シチュエーション
「次は誰だ」 地面に剣を突き刺し、周囲の面々にユリシスが問う。 執務の息抜きに兵士たちに稽古をつけてはどうかとのイリスの提案に素直に従い、ユリシスは久方ぶりに剣を抜いた。 腕に覚えのある兵士たちが次々に相手を願い出たはいいが、ユリシスに膝をつかせることすらままならない。 感嘆の吐息があちらこちらから漏れ、その吐息が増える度にイリスは眉根を寄せる。誰一人として名乗りを上げぬところを見て、イリスは苦虫を噛み潰したような──傍目にはいつもとさほど変わりない──顔でユリシスを見た。 「……終わりか」 剣を鞘に収め、ユリシスはイリスの方へと歩み寄る。 「汗をかいた」 「湯浴みの準備ならば出来ております」 「そうだろうと思った」 イリスにぽんと剣を放り、ユリシスはにやりと笑った。 涼しげな顔を見ているとイリスは兵士たちを叱咤したくてたまらなくなる。ユリシスはおそらく汗などかいてはいないのだ。 すたすたと迷いなく歩む主の背を見送り、イリスは深々と溜め息をついた。 「後は各自鍛錬に励むがよい。閣下の剣さばき、ただぼんやりと眺めていたわけではあるまいな?」 兵士たちを一喝し、イリスは執務室へと向かうのであった。 * 王都とは違い、他国との境に位置するこの場所は緊張感に満ちていた。万が一にも他国が攻めいった場合、ここで侵攻をくい止めねばならないからだ。 とはいえ、今現在他国との関係は良好であり、その可能性は限りなく低い。同じように国境を守る他国の兵士たちとも馴れ合いとまではいかぬが挨拶を交わすことくらいはある。 適度な緊張感を保った静かな日々はイリスにとっては王都の騒がしい毎日よりも過ごしやすくあるのだが、兵士たちの中には刺激が足らぬと感じる者も少なからずいるようだった。 そんな彼らに刺激を与え、尚且つ総司令の威厳を保つためにと設けた場であったが成功したとは言い難い。 ユリシスが国でも五指に入るであろう剣の使い手であるのは承知していたが、ああまで力の差があるとは思いもよらなかった。 結局、ユリシスにとっては戯れにもならなかっただろう。 イリスはそれが非常に気に入らない。 ユリシスの一挙手一投足が洗練された美しさであるのは衆知の事実だ。それなのに、彼らはユリシスの剣さばきの美しさに見惚れてまともに相手ができていなかった。本来ならばもう少し歯ごたえがあってもおかしくはなかったはずなのに。 苛立たしげに吐息をつき、イリスは壁に掛けられた時計をみた。ユリシスが湯浴みに向かって既に一時間が経過している。 (迎えにこいということか) いつまでも戻らぬ主人の意図するところを察し、イリスは執務室を後にした。 扉を出て右へ進めば兵士用の宿舎へ通ずる廊下がある。それとは逆に左へ進むと会議室やら資料室があり、さらに奥へ進むとユリシスの私室がある。 さすがにまだ風呂ということはないだろうと考え、イリスは迷うことなくユリシスの私室へ向かった。 扉の前で立ち止まり、三度軽くノックする。 返事はない。 今度は先ほどより強く叩いてみた。 「閣下、お迎えにあがりました」 やはり返事はない。 イリスは小さく舌打ちをし、扉を開いて私室へと足を踏み入れた。 長椅子に腰掛け、ユリシスは長い髪から丹念に水気を取っていた。 「閣下」 その姿を確認し、イリスは憮然として呟いた。返事くらいすればいいのにと思いながら。 「何をしているのですか」 「見てわからんか。髪を乾かしている」 「なぜ返事をなさらなかったのですか」 「お前の怒った顔が見たかったからだ」 悪びれなくうそぶくユリシスをイリスは冷ややかに睨みつける。激高したりしてはユリシスを喜ばせるだけだと経験上学んでいる。 「まあ、座れ」 自らの傍らを叩き、ユリシスが微笑む。 「いえ、自分はこのままで」 断ることなど承知の上だとばかりにユリシスの笑みは変わらない。 「では、私の後ろに回れ」 「お断りします」 「なぜ?」 「後ろに回れば次に閣下はこうおっしゃるのではありませぬか?」 「髪を拭いてくれ」 イリスよりも先にユリシスが件の台詞を口にする。 くつくつと笑うユリシスをイリスは呆れ顔で眺めた。 「どうした。やってくれないのか?」 促されれば嫌とはいえず、ユリシスの手から乾いた布を受け取ってイリスはユリシスの背後に立った。 「イリス、もっと表情は豊かにしろ。今のお前が呆れはてていることに気づくのは私くらいのものだ。だから鉄面皮だのと陰口を叩かれるのだ」 「戯言を申されますな。自分は不自由を感じたことはありませんし、そのような陰口に覚えもありません」 「それはよい上官に恵まれたからだ」 今日はやけに機嫌がいいのだなと訝しみつつ、イリスはユリシスの髪から少しずつ水分を取り去る。 女の髪よりもずっと艶やかで指通りのよい髪。 肌の滑らかさや体のパーツだけ見ていけば女よりよほど女らしい。それなのにそれらすべてを組み合わせていくと男らしい体になるのだから不思議だ。 自身の髪の触り心地を思い出し、イリスはその違いに改めて感心する。 人一倍美意識の高いユリシスは湿り気を残した髪のままで執務に向かうなど考えられないのだろう。 (ある意味、非常に難儀な人だな、この方は) 側近くに仕えるようになり、幾度となく感じた思いを今日もやはり抱いてしまう。 気分屋で女好きで我が儘で気位が高くて──欠点はあげればきりがないのに、なぜか憎めない不思議な人。 「お前は視線で人を殺せるな」 「……は?」 「手を抜けば怒るくせに手を抜かなくても怒るのだから困る」 ユリシスの唐突な言葉にイリスはまたしても渋い顔をする。 「さっきだ」 「あれは、兵のあまりの不甲斐なさに閣下のお手を煩わせるのではなかったと……あのような場を設けた自身に腹が立ち」 「思い悩むな。いい気晴らしになった」 機嫌がよいのだから嘘ではないのだろうと判断し、イリスは「恐縮です」と小さく答えた。 「たまには武人らしく男らしいところを見せねばな」 「兵に示しがつきませぬか?」 「いや、お前に。見放されたら悲しいじゃないか」 今更ではないかと思いつつ、機嫌を損ねぬように口を噤み、イリスはユリシスの髪が乾くまで他愛ない会話に付き合い続けるのであった。 SS一覧に戻る メインページに戻る |