シチュエーション
「佐伯君、ちょっといい?」 デスクで伸びをしていた亮介は苗字を呼ばれて振り向く。 そこには首からカードキーと社員証を下げた30半ばの美人がいた。 細身のパンツルックと隙の無いフルメイクが魅惑的である。男は皆スーツだが女子は基本的に服装が自由なのだ。 「なんですかチーフ」 亮介は会釈をしつつ、いい女だなぁと内心見惚れた。 チーフは身を屈めて顔を近付けると亮介の耳元に小声で囁く。紫煙の香りがかすかに漂った。 「受付に変な子が来ているらしいんだけど、佐伯君を呼んでるみたいなのよ」 「あっ…そっスか…ヤバイっスね…マジで…」 正直、話の内容などまったく頭に入ってこない。チーフの顔が、吐息が、こんなにも近い。 普段ベタベタしてこない知的なキャリアウーマンだからこそ、貴重過ぎる体験だ。 「ちゃんと聞きなさい!だから、佐伯君の知り合いの子?ちょっと下に入ってあげて。受付の子困ってるから」 「えっ、あっ、や、ウス。言ってきます」 慌てて立ち上がり、亮介は一階へと向かった。 昼休みということもあって、1階の出入り口はにぎやかだった。 しかし、いつもより人が多い。受付の辺りを囲んで人が集り何やらざわついている。 「えー、私も猫飼ってるけど普通もっと小さいって」 「あれ単に着ぐるみ着た女の子なんじゃない?」 「いや、本人が猫って言ってるから…」 ガヤガヤと騒ぐ人垣に埋もれ、茶色ブチの猫耳がかすかに見えた。 亮介は思わず目を剥き、背伸びして人ごみの先を見る。 受付嬢が中腰で屈み、今にも泣き出しそうなちゃねこをなだめていた。 「だからね、猫さんはアポイントメントはお取りじゃないんですよね?それにこのビルはペット持込み禁止なので…」 「…あぽいんとって分からないにゃ…。…さ…さえき…りょうすけさんの猫ですにゃ…お、お弁当を、お弁当…」 よく知らない場所で大人達に囲まれ、ちゃねこは目に涙を溜めて震えていた。 「あーあー!あああのすんません!あの、俺です!俺が佐伯です!」 手を挙げて亮介は声を張り上げた。ざわっと人垣周が亮介を中心に二つに分かれる。 亮介を見つけちゃねこは顔を輝かせた。 「にゃー」 「なんっっで会社に来てるんだよ!」 ちゃねこの元へ駆け寄り、亮介は受付の女の子にガバっと頭を下げた。 「申し訳ありません!ご迷惑をおかけしまして…」 「いえ。でも良かった、飼い主さんが見つかって。……この子、猫なんですか?」 受付嬢がその場の社員全員の疑問を代弁する。 亮介は声を詰まらせた。それを一番知りたいのは他でもない、自分だ。 それでも、この場を収めるために適当に言葉をひねり出す。 「…まあ、猫的な…アレですね。こう…広い意味で猫みたいな」 あー、と一斉に納得の吐息が漏れた。 「なんだ、やっぱ猫じゃん」 「ランチ行こうよ。お腹減った〜」 わらわらと人ごみが崩れてゆく。受付嬢もなるほどと頷きながら持ち場へと戻った。 「…」 「…旦那さま、なんだか騒ぎになってしまってごめんなさいにゃ…」 「本当だよ、何しに来てんだよ」 機嫌の悪い亮介に怯えつつ、ちゃねこはちょこんとした風呂敷包みを差し出す。 「お、お弁当をお届けに来ましたにゃ…」 「…弁当?」 受け取ってその場で包みを開けてみると、片手に乗りそうな小さなポリ容器が入っていた。 蓋が透明なので中身が見えるが、白いご飯が敷き詰められ、上に焼かれたメザシが三本乗っている。 「………これ、作ったのか?…材料とかは、買ったの?」 「お米はお家のですにゃ。あ、めざしはちゃんと自分のお金で買いましたにゃ」 「ええ!?君働いてんの?」 収入があるとは驚きだ。 「いえ、自動販売機のお釣の取り口をあさったり、道に落ちているお金を拾っているのですにゃー」 「…」 亮介はしばし絶句する。 しかし、そのちまちま拾い集めた小銭を貯めて、めざししかおかずがないとはいえ弁当を作ってきてくれたのだ。 会社に勝手に来られたのは大迷惑だが、これ以上は怒れなかった。 「…弁当はありがとう。食べる。…でも、もう会社来ちゃだめだよ」 「はいですにゃ…」 小さな体をさらに縮めて、ちゃねこはトボトボと帰路についた。 心配になり、亮介は会社の玄関からしばしその背中を見送っていた。 が、道の途中でシュバッと自販機の釣り銭の返却口をあさる姿を見て、恥ずかしくなって会社に戻った。 亮介の奇妙な冒険は続く。 SS一覧に戻る メインページに戻る |