館の主人と使用人 林檎の花
シチュエーション


森の中をゆったりと歩む背に少女は続く、桜もあらかた散り、森は真新しい緑に溢れていた。
少女と青年は目的なく歩を進め、互いに無言だ。
昼食の後片付けを終えた頃に「森に散歩に行こう。桜の時期は過ぎたけど、今日は天気がいいからきっと気持ちがいいよ」と誘われ、少女は首肯を返した。そうして今に至るのである。

「ああ、見てごらん」

青年は立ち止まり、手招きで少女を呼び寄せる。距離をつめ、青年の隣に並び、少女はその視線の先を追った。

「可愛いね」

綺麗ではなく可愛いと青年は言う。彼の指し示すものを確認し、少女は小さく笑みを零した。
それは盛を過ぎた桜に代わり、森に華やぎを添えていた。淡く白い、甘やかな香りを持つ花だった。まだ花開く前の蕾は愛らしい桃色をしている。

「りんご、ですか?」

おそらくそうであろうという花の名を口にすれば、青年は満足げに笑む。

「正解。あれはりんごの花だ」

二人して林檎の木を見上げ、その花を楽しんだ。さわさわと風が枝葉を揺らす音だけが辺りに響いている。
館が建つのは郊外の森の中。森全体が青年の家の所有地であるから、館を訪れるのは郵便配達人と本家から定期的に訪れる者のみ。
世間から隔離されたような営みを送る青年にとって、森を散策することは数少ない娯楽の一つであった。少女はそれを知っているから散策への誘いを断ったことはない。断る理由などないし、この緩やかに流れる時間は少女にとっても好ましいものであったから。
今もまた心地よい時間が二人の間に流れている。

「葛葉さんは、りんごの花言葉を知ってる?」

ふいにかけられた青年からの問いに少女は首を横に振る。そういった知識は少女にはない。反対に、読書好きな青年はそうしたことにも詳しく、散策の度に少女にいろいろなことを教えてくれる。

「花言葉は、名声とか選択」

青年はにっこりと笑う。その笑顔に見惚れ、少女は頬をほんのり染めた。

「あとは、そう、選ばれた恋」

浮かんだ笑みが種類を変えたような気がして、少女は慌てて表情を引き締めた。

「私とあなたのために咲いてくれたのかな」

青年の細く長い指が少女の頬に触れる。
どくどく早鐘を打ち始めた心臓の辺りを少女は服の上からぎゅっと押さえた。

「あなたへの私の思いを後押ししているのかも」

低く艶めいた声と呼応するよう指先も官能的に輪郭をなぞる。

「か、からかわないでください」

強く答えたつもりが、実際は蚊の鳴くような声しか出せていない。
そんな少女を見つめ、青年はくすくすと笑う。

「からかっていないよ。私はいつだってあなたを求めているんだから」

紡ぐ言葉は情熱的に、けれど青年は少女から指を離し、追い詰めることを諦める。
少女が戸惑い、恐れを感じれば、青年は敏感にそれを察して一歩引いてくれた。それは有り難くもあり、不思議でもあり、青年の真意が少女にはまだよくわからない。

「もっと近付けば手が届くかもしれないね。少し待っていて」

戸惑っている少女を置いて、青年は少し離れた場所に立つ林檎の木へと歩んでいく。
そして、林檎の木にたどり着くとその枝へ手を伸ばし、躊躇いなく手折る。少女はその姿を見守りながら、徐々に呼吸を整える。
青年は決して無理強いはしない。強引な時もあるにはあるがそれでも強く拒めばわかってくれる。それを思い出せば、胸の動悸も少しずつ落ち着いてくれた。
彼は手折った枝を持ち、再びこちらへ歩いてくる。だいぶ落ち着きを取り戻した少女は、青年が戻る頃には頬の赤みを抑えることに成功していた。

「はい」

花のついた細い枝。それを差し出され、少女はきょとんとした顔で彼を見上げた。

「葛葉さん。あなたに」

受け取るよう促され、少女は枝をそっと掴む。そして、花を間近で見つめ、その可憐な様に微笑する。
片手で枝を持ち、少女は青年に礼を言おうと口を開きかけ、青年の顔の思いもよらない近さに驚いて言葉を飲み込む。

「最も優しき女性に」

眩しいものを見るように少女の笑みを見つめてから、青年は腰を屈めて少女の耳朶に囁いた。

「あなたにぴったりだ、葛葉さん」

せっかく落ち着いた心臓はまた激しく鳴り響き、少女は顔を赤らめ俯いた。
そんな少女の手を握り、青年は歩き出す。少女は手を引かれるままに青年の後に続く。
日はまだ高く、散策のための時間はたっぷり残されていた。






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