。

「はぅぅ〜、トンデモないコトになっちゃったよぉ」

ハッと我に返り、オロオロする葵だったが、既に後の祭りだ。
「まぁ、半分は自業自得か」とあきらめて、時間割表を見つつ、「ゆかり」としての明日の学校の用意をする。
もっとも、本物の紫が言及していた通り、明日の月曜日は体育や家庭科などの特殊な授業のない日のようだから、授業関連でトラブルが起きる可能性は低そうだったが。

「これでよし、っと。じゃあ、今晩はもぅ寝ちゃおうかな」

先ほどあおいと会う前に風呂には入っていたのであとは夜着に着替えて布団に入るだけだ。

「ふん、ふん、ふーん♪」

ゆかりは、当り前のようにドレッサーの前にすわって、誰に教えられたわけでもないのに鼻歌混じりに就寝前のスキンケアの手順をこなしていく。
化粧水が乾いた頃合いをみはからって、灯りを消してベッドに入ると、ゆかりはそのまま眠りについたのだった。

***

「あれ……ここは?」

「彼女」は、自分がフワフワと青空の上に浮かんでいることに気がついた。しかも、着替えたはずのミントグリーンのネグリジェではなく、見慣れたメイド服姿になっている。

「あ、もしかして……」
「おーーーい!」

「彼女」が事態を把握するのとほぼ同時に、眼下から聞き覚えのある声で呼ばれる。
真下に視線を転じると、案の定、透明な翠色の水面の下には、ポロシャツにスラックスという、これまた見慣れた格好の「少年」が手を振っていた。

「あおい君……じゃなくて、ユカねえ!」

どうやらココは、2日前と同じく夢の中らしい。より正確には、ふたりが共通して同じ夢を見ている、と言うべきかもしれないが。

「はは、今はあおい君でいいよ、「ゆか姉」」

ふたりが互いの姿を認識した瞬間、引き付けあうようにふたりの距離が縮まるのも、以前と同じだ
った。

「?なにニヤニヤしてるんです?」
「クックック……さぁ、何でだろうねぇ」

どことなく楽しそうな笑みを浮かべているあおい(紫)の視線を辿ったゆかり(葵)は、ハッと気づいて慌ててスカートの裾を押さえる。

「──あおい君のエッチ」
「いやいや、不可抗力だよ〜♪それにしても、ピンクの縞々とは……」
「わぁ、言っちゃダメェ!!」

真っ赤になってアワアワするゆかりの表情を見て、ますますニヤケるあおい。シチュエーション自体は2日前とソックリなのに、立場が入れ替わると、これほど互いの反応も変わるとは、なかなか興味深い。
と言うか、この光景を見たら、本当は「あおい」が女で「ゆかり」が男の子だとは誰も思わないに違いない。

「まぁまぁ、過ぎたことは水に流して。それより、ほら、ちょっとソッチに引き上げてくれない? 」

水面を境にして、上下に分かれて会話するのも2回目とあって、前回ほどの戸惑いはないが、やはり話
しづらいのには変わりはない。

「あ、はい。じゃあ、手を……」

水面に横座りしたゆかりが手を差し伸べたのだが……以前と違ってその手は水面に潜り込めない。

「あ、あれれ?」
「む、前回とはちょっと違うのかな?」

あおいの方も手を水から出そうと試みた時に、異変は起こった。

ポウッ…と何か淡い光のようなものが、あおいの全身から浮かびあがり、そのままソフトボールくらい大きさの光球の形にまとまると、水の境界面を突破してゆかりの身体──正確には鳩尾の辺りに直撃したのだ。

「きゃあっ!!」

思わずあげてしまった自らの悲鳴が、先ほどまでより半オクターブほど高く、また艶っぽく聞こえたのは、ゆかりの空耳だろうか?

そのコトを確認する余裕もなく、ゆかりの意識は白い光に呑み込まれていった。

***

夢の名残りか、目覚めの気分はあまり快適とは言えなかったが、それでも重い身体を引きずってベッドから出ると、彼女は昨夜のうちから用意しておいた着替えを手にとった。
ネグリジェを脱いで畳み、ベッドの枕元へ。
ピンクのストライプのちょっと子供っぽいショーツも脱いでランドリーボックスへ入れてから、年相応(?)なデザインのライトグレーのショーツへと履き換える。シンプルな意匠だが、前の飾りボタンと縁取りのレースがちょっとお洒落だ。
そのまま、お揃いの色のブラジャーを付け、制服の白いブラウスも着てしまう。
いわゆるはだワイ──「裸にワイシャツ」に近いあられもない格好のまま、洗顔する。
一応立場としては使用人でありながら、当主の姪でもあるという複雑な位置づけの彼女の部屋には、幸いにして洗面台とトイレが備え付けられているのだ。
次期当主付き侍女とは言え、一介のメイドには過ぎた待遇だったが、何のことはない。この部屋は元々、「桐生院一族」としての彼女がこの屋敷に滞在する際の客室として用意されていたものなのだ。
まぁ、実際、一昨日からその次期当主の許婚、つまり「次代の若奥様」と当主に認められた以上、不相応だと非難する人間はいないだろうが。

冷たい水でシャッキリするととともに、夢の残滓をサッパリ洗い流した彼女は、タオルで丁寧に顔を拭いてから、ドレッサーの前に腰かけ、髪を梳かす。
クセのない艶やかなセミロングの黒髪は、少しも引っかかることなくブラシを通した。
ブラッシングで襟足を軽く内巻きにカールさせてから、カチューシャを着け、鏡を覗き込んで、おかしなところがないか、検分する。

「うーん、せっかくだから、もうちょっと髪、伸ばそうかしら」

何気なく呟いてから、ふと彼女は困惑したような表情を、その可憐な顔に浮かべた。

「あれ?私の髪って、こんなに長かったでしょうか?」

疑問を口にしてしまってから、小首を傾げる。

(長いって……肩にかかるくらいだから別に長くはないですよね。でも、何だか昨日までとは違うような気が……いえ、きっと着のせいでしょう)

微細な違和感はあったものの、あまり気に留めず、慣れた手つきでフェイスケアに移る。
若さのおかげもあってか、彼女の肌は、ほとんどノーメイクでも白く滑らかだが、昨日、メイクしてくれた晴香に「それでもお肌の手入れはキチンとしておいた方がいいわよ」と忠告された。

「でないと、20代半ばを過ぎてから後悔するからねー。フ、フフフ……」

30歳目前の独身女性の虚ろな笑いが本気で怖かったため、コクコクと首を縦に激しく振ったのは、あまり思い出したくない記憶だ。
とは言え、学校に派手な化粧をしていくつもりもない。
結局、丁寧に美白化粧水をつけて伸ばし、目元に軽くアイブロウを入れ、リップを無色でなく少しだけ薄紅色の着いたものに変えた程度に留まった。

スツールから立ち上がると、今度は壁にかけられた制服に手を伸ばす。
杜宮学園の女子制服は、広義にはブレザーに分類されるのだろうが、ややユニークな形状をしている。
上着は薄い桜色で、一見セーラー襟タイプのタイトなブレザーと言ってもよいデザインなのだが、下に着るブラウスの襟が喉元まで覆うハイカラーになっており、その上に学年色のリボンタイを結ぶのだ。
ボトムはオレンジを基調とした格子模様のボックスプリーツのミニスカート。中には膝上15センチまで詰めてる娘もいるが、彼女は比較的スカート丈が長いほうだ(もっとも、それでも膝上5センチくらいなので、駅の階段などでは注意する必要がある)。
靴下に関する規定は「過度に華美なものを禁ずる」とあるだけなので、割合フリーだ。彼女の場合は、その性格ゆえか真夏以外は黒など濃い色合いのタイツを履くのが定番だった。

ひととおりの準備が出来たところで、ゆかりは厨房へと足を運ぶ。
学校のある平日は、朝はメイドとしての業務はしないのが習わしだが、それとは別に個人的な用事があるのだ。

「おはようごさいます、晴香さん、美雨さん」
「はい、おはよう、紫さん」
「モーニン、紫っち」

厨房では、メイド長の晴香と、平日の通いのメイドである東雲美雨(しののめ・みう)が朝食の準備を進めていた──と言っても、もう既に殆ど終わっているようだが。

「えっと、調理場、使わせてもらってもいいですか?」
「ええ、あとは配膳だけだから問題ないわ。頑張ってね」
「は、はい……」

優しい目をした晴香の言葉に勇気づけられ、早速調理を開始するゆかり。
無論、言うまでもなく昼食のための「二人分の」弁当を作っているのだ。

「ニヒヒ〜、聞いたよ紫っち。昨日、坊ちゃんとおデートだったんだって?」

ふたつ年上の美雨は、このテの話が大好物だ。晴香から聞いたのか、早速、ゆかりをイジリ始める。

「え、えーと、その……はい」
「おーおー、赤くなっちゃって、メンコイのぅ。流石「ミス・優等生」も、恋愛関係は完全に専門外なんだねぇ。いやぁ、お姉さん、ちょっと安心したよ」

バンバンッとゆかりの肩を叩きながらアハハと豪快に笑う美雨。

「美雨さん、からかわないの!さ、座敷に配膳に行きますよ」
「ヘイヘイ。あ、初デートの話は、午後にでも聞かせてねン」

メイド長に叱られつつ、ウィンクを投げて同僚が出て行ったことで、ようやくゆかりは弁当作りに専念できた。
料理するのは好きだし、晴香などは筋がいいと褒めてくれるが、誰かに食べてもらうお弁当を作ったのなんて、昨日が初めてだ。
しかも、今日は晴香の手助けもないとあって、卵焼きや鮭の照り焼き、菜の花と大根のおひたしといったメニューを、ゆかりは慎重に仕上げていく。
その甲斐あってか、どうにか大きな失敗もせずにお弁当箱にできたおかずとご飯を詰めたところで、ふと壁の時計が目に入った。

「たいへん!そろそろ起こしてあげないと」

手早くランチマットで弁当を包むと、ゆかりは台所を出て、足早にイトコの部屋へと向かった。

──コンコン

「あおい君、もう起きてますか?」

軽くノックして遠慮がちに声をかけると、中から「あー」とか「うー」とか言う眠そうな声が聞こえてきた。
一応起きてはいるようだが、心配なので「入りますよ」と声をかけてから、ドアを開ける。
中に入ると、ボサボサ頭の少年がボーッと虚ろな目をしつつ、ちょうどベッドの中で上半身を起こしたところだった。

「おはようございます、あおい君」
「んーーーあ、ゆか姉、おはよ〜ふわぁ」
「眠そうですね、昨晩夜ふかしでもしたんですか?」
「いんや、昨日はそんなに遅くなかったんだけど……ちょっと夢見が悪かったからかなぁ?」
「あれ、あおい君もですか?実は私もなんです」

そう口にした瞬間、ふたりの心に何だか奇妙な違和感が浮かびあがる。
まるで、結婚式の場に喪服で出席しているような、あるいは部活の剣道着姿で体育の授業を受けているような、「方向性はあってるんだけど、やっぱり何か間違っている」的もどかしい感覚。
互いの顔を見つめ合い、昨晩の夢に思いを馳せて何かを思い出し……。

──ジリリリリリリリリリ!!!

……かけたところで、唐突に葵のベッドの枕元に置かれた目ざましが古典的なアラーム音をがなり始める。

「うわっ、確かに7時だ。ごめん、ゆか姉、話はまた今度」
「ええ、それじゃあ、私は台所に戻りますね」

言いながら、部屋を出ようと背を向ける直前、パジャマの上を脱ぐあおいの素裸の上半身を目にしてしまい、ゆかりはドギマギする。
……と言っても、単に剣士らしく鍛えられ、引き締まった背中を見ただけなのだが、どうやらこの「純情お嬢さん」にはそれだけでも刺激が強かったらしい。
「じゃ、じゃあ、なるべく早く着替えて、座敷に来てね!」

頬をほのかに染めながら、台所に戻ったゆかりが、朝食を摂りつつ、美雨にからかわれたのは、言うまでもない。

***

いつものように玄関前の廊下で待ち合わせして、いつものようにふたりで学校へと向かうふたり。
それなのに──。

「お待たせ、ゆか姉……ゆか姉?」
「え?あ、ご、御免なさい。何でもないの」

あおいにポンと肩を叩かれるまで、ゆかりは彼に見とれたままだった。

(ど、どうしてかなぁ。なんだかあおい君が、いつもよりカッコよく見えるよ〜)

首にかかるぐらいの長さで揃えた髪を、起きぬけとは異なりキチンと整え、皺ひとつない杜宮学園の男子制服をパリッと着こなしたあおいの姿は、どういうワケかとても「新鮮」な印象をゆかりにもたらしたのだ。
まるで「初めて詰襟を着ているのを見た」かのように……。

(そんなはずないよね。確かに、あおい君が杜宮に入ったのは今年の4月からだけど、連休までの一月間、毎日のように目にしてきたんだし……)

字面だけ言えば、「彼女」の思考は確かに正しい。「六道紫」は、確かに毎朝「桐生院葵」とともに通学しているし、普通に考えれば彼の制服姿も既に見慣れているはずだ。

──そう、「普通」に考えれば。

あるいは、じっくり腰を据えて思考をめぐらせれば、今の状況が「普通」ではないコトに思い至ったのかもしれないが、慌ただしい朝のタイムテーブルが、それを許してくれなかった。

「それじゃ、行こっか」
「あ、待って!そのぅ、こ、これ、よかったら……」

ゆかりは、おそるおそる手に持った包みを差し出した。
いぶかしげに受け取ったあおいは、中味が何かを察すると、パッと顔を輝かせた。

「もしかして、コレ、お弁当?」
「えぇ、あまり巧く出来たか自信はないんだけど……」
「そんなコトないよ!ゆか姉の作った弁当なら、なんだって美味しいに決まってるさ!」
「も、もぅ……調子いいこと言っちゃってェ」

手放しで喜ぶあおいの様子に、謙遜しつつ満更でもないゆかり。

「あ!あおい君、そろそろ行かないと、朝練に間に合わないかも」
「おっと!行ってきまーす!ホラ、ゆか姉も」

慌てて三和土(たたき)にある学園指定のローファーを履き、晴れて恋人同士となったイトコに手を引かれてに駆け出す「彼女」は、だから気がつかなかった。
自分が本来何者であるのか。
そして、昨日までは小さくて履けなかったはずの「紫の靴」に、なぜかすんなり足が入っていたことを……。

──それも無理はないのかもしれない。
そもそも、金曜の夜に「鳥魚相換の図」の説明書を悪戦苦闘しつつ読み解いたふたりは、しかしながら重要な部分を読み飛ばしてしまっていたのだから。

『なお、本図の使用に際しては、以下の点に留意すること。
壱。入れ替わった後は、七日以内できれば三日以内に元に戻すこと。
弐。また、入れ替わった者は、可能な限り屋敷内に留まり、外部の人間に接触せぬようにすること。
これは、入れ替わりが長引くにつれ、「立場」の交換のみに留まらず、仕草や習慣、さらには言葉遣いや考え方なども、立場にふさわしいものに変わっていくからである。さらに長期にわたって戻らないでいると、身体的な影響が生じる可能性もある。
また、外部の人間と接触することで、ふたりに結ばれた因果の鎖に負担がかかり、前述の「その他の影響」が出るのが早まる公算が強い。とくに、不特定多数の人間と接触することは、本来のあるべき縁を壊し、新しい縁、すなわち今の立場にあることを強めてしまうのだ』
─鳥魚相換の図・但書より─

六道ゆかりと桐生院あおい。ふたりの少年少女が、その後、どのような人生を送ったかについて、詳しく述べる事は省く。
あえて言うなら、その日以来、ふたりは自他共に認める大変仲睦まじい恋人(許婚)同士であり、また、あおいが大学を出ると同時に婚礼を挙げて、正式に夫婦となった。
結婚と同時に若くして当主の座を継いだ夫を、優しい妻はよく支え、子宝にも恵まれて幸せな生涯を送ったことだけを記すに留めよう。






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