館の主人と使用人 このおろかさをきみはいつくしむ・前(非エロ)
シチュエーション


母は、儚げな人だった。ともすれば消えてしまいそうな、思わず手を差し延べたくなるような。そんな女だから、きっと父は母を愛したのだろう。
母はいつも空を見ていた。森を、花を見ていた。愛おしそうに、慈しむように。
そんな母に私はいつも問うていた。

『お父様はどうして一緒にいられないの?どうして母様はいつも一人なの?』

尋ねると、母は決まって困ったような顔をした。そうして、折れそうなほど細い腕で私を抱いた。

『あなたがいるから、母は一人ではありませんよ』

母の答えは決まって、そうだった。
いつしか、私は母に問うことをやめていた。その問いに満足のいく答えが返ることなどないと気付いたから。

『ごめんなさい』

最期に母は私の頬に触れた。冷たい、冷たい手で。

『ごめんなさい、保名。ごめんなさい』

父が母の最期に現れることはなかった。
母はなぜ私に謝罪を述べたのか。私にはわからない。父の顔すら知らぬ私を哀れと思っていたのだろうか。
謝罪などいらなかった。父親のいる生活を知らない私には、それを望むことも羨むこともなかったから。
ただ知りたかった。父がなぜ私たちと、母と共に在ることが出来ないのか。生きているなら顔が見たかった。自分の父がどんな男なのか、知りたかっただけなのだ。
やがて時が過ぎ、私は母が私を宿すに至る経緯を耳にした。それは実にありふれた陳腐な恋物語。
愛し愛された結果が私のように育つなら、私は人など愛さずに生きよう。私には愛など必要ない。
一人にしてしまうくらいなら、愛さない方がずっといい。
愛を知らない私はそれを否定することしかできずにいた。それがどんなものかもわからないまま。





「目が覚めました?」

少女は青年の顔を覗き込む。彼はまだまどろみの中にいるようで、視線はぼんやりと宙をさまよっている。

「もうすっかり良くなりましたね。熱がぶりかえす様子もないし」

青年の額に手をあて、少女は微笑む。大事をとってゆっくり寝かせただけある。
額から離した手が、突然青年に掴まれた。少女は驚いて目を丸くする。

「だ、旦那様?」

寝乱れてくしゃくしゃの髪、虚ろな瞳。明らかに寝ぼけているようなのに、掴む腕は力強い。焦点の怪しい視線で縛り付けられ、少女は身動きできず、蛇に睨まれた蛙よろしく立ち尽くす。

「あの……ひゃっ」

強い力で引き寄せられ、バランスを崩して青年に倒れ込む。そんな少女を抱き寄せ、青年はきつくきつく抱きしめた。

「葛葉さん」
「あの、まだ朝、っていうか、お昼かもしれませんけど、でも、お昼でも、やっぱり、その、こここういうのは、あの、あのっ」
「葛葉さん……葛葉」

全身を巡る血液が沸騰しそうな熱さを感じ、少女は今にも気絶してしまいそうになる。けれど、なんとか意識を保ち、しどろもどろで青年の説得を試みた。
しかし、青年の声音に切羽詰まったものを感じ取り、少女は抵抗するのをやめた。触れ方はけしていやらしいものではなく、幼子が母に縋り付くようなものだと気付いてしまったからかもしれない。
少女は観念し、青年の頭を抱き寄せた。

「怖い夢でもみたのですか?」

宥めるように髪を梳き、少女は優しく尋ねる。
青年は少女にきつく両手を回し、柔らかな身体に頭を預ける。
そうしてしばらく青年の好きにさせている内に、いつしか彼の腕から力は抜けていた。

「私は……」

ぽつりと青年が呟く。低く掠れた声は泣いているかのようだった。

「私は、あなたが欲しくてたまらない。でも、私ではあなたを幸せにできないと気付いてる。あなたを不幸にしてしまうのに、私はあなたを求めずにいられないんだ」

ぎゅうっと少女の胸が締め付けられる。

「あなたが好きだ、葛葉さん」

優しく微笑まれる度に、温かな手で触れられる度に、甘く囁かれる度に。与えられる感情は少女の胸に柔らかく突き刺さり、甘美で熱く心地よいものをもたらした。それはけして嫌なものではなく、大切にしたいと思わせるようなものだった。
彼女にとってそれは、受け入れれば叶う、けれど受け入れてしまえば喜びだけではなくなる、初めての思い。






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