館の主人と使用人 苦いお薬
シチュエーション


「ご苦労様です」

玄関まで見送り、少女は医者に頭を下げた。

「若旦那にきちんと薬を飲むよう言い付けておくれよ。あの人はすぐ薬を捨てちまうから治りが遅くてかなわん」

玄関先で渋い顔をする医者に苦笑いを返しながら、少女は「私が責任をもって飲ませます」と承った。
森へ続く道と庭の境に停められた馬車へと乗り込む白衣を見送ってから少女は扉を閉めた。
まずは栄養をとらなければ。そう考え、少女は厨房へ向かう。
専属の料理人を雇えばいいのに館の主人はそうしない。掃除洗濯炊事は少女の役割で、庭仕事と館の管理と来客の接待は執事の仕事だった。要するに、この洋館には主人を含めて三人の人間しかいないのだ。
少女の前任者は優秀であったらしく、一人ですべての家事をこなすことに不満はなかったらしい。始めこそ不満たらたらだった少女も今は慣れた。頑張れば何とかなるものだというのが彼女の素直な感想だ。
少女は風邪をひいてしまった青年のために粥を作り始める。そうしながら、厨房の窓から外を眺めると壮年を過ぎた男性が庭木の剪定に励んでいる。館の周囲が整然と保たれているのは一重に彼の賜物だ。

「郡司さんのご飯も用意しなきゃ」

同時進行で昼食の用意も始め、少女は慌ただしく厨房の中を行ったり来たりする。
しばらくして少女の前には青年のための梅粥と自分たちのための簡素な昼食が並んでいた。
厨房の窓を開け放し、少女は執事へ向かって声をかけた。

「郡司さん!」

自らの仕事ぶりを遠目に観察していた執事は、庭木から目を離して少女の方へ向き直る。

「お昼ご飯出来ました」
「ありがとうございます。今そちらへ」

のんびりと歩き出す執事へ少女はなおも語りかける。

「先に食べていてください。私、旦那様にお粥を持って行きますから」

執事は目を細め、鷹揚に頷いた。

「そうですか。坊ちゃまもあなたがお持ちすれば素直に口になさるでしょう。私がお持ちしても、粥は嫌いだのと駄々をこねますからな」
「ふふ、旦那様らしいです。ちゃんと食べさせて、お薬も飲ませますから」

厨房に付けられた扉まで来た執事と目を合わせ、少女は笑った。
執事が厨房へ足を踏み入れたのと同じ頃、少女は粥の入った小さな土鍋を持って厨房を後にした。
廊下を通り、階段を上る。そのまま歩を進め、少女は一つの扉の前で立ち止まった。

「旦那様、入りますよ」

土鍋を持っているからノックは出来ない。声をかけ、返事を待たずに少女は両手を塞いだまま器用に扉を開いた。
広く大きな寝台にぐったりと横たわり、青年は赤い顔で少女を見ていた。

「気分はどうですか?」
「あまり、良くはないと思う。でも、あなたの顔を見たら、少し元気が出たよ」

相変わらずな青年に近付き、寝台横の机に土鍋を置いて、少女は彼の額に手を添える。熱を持った肌は汗ばんでいた。

「まだ熱がありますね」

少女の手がひんやりとして心地いいと言うように青年は目を細める。
額から外した手で、顔にかかる柔らかな髪を避けてやり、少女はそのまま数度青年の頭を撫でた。

「お粥、食べましょうね」

寝台横に用意しておいた椅子に掛け、少女は土鍋の蓋を開いた。

「あなたが食べさせてくれるのか」

梅を潰し、一口分を掬い上げた少女に青年が声をかける。

「旦那様は病人ですから、私がお世話します」

問いを肯定するように少女はそっと彼の口元へ粥を運ぶ。
青年は素直に口を開き、粥を口にし、咀嚼する。彼が飲み込んだのを見計らい、少女は二口目を運ぶ。
そうしてしばらく粥を食べさせていると、青年が嬉しそうに笑った。

「こんな風に看病してもらえるならいつも風邪をひいていたいよ」

少女は目を丸くし、次いで呆れたような顔で青年を見つめる。

「何をおっしゃるんですか。だめですよ、ちゃんと良くならないと」
「でも、風邪をひいている間あなたはそうして優しいんだろう?」

青年は笑いながら「それならずっと風邪でいい」と嘯いた。
屈託なくそう言われては何と返したものか判じかね、少女は黙らせるために粥を青年の口元へ運んだ。青年は素直にそれを口にする。
ずっと風邪でいいなんて、苦しそうにしていたくせに何を言うんだろう。少女は昨夜の青年の様子を思い出し、むっとする。熱を出して苦しげにうなされている姿を見て一晩中心配したのだ。
今はだいぶ良くなったようだが、放っておいたらまた悪化するに違いない。
無責任な青年の発言に少女は腹を立て、けれど青年が求めているものが何かを考えると怒りを表に出すことは躊躇われた。
青年は少女に甘えたがっているのだ。それくらいは少女にだってわかる。病人だからと理由をつけないと青年と親密なやりとりが出来ないくらい、近頃の少女は青年に対して余裕を欠いている。自覚は、あった。

「早く良くなってくださらないと、もうご一緒に散歩も出来ませんよ」

最後の一口を運びながら少女は呟き、青年はそれを飲み下してから笑った。

「うん。やっぱり風邪は治さないといけないね」

水差しからコップへ水を注ぎ、青年に差し出す。

「お薬、飲みましょう」

医者から渡された包みを一つ取り出す。途端に青年が嫌そうな顔をした。
その反応を訝しみ、少女は包みと青年を交互に見つめ、嘆息する。どうやら青年は薬が嫌いらしい。

「ちゃんと飲んでいただきますよ」
「嫌だなあ」
「飲まなきゃ治りません」
「あの人の薬は嫌いなんだよ」

ぶつぶつと駄々をこねはじめた青年の手に、無理矢理薬を握らせる。

「どうしてですか?先生も旦那様は薬を飲まないっておっしゃられてましたけど」

手の中の薬を忌ま忌ましげに眺め、青年は溜め息をついた。

「だって、苦いじゃないか。苦いのは好きじゃない。甘いのがいいよ」

少女はたっぷりと間を置き、青年の言葉を反芻し、脱力した。なんてくだらない理由だろう。

「良薬口に苦し、ですよ。さあ、飲んでください」

若干腹を立てながら急かすと青年は渋々ながら包みを開いた。

「……本当に苦いのに」

嫌々ながらも青年は薬を飲み下し、渋い顔で水のおかわりを求めた。
改めて水を飲み干し、青年は吐息をついた。

「やっぱり苦いよ。好きじゃないな」

その姿がまるで幼い子供のように見え、少女はくすくすと笑いながら青年の頭を撫でた。

「頑張って飲みましたから、きっとすぐに良くなりますよ」
「良くなったら、あなたはまた一瞬に散歩をしてくれる?」

少女は僅かに躊躇い、けれど観念したように頷いた。

「はい。約束します」
「約束だよ」

立てた小指を差し出され、少女はそれに自身の小指を絡める。熱を出しているからか、青年はいつにも増して子供じみている。それに伴い、普段の彼から漂う、少女が居心地の悪さを感じる空気は消えていた。

「さあ、眠ってください」

促せば青年は寝台に身体を預けてしまう。肩までしっかりと布団で覆い隠し、少女はぽんぽんと布団越しに胸を優しく叩いた。

「眠るまで側にいて」

手を差し出され、少女はそれを握り閉める。
そのまま青年は少女の手を引いて頬に押し当て、心地良さそうに目を閉じた。

「あなたの温度は心地いい」

とくとくと心臓が脈打つ。
まるで触れた肌から青年の熱が移ったかのように、全身を流れる血液はどんどん熱を帯びていく。
今の青年には下心などかけらもなく、きっと病を得て心細いだけなのだろう。そう思うのに、触れているだけで身体が熱くなる。少女はそんな自身の反応に戸惑いを覚えた。
青年は目を伏せ、静かに呼吸を重ねる。眠りに落ちるのは時間の問題だ。
近頃は真っ正面から顔を見ることが出来なかったから、こうしてまじまじと顔を見つめるのは久しぶりだった。少女は眠る青年の顔を飽きることなく眺めた。
伏せられた睫毛が意外と長いことに気付き、少女は思わず自身の睫毛に触れてみる。きっと青年のものより短い。
そうやって、青年の顔に自分の知らなかった部分をいくつか見つけていく内に少女は改めて思い知らされる。
私は旦那様のことが好きなんだ――と。その事実は少女の胸を甘く熱く、そして狂おしいまでに切なく焼くのであった。






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