シチュエーション
城の一室。 ジークは執務に追われていた。 机の上には膨大な書類の数が束ねられ、片方の山には処理された書類を、もう片方は手をつけなければならない書類に挟まれながら、ジークはそれらを片付けるために奮起していた。 長時間、同じ体勢で固まった身体を一度解そうと身体を反らした。 それと同時に扉を叩く音が響く。 「王子、いらっしゃいますか」 「アリカか、入ってこい」 「失礼します」 アリカはいつものように部屋に入ると、さらに数枚の書類をジークに手渡した。 それを苦虫を噛み潰したように受け取るジークは、仕事が増えたことに重い溜息を漏らした。 先にこれを片付けてしまおうか、そう考えたジークはそれに目を通す。 肘をつき、一通り読み終えた後、ペンを持ってそれらにサインを書き綴った。 「とりあえず、これをギルバートに渡してくれ」 突然、ジークの体がグラついた。 差し出そうとした書類は受け取るはずだったアリカの手を素通りし、床にばら撒かれ、体が傾いた時に当たった肘によって積み重なれた書類すらもばらばらと落ちる。 「お、王子!! どうなさいましたか?」 すぐにジークの身体を支えようと傍により、ジークの顔色を見てアリカは愕然とした。 先ほど入った時には書類の影で見えなかったが、明らかに顔色が悪い。 「……すまん。この積もった書類で渡し損ねた」 「そのようなことより、王子の御加減の方が気にかかります。すぐに医者を呼んで参りますので、少しお待ちください」 ジークの身体を椅子に深く座れるように移動させ、すぐにアリカは踵を返す。 アリカが一歩踏み出そうとすると、ジークがアリカの腕を掴んだ。 「いや、どうせ寝不足か何かだ。それには及ばん」 「しかし、御身にもしものことがあれば……」 「なればほんの少しだけそなたの時間を貸してくれないか。その後に医者にでも見せてくれれば良い」 普段より弱弱しいジークの声に、アリカはジークの方に向き習った ジークはそれを待っていたかの様にアリカの身体に頭を置いた。 その様子にアリカはさらに慌てふためくが、ジークは構わずアリカの体温を感じようと椅子に座りながらもアリカを抱き寄せた。 「お、王子!?」 「すまんな……そなたにしかこんな姿は見せられん。少しだけ、こうさせてくれ」 安心したような吐息をジークは漏らす。 ただ、アリカにとっては抱き枕状態といっても過言ではなく、自分はどうすればよい皆目検討もつかず、またジークのこのように何かに縋る姿を見るのは初めてだった。 「全く……そなたがいなければ私はとっくの昔に壊れてしまっているだろうな」 「どうされたのですか? 『黒翼公』とも称される貴方様がそのような弱気なことを」 黒翼公とはジークが戦場を黒い愛馬と共に駆け抜け、ジークの髪も黒いことから人々から呼ばれるようになった二つ名である。 しかし、ジークにとってはそれも重荷の一つでしかなく、もとより彼は戦場を好んでいない。 だが戦場で戦い、手柄をたてなければならないほど、彼の立場は危うい処にある。 「……私は所詮、妾の子。しかも早くに母上を亡くしたせいか、頼りになる者はおらず、正直周りは敵にしか見えなかったよ。実際、私が消し去ろうとする者達がいるのは確かだ。今までは、どうにか跳ね除けてきたが、な」 力なくジークは笑う。 何か言わなければと思う反面、何を言えばジークを元気づけることが出来るのかアリカにはわからなかった。 自分には体験することもない雲の上の世界のやり取りは、戦場では味方を鼓舞し敵方を恐れさせるジークをここまで追い詰めるものなのか。 ジークに胸を貸すことしか出来ない自分をアリカは恥じた。 投げ出されていた手を握り締め、震える程に。 「こうして、そなたとこうしているだけでも私は責められる。そなたがいなければ私は城でも戦場でもとっくに死んでいただろうに」 そのジークの弱弱しい言葉は、アリカにとって最も聞きたくないものであった。 王子が消える……それを思うだけで自分はどうしようもなく絶望してしまうのに。 アリカはジークの力が入っていない腕を振りほどくと、ジークの目の前に跪き、ジークの目を真っ直ぐと見つめたまま、言い放つ。 「王子は私に話してくれたではありませんか、貴方様の母君が語ってくれた話を私に教えてくださったことをお忘れですか?」 「……いや、あの日のことは忘れることはない」 それはジークとアリカが幾度か戦場を駆け抜け、帰還した時にアリカがジークに純潔を捧げた日。 アリカと情事を行う前にジークが話したのはジークの母が生きていた時によく話してくれた御伽噺。 それは二人の騎士の話。 二人は常に信頼し、共に助け合うというどこにでもあるありふれた話。 そんな友を、臣下を見つけなさいと母に教わり、母が亡くなった後、幼いながらジークは探した。 しかし、妾の子に忠誠を誓う者も友と呼べる者も見つからず、途方に暮れていた時だった。 ジークがアリカを見つけたのは。 女性というだけで、周りの騎士たちから軽蔑されていたアリカ。 剣の腕前も頭の回転も他の者より優れているのに認められず、それでも鮮やかな蒼い目は強く輝いたままで、美しかった。 だから一度腕を試し合った。 手加減は一切するなと言い放ち、アリカと真剣に剣を交わらせた。 素晴らしい腕の持ち主だった。 そして、傍に置き共に戦った戦場ではその判断力と戦いぶりに舌を巻いた。 いつの間にか、戦友という認識は恋へと変わっていき、ジークはそれを話した。 「私はその時、王子に背中を預けると仰せつかりました。どれほど私が歓喜に身を震わせたかわかりませぬか? 騎士として、これほど名誉なことはありません。 そして王子が私を見出していただいたことで私は今ここにいます。だからこそ、私は貴方様に忠誠を捧げているのです。 及ばないかもしれませんが、我が力の全てをかけて王子の不安は全力で取り除きましょう」 ジークだけが助けられているわけではなく、アリカもまたジークに助けられたのだ。 妾の子というだけで、周りから冷たい目で見られていたジーク。 第一王子はどんなにぐうたらに過ごしていても王妃に庇護されるが、ジークは違う。 どれだけ、国を民を第一に考え行動しても擁護する人物もおらず、下手をしたらその手柄も横取りされる。それでも漆黒の目には火が燃えていた。 修羅場が続く戦場でもその戦術眼と恐れぬ気迫がどれほど自分を含めた兵士に勇気を与えたことを。 そして、ある夜に力を試したいと言われ剣を合わせた。 戦場では知っていたつもりだったが、見ると戦うでは桁が違った。 その後、自分を側近として傍に置き、信頼して仕事を任せてくれたこと。 周りが非難しても、優秀な者を置いて何が悪いと言い返してくれた。 その全てが今のアリカを支え、憧れは尊敬に変わり、いつしか抱いてはいけない感情を抱き始めることにもなった。 「そなたにそこまで言われるとは、相当私は酷かったようだ」 「も、申し訳ございません。出過ぎた事を申しました」 呆れたようにため息を吐いたジーク。 すぐさま、アリカは頭を垂れた。 感情的になって出過ぎたことを言ってしまった。 騎士としてアリカは自分を恥じたが、そんなアリカをジークは愛おしそうにそっと抱きしめた。 不意の温もりにアリカは驚き、顔をジークへと向ける。 「アリカ……そなたがいてくれてよかった。ありがとう」 「……王子、ん」 アリカの顔に手を添えると、ジークは優しく口付けを落とす。 触れ合うような口付けを終えると、アリカの髪を何度か撫で、髪にも口付けを落とすジーク。 そのジークの仕草はいつものベッドでの行動と似通っており、 「御自身の体調はご存知ですよね、王子」 「む、やはりわかるか?」 「何年も王子と共に過ごしておりますから」 先に釘を刺されたことにジークはバツの悪い顔をしながらアリカの髪を手で遊ぶ。 「ご養生してくださいませ」 「仕方あるまい。今は諦めて休むとするか」 「そうしてください」 その言葉にアリカは安心したかのような表情で胸を撫で下ろした。 とりあえず、散らかった書類を片付けようと立ち上がると、ジークに背を向けた時、それを見計らったかのようにジークはアリカを背中から抱き締め、耳元で囁く。 「では、今日の夜待っておるからな」 「は、はい?」 耳に囁かれた言葉の意味がわからないと、素っ頓狂な声を上げるアリカ。 「今は。と言っただろう? それにそなたと過ごす時間が何よりの癒しだ」 「し、しかし……」 「これでも我慢しているのだぞ。夜はいつもより激しく求めると思うが、構わんか?」 「……明日は非番ですので、その……」 耳元で囁かれた言葉と今から自分が言うであろう事にアリカは恥ずかしくなり顔を赤くするが、ジークの腕をそっと握り締め、ジークへと目線だけ向ける。 「……多少の無理をされても、支障はない……と思います」 言葉にした事がさらに羞恥心を煽ったのか、すぐに目線を下に逸らすアリカ。 髪からちらりと見える耳はこれ以上ないほどに赤く染まっていた。 「そうか。ところで、そろそろギルバートの所にさっきのを持って行ってくれ。少し拘束しすぎたかもしれんからな」 「し、承知いたしました」 そう答えるのがやっとなのか、下に散らかる書類には目もくれずに慌しく執務室からアリカは出て行った。 それを見送った後、ジークは椅子に力が抜けたように座り込むと、顔に手を当てて溜息を漏らした。 「……あれはわかってやっているのか?」 目線をアリカと交わして、表情を見ただけで頭が沸騰して思わず押し倒してしまいそうになったのだ。 仮眠を取るのは今の状況では難しそうだと判断したジークはいそいそと床に散らばった書類を片付け始めるのだった。 SS一覧に戻る メインページに戻る |