シチュエーション
…視界に霞がかかる…。 …もはや声も出ない…。 革のブーツを貫いて、足の甲、骨の間に牙が突き刺さる。 右手の指は、もう二本しか残っていない。 左手は掌を指に沿って引き裂かれ、手首の中身をさらして、もう感覚がない。 腕は、腿は、肉と骨を切り離されて、すでに奴らがくちゃくちゃと咀嚼中だ。 今まさに、胸の右側を牙が襲い、ぶちぶち、ぐちゃぐちゃ、と引きちぎられた。 白いもの、骨とか、なんか、びくびくしてるのとか、いろいろ見える。 いつの間にか腹は空洞で、ぼりぼり、ばりばり…。 狼たちが、私の体をがつがつと貪っている。 いたい…。 いたい、いたい、いたい…。 …お姉さま。お姉さま…! たすけ…て…。 ……。 …。 「いやあああああああああああ!!」 声が出た。 体も動く。 私は、必死に夢中に自分の腹を確認して、ぺたぺたと触って、 中身が無事であることに安堵した。 息が上がって、背中も、胸も、汗でぐっしょりだ。 「あ…れ…?」 まだ、狼たちに蹂躙される感覚、痛みが残っている。 腹の中を鼻先でかき回される感触に鳥肌が立つ。 でも、体は無事。 これはいったいどういうことか。 治療されたとしても、いくらなんでもあそこまで壊されていたなら助からない。 「あの、だいじょうぶですか?」 唐突に声がした。 幼さを感じさせるような、鈴が鳴るような、声だった。 私は驚いて声の方向に視線を向けると、そこには少女が座っていて、心配そうに私のことを見つめていた。 美しい少女だった。 白い顔が暗がりに浮かび、物憂げな表情を浮かべている。 長く艶やかな黒髪を遊ばせ、紅い瞳が白黒の容姿に映えていた。 私を見つめるその瞳は、どこまでも深く暗く…、見ているだけで吸い込まれてしまうような錯覚を覚える。 まだ、幼いであろうその少女は、儚げで、抱き締めれば折れてしまいそう。 なぜか、そんな想像をしてしまった。 「酷く魘されているようでした。きっと悪い夢…ただの夢です。安心してください。」 少女はそう言いながら、まだ息の荒い私の背中をさすってくれる。 声の主は、やはり幼い雰囲気を感じさせるのだが、その容姿とは裏腹に、大人びた、 落ち着いた口調だった。 「ここは…?…私はいったい…?」 私は、周囲を見回す。 確か私は森で狼に囲まれていたはずだ。 「ここは、私の家です。あなたは、森で倒れていらっしゃいました。」 …絶望的な状況だったと記憶しているが、…助かったのか。 一息ついて、呼吸を整えると、少女に話しかけた。 「家人はいらっしゃいますか?泊めていただいたお礼を申し上げたい。」 「ここには、もう長いこと、私しかいません。」 少女は眼を伏せ、悲しげに答えた。 聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。 「あなたは久しぶりのお客さまです。 …あの、お礼はいいですから、もう少しここに泊っていきませんか?」 きっと、さみしいのだろう。 まだ、それほど年も重ねていないだろうに、ひとりで暮しているならば尚更だ。 でも、残念ながら、私にそんな暇はない。 「申し訳ないが、私にはやらなくてはいけないことがあります。すぐにでもここを出発しなければ。 助けていただいたお礼は必ずします。ですが、私はここに泊るわけにはいきません。」 私は少女の申し出をきっぱりと断った。 少女は、落胆した様子で、そうですか、と一言。 「もう外は暗くなっていて危険です。せめて今晩はこのままお休みください。」 確かに彼女の言う通りで、それに、私はひどく疲れていた。 仕方ない、明日の朝まで世話になることにしよう。 そういえば、まだ互いに名前を聞いていなかった。 「私はアネット・バージェス。ええと、騎士の卵だ。」 今の身の上をどう表現するか若干迷ったが、多分これが分かりやすい。 「…、そうですか…。」 フローラは、少し考える素振りを見せて応えた。 「私はフローラです。フローラ・バージェス。同じ姓ですね。」 フローラは、すこしだけ嬉しそうに見えた。 この家にはベッドは一つしかないそうで、私たちは二人で一緒に寝ることになった。 ひどく疲れていた私は、 いくつもの不自然に、 何を疑うこともなく…。 明日に備えて、すぐに休むことにした。 眼を閉じるとあっと今に眠りに落ちてゆく…。 …。 …なに…。 …なんだか…ふわふわする…。 …体が浮かんでいるような…体が蕩けていくような…。 生温かい感触がして、目が覚めると、私の上に少女がいて、 しかも、キスまでされていることに気がつくのは、 さらに数拍を置いてからだった。 「――んんっ――!?」 驚いて、慌てて引き離そうとするが、その動きは未知の感覚で遮られた。 下腹部を、そろり、と撫でられて、その強烈な甘さに、腰の力が抜ける。 「…んっ…んあぁっ――!」 ぞくぞくとしたその感覚は、少女の温もりから私を逃がさない。 「…目が覚めましたね…。…今は私に任せて、楽にしていてください…。」 私の上で肌を重ねていたのは、フローラだった。 肌が重なっているということは、私は服を脱がされたということだ。 フローラは何をしているのだろうか? なぜフローラが私の上にいるのだろうか? 任せるってなんのことだろうか? 私は、尚も少女を引き剥がそう試みるが、体は全く言うことをきかず、まるで力が入らない。 そうこうしていると、フローラの手が、腹を這いあがってきた。 胸まで達したその手は、やわらかく肋をなぞり、やわやわと私の乳房をもみほぐす。 「…ん――く、ぁぁん――」 動きの緩慢さに比べて、信じられないほど莫大な感触が背中を突き抜ける。 体がバラバラになってゆくような感覚に、私は悲鳴をあげて抵抗した。 私の体は、まるで生まれたての仔馬のようにがくがくと震えて、 しかし、絶対に立ち上がることはできない。 「快楽はお嫌いですか?」 抵抗する素振りを見せる私に、フローラは優しく微笑む。 「大丈夫、すぐ大好きになりますよ。」 その微笑みはひどく暖かくて、感じたことのないような悪寒を、私にもたらした。 異常だ、この状況は異常だ…! 「…お前、は…何者だ…!」 嬌声をあげてしまうのを必死にこらえながら、少女に問う。 「…魔物、…らしいです。」 少女は、クスリ、と笑って、最悪の答えを口にした。 人型の魔物…!? この子は…魔人…淫魔か…! 淫魔――人を淫らの奥底へ誘う魔物。 淫魔に魅入られた人間は、幾度となく淫魔との性交に耽り、 器を歪められ、魂を失い、やがて、縊り殺されるか、 自身を淫魔に堕とすという。 一説には、獲物の生命力や、精神力を吸い取って、糧にしているのだとか。 目の前にいる少女が、魔物であり、 そして、肌を重ねるこの状況からして、こいつはきっと淫魔に間違いない。 今まさに、私は組み敷かれていて、魔物の餌食になるところだったのだ。 魔物に侵される恐怖に、生命力だの精神力だの吸い取られる恐怖に、私は戦慄した。 私は死に物狂いで、私にへばり付いた魔物を、再び引き剥がそうとするが、 やはり体に力が入らず、当然のようにうまくいかない。 魔物はおもむろに、両手を私の背中から脇腹にかけて滑らす。 背中の感覚が膨張して、肩が体から離れてゆくような錯覚を感じた。 事実、もう腕に力が入らない。 私の焦燥を知ってか知らずか、私の耳に吐息を注ぎ込むように、魔物がささやく。 「…よく鍛えられていますね。あなたの躯、雌豹のように美しい…。」 その声は、甘く、甘く、私の脳裏に沁み込む。 そして、魔物は私の乳房に手を埋める。 「遊んでいないのでしょう?あなたの体には、快楽の痕跡がまるで見当たらない。」 胸が張り詰めてゆくように感じて、息が詰まる。 いやだ、これ以上は体が破裂しそうだ。 徐々に呼吸がままならなくなりつつあるがが、それでも魔物は休ませてなどくれない。 「気持ちいいでしょう?こんな世界があるなんて、知らなかったのではないですか?」 そう言うと、乳頭の片方を、ちゅぷり、と口に含んだ。 つややかで柔らかな唇が、私の乳輪をふにふにとほぐし、 その奥に紅く妖しく蠢く舌が、ちろちろと先端を責める。 鋭くも甘い感覚に、目の前がチカチカして、背中が反って、頭から何か吹き出してしまいそうだ。 肺の中の空気をすべて絞り出される。 さらに少女の手が、私の秘裂に潜り込んだとき、とうとう私は達した。 「――、――、―――…っ!」 膨張していたすべての感覚が、下腹部に集約される。 感覚の励起が背筋を這いあがり、体の奥底が蠢動し、その度に全身を烈風が駆け抜ける。 私の抵抗も、意志も、恐怖も、圧倒的な力で押し流してゆく。 やがて、何度かの収縮を繰り返して、全身の力が抜けた。 魔物は、息を荒げる私を愛おしげに見つめる。 忘我する私に満足した魔物は私に息を吹き込むようにささやく。 ――…さあ、堕ちましょう。こっちは、とても気持ちがいいですよ…。 その声は、私の中に沁みわたり、深く浸透し…、 そうして、また唇を重ねられた。 何か、大切なものが、私の体から吸い出されてゆくような気がしたが、 もはや視線すら定まらない私は、なすがまま、 彼女の行為に身を委ねるしかなかった。 いつまで眠っていたのかは分からない。 私は、不思議な渇望を覚えて、再び意識を取り戻した。 そして、体の異常に気づく。 「…うっ…。」 …熱い…いや、苦しい…。 …何かが足りない…? 思わず背中を丸めて肘を抱えるが、その時シーツに擦れた感触がひどく鋭敏だ。 「――ぅんっ……」 そのむず痒い感触に思わず声が漏れる…。 …気持ち…いい…? 「…少し、精を吸いました。」 枕元の魔物が、見計らったかのように声をかける。 どうやら私が目を覚ますのを待ち構えていたようだ。 魔物の言う“精”というものが何なのかわからない。 生命力なのか、精神力なのか、それとも別の何かなのか…。 でも、確かに私の体は異常だった。 体の芯が甘く疼き、思考はまとまらず、自然にもじもじと腿をすり合わせてしまう。 胸の先が切なく張りつめ、すぐにでもほぐしてやりたい。 でも、気だるくて、ぼうっとして、熱を帯びて、起きているだけでなんだか辛い。 「…私に…何をした…?」 最大の敵意を込めて、魔物を睨み付ける。 この少女は人魔だ。 私の体に、なにか干渉するような術を施していたとしてもおかしくはない。 体の甘くて切ない異変に、恐怖が募る。 「ですから、精を吸ったのです。動くのはかなりつらいはずです。」 魔物は答えた。 …やはり、何か良くないことをされたに違いない。 だって、彼女の声を聞くだけで、胸が高鳴る。 彼女が近づいてくるだけで、疼きが増す。 彼女の手が私に触れるだけで、秘所が潤う。 「…あまり、抵抗しないでください。その方が楽ですよ。」 そうしてまた、ベッドの中に潜り込んできた。 再び始まるであろう、意志を奪う不思議な暴力。 一度、力が抜てしまったならば、もう抵抗できないことは前回学んだ。 ――また、体に変なことをされる…! 恐怖が私を支配したとき、体がはじけた。 「うわああああ!!」 すべての精神力を動員して、無理やり身体を動かす。 私に取り付こうとしていた魔物の動きを、馬乗りになって両腕を押さえつけて封じた。 魔物は抵抗するが、それほど腕力がないのか、私を振りほどくことができない。 私の荒い呼吸と、シーツがすれる音と、魔物の小さな悲鳴だけが部屋に充満する。 まるで私の方が彼女を犯しているようだった。 「…お前には、助けてもらった恩がある。私を解放しろ。そうすれば命までは取らない。」 魔物は尚も暴れる。 私の手を振りほどこうと、もがいている。 「…んっ…解放…っ、しなければ…っ?」 どうやら、魔物は私を逃がすつもりはないらしい。 そのつもりなら仕方ない。 「…殺す。」 少し間を開けて私は答えた。 「…。」 魔物から返事はない。 さらに間が開いて、不意に魔物の腕から、ふっ、と力が抜けた。 そして、突然、妙なことを言い出した。 「…私を殺すのですか?」 その紅い瞳はじっと私を見据えている。 「…私が憎いですか?」 何か、嘲るような、そんな口調だ。 「そう、ですよね…。こんなの、間違ってますよね…。」 魔物は、悲しそうに、つぶやき、そして、私に問う。 「ねえ、どうして…?私が魔物だから…?」 その声色は、どこか悲壮だった。 「…みんな、私が普通じゃないってわかると、怯えるんです。悲鳴を上げて逃げ出したり、 “この魔物め、死ね!”って……。だから…、私はいつまでも一人…。」 魔物なのだから当然だ。 魔物は人間の敵なのだから。 「私だって、好きでこんな風になったんじゃない…。 気がついたら、気がついたらこうなっていて…、 こんな、いやらしくて、むなしくて…、何年も、何年も、こんな…っ!」 徐々に感情を昂らせながら、魔物は叫ぶ。 今度は魔物の息が荒い。 静寂の中に、叫びの余韻と呼吸音が響く。 「…、…。ここに連れてきたのは、あなたが初めてです…。 森で、狼と戦っているあなたを見たとき、私はあなたに死んでほしくないと思いました。 きっと一目惚れなんです。変ですよね…。」 魔物は、ついに、禍々しい紅の瞳から涙まで流し始めた。 そして、さらに言葉を紡ぐ。 ――ねえ、アネット。お願い…。もう、寂しいのはいや…。一緒に生きて…。 だが、どんなに悲しんで見せようと、どんなに涙を流そうと、所詮、魔物は魔物。 殺さなければならない、私の敵だ。 私は、私を見据えて離さない瞳に、抵抗する様子を見せない魔物に、止めを刺すため、 そのか細い首に、手を掛けた。 …。 手が触れて、わかった。 魔物は、震えていた。 その小さな体を、小刻みに震わせていた。 わたしは、はっと息を飲んで、再び少女の瞳を見た。 未だ私を見据える紅の瞳は、涙に濡れながら、意志を、そして、覚悟を宿していた。 一緒に来てほしい、来てくれないならこのまま殺されてもいい、と。 でも、確かにフローラは震えていた。 怯えているのだ。 死の恐怖に。 死にたくない、死ぬのは怖い…と。 …分かっている。 この魔物を殺さなければ、きっと私が堕とされる。 この少女が私に盛った毒は本物で、その業はまさしく魔物の所業。 そうだ、この少女は人間の敵、“滅ぼすべき魔物”だ。 でも、私は、なかなかその手に力を込めることができなくて…。 …。 ……。 ………ついに私は決断することができなかった…。 少女が泣いている。 こんなにも儚くて、こんなにも小さくて、小さな体を震わせて、泣いている。 私という死の恐怖に震えながら、それでも愛してほしい、愛してほしいと、必死に喘ぎ、叫んでいる。 その体は、か弱くて、白くて、細くて、やわらかくて、あたたかくて…。 こんな“人間”を、どうして手に掛けることができようか。 私は、知らず、フローラを、そっと抱きしめていた。 ―――その時、少女が見せた涙は確かに本物で、 それ故に、少女は確かに“魔物”だった。――― ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |