永世勇者 第二話(非エロ)
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シチュエーション


『三つ首の悪魔』ってのは『名無しの勇者伝説』に出てくる名無しの勇者の末路だ。
その名の通り三つの首があって、口から毒と呪いをはき続けているらしい。
もちろんそんなのは当時の王が勝手に作り上げた捏造だ。
激しい粛正の嵐が王都に吹き荒れて、俺を擁護していた人間は皆殺しで、資料もほとんどが燃やされた。
表向きには中央図書館の火事と片づけられているが、歴史の裏では人間の業が働いていたってわけだ。
そのせいでこんな突飛な嘘がまかり通っている。
戦争直後、俺の周りには味方より敵が多かったから、嘘の広まり方も早かった。

俺と一緒に前線で戦った人間には仲間が多かったし、親友と呼べるような人間も結構いた。
ただ危機的状況にあるっていうのに、王国には保身しか考えていないヤツが多くて、
そういうやつらは大概安全な場所にいるから戦争が終わっても生きてる上、
庶民やら兵士やらに人気のあった俺を嫌いらしかった。

戦争が終わってしばらくしたら、
王とタコ貴族どもが魔王軍と戦っていたときよりも強く結束して、勇者である俺を追っ払ったのだ。

前線で恐怖で震えながらも家族のいる国を守るために戦って生き残ったが、守った国の人間に殺された戦友や
スタマール、それに竜人族のみんなにも迷惑掛けたことを考えると少しやるせない。

あのとき俺にもう少しの甲斐性があって、見通しの甘さがなかったら、防げたかもしれない。
……いや、そのことを考えるのはもうやめることにしたんだった。
時計の針を止めることが出来る俺でも、戻すことはできないんだから。

「姉さん……」
「……ケイトちゃん」

キャロルとエレノア、あと俺は走り去っていくケイトを見る。
どうやらケイトはもうちょっと落ち着かせてから、俺と一対一で話す必要があるみたいだ。

「エレノア姉様。もし先生達が『名無し』だったらどうする?」
「どう、って?」
「きっと先生達は優しいから、私たちにどうするか選ばせてくれるわ。
ここを出て行って、別の場所で生きることを許してくれると思うの。そうなったら、どうする、ってこと」
「ここを出る?どうして?」
「……ああ、いいわ、エレノア姉様。最初っからそーゆー考えは頭にないのね」

さってと、とキャロルは自分の服の埃をはたいて、三角帽子をきゅっと被り直した。
ふむ、この二人は大丈夫そうだな。

「で、キャロルはどーすんだよ」
「きゃっ!」

木からぶらーんと垂れ下がって、俺は二人の目の前に姿をさらした。
キャロルは、突然俺が現れたことに驚いて、小さい悲鳴を上げて尻餅をついた。

「お、お兄様ッ!」
「いやー、聞くつもりはなかったんだけどな。
木の上で昼寝してたら、お前らが話をし始めちゃってさ。
しかも内容が内容だから降りるわけにもいかないし」
「き、聞いてらしたんですか?」
「うん、まあ、な」

さあて、なんと言うべきか。

「キャロルの推測は的中してるぞ。俺こそが名無しだ。来月で四百七十歳になる。
東方より来たりて王都を救い、魔王の心臓に剣を突き立て、勝利をもたらした勇者だ」

地面に降り立ち、言う。
エレノアもキャロルも、突然の登場にまだ泡を食っているようだ。

「で、キャロルはどうするんだ?お前の言ったとおり選ばせてやる。
ここに残るか、それとも出て行くか。
奴隷のこととか、出て行った後の行き先とかそういうことは考えなくてもいいぞ」
「私?私ですか?私は例え出て行けって言われても出て行きませんよ。
先生がこの世界で最も優れた賢人であることが証明された以上、石にかじりついたってここに残ってみますわ」

キャロルは青色の瞳でこちらをじっと見つめてきた。

キャロルはそうだろうな。
最近は格好まであいつを意識していて、黒い三角帽子を真似して常に被るほど、あいつに心酔している。
一体何世代前の魔女スタイルなんだよ、と突っ込みを入れたい。

「そうか、なら別にいい」

「ところで、お兄様。お兄様が名無しの勇者なら、魔法が使えるんですか?」
「まあな、攻撃魔法くらいなら……って、その前に聞くことはないのか?
お前らの話じゃ、俺は『三つ首の悪魔』ってことにされてるんだろ?」

偉く普通に接してくるキャロルに今更ながら気付いた。
正体を明かしたらもうちょっと驚かれると思っていたんだが……。
エレノアが驚いていないのは、育ちが良すぎるため、少し物事を二歩三歩遅れて考えているからだ。
自分にはついていけない話には口を挟まないように躾けられているのか、黙って聞き役に徹している。

剣術のケイトに、魔術のキャロル。
エレノアは長女であるが故に、妹たちよりも自由を制限されていたんだろう。

「ふふん、あんなの作り話に決まってるじゃないですか。
ちょっとくらい頭が回って、名無しの勇者伝説のことを真剣に調べた人がいるならわかりますよ。
誰も倒せなかった魔王をたった二人で打ち倒した勇者が悪魔になって、
どうして戦力が激しく減退していたはずの国の騎士団で倒すことができますか?
神の力を得た勇者に代わる勇者『エリント・フォン・ドルリエ』が出てきた、と書かれていましたが、
それに関する歴史的資料には色々と矛盾点が多くて、役に立ちはしません。
実在したエリント・フォン・ドルリエは、ただの貴族で戦闘訓練は積んでいませんでしたし、
神の力を得たといいつつも、残存モンスター討伐に直接参加したことは一度もありませんでした。
他にも上げれば枚挙にいとまがないくらい胡散臭い点が多いんですよ。
名無しの勇者が、魔王を倒すところまではちゃんと筋が通っているのに、それ以降がガタガタで、
何らかの見えない力が働いていた可能性があるというのは、今や歴史家の間にとっては常識なんですの」

……ほほう、もう人間なんかに期待しないっ、なんて思っていたけど、中々どうして成長したもんだな。

あと関係ないけど、糞エリントはぶっ殺す。
もうとっくに死んでるが。

「ただそれは飽くまで歴史家の中の話で、一般じゃまだまだ名無しの勇者は悪魔のままなんですけどね。
四百五十年の間続いたプロパガンダは、今や数年で掘り返すことのできない根深いものになっていますわ」
「そ、か。まあ、今更俺のイメージのことなんてどーでもいいんだけどな」

イメージはどうでもいいが、キャロルが賢明な判断を下してくれて少し助かった。
俺らの正体に気付いて、エレノアやケイトを煽ったら今以上にややこしいことになっていたに違いない。

「私は……よくわかりませんが、ご主人様が三つ首の悪魔なら、別にそれはそれでいいかな、と」

ふと忘れたころにエレノアは口を開いた。
おっとりとした口調で言っているものの、嘘を言っているようには見えない。
こういう反応が一番コメントに困るなあ。
普通の人間からは恐れられるくらいの反応をして貰った方が正直な話一番楽なのだ。

ちょっと胸が温かくなるような、優しいお兄さんを演じていて報われたなー、と思わなくもない。

「ところで話は戻りますけど、お兄様、魔法を使えるんですよね」
「ん、まあ、な。理論とかは簡単なことくらいしかわからんから高度なものを聞かれてもわからんけど」

キャロルは突然しなを作り、俺に体に肩を当てて、顔を見上げてきた。

「なら、それを見せて欲しいんですけど。
勇者の魔法は大きな光を放つ神聖なものと聞きましたから」
「いや、無理」

断ったらキャロルの顔が変化した。
あからさまな落胆っぷりで、実にわかりやすいヤツだ。

「俺の魔法は威力を抑制してもかなり大きい音と光が出るんだよ。
試し打ちなんてしたら、イムイム村の連中が驚く」

ただでさえ、デルパ山には天狗が住んでいる、などと変な噂を流されているのだ。
これ以上刺激して、賞金なんかをつけられたら別の場所に引っ越さなきゃならない。
別にここに執着しているつもりはない。
ただ他の場所を探し、新しく家を造って荷物を運ぶだけでも結構な労力になる。

キャロルはタコみたいに口をとがらせて、不機嫌さを全開にしていた。
文句を言ったりはしないものの、向学心が旺盛なキャロルは俺の魔法を解析しようとしていたんだろう。
ただの魔法ならまだしも、勇者だけしか使えない魔法もあるからな。
もちろん、永世勇者補佐のあいつは俺の魔法よりももっと高い威力の魔法を使える。
俺でも全力をもって魔法を放てば山を一つ消し飛ばせることもできるんだから、
ずーっと魔法の研究を重ね、魔力を高める修行をしていたあいつなら一体どれほどの威力があるのか。
想像すらできない。
何年前か忘れたが、一度あいつと俺が魔法を打ち合ったときがあったけど、
あのときは手も足も出なかったというか、もはや一方的な蹂躙だったからな。
俺の体は塵も残さず消滅させられたわけだ。
体が完全消滅しても、全く死なないのが永世勇者の辛いところだ。

ん、まあ、魔法は見せられないけど、ちょっとしたパフォーマンスくらいは見せてやろうか。

「クタートッ!」

俺の声と同時に、家の空き部屋の壁がばりばりと音を立てて割れた。
壁の割れ目から飛び出てくるのは『名の無い剣』
名の無い剣、とはいうものの、実際には名前がある。
いや、本来はなかったはずなんだが、ちょっとした事情があって『クタート』という名前が存在するのだ。

名の無い剣は俺の手に収まって、動きを止める。
いくつものルーンが刻まれた柄、強力な魔力が篭められた黒い鞘に入れられた白銀の剣だ。
黒い鞘を抜きはなつと、刀身がこの世に現れる。
自ら光を発し、ウォォォと唸りを上げる『名の無い剣』

とある鍛冶師の体に神が宿り、一晩のうちにこの剣を作りあげた。
その鍛冶師の息子が俺なんだがな。

「どうだよ?カッコイイだろ?
勇者にしか抜くことのできない『名の無い剣』
一々呼びだすたびに壁を修復しなきゃならないのが面倒だが」

剣が飛んできた方向を見ると、また壁に大きな穴が開いていた。
あの穴を修復するのはもちろん俺だ。
いっそ、呼びだしたときに開閉するドアか何かを付けておこうか。

「ふふん、見せるのは何も剣だけじゃないぞ」

そういって一歩下がり、名の無い剣で左腕を肘の当たりから切り落とす。
相変わらずわけのわからない切れ味だ。
空気を斬るのと、腕を斬るのとで全く感触が違わない。

「きゃああああああああッ!」
「ご、ご主人様、う、腕が、腕がぁッ!」
「まあまあ、慌てなさんな」

斬られた左腕はぼたっと地面に落ちる。
落ちた腕の傷からは血が溢れ出て、地面を赤く染めている。
俺の肘の切り口からは少ししか血が出ない上、すぐに止まった。

うっすらと腕の輪郭が浮かび上がり、段々と彩度が上がっていき、五秒と立たず実物となった。

「ほらな。いくら斬ろうがこんな風に復活するんだ。これが勇者の不滅の肉体の本領だ。
例え全身が灰も残さず燃え尽きても、一分もかからず完全復活を遂げる。
死ねないことに感謝すりゃいいのか、恨めばいいのか、わからないけどな」

名の無い剣を鞘に収めた。
この剣ってあまりにも切れ味が鋭すぎるから、使いづらいんだよね。
あんまり木を切るのに適してないし、魔王だって素手で倒せるから、使う場面はほとんどない。

キャロルとエレノアはまだ青ざめた顔をしている。
うーん、ちょっと刺激が強すぎたか?
手首くらいにしておいた方がよかったかな。

とりあえず、斬った腕は捨てておこう。
落ちた腕を拾い上げると、手首を掴み、そのままぶん投げた。
木々の上を回転しながら飛んでいって、空の彼方に消えた。
あとは動物達が食ってくれるだろう。

「お、お兄様、い、痛くないんですの?」
「腕は斬ったら普通は痛いもんだ」
「で、でも今……」
「痛いけど、どうってことはない。死なないし、痛みになら慣れてる。
俺は魔王と戦った勇者だぞ、全身の皮膚を炭化させられたり、
肉を腐食させる呪いをかけられたり、痛みだけをもたらす魔法なんてのも掛けられたことがあるからな」
「そ、そうですの……」

ふと見たら、エレノアはぼろぼろ大粒の涙を流していた。
そ、そんなショッキングだったんだろうか?

「も、もう止めてください、ご主人様」
「お、おおぅ!?」
「ご自分でお体を傷つけるような真似は、おやめくださいっ!」

いつもは大人しいエレノアが大きな声を上げているのにちょっとビックリだ。

「わ、わかったよ。エレノアがそう望むんなら、そーしてやる」

別に俺は狂った自傷癖は持ち合わせていない。
今回腕を切り落としたのも、ビックリ人間ショーみたいなノリだった。
ただ見せる相手が悪かったようだ。
俺が名無しの勇者であることを告げたときでさえ、のんぽりしていたエレノアが、震えて泣いている。
罪悪感で胸が締め付けられているような感じがする。
少し脅かし過ぎたってレベルじゃねーな。

「すいません、お兄様。エレノア姉さんって、血とかそういうのに耐性なくて……」
「お前はあるのかよ」
「魔法に血はつきものですから」

キャロルはエレノアの肩を叩いて宥め始めた。

うーむ、失敗したなあ。
きゃーすごーい、というリアクションを期待していたのにこんな結果になるとは。
普通の人間ってこんなに血を見て泣いたりするんだろうか?
昔の俺だったらわかったんだろうが、今はもうわからん。

痛みっていうのは元々生命の危機を知らせるためにあるものであって、
不死身の俺にとっては、ただの普通の人間だったときの名残でしかないからな。
普通の人間とは腕一本切り落とすことの意味の重さの違いがはっきりしているようだ。

「でも、腕を切り落としてもまた生えてくるって便利ですね。
どうしてもお腹が減ったときとか、自分の腕を食べてしのげるんじゃないんですか?」
「自分の腕なんてまずくて食えたもんじゃないさ」
「食べたことあるんですの?」
「二回くらい、な。俺は餓死をしないんだが、まあ、ちょっとした事情があって……」
「どんな事情なんですの?」
「……言いたくない」

長く生きていると、思い出したくない記憶なんてたくさんある。
もう今ではそういった過去とは上手く折り合いをつけられるようになってきている。

「そんなことより、もうちょっとキャロルの話を聞かせてくれよ。
なんで俺が名無しの勇者だとわかったのか、その理由を最後まで聞いていなかったろ」

名の無い剣をほいと木に立てかけた。
ポケットに入っていたハンカチーフを取り出して、今も嗚咽するエレノアに渡して、
俺も背中を軽く撫でてやる。
もちろん、右手でだ。

「お兄様が勇者ではないか、という疑問を持ったのは初日のことでしたわ」
「初日?結構早いな」
「私、頭の中で人に自分流の名前を付ける癖があるんですの」
「ああ、なるほど、そういうことか」

『名無し』は伊達ではない。
俺という存在につけられたあらゆる名前は、消滅するのだ。
だから例えば、キャロルが俺のことをミッシェルと名付けたら、
その次の瞬間、ミッシェルという言葉がキャロルの頭の中から消滅する。
紙に書きとめるなどの物質的に残しておくことは可能だが、それを覚えることは決してできない。

なんでそうなっているのかは説明が出来ない。
世界がそういう構造になっているから、としか言えない。
なんで?なんで?と問い続けた極限に至った答えと同じく、
俺の名前が消失する理由は神のみぞ知ることになる。
そういった何かしら働いている見えない力のことを俺は仮に『世界の力』と呼んでいる。

特に俺はそういった『世界の力』に影響されやすいのか、
俺は俺に付けられた名前を誰かが声に出しても、その音を認識できないし、
誰かが俺の名前を何かに書いたとしても、その文字を読み取ることができない。

ただ、これも実は例外の事柄が一つあるのだが、今回は割愛させてもらう。

「そこから、名無しの勇者伝説のことを調べようとしたんですわ。
まずは先生の書庫に入る許可を得て、過去の伝説や物語がまとめられた本棚へ行ったんですの。
先生の書庫には国立中央図書館に匹敵するほどの蔵書数があって、
私が探している本がある本棚には、世界各地の細かな物語から有名な伝説まで多くの本が揃っていたんですが、
その本棚の中で『名無しの勇者伝説』という最も有名な伝説の本がなかったんですの」
「ああ、あいつ、歪められた伝説のことを毛嫌いしてるからな」

曰く、この私が逆立ちして下劣な言葉を言い続けてるなんて信じられない、だそうだ。
この俺が三つ首の悪魔と呼ばれているのに対し、あいつは『五つ足の悪魔』と一般的に呼ばれているが、
それは最大の禁句で、俺がそう呼ぼうものなら肉体を粉々にされる。マジで。

「本が無い以上詳しく調べることはできませんでしたので、
微かに残っている記憶で、何か証拠はないか、と空き部屋なんかを探索していたときに、
その、名の無い剣を見つけましたの」

名の無い剣は、俺以外の人間には決して抜けない剣だ。
だから伝説通り刀身が光っているかどうかを調べるのは無理だったろうが、
柄に刻まれたルーンが少し特殊なので、キャロルの予測の参考にはなったんだろう。

しかし、それだけで特定するのは証拠として少ないな。
名前をつけられないのも、本がないのも、名の無い剣らしき剣も状況証拠でしかない。
別に推測だけならば十分立てられるが、キャロルがエレノアやケイトに告げるのにはちょっと動機が弱い気もする。

「確証は、先生の契約書を見たことなんです」
「あいつが見せたのか?」
「いえ、先生が留守にしている間こっそりと……」

な、なんちゅー恐ろしいことをするんだこの子は。
俺がそんなことやろうものなら、底がないといわれている『大地の割れ目』から突き落とされるぞ。
実際に落ちてみたところ、底はあったけどな。
体が溶けちゃったが。

「契約書……悪魔や精霊なんかと契約を結んだことの証明書みたいなものですわね。
この契約書には名前の記入が必須なんですが、
確かな効力を持った契約書に普通に『永世勇者補佐』と書かれていたんですの。
普通こういった類のものに、肩書きといったものを書いても意味がないのですが、
永世勇者補佐、というのはこの世界にたった一人しかいないわけですから、認証されたものなんでしょう。
契約書は偽物ではありませんでしたし、その通り書かれているので、もうこれこそが確固たる証拠だと思いまして」
「いや、お前……よくあいつに殺されなかったな」

キャロルはきょとんとした目でこっちを見てきた。
お前は何を言っているんだ、とばかりの目つきだが……これは、やっぱり。

「先生はそんなことしませんよ」

そういった途端、キャロルの体がほんの少し小刻みに震え始めた。
目尻にうっすらと涙が溜まり、今にもこぼれそうになる。

これ以上はまずい。
キャロルの腕を掴んで引き寄せると、顔を俺の胸に押しつけて宥めた。

「大丈夫、大丈夫だ。あれは全部夢だから、な」
「お、お兄様……せんせ……ごめんなさい、もうしません、許しテクダサい」

やっぱり見つかっていたか。
手加減はしているだろうが、あいつのお仕置きは常人には耐えられないだろう。

おお、キャロル、かわいそうに。
決して触れてはならないものを触れてしまったんだろう。
だがやがては好奇心が我が身の破滅を呼び起こすことを知るのは大切なことだ。

懐かしい。
あいつが取っておいた栗のケーキを勝手に食べてしまったとき、俺もお仕置きを受けたからな。

キャロルは俺の腕の中でがたがた震え、涙で俺の上着を濡らす。
時間が経つとともにゆっくりと落ち着いてくる。

ふと前を見るとエレノアが泣きはらして赤くなった目で、何故か恨めしそうにこっちを見ていた。

「ど、どうしたエレノア?」
「……別に何もありませんわ」

ぷいっと顔を逸らすエレノア。
言葉に刺があったり、態度の不機嫌さからは、どう見ても何もないようには見えない。

キャロルの頭をぽんぽんと優しく叩いてやったあと、ゆっくり引き離した。

「ご、ごめんなさい、お兄様……なんだか急に寒気がして……」
「ああ、別に構わないぞ。もしまた辛くなったら、俺に言えよ。
特に雷の日の夜とかしんどいだろうからな」
「も、もう、そんな子どもじゃありませんわ」

ぐず、と鼻をすするキャロルだが……雷の轟音はきっとトラウマを触発させるだろうからな。
記憶を消す処理はしてあるようだが、根の深いところまで消し去るようなことはしていない。
多分、キャロルはこんなトラウマを植え付けられた以上、戦闘魔法使いとしてはやっていけないだろう。
ま、キャロルは学者畑で活躍するようなタイプだから、これも一つの親心なのかもしれない。

「で、キャロル、俺たちを名無しの勇者だと見破ったことはわかった。
じゃあ、なんでお前らが俺たちに買われたのか、それはわかったか?」
「いえ、それはまだ、調べてません」
「ふーむ。お前のことだから推測の一つでも立ててるんじゃないのか?」
「……いえ、本当に何も……今お兄様に指摘されて初めて、
そういえばなんで私たちが買われたのかしら、と思ったところで」

うーん、普通、俺たちの正体を見破ったらそれを考えると思ったんだがなあ。

「正直、舞い上がってましたわ。
確信を得られて、それだけで満足していたというか……目に入りませんでしたの」

そうか。
ま、そういうもんなのかもしれんな。

「じゃ、次までの宿題ということにしてやろう」
「え?教えてくれるんじゃないんですの?」
「まあな、自分でたどり着くならまだしも、今はまだ俺から教えるようなことじゃないしな」

見たこともない人物のせいで、今のこいつらが振り回されるようなことはしない方がいいだろう。

「ただちょっと今回のはシビアかもしれんぞ。ヒントを一つくらいやろう」

と、言ったところで少し戸惑った。
ヒントをあげて、変な勘違いされては困るな。
そこんところは教えてやろう。

「一応言っておこう、俺らはお前らを苦しめるために買ったわけじゃない。
そこんところは確認しておくぞ。
じゃ、ヒントだ。『ドルリエ三令嬢』……いや今は元三令嬢か」

エレノアとキャロルがあからさまに反応した。
こいつらも今までずっと『エレノア』『ケイト』『キャロル』としか名乗らなかった。
もちろん、奴隷の身分に落ちた以上、以前の生い立ちなど捨て去る決まりだが、
それでも一度も名乗らないのは変だ。
今まで俺から聞いたことはないが、聞いたところで教えてくれなかったに違いない。

なんてったって、貴族の生まれなんだからな。
かなり前から落ち目の家だったとはいえ、
三人の娘はわざわざ自分の素性を恥知らずじゃあるまい。

「どうしてそのことを……」

反応したのはエレノアだった。
長女であるが由縁か、特にそういうことに敏感のようだ。

「俺にだって物事を調べるスキルくらいある。何もキャロルや永世勇者補佐の専売特許じゃないのさ」

不安そうにしているエレノアの肩を軽く叩いた。
今となっては……つまり、俺が名無しの勇者であるということがわかってから、
エレノアには別の懸念が生まれているんだろう。

ドルリエ家は、昔はかなり有力な貴族だった。
最盛期は、そう、ざっと四百五十年から四百年くらい前あたり。
当主が三つ首の悪魔と五つ足の悪魔を大地の裂け目に突き落とした勇者だったという話さえある。
その後、王から娘を嫁に貰って、ますます力を付けた。
ただ、時代の流れというのは残酷なもので、段々と力を失い、最後の当主は借金に首が回らなくなり、
首が回らないんなら吊っちまおう、と自殺してしまった。
お家取り潰しになった上、借金返済のため、何もかも売り、娘も売って今に至る。

こいつらが三人セットで売られていたのも出身が理由だ。
金を持っている商人っていうのは、大抵が貴族に嫉妬している。
どんなに貧乏貴族ですら、生まれの卑しさというものが理由で、商人のことを嘲ったりする。
商人はそれがどうにも我慢ならないらしくて、自らも貴族になりたがろうとする。
だけれども、貴族の血というものは金では買えないし、
買えたとしても金額が高すぎたり、条件が付いていたり、やたら手間暇かかったりする。

エレノア、ケイト、キャロルは三人セットで売りに出された。
大抵性奴隷というのは、奴隷商側が調教を施し、閨の技を覚え込ませるものらしいが、
元、とはいえ貴族という箔がついた三人は全く手を付けず、むしろ純潔ということをアピールポイントとして売られた。
元貴族の娘を犯したところで自分が貴族になれるわけではないが、代償行為くらいにはなるだろう。
貴族の尊い血を汚すことに特別な快感を感じたりもするんだろう。

エレノア達がもし永世勇者補佐に買われることが無かったら、
ケイトの剣術の腕も、キャロルの魔法の才能も生きることも無く、
変態商人どもの愛玩具として、一生を過ごしていたのは間違いない。

よくよく考えてみればすごいもんだ。
滅多に奴隷として売りに出されることのない元貴族の娘。
三人セット。
全員処女。
器量良し。
文句のつけようのない完璧な奴隷だ。

具体的な金額はわからないが、びっくりするほどの高額商品だったんじゃなかろうか。
需要は限りなく高いだろうし、オークションか何かで売られるだろうから値段は青天井だったのは想像に容易い。

俺が初日にどうでもいいって言ってこいつらすごく驚いていたけど、それも無理はないような気がする。
というか、永世勇者補佐のあいつは一体どっからそんな金を集めたんだろう?
知りたいような、知りたくないような……。
あいつは空間転移の魔法が使えるから、俺の知らないところで何かをやっていても不思議じゃない。

「不安か、エレノア?」

出自を知られたことがよほどショックだったのか。
エレノアの顔は若干青ざめていた。

「いえ、大丈夫です」

割り切れないところも色々あるんだろう。
俺は事実関係のみしか調べていないし、どういう経緯で没落したのかは知らない。
だから詳細はほとんどわからない。

安心しろ、と俺がエレノアに言ったところで説得力無いだろう。
でもやっぱり言うべきことは言っておかなきゃダメかな?

「いいかエレノア。俺は永世勇者だ。
気まぐれでストライキ起こしたら、人類は終了する。
我ながら軽い性格の持ち主だと思うが、この世界で最も重要な存在であると自負している。
そんな俺が、お前の過去なんてことにいちいちかまうと思うのか?」
「……」

あー、もう面倒だな。
この後ケイトがいると思うとうんざりする。

「ま、俺から言えることはこんなことくらいだ。
俺はお前の事情を深く調べたわけじゃないし、例え調べたところでお前の気持ちなんてわかりっこない。
思う存分悩んで、苦しめばいい。少なくとも、全く無駄にはならんさ」

恋でもしたら悩みもなくなるんじゃなかろうか。
そういえばイムイム村のケリズとかゆーのが中々の男前だったような気がする。
今度紹介してみようか……あ、いや、そういえばケリズは死んだったんだな。
九十二歳の大往生、ひ孫に囲まれて幸せな死を迎えたって風の噂で聞いた。

「キャロルは……ま、お前は大丈夫か」
「ええ、私は末女でしたから」

キャロルはそう控えめに言ったが、胸の内には恐らくもっと他のことが蠢いているのだろう。
調べてないが大抵分かる。
長女のエレノアは家存続のため貴族に嫁がせ、次女のケイトと三女のキャロルは、
奴隷にせずとも商人に金と引き替えに嫁入りさせる。

彼女らの父親はあんまりろくな人間じゃなかったようだからな。
家に対する価値観が、姉妹といえど違うんだろう。
本当はもっと言いたいことがあるんだろうが、エレノアに遠慮して黙っているってところか。

「じゃ、今回はここいらでお開きってことで」

エレノアはこの後悩むんだろう。
それが悪いことだなんて言えない。
定命の人間は、生まれてきたときに世界の全てを得て、死ぬときに世界の全てを失う。
結局はゼロなのだから、生きている間の足し算と引き算はより多くやっていた方が、ゲームとしては楽しめるだろう。

エレノアとキャロルは自分の部屋に戻っていった。
ま、なんだかんだ言ってあの二人の問題で、俺が今やれることはやった。
あとは時間が解決してくれるだろう。

さて、残ったのはケイトだけか。
ま、今夜あたりが山だろうな。

気付けばすっかり昼寝をする気が失せていた。
あれだけ濃い会話をしたあとだ、それも無理はない、か。
ただ少し残念だったような気もする。

しょうがない、今日は早めに夕飯の支度に取りかかろうかな。






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