シチュエーション
濃い色のドレスを見つめ、イリスはそっと指でなぜる。しっとりと肌に馴染む素材は質の良さを感じさせてくれた。 知らず口をついて出た溜め息にイリスは我ながら呆れる。 ユリシスとはもう三日も顔を合わせていない。これは驚愕に値する事実である。ユリシスの元へ配属されて以来長期休暇は取れず、たまの休みにも図ったようにユリシスが顔を見せていたからだ。 そのユリシスが会いにも来なければ、イリスを呼び出しもしない。傷つけてしまったのだと思わずにはいられない。 ユリシスと仲違いして別れた日、自宅には今目の前にあるドレスと一揃いの装飾品が届いていた。小さなカードに書かれたメッセージはおよそユリシスが考えたとは思いもつかないほど簡素なもので、だからこそイリスは目頭を熱くした。 しかし、その一方では脅迫めいた言葉を口にするユリシスの直情さに呆れ、短慮さに憤慨した。彼らしからぬ行動に腹が立って仕方がなかったのだ。 また一つ、イリスの口から溜め息がこぼれる。 (これで異動は確実。下手をすれば除籍。その気になれば軍に私の居場所はなくなる、か。軍人以外の職など考えたこともなかったが) ドレスから視線を外し、ユリシスのことを考えるのはやめて今後の身の振り方を考える。 思いつく限りの職業を思い浮かべ、それに従事する自身を想像する。そういえば昔はパン屋になりたかったなどと幼き頃に思いを馳せ始めた頃、部屋の扉を叩く音がした。 * まだ少し頭が痛かった。 日がな一日浴びるように酒を飲んだせいで、一日休んだ今も酒が体に残っているような気がしていた。 気を取り直そうと手にした花に顔を近づけると甘い香りに心が和んだ。 (まずは非礼を詫びねば) ともすれば暴走しかねない自身を落ち着けるためにユリシスは深く呼吸をして自分で定めた取り決めを思い出す。 早く顔が見たいと思う反面、会うのが怖くもあった。一度は拒絶された身だ。不安にもなろう。 けれども、不安に負けるわけにはいかない。ユリシスはイリスと友好的な関係を築くためにここへきたのだから。 気合いを入れ直したユリシスの耳に扉を開く音が聞こえた。 * 中で待つようにと勧めたのだが頑として聞き入れなかったと弟は言っていた。 上官を玄関先で待たせるなど無礼極まりない行為だ。敢えて玄関先で待とうというのはきっとユリシスなりの配慮なのだろうが、どうにも的を外れている。 イリスはシャツとパンツという自分のラフな格好を見て顔をしかめたが、休暇中なのだからかまわないだろうと思い直して玄関へと向かった。 (最後通牒でもつきつけにきたか、あるいは――) * 扉が開き、姿を現したのはイリスだった。ユリシスの心臓はその姿を認めた途端に大きく跳ねる。 「軍服ではないな。ああ、久しぶりだ。変わりはないか?」 「休暇中ですから。久しぶりと仰いますがまだ三日しか経っていませんので何も。自分は変わりありません」 イリスが抱えた花束を一瞥したのに気づき、ユリシスはそれを彼女に差し出した。 「ありがとうございます。……よい香りですね」 素直に花束を受け取り、イリスは香りを楽しむように花に顔を近づけた。 イリスは白い花を好む。それを知っていたから、ユリシスは淡い緑で縁取られた白薔薇を持ってきた。 満更でもないイリスの様子にユリシスは安堵の息を吐く。気に入ってもらえたならば素直に嬉しい。 「イリス…………その、すまなかった」 花に向けていた視線をユリシスに戻し、心底すまなそうな顔をイリスは意外そうに眺めた。 「何に対して謝罪しておられますか、閣下」 ユリシスは一旦口をつぐみ、けれどすぐにイリスに答える。 「無理矢理唇を奪ったことと、その」 口ごもり、ユリシスは少しだけ躊躇う。 「私が浅はかであったと思う。お前を苦しめた」 随分と殊勝なものだとイリスは拍子抜けした。 「今日は随分と素直ですね。どういう風の吹き回しですか」 「……本気で反省している」 「それは自分にもわかります」 「では、許してくれるか?」 イリスが一言許すと告げるまで、ユリシスはこうして頭を下げるのだろう。それがなぜだかおかしくてイリスは堪えきれずに吹き出した。 「どうした?私は真面目に話をしている」 「いえ、すみません……ふっ、その、ははは」 呼吸を整えてからイリスはもう一度謝罪して小さく咳を払う。 「こちらとしましては職を追われ、下手をすれば家まで危うくなるのではないかと考えていたもので」 決まりが悪そうなユリシスの顔を見て、あながち外れてはいなかったのだとイリスは確信する。 「閣下が謝罪にくるなど、思いもよらぬ結果に気が抜けまして。気分を害したのであればすみません」 ユリシスの手がイリスの頬に触れる。 「いや、いい。実際お前の予想は当たらずとも遠からずだ。先日まではそうしようかと思い悩んでいた」 先日のように指は髪に触れ、耳に触れる。 「だが、それは間違っていると兄上に諭された。実際その通りだ。お前を檻に閉じこめたところで虚しいだけ。私の欲しいものは永遠に手の届かぬ場所に消えてしまう」 イリスは微動だにせず、ユリシスの指先を受け入れる。 「抜け殻が欲しいわけではないからな。欲しいのはお前だ。感情を殺したお前はお前ではない」 ユリシスの指が唇をなぞり、名残惜しそうにしながらも離れた。 「私はお前を愛している」 イリスの瞳が揺れる。 「今もそれは変わらない。おそらく、私はお前を諦めることはできないだろう」 ユリシスが悲しげに微笑みながら首を傾ける。 「けれど、もう無理強いはしない。無論、お前の気持ちが私に傾くよう努力はするが、無茶は言わない。約束する」 花束を握る手に僅かに力を込め、イリスは困ったような呆れたような表情でユリシスを見上げた。 「あなたが本気だというのはよくわかりました。先日は生意気なことを言いましたから、さぞや気分を害されたことでしょうね。その点は申し訳なく思います」 「いや、そうでもない。ああ思われても仕方がないと思う」 「それはそれとして。それでも諦めなさいと言ったところできかないのでしょうね、あなたは」 「想うのは自由だ。私の気持ちは私のものだからな。例えお前だろうと止める権利はない」 「下手に出ているようで相変わらずの我儘ぶりですね。本当に、あなたにはかないません」 くすりとイリスが笑みをこぼす。 「好きになさい。でも、私はそう簡単には落ちませんよ。あなたの恋人になれば苦労が絶えないでしょうし、まだまだその気にはなれませんから」 ユリシスがそっと身を屈めてイリスの腰を抱く。 「イリス、キスがしたい」 「言った端からそれですか。舌の根も乾かぬ内に約束を――」 イリスの言葉を遮り、ユリシスは唇を重ねる。唇を数秒重ね、啄む口づけを二度落とす。 「ユリシス様」 イリスは眉根を寄せて窘める。 「仲直りのキスだ」 悪びれなくユリシスは言い、簡単に許すのではなかったとイリスは早くも後悔を始める。 「実は、許してもらえたらお前に頼みごとをしようと思ってきた」 イリスの髪を弄びながらユリシスは言う。 「明日のパーティーに一緒に出てほしい」 頼みごとをするときばかり捨てられた犬のような目をするのかとイリスは呆れを含んだ眼差しをユリシスに向ける。 「お断りします――――と言いたいところですが上官に恥をかかせるわけにもいきませんし、今回限りと約束してくださるならいいでしょう」 目に見えて機嫌のよくなるユリシスを諌めようとイリスは慌てて付け加える。 「部下として同伴するのですからね。部下として。それはお忘れなきようお願いします」 嬉しそうにイリスの手を取り、甲に口づけるユリシスを見て、イリスは早々と頭を抱える羽目になるのであった。 SS一覧に戻る メインページに戻る |