アネット 第七話:堕落
シチュエーション

あの晩、フローラは、私を逃がすまいと、さらに精を吸った。
私は、意識を保つのも困難で、でも、切なさは、疼きは、渇望は、さらに増して、
快楽だけが私の中を満たした。

そして、永い、永い、愛撫の日々が始まる。
彼女の口づけで眠りから呼び覚まされ、彼女の手で忘我する日常。
快楽で覚醒し、快楽で沈む意識。
間もなく、快楽に慣らされた躰は、自らそれを欲するようになり、その欲望は、心を、魂を、浸食し、
やがて、夢と現が曖昧になり、自分がどこにいるのか、自分が誰なのかさえ分からなくなり、
それでも、彼女の愛と欲望に翻弄され続ける、淀んだ時間。

私が快楽に染まりきったころには、微睡みから覚めると、恋しくて、切なくて…。
乳飲み子が、母を求めるように、フローラの体を探す。
そして、懇願するのだ。

“もっと私を愛して”。
“もっと私を壊して”。
“もっと私を吸って”。

フローラも喜んでそれに応える。
私を愛でる。
達して、達して、達して…、
そしてまた、気だるい眠りの中に沈む。
何度も、何度も…。

…闇に堕ちるとはうまく言ったものだ。
一体、私はどれだけの間快楽の中に浸され続けるのか、
時間の感覚は疾うになく、体の感覚も疾うになく、感情さえも疾うになく…。
確かに私は、闇に堕ちていった。

それでも、フローラの歪んだ愛情は私に注がれ続ける。



――彼女がいなくなる、その日まで。



…ある夜のこと。
どれだけの時が過ぎたかは分からない。
私は、いつものように体が疼き、耐えきれず、現の世界に顔を出した。
また快楽が、ほしくて、ほしくて、いつものようにフローラの姿を探す。
だが、彼女の姿は見えず、部屋には静寂だけが充満していた。

不安になって、彼女を呼ぶ。

「…あ…、あぁ…、…フローラ…フローラ…。」

口から漏れる声は、すでに言葉を成しておらず、その様子はさながら白痴。
やがて、堪え切れなくなった私は、自ら体に手を這わした。

自らの指に、彼女の指を投影して、
ベッドの温かさに彼女の温もりを想像して、
虚空に私を愛する彼女の幻を見ながら。

「…んん…、…んっ…、…ぅん…っ…。」

快楽に染め上げられた体は、わずかな刺激ですぐに達してしまう。
でも、何度達しても、何度達しても、決して満たされることはない。
さらに疼いて、さらに渇くだけ。
それでも、また慰め始める。

幾度となく慰めて、限界まで慰めて、快楽さえ感じなくなり始めた頃、
不満だけ私の心に残しながら、再び眠りの世界に堕ちた。

あんなに愛してくれたのに、彼女はいったいどこへ行ってしまったのか。
次に目が覚めても、その次に目が覚めても、
闇の中に彼女の気配を見つけることは出来なかった。



―――心の融解、魂の瓦解、夢の忘却、私の喪失…。
甘き毒の源を失って尚、堕ちるところまで堕ちてゆく…。―――



夜も遅く、住人達は寝静まり、まばらになった家々の明かりが寂しくも美しい。
闇は辺りを覆い、安らぎをもたす。
満月の明かりが青白く降り注ぎ、包みこまれる感覚が心地よい。
空はよく晴れていて、風はさわやか。

ふふ、こんな夜は冒険、冒険。
今宵はなんだか気分がいい。
初めてだって怖くない。
行ってみなくちゃ、わからないよね。

なにかいいことがありそうな予感がして、
なんとなく降り立ったこの町が今夜の冒険の舞台。
夜の空気がこんなに気持ちいいなんて知らなかった。
すごく気分がよくて、何だって出来そうな気がする。
ふらふらと、ふわふわと、踊るように通りをさまようのだった。

さて、そろそろ空腹も限界だ。
糧を探そう、そうしよう。

通りの一角から騒がしい声が聞こえてきた。
酒場かな。
男たちが酒を呷りながらバカ騒ぎしている。
ギンギンギラギラ活きのいいやつが揃っている。

でも、あれにするのは気がひける。
なんだか、しつこくて美味しくなさそう。
それに、こっちは初めてだし。

やっぱり狙うなら、おとなしそうな、それでいて美味しそうな獲物がいい。
逃げる術を知らない、仕留めやすい獲物。
量は少なくとも、新鮮で、やわらかな獲物。
そんなことを考えながら、その場を後にした。

通りを抜け、路地に入り、ゆっくりとあたりを見回す。
おいしそうな気配を見つけたのだ。
そこは閑静な住宅街だった。
家々の主たちは寝静まり、影と静寂が支配する世界。
きっと…この気配は…そう、女の子。
まだ熟す前の果実、これから熟し始める果実。
初々しい甘酸っぽさを連想させる匂いだ。
吸い込まれるように、獲物の近くへ向かう。
地面を離れ、自身と獲物を隔てる壁を透り抜けて、獲物のそばへ忍び寄る。

そこは子供部屋。
壁には奔放な絵画。やや小さな机と開きっぱなしの本。
窓際のぬいぐるみとお人形が、こちらをじっと見つめている。
ベッドには、可愛らしい少女。

…よし、この子に決めた。

誰にも邪魔をされないよう、他者を追い出す場をイメージする。
それは即座に具現して、これで、きっと、誰も来ない。

そっと、頬にかかる髪を払い、寝顔を見つめる。
瑞々しく、かわいらしい少女。
獲物は眠ったままだった。
ベッドの上で、シーツに包まれて、穏やかな寝息を立てている。
まだ性というものに目覚めていない、幼い少女。
他者と交わる喜びなんて露も知らないはずだ。
この少女を、たった今から、わずかなばかりの快楽によって、ほんのすこしだけ染めあげるのだ。

…うん、わくわくしてきた。

少女の輪郭を、華を愛でるように撫で、しばらく肌の感触を愉しむ。
そして、やさしく唇を重ねた。
徐々に少女は熱にうなされたようにくぐもった声を上げ、体をうごめかせる。
肌はしっとりと潤い始め、体温がわずかに上昇。
毒が、私の毒が、徐々に回っているのだ。

…ふふふ…なんだか…かわいい…。

そっと寝具をはぎ取って、そっと衣服をはだけさせる。
寝具の内側に封じられていた、ぬくもりと少女の香りが鼻腔をくすぐる。
露わになる、膨らみ始めた乳房、薄紅色の乳頭。
空気に触れる、未だすべすべの恥丘、なめらかな割れ目。
指を添えて、やさしくもみほぐしてやる。

少女は、まだ早すぎる未知の悦びに、苦悶の表情を浮かべる。
身を捩りながら、揺り起こされた女の感覚に翻弄され、小さく喘ぎ声を上げる。
徐々に荒くなる少女の呼吸。
無垢が快楽に穢れてゆく様にぞくぞくする。

これが、少女の感じる、初めての快楽と肉欲への転落。
汗を浮かべ、呼吸を乱し、朱に染まる白い肌が、たまらなく愛おしい。

いま、
快楽を行使して、
少女の魂から少しだけ切り崩した純粋を、
蕩け出した幼い理性を、


初々しくて甘酸っぱい精を…、



ほんのちょっと、ほんのちょっとだけ啜って…。





――その時、私は魔物となった。





「…ごちそうさま。」

私は、少女の乱れた着衣をほどほどに直し、もう一度、口づけを済ませると、

次の獲物を探しに夜の闇へ戻ることにした。

近づいてくる夜の気配を感じ取って、私は体を起こした。

「…、…?」

背伸をして、欠伸をして、のっそりとベッドから抜け出す。
意識がもうろうとしていた昨日までとは一転、私は不思議な活力に満ちていた。
なんだか、こう…、そう、絶好調だ。

ええと、私は何をしていたんだっけ?
気分はすこぶるいいのだが、なんでかぼやけた記憶を辿る。

「…?…。あ…。」


――そうだ、私は…、空を飛んでいた…。


思いだした。
昨夜、私はいったい誰だったのか。
昨夜、私はいったい何だったのか。

昨晩だろうか、
誘われるようにふらふらとこの家を出て、
吸いこまれるように夜空に飛び立った。

近くなった空に、遠くまで見える景色に、眼下に流れる地面に、存在しないはずの翼に、
私は、更に気分を良くして、素敵な予感を頼りにしばらく飛んだ。
そして、当然のように町を見つけ、

……獲物を物色した。

哀れな犠牲者は少年少女合計三人。

すごく高揚していたのを覚えている。
獲物がうめき声をあげるたびに、昂奮と活力が私の中を駆け巡った。
子供たちは、堕落の一歩を踏み出し、その分、私の存在意義が満たされた。
私はこのために存在するのだと、そんな自負と悦びが湧き出していた。

淫魔の感情が私を支配していた…。

翼に受けた風の感触が残っている。
唇に肉のぬくもりが残っている。
真っ黒なおぞましい興奮の余韻が残っている。

ちがう…。
こんなの、私ではない…。

「ああ、私は…!」

騎士に憧れを抱いた幼かったあの日。
奇跡のように魔物が倒され、私は救われた。
その光景に憧れて、自分もいつか大空を舞い、人々のために輝きたかった。
いや、そうなれると信じていた。

だというのに、昨夜、空を舞ったのは、


“騎士ではない私”だった。

…いやだ。
認めたくない。
絶対に認めたくない。


窓に写りこむ私の姿はまるで別人。
私の髪は、こんなにも黒くなかったはずだ。
私の瞳は、こんなにも紅くなかったはずだ。
私の肌は、こんなにも白くなかったはずだ。

その姿は、背丈こそ、貌こそ違えども、あの魔物そのもの。

人間を堕落へ誘う夜の魔物。
快楽と肉欲の化身。
女の姿をした淫魔。


それが…、今の…、私……!


―――堕落の先に待っていたのは、人ならざる生。
人間の守護になりたかった私は、
不思議なことに人間の脅威になっていた。―――






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