キミはともだち
シチュエーション


とても晴れた日のことだった。
赤、ピンク、黄、白、と色とりどりの花が咲き誇っている庭の端、背の高い茂みに囲まれて
誰かが泣いている。
庭を囲む壁の向こうからその声を聞きつけた女の子がいた。烏の濡れ羽色の長い髪を
後ろでひとつに結わえ、勝気な雰囲気を宿した目をしている。貴族の雰囲気さえさえ感じ
させる優れた容貌であったが、その格好はといえば薄汚れた衣服の端から腕も足も露に
したみすぼらしい格好で――ようするに貧民であった。
見上げた壁はこの土地を治める領主の屋敷のそれである。分別のつく大人ならばまず
近寄ることもしないそれに、彼女は近くの木にするすると登ってひょいと飛び乗った。壁の
近くまで枝を伸ばしていた木につかまって庭の中に着地すると、女の子は声の方向へ
向かった。
茂みを分け入り、少し開けた場所に出て、女の子は声の主を見つけた。
紅い、赤い、火か血のような色をした髪の男の子が、しくしくと一人で泣いていた。

「どうしたの?」
「……おうち、わからくなっちゃったの」

涙にぬれた瑠璃色の瞳が女の子を見つめた。

「どんなおうち?」
「しろいおうち。おうちのまえにふんすいがあるの」

女の子は壁に上ったとき、広い広い庭の奥のほうに噴水があったのを見ていた。なら
あっちに歩いていけばこの子の家があるのだろう。

「おうちにつれてってあげる。いっしょにいこう」
「ほんとう?」

男の子は、女の子の手を掴んだ。二人は一緒に歩き出した。


**********


「それでは、明日のラーグ公のお茶会への御召物はこれでよろしいですかな?」
「ああ、いい。いいよ。もうそれで」

シドニー・オートレッドはソファーに深々と腰掛け、執事の問いかけにぞんざいに
そう答えた。
ぞんざいになるのには理由がある。彼の部屋はまるで仕立て屋が店をそのまま
持ってきたような有様で、天蓋付きのベッドやテーブル、挙句は床に至るまで、どこ
もかしこもにも、見立てに来た人間たちのお眼鏡に適わなかった哀れな洋服たちが
一面に死体のように折り重なっていた。
それらひとつひとつに袖を通して着て見せたシドニーは、明日の茶会本番を待たずに
既にぐったりと疲弊している。

「坊ちゃま、しっかりしてくださいまし!明日は大事な――」
「はいはい、わかってる」


とある世界の西方に位置する国、ウェストリア。オートレッド家はそのウェストリアでも
指折りの有力貴族である。
名は体を表すとはよく言ったもので――この場合、体から名がついた可能性もあるが
この貴族がいつ頃からその「体」を持っていたかは定かではない――オートレッド家は
代々赤毛の一族であった。
現在の当主、ハルベルト・オートレッドの姉はウェストラント王十世の数多い側室の
中でも格別の庇護を受ける存在である。しかも十世には子がなく、次期王位には
オートレッド家の嫡男が選ばれるであろうという噂が国中に流れている――もっとも、その
出所にハルベルト・オートレッドの息がかかっているだの、かかっていないだのの噂も
同等に流れてはいるのだが。
明日シドニーが訪ねるラーグ公は国の執政官だった。シドニーの父、ハルベルトは
この茶会を機に、ラーグ公からシドニーの王位継承に対する後押しをもらいたいらしい。

「わかったから、さっさと出て行ってくれ。服も決まったんだ、もういいだろ?明日は
大事な茶会なんだ、さっさと寝させてくれよ」
「むぅ……しっかりしてくださいましよ!」
「わかったわかった」

散らばった服を枯葉でも掃き集めるように片付けさせるが早いか、シドニーは部屋に
いた全員を追い出して、大きく息を吐いた。
そして、くるりと窓に向き直ると、大きなガラス窓を開けてひそひそ声で呟く。

「おい、出てこいよ。いるんだろ?」

しかし、窓から見下ろす屋敷の庭には木の影が落ちるばかりで動くものは何もない。

「あれ……?いると思ったんだけど」
「ここだよ」

声はシドニーの頭上からだった。

見上げれば、屋敷の屋根に腰を下ろした女の影が夜空を背景に浮かび上がっている。
月の光が風になびく髪を映し出していた。シドニーは女の姿を認めてにいと笑う。

「よお。待たせたな。入れよ」
「いいのかい?明日は大事な茶会なんだろ?」
「かまうもんか。今日一日着せ替え人形やってやったんだ。その上お前と酒が飲めない
んだったら明日の茶会なんかばっくれてやる」
「言うと思ったよ。どいとくれ」

二、三歩シドニーが窓から離れたのを確認して、女は屋根からひょいと飛び降りた。
部屋の寸前で屋敷壁面の飾りに捕まって体を振り子のようにしならせ勢いをつけると
そのまま部屋に飛び込んでシドニーの眼前に着地した。
後ろでひとまとめにした髪がしなやかに揺れる。勝気な目がシドニーを見て微笑んだ。

「お疲れ。じゃ、一杯やるかい」
「おう。飲もうぜ、ミコト」

シドニーは破顔した。



「よし、これでどうだ。ツーペア!」

ワイングラス片手に、ミコトは器用にカードをひっくり返す。
先程まで洋服に埋もれていたテーブルは、打って変わってミコトが持ってきたトランプとポーカー用の賭け品で埋もれている。
賭け品とはいっても大したものではない。彼女が自分の家で作ってきた
菓子やら酒のつまみやらで、今夜はほとんどがシドニーの胃袋に収まっていた。

「残念でした。フラッシュ」

シドニーはひょいと手札を机の上に投げ出した。一、三、七、ジャックにキングときれいに
スペードが並んでいる。

「……あ〜、また負けた!畜生、なんであんたそんなに運が強いんだよ!?」
「お前が悪いだけなんじゃないか?」
「うるさいねぇ、もう一回だ!……あ、でももう賭けるもんがないや」
「じゃあ、こういうのはどうだ?買ったほうが負けたほうに一回だけ好きなことを命令
できるってのは」
「お、いうじゃないか!よしのった!」

言いながら楽しげにカードを混ぜ始めるミコトを見て、シドニーはふわりと笑う。
こんなふうに気安いやり取りをできるのは、彼の周りではもうミコトだけだ。

彼女と知り合ってから、もう十年以上になる。
その間、シドニーの立場は有力貴族の嫡男から王位継承候補へと変化し、周囲の
人間もだんだんとその態度を変えていった。ある者は媚び諂い、ある者は擦り寄り、
あるものは硬化し、そしてまたある者は敵意を向けた。
そんな変化の中、ミコトだけは変わらなかった。彼女はシドニーの立場など関係ない
場所にいたからだ。
だから、シドニーはミコトにだけは自分の心の全てを見せることができる。
今や彼女だけが、シドニーにとって親友と呼べる唯一の存在だった。

**********

「あ〜〜〜〜!ちくっしょう、結局負けちまった!」
「はは、何命令してやろうかな」
「……そんな性格でなんで女にもてるんだろうね。あたしにゃ分かんないよ」

けらけらと笑うシドニーを見ながら、自分の言った言葉に一部嘘があることをミコトは
分かっていた。
出会った時、一瞬燃えているのかと思った、背の真ん中まで伸びた紅い髪。
宝石を溶かしたような瑠璃色の瞳。
幼かったころの抱きしめたくなる可愛さはなくなったものの、それはそのまま人形の
ような精悍な顔立ちへと成長を遂げている。
気のないミコトでさえ見惚れるほど、シドニーは美しかった。

「ま、顔はかっこいいからな、俺。時期国王候補だし」
「あーあ、将来あんたの女房になる女が不憫でならないよあたしゃ……」
「ひどいなぁ、俺の心配してくれんじゃないのかよ」
「あんたは心配いらないさ。殺してもしなないよ。とっとと国王になっちまいな。で、なに
すりゃいいんだい、あたしゃ」
「……まだ考えてないや」

シドニーは言って後ろ頭を掻いた。
ぽかんと呆れて一瞬のち、ミコトはあははと大声で笑った。
東の国からの流民であるミコトに、こんな風に接する上流階級の人間など、シドニー
くらいのものだろう。貴族などいなくなってしまえばいいと思うことはよくあったが、彼を
嫌いになれないのはこのどこかお人よしなところがあるからだった。

「なんだよ、笑うことないだろが!」
「ごめんごめん。まぁ、あんたがこんな平民に頼むようなことなんて何もないだろ。代わり
といっちゃなんだが、またワインでも持ってきてやるさ」
「うむ、よし。それで許してやる」
「今更偉ぶっても全然迫力がないんだよ!」

軽口と笑い声は、結局夜遅くまで続いた。

**********

「ちゃんと明日の茶会に出るんだよ!?」
「はいはいわかったわかった」
「はいは一回でよろしい!」
「は〜い」
「よし!じゃ」
「おう、また来いよ」

軽く手を振ってから音もなく窓から飛び降り、ミコトは庭の暗がりの中へと姿を消した。
故郷で「カゲ」と呼ばれるスパイの家系だったというだけあって、その気配の消し方は
見事なものがある。
ベランダでひとりになったシドニーは一瞬前までミコトがいたあたりの茂みを黙って
見つめていた。

本当は。
本当はミコトに頼みたいことが一つだけ、あった。

「……ずっと……俺の友達でいてくれ」

つぶやいた言葉は、すぐに夜のしじまに吸い込まれて消えた。ミコトの影はもう庭の
どこにもなかった。

その夜、ミコトはいつものように一本の赤ワインを持ってきた。
それは彼女からすれば何年かに一度手に入れられるかどうかの上物で、二人は
楽しくポーカーをしながらまたたく間に瓶を開けた。

このワインが、シドニーとミコト――そして一つの国の運命を大きく変えることになる。

********

「あーあ、結局また負けかぁ」
「ほんとに弱いな、お前」

テーブルに手札を投げ出してミコトはシドニーを睨みつけた

「うるさい!しょうがないなぁ、またワインを持ってくるよ。今日みたいな年代物は
当分無理だけどね」

珍しく手に入った上等のワインだったので、今日はミコトも相当飲んでいる。酒には
それなりに強いが流石に顔が上気しているのは隠せなかった。

「そういえばお前がヴィンテージを持ってくるなんて珍しいじゃないか。どうしたんだよ」
「まぁ、たまには、ね」

わずかに言い淀んだミコトにシドニーは気付かなかった。

そのワインは、ミコトがいつもシドニーへの土産を仕入れる貧民街の酒屋の主人から
特別に貰ったものだった。店を閉めるので、いつも贔屓にしていたミコトにとっておきを
くれたのだ。

「ここんとこ貴族階級からの締め付けが苦しくなってきてね。酒の仕入れも中々できない。
二つとなりの貧民街は焼き討ちにされたとも聞いてる。ここらが潮時だよ。嬢ちゃんも早く
他の国に逃げたほうがいい」

主人はそう言ってミコトにワインを手渡した。

「鬱憤がたまった貴族様の気晴らしのためにわざわざいいもん持ってきてやったんだよ。
感謝しな」
「感謝か……」

わずかに残ったワインをグラスの中で弄びながら何か考えていたシドニーは、不意に
よし、と言ってグラスを置いた。

「ミコト。かお」
「?」

手招きするシドニーにつられて、酔いが回ったミコトは訝しむこともなくシドニーのほうに
顔を寄せた。その頬に、流れるような動作でシドニーが手を添える。

「え――」

一瞬、酔ったせいで頭がおかしくなったのかと思ったが、目の前にあるのは間違いなく
シドニーの顔だった。同時に、頬に柔らかな感触。口づけられたのだと気付いたのは
頬から唇が離れた後だった。

「ちょ……、なにすんだい!」
「何って、感謝だよ」
「なんで感謝が接吻なんだよ!?」
「親愛の意味を込めてするだろう。お前の国じゃやらないのか?」
「するわけないだろ!この馬鹿!」
「そりゃ悪かった。すまんすまん。頬だからOKってことにしといてくれ」

顔を更に赤くして怒るミコトに、シドニーはけらけらと笑った。
子どものように笑う彼を見て、内心ミコトは安堵していた。

――そうさ、こいつが王さまになるんだ。
今は少し苦しいけど、もう少しでシドニーが王さまになる。こいつなら、私たちのような
貧しい人間の暮らしをよくしてくれる国を作ってくれるはずだ。
大丈夫さ。きっと大丈夫――。

********

異変は、夜半過ぎに起きた。

最初に気付いたのはミコトだった。音は殆ど聞こえなかったが、開け放った窓の外から
夜に似つかわしくない空気を感じ取った。

「……なんか、外が変じゃないかい?」
「どうした?」

ミコトの言葉にテラスへ出たシドニーが、僅かに地平が赤く染まっているのを見つけた。
丘を一つ越えた、ミコトの家があるオートレッド領と隣のノール領の境の貧民街付近だった。
時計は十二時半を指している。日の出にはまだ早い。

「ちょっと待ってろ、爺を呼んで聞いてみる」

数分後、呼び出された執事が部屋のドアを叩いた。ミコトは天蓋付きベットの下に潜り込んだ。
この十数年、部屋に人がくるたび、見つからないようミコトはこうして家具の中や下に隠れた。
大抵、ほんの少しで来訪者は帰っていき、ミコトとシドニーは隠したトランプを取り出して明け方
近くまでポーカーを楽しむ。
なにかざらざらとしたものが肌をなでていくような不安を感じながら、それでもいつも通りの夜が
くるのだと信じて、ミコトはシドニーと執事の会話に耳を澄ましつつ息を殺した。

「貧民街の掃討?」

ぎくり、と体が強張った。

――聞いていないぞ。どういうことだ!
――貧民街に潜む窃盗犯の捕縛のためと称しノール公配下の軍勢が――
――明らかな侵犯行為ですが窃盗犯がいるのは事実――ウェストリア法庁の証書が――
――オートレッドの名を貶めるのが狙い――
――貧民街を一掃すれば治安の維持と不当侵犯の妨害の一石二鳥だと――

貧民街に軍隊が向かったこと以外、聞こえてくる声はミコトの頭の中を通り抜けて行った。
町に向かったのがノール公の軍隊でもオートレッド公の軍隊でも、貧民街の危機は免れえない。
もう町までついてしまったのだろうか。もしまだなら早く知らせなければならない。あそこには父も
母も兄妹もいる。「影」の一員であった父と兄なら、事の仔細を知れば動いてくれるはず――


事態の粗方を聞き出し、シドニーは執事を部屋から出した。クローゼットから外套を取り出して羽織り
ながらベットのシーツをめくる。

「ミコト、落ち着いて聞け。今、爺に馬を用意させた。俺が行ってなんとか収める。お前はここで――」

だがそこにミコトの姿はなかった。

「あいつ、どこへ……!」

泳いだ視線が、一点で瞬時に止まった。
窓。
開け放たれた窓。

「あの馬鹿……!!」

シドニーは部屋を飛び出した。


********


ミコトは風のように駆けた。
家族の危機に、酩酊していたはずの頭ははっきりと覚醒したように思った。
だが彼女は気付いていなかった。いつもよりその足音がずっと聞こえやすいことに、気配を全く隠せて
いないことに。酔いは全く覚めておらず、むしろ彼女の平常心を奪っていることに。
二十分ほど後、ミコトは町はずれの丘のふもとにたどり着いた。もうそこからは耳をつんざくような悲鳴や
怒号や鳴き声が、聞こうとせずとも聞こえてきた。

「……!間に合わなかった……!」

町は既に阿鼻叫喚の有様だった。火の粉が夜空を赤く明るく焦がしていた。建物という建物に火が
放たれ、飛び出してきた人々を鎧を着けた兵士が追い立て、剣を突き立てる。

――父さん、母さん、みんな。
見つかればミコトもただでは済まない。
家への最短経路を頭の中で組みたてて、ミコトは走り出した。


ミコトが選んだ道にはまだ火の手はそれほど回っていなかった。が、家々を焼く炎によって辺り一帯
灼熱地獄と化している。額や首筋を伝う汗を拭うこともせず、ミコトは駆けた。

――!

ようやく家が見えた。幸いまだ火はそれほど勢いがない。
駆け寄り引き戸に手をかけたミコトは、ふとそれを止めた。

「……これは……」

戸と鴨居に連なった鋭利な刃の跡。それは緊急時の「影」の暗号で、もうその家の人間が戻らない
事を意味していた。

――よかった。気付いたんだ。逃げたんだ。よかった……。

安堵に胸を撫で下ろした瞬間。

がしゃり――重い金属音。

振り向くと、鎧の兵士二人と目があった。

――まずった!

「待てッ!」

怒声に近い制止を背に受け、ミコトは弾かれたように逃げだした。
だが追手は鉄の鎧を身に付けている。男の「影」にも劣らない脚力を持つミコトにとって、重装備の
人間を撒くことなど造作もないことだった。
燃え盛る通りの角をいくつか曲がり町の外に出て、後ろに兵士の姿が見えないことを確認してから
ミコトは近くにあった茂りの深い木にするりと登った。
町を中心に周囲の様子を窺う。案の定、遠くに馬数十頭と兵士の姿を見つけた。
あの装備で領の外れの貧民街に夜襲をかけるには足がいる。今は町に入るため馬を下りて
いるが、もし町の外で見つかればミコトの足といえど逃げることはできない。それに安全を確認した
とはいえ、家族がどこへ行ったかがわからない。家の中に何かしら残してくれているかもしれないが
確かめる前に兵士に見つかってしまった。今は戻れない。

――ここでしばらく待つしかないか。

「くそっ、どこに行った!」
「そう遠くへは行っていないはずだ。探せ!」

先程の兵士二人が、ミコトのいる木のほうへとやってきた。

――上にいるとはわかるまい。ここにいれば安全だ。

それは、本来の彼女であればするはずのない油断、だった。
家族の安全を知ったためもあったが、何より覚めてなどいなかった酒気が動きまわったことで完全に
回り、本人の気付かないうちに彼女の頭を鈍らせていた。
疲れからミコトは木の幹に体を預けた。
ミコトの腕に当たった枯れた小枝が、パキンと存外大きな音をさせて折れた。

********

何かが燃える臭いを含んだ風を受けながら、シドニーは燃える町へと馬を全力で奔らせた。
おそらくミコトの足ならばもう貧民街に着いているはずだ。だが、遠目から見ても町は火に覆われ
ている。おまけにそこに住む住人を殺すことを目的とした騎兵隊が派遣されている。もし奴らにミコトが
見つかってしまえば。

――間違いなく殺される。

手綱を握る手に力が入る。早く。兵士達よりも早く、ミコトを見つけ出さなければ。

――俺はお前に別れなど言いたくない。

「!」

町の入口付近に馬の群れが見えた。おそらく騎兵隊のものだろう。馬をまとめていた下級兵は、
近づいてくるシドニーに一瞬剣を抜きかけたが、その赤い髪を認めてあわてて鞘に戻した。

「おい、これは何の騒ぎだ」

何も知らず通りかかったように装い、シドニーはきつい口調で兵士を糺した。

「は、はい、隣領の窃盗犯が貧民街に逃げ込んだとの情報が寄せられたため、その討伐を行っている
ところでして――」
「愚かな、貧しくとも我が国に暮らす民であろう。こんなものは討伐ではなく虐殺だ!すぐに指揮官に
兵を引き火を消すよう命じろ!」
「し、しかしシドニー様――」

兵士の言葉をさえぎるように、悲鳴が響いた。
無意識のうちにシドニーはそちらに手綱を向けて馬の腹を蹴った。誰かの悲鳴だった。それがミコト
である保証はない。
だが、行かねばならないとシドニーの勘が告げていた。
一本の木の下に、兵士が二人屈んでいた――否、片方の兵士は女に馬乗りになっている。

「何をしている!」

突然に激昂を浴びて、兵士はびくりと振り返った。組み敷かれた女の顔はよく見えない。
だが地面に広がった女の髪が見えた。美しい烏の濡れ羽色。

「貴様等――!」
「放せッ!」

聞きなれた声が響いた。自分を組み敷いていた兵士を突き飛ばして女がシドニーのほうに突進した。
瞬時にもう一方の兵士がそれを地面に押し倒す。
地面に顔を押し付けられて尚、その勝気な目がシドニーに何かを訴えようと見上げている。右の頬は
殴られたのか赤く腫れ上がり唇の端からは血が垂れている。服は破かれ、白い胸元が谷間まで覗いて
いた。

「こ、これはシドニー様、一体どうしてこのような場所に……」
「さるご婦人の邸宅からの帰りだ。これは一体どういうことだ!?」
「は、この貧民街に賊が忍び込んだため、その掃討を――」
「私が言っているのはそんなことではない!早く――」
「やめろっ!」
「静かにしろ、この女!」

兵士は気付かなかったが、ミコトの制止は自分へのものだということに気付き、シドニーは続く言葉を
飲み込んだ。
瞳に宿るものは懇願ではない。

――何だ、何を言いたい?何故止める?何故どうしたいと言わない?

そこでふと気付いた。

――言わないつもりか。

言えばシドニーと知己の仲だということがわかってしまうから。

この十数年、密かに、密やかに、シドニーとミコトは友情を育んだ。二人の関係を知る者は互い以外に
誰もいない。

――貴族様が野蛮な流民と付き合いがあっちゃ体面が悪いだろ?

そう言って、ミコトは誰にも見つからず、誰にも話さずシドニーの心を支えてくれた。
噂というのは尾ひれをつけて広がっていくもので、政敵とする貴族の名を貶めるために、そういう謀を
使うものも少なくない。そしてそれが原因で爵位を剥奪された貴族も事実として存在した。
真意のほどは定かではないが、今この街には賊がいることになっている。もしそのひとりかも知れない
人間とシドニーが知り合いであるとこの兵士達が知れば、オートレッド領のみならず、国中に噂は広まる
だろう。形は違えどオートレッドの名を堕とすというノール公の策略に嵌ってしまうことに変わりはない。
家名の没落は、そのまま一家の断絶に繋がる。

――どうする。

もし立場を捨てられるなら今すぐ捨てて友を助け起こしたい。だがそこまで無謀になれるほどシドニーは
愚かになれなかった。家族とそれに連なる人々を容易に捨てられるほど非情でもなかった。
しかし、今ここで助けなければミコトはきっとこいつらに犯され弄られ、最低の死を迎える。

――どうする。

見捨てるのか?命をかけてまで自分を思ってくれている友を。

********

――言うな、シドニー。

ミコトは沈黙したまま、どうにか自分の意思を伝えようとシドニーを見つめた。
馬上のシドニーは僅かに混乱の表情を浮かべたが、やがて何かに気づき、明らかに迷った。どうにか
ミコトの思惑は伝わったらしい。

――そうだ、それでいい……お前のお荷物にはなりたくない。

お人よしの貴族など余程の運がなければ生き残れない。下手に身分の違う自分との関係を知られれば
シドニーの未来に関わる。
万が一こいつらが事に及ぼうとしたとき、最悪、事後に油断した隙に逃げられる可能性はある。自分の
ようなもののために、友達の将来を棒に振らせたくない。死と犯されることへの恐怖は体を芯から震わせて

いたが、それでもシドニーをこの場から遠ざけたかった。
兵士たちは、黙り込んだ貴族に首を傾げている。いつまでもこうしているのは危険だった。

――……?

不意に、シドニーの雰囲気が変わった。俯いていた顔を上げる。

ミコトを見下ろす瑠璃色の瞳に、いつものお人よしのシドニーはいなかった。
そこから感情を読み取ることはできない。固まった人形のような顔が、遥か下方を見るようにミコトの方を
向いていた。
燃え盛る町の炎の明かりが、赤い髪をまるで燃えているように輝かせる。

まるで、人間ではない別の生き物のようだ。

――こいつは、こんな顔だった?

見知らぬ友の姿は悪寒が走るようでいて、それでも目を離すことができない力を持っていた。

「『これ』は私がもらっていく」

よく通る落ち着いた、それでいて有無を言わせぬ声だった。

「で、ですがしかし――」
「疑いが晴れるまで私が預かる。罪人と分かれば連れていくがいい。中々器量のいい女ではないか」

馬から降り、引けと命じるとミコトを抑えつけていた兵士は横へと退いた。腰に差していた剣を音もなく
抜くと、ミコトの右肩へその峰をひたりと置く。この国に伝わる契りの儀式だった。

「忠誠を誓え。そうすれば助けてやる」

――そういうことか。

ミコトは瞬時にシドニーの考えを理解した。

彼は身体目的に女を拾ったように見せかける気なのだ。シドニーのものになったとなれば、兵士たちは

もうミコトに手出しできない。女好きだの何だのの噂はとっくにあるからオートレッド家に対する被害もない。

シドニーにもミコトにも損にならず、何もなくこの場から逃れられる方法は、最早それぐらいしかなかった。

――頭がいいよ、あんたは。

シドニーの機転に感謝しつつ、ミコトは痛む身体を何とか動かしシドニーの足元に両手を添えて額づいた。

まるで幻でも見せられている気分だった。だが焼ける町の熱さも腫れあがった頬も、右肩に添えられた

剣の冷たさも全てまごうことなき現実だった。形だけとはいえこんな風にシドニーの前に跪くことになるとは

夢にも思わなかった。

「忠誠を……御身に仕えることを、誓います」

応えた「許す」という声は、少し震えていたような気がした。

「すまない」

貧民街から離れ誰もいなくなったのを確認してから、馬上で自分に掴まるミコトに
シドニーは言った。

「あの場は、ああするしか思いつかなかった」
「謝ることはこっちだ。あんたを面倒事に巻き込んじまった……ごめんよ」

言ってミコトは、こつりと背中に頭を預けた。腰に掴まる腕が少し力んだのが分かる。
兵士に殴られたときかばったからか、元来白いそれは痣だらけだった。
それならむしろ、この一件を引き起こしたハルベルトにこそ非はある。そしてそれを
知らなかった自分にも。
胸が痛んだ。きっとミコトが受けた痛みは、こんなものの比ではない。

「……町まで送る。とりあえず医者に診てもらおう」



一番近い町まで馬をとばし病院の戸を叩く。数分して、漸く寝ぼけ眼の老医師が出て
きた。

「夜分すまない。至急こいつを診てくれ」

馬からミコトを下ろそうとその手を引いた。瞬間、その身体がぐらりと不自然に傾いて
シドニーは慌ててそれを抱き留めた。

「どうした?」
「ごめん、足が……」
「足?」

見れば、腕と同じく痣だらけの足は、右の方の脛あたりが酷く腫れ上がっていた。骨が
折れているのかもしれない。痛むのか、ミコトは顔を青くし、脂汗をかいている。

「どうして黙ってた!?馬に乗っているのも辛かっただろ?」
「……ごめん」

――ああ、そうか。

いくら痛むといっても、結局は病院に行くしかない。一番近いここで十数分はかかった。
そんな距離をシドニーが担いでいくのは無理がある。

「……もういい。じっとしてろ」

シドニーはミコトの体を肩に担いだ。軽かった。そして柔らかかった。

「い、いいよ。肩貸してくれるだけで!」
「これぐらいやらせろ……気付かないですまなかった」

ミコトは僅かに考えたようだったが、やがて身体の力を抜いた。少し肩にかかる重みが
増したのを感じ、シドニーはミコトの腰にまわした腕に力を入れた。

******

「流民の娘を拾ったそうだな」

翌朝、自室で遅めの朝食をとっていたシドニーの元に、父ハルベルトが訪れた。

「夜中に屋敷を飛び出した上に、下賤な東の民を囲うなど何を考えている。オートレッドの
名を貶す気か、貴様」
「まさか。聞けば昨晩の掃討はノール公の領内侵犯の対抗だったという話ではないですか。
ならばもし向こうが無理にこちらに入ってきたときのため牽制をしておこうと思っただけです。
そこに女が襲われていたから助けた。それだけですよ」

ハムエッグを銀のナイフで切りながら、シドニーはそれらしい理由を述べた。

「ふん、お前の女好きにも呆れたものだ」

――あんたに言われたくねぇよ。

シドニーは心の中で父を嘲笑する。
ハルベルト・オートレッドの好色ぶりはシドニーのそれより有名であった。世間的にハルベ
ルトの息子はシドニーと弟のジョシュアの二人とされているが、本当のところは疑わしいもの
だとシドニーは思う。

――蛙の子は蛙か。

自分も所詮はこの男の息子なのだと、シドニーは自嘲の笑みを浮かべた。

「まぁいい。その娘は今どこにいる?」
「近くの町医者に診せています。怪我をしていたのでね」
「そうか。後で秘密裏に遣いを出す。屋敷に連れてくるぞ」

どくり、と心臓が大きく鳴った。幸いその音はハルベルトには聞こえなかったようだ。

「……どういう、ことです」
「お前が外で流民の娘と逢瀬を重ねているなどと噂が立ってはかなわん。ここで飼い殺す」
「そんな……そんな必要はない。あれが医者にかかっている間は、私は会いに行きません」
「お前のことを言っているのではない。その娘のことだ。卑賤な人間は金になることには躊躇
がない。このことを醜聞の種として強請り集りに使ってくるぞ。そうなる前に事を片付けねば」
「しかし――」
「玩具にしたいのなら好きにしろ。ただし下の口は使うな、面倒事になってはかなわんからな。
飽きたら使用人にでもくれてやれ」

血が沸騰するような怒りと持っていたナイフをハルベルトに突き立てたい衝動を、シドニーは
辛うじて堪えた。

その日のうちにミコトはオートレッドの屋敷に連れてこられた。足や腕にまだ包帯が巻かれ顔の
傷も痛々しい彼女が屋敷の外れの女中部屋に連れて行かれるのを、シドニーは自室の窓から
見つめていた。

――すまない。

届かないとは分かっていたが、シドニーは心の中でそう思わずにはいられなかった。
自由でいてほしかった。何ものにも囚われず、縛られず、そうやって生きてほしかった。そうやって
生きているミコトは、シドニーにとって憧れであり、希望であり、唯一の自由だった。

――俺がお前の自由を奪ってしまった。

自分自身が憤ろしかった。ミコトの自由一つ守れない自分が呪わしかった。
ミコトにどう詫びればいいのか、どう償えばいいのか、シドニーには分からなかった。
どうして赦されるだろう、こんな酷い仕打が。

――ならせめて、恨まれよう。憎まれ疎まれても、お前を守ろう。

シドニーは、誓った。それが唯一、自分がミコトにできることだと思った。

******

――おかしなことになったね。

ミコトは屋根裏の物置部屋で古いベッドに腰掛け、ふむと考え込んだ。
何故、シドニーの屋敷に連れてこられたのだろう?おまけに部屋まで与えられた。つまりは
ここに住み込んで働けということだろうか?
不意に戸が叩かれた。

「入るぞ」

言って中年の男が食事を持って入ってきた。

「飯だ、食え」
「ありがとう」

差しだされたパンにかぶりついたミコトに、男が感心したように言った。

「自分の身体を質に入れてまで命を守るたぁ、大した女だなぁお前」
「何だって?」

とんでもない言葉を聞いて、ミコトは危うくパンを取り落としそうになった。

「何って、シドニー様に身体を売って命を拾ったんだろ?お前」

怒りを通り越して呆れそうになって、ふとミコトは昨晩シドニーが咄嗟についた嘘をを思い出した。

――ひょっとしてシドニーがそういって誤魔化してるのか。

「……そういうとこかな、一応」
「?まぁいいや。とりあえず怪我が良くなるまではここにいろ。良くなったらそれはそれで大変
だろうけどな」
「大変って、何か仕事でもするのかい?私」

「そんなの決まってるだろ、シドニー様のお相手だよ」

男はにやあ、と下卑た笑みを浮かべた。

「なんでもすごいらしいぜ、なかされた女は両手じゃ足りねぇって話だ。なんなら俺が事前練習の
お相手になってやろうか?」
「遠慮するよ」

我知らずベッドの上で後ずさったミコトに、男はがははと笑った。

「はは、そりゃそうだ。実を言えばこっちだってシドニー様のものに手ぇ出すわけにはいかないしな。
じゃ、おとなしくしてろよ」
「はいよーだ……あ、ちょっと聞きたいんだけどさ」

横になりかけたミコトは、ふと身を起こして男に尋ねた。

「シドニー、様、には、会いたいって言えば会えるのかい?」
「お前が会いたくても会えるような御方じゃねぇよ。そのうちあちらからお呼びがかかるだろう。じゃ」

男はそう言って出て行った。

――あほらしい。あいつと私がそんな仲になるわけないじゃないか。

ミコトは横になり布団を被った。こんな真昼間から横になるのも妙な気分だった。おまけにここは
シドニーの屋敷である。もっとも、シドニーの部屋と場末の屋根裏部屋では月とすっぽんの差だが。

――まるで昨日のことが嘘みたいだ。

シドニーの部屋で、二人でワインを飲んだことも、ポーカーをしたことも、作りごとか絵空事のように
思えた。幸い骨は無事だったがそれでも滅多打ちにされた足は歩くのも辛い。あちこち殴られ打たれ
できた傷や痣が疼く。
自分はこの国でろくな扱いをうけない底辺の人間であるという現実は、紛れもない痛みとしてミコトを
苦しめた。

だが、とミコトは思う。

――あいつは私を守ってくれた。

ミコトにとっての真実は、シドニーが自分を守ってくれたことだった。例え彼との間に越えようのない

身分の隔たりがあったとしても、彼と自分が友だちであることこそが痛みよりも明確な真実だった。

――あんたに会いたいよ。シドニー。

眠りに落ちながら、ミコトはシドニーを思った。
瞼の裏に現れたシドニーは、いつものようにミコトに向かってからからと笑っていた。

夜襲の日から一月後の夜、怪我が完治したと聞いてシドニーはミコトを部屋に呼んだ。

「失礼いたします。娘を連れてまいりました」

執事がミコトを部屋へと促す。連れてこられたミコトは下女の服を着せられていた。

――妙な景色だ。

子どもの頃からずっと、彼女は腕も足も丸出しの服で窓からこの部屋に飛び込んできた。それが
屋敷の使用人として扉から入ってくる。言いようのない違和感だった。
ミコト自身も落ち着かないのだろう、きょろきょろと見慣れているはずの部屋を見回す。
目が合う。変わらない強い瞳に、ほんの少し安堵が浮かんだような気がした。

「お前は下がれ」

執事は「は」と恭しく頭を下げ、部屋を出て行った。

「ミコト!」

扉が閉まるや否や、シドニーは一足飛びに駆け寄るとミコトを抱きしめた。

「ちょ、ちょっと、いきなり何するんだい!はなしなってば!」
「良かった……ほんとに怪我治ったんだな」

暴れるミコトなど意にも介さず、シドニーはその身体を抱きしめた。存外小さく、柔らかく温かかった。
風呂に入ってから来たのか、石鹸の匂いがする。ミコトは暫くもがいていたが最終的に諦めたのか
シドニーの背に軽く腕を回した。

「あんたのおかげだよ。ここで養生させてもらったおかげさ。ありがとよ、シドニー」

胸の奥に僅かな罪悪感を覚えて、シドニーはそっとミコトを解放する。

「……すまない。こんなことになって」
「なんであんたが謝るんだよ?こちとら食事と住む場所まで世話になっちまってるんだ。

さっきの執事さんに頼んで屋敷の掃除やら何やらやらせてもらうことにしたんだ。あんまり
大したことはできないけど、医者代ぐらいは働いて返すからさ」

「……そんなことしなくていい」
「いいわけあるかい!こっちばっかあんたに迷惑かけてるんじゃ寝覚めが悪いってもんじゃ」
「そうじゃねぇんだ」
「……どういうことだい?」

シドニーが遠慮から言っているわけではないことを察し、ミコトの声に不安が混じった。

「お前と俺が友だちだってことを知られたらまずいってのは」
「知ってるよ。分かってる」
「なら何故ここに匿われたか」
「…………」

それはミコトの中にも疑問としてあったのだろう。答えを求め、勝気な瞳が珍しく戸惑いを浮かべて
シドニーを見上げる。
胸の辺りで言葉が閊える。

――だからってずっと黙っていられねぇだろ。

シドニーは大きく息を吸い込む。

「親父はお前をここで飼殺すつもりだ。俺がお前を助けたことを誰にも言わないように」
「私はそんなこと――!」
「分かってる。でも親父は流民を信用しない」

ミコトの顔が悲しげに歪む。自分でも酷い言葉だと思ったが、それが事実だ。

「あいつは貴族以外は人間じゃないと思ってる……きっと逃げれば殺される」
「…………」
「でも……いや。だから」

長い黒髪の垂れる肩をつかむ。

「お前のことは絶対自由にする。だから暫く我慢してくれ。それまで、絶対に惨めな思いはさせない」

きょとんとシドニーの顔を見上げていたミコトは、不意にふっ、と笑った。どこか寂しそうにも見える
顔だった。

「まったく、いっちょ前にいうじゃないか。庭の隅で泣いてた坊ちゃんが」
「え?」
「いいよ。あんたの家来になってやるよ」
「……怒ってないのか?」
「何を怒るってんだい?」

全く見当がつかないという風のミコトに、シドニーは拍子抜けしてしまった。

「だって、ここから出られないんだぞ?」
「あはは、出られないだって?」

ミコトは心底おかしいというように大きく笑う。

「あたしを誰だと思ってるんだい?この十数年、誰にも知られずここに出入りしてきたのはこのあたし
だよ?見張りの目ぐらいいくらでもちょろまかして外に出られるさ」
「そんなことしたら――」
「シドニー」

ミコトは微笑む。一点の曇りもなく。勝気な目をして。

「あたしは自由さ。こんなことで縛られたりしない」

――ああ。

敵わない。自分の不安が杞憂にすぎなかったことをシドニーは悟った。ミコトは自分が思っているより
ずっと強く自由だ。世の中の柵など、彼女を妨げることはできない。
そんなミコトが、美しいと思った。

「シドニー?」

――ああ。

そして気付いた。

――俺は、こいつが好きだ。

何か言いかけたミコトの口を、シドニーは唇で塞いだ。

「……っ」

長い口づけから解放され、ミコトは大きく息を吸う。

「あ、あんたいきなり何んだい!今、口に――」

いつもの悪ふざけだろうと思ったのだろう。怒鳴りかけて、しかし笑わないシドニーに、ミコトの口から
続く言葉は出なかった。その隙に再度唇を奪う。最初は浅く、徐々に深く変えていく。ふっくらと
柔らかな唇を舌先でなぞり、何か言いたげに開いたその奥へ更に這入る。退こうとするミコトの後ろ頭へ
手を添え、もう片方で腰を捕える。舌を絡めると腕の中で細い身体はびくりと跳ねた。
仕方なく唇を解放する。細い透明な糸が、名残惜しそうに二人の唇の間を伝った。

「っ……はっ……」

上気した頬でミコトがシドニーを見上げる。顔には明らかな混乱が浮かんでいた。当然だろう。ずっと
友達だと思っていた奴がいきなりこんなことをするのだから。

「な、なんで……」
「なんで?」

無意識に後ずさるミコトの腰を捕まえたまま、シドニーは部屋の奥の方へとその足取りを導いていく。

「駄目か」
「だ、だってあんたとあたしは……っ」

抵抗の言葉は再度塞がれた。ミコトの後ろにベッドを確認して、シドニーはミコトの腰にまわしていた
腕を解く。支えを失い、バランスを崩した四肢はどさりと音をたてて布団の上に落ちた。
ミコトが起き上がるよりも早く、シドニーはその身体を組み敷く。存外華奢な腕は、片手で押さえる
だけで簡単に封じられた。

「わ、わかった!あんた酔ってんだろ!?あたしが来るの遅いからって先に酒飲んだから、酔いに
任せてこんなこと――」

どうにか茶化してこの場を切り抜けようとするミコトを、シドニーはじっと見下ろす。やがてミコトの顔から
笑みが消えた。
ゆっくり顔を近づける。ミコトはびくりと震えて顔を背けたが、開いた片方の手でそっ、とこちらを向かせて
浅く口づける。

「……酒の味も匂いもしねぇだろ」
「……」

部屋を、静寂が満たす。
見上げるミコトの顔には怯えがありありと浮かんでいる。ふと、押さえた両の手が小さく震えているのに
気づいた。

――しまった。

シドニーは、漸く我に返った。
顔から手をはなし腕を解放する。殴られるかと思ったが、ミコトは組み敷かれたままシドニーを見上げて
いる。

「……ごめん」
「……本気?」
「冗談で、俺がお前にここまですると思うか?」
「……」

まだ混乱しているらしく、ミコトは困った顔で何か言いかけては黙り込む。シドニーから目を逸らし、羞恥
からか頬が紅く染まっている。
純粋に可愛いと思った。

――もう一度触りたい。

そっと顔に手を添える。肌理の細かい、柔らかい感触の肌は少し熱い。びくりと震えて逃れようとしたが
そうなるとまともにシドニーの顔を見ることに気づいてミコトは泣きそうな顔で男の掌に頬を埋める。手の甲に
押し付けられたひんやりとした黒髪が心地いい。
体の中から、どうしようもない衝動が広がっていく。

「そんなこと、いきなり言われても、どうすりゃいいかわかんないよ……」

そうだろうと、シドニーも思った。だが気付いてしまった思いをシドニー自身も抑えられない。こんな真似など
したくなかった。だが間違いなく、男としての性は真反対の行動をとろうとしている。

箍は外れてしまった。もう戻せない。

「……嫌だったら、そう言ってくれ。そしたら諦める」

一瞬、「い」の形を作った口からは、しかし何の言葉もでなかった。ミコトはシドニーを見上げる。困ったような、
苦しいような顔で。

「なんでそんな顔泣きそうな顔すんだい……」

シドニーが思ったことを、ミコトが言った。

「え?」
「卑怯だよ、そんな顔されたら、あたし何も言えないじゃないか……」

自由になった手でミコトは顔を覆う。ミコトと同じような顔をしていたことに、言われてシドニーは気がついた。

「……」

――もしかしたら。

ミコトも自分と同じことを思っているのだろうか。
『お前に嫌われたくない』と。
顔を覆っていた手をそっとはがす。泣きそうな顔のミコトが出てきた。

「……ごめん」

うわ言のような空々しい謝罪を吐きながら、シドニーはミコトに口づける。
ミコトは諦めたように目を瞑りそれを受け入れた。

「っ……」

夜の静寂の中、僅かな吐息だけが部屋に響く。
きつく目を瞑り組み敷かれたミコトに、シドニーは触れるような口づけを繰り返した。
それは瑞々しい唇の弾力を楽しむような動きから、徐々に唇を啄ばむような、喰らうような
ものへと変えていく。

「ん……っ」

きつく閉じた唇を舌先で解き、熱い咥内に這い入る。異物の感触にミコトが息をつめる
のを感じたが、そのまま逃げようとする舌を絡めるとくぐもった声が咥内に響いた。
細い指が、落ちそうな身体を支えようとする時のようにきつくシーツにしがみついている。
背、腰と続く曲線を撫でていた手で、ミコトが深い口づけに気を取られていた間に器用に
それを外し、既に二の腕までずり下げていた衣服から腕を抜いた。
最後のステイズを取り去ると、下着などつけずとも美しくしなやかに括れた腰と、反対に
締め付けられていた乳房が零れて、自重で柔らかに撓む。

――きれいだ。

純粋にそう思い、シドニーは白い首筋から胸元へと唇を滑らせる。

「ひっ……!」

触れる度にびくびくと震える四肢を押さえつけ、柔らかな肌を味わう。舌先に感じる肌理の
細かなはだの感触とぬくもりが脳髄を甘く痺れさせていく。シドニーの紅い髪が白い身体に
垂れている様は血を流しているようにも見えて、獲物を食らう獣はこんな気分だろうかと頭の
端の方で考えながら乳房へと舌を伸ばす。
まだ誰の手にも触れたことのない白い二つの脹らみは、柔らかで、しかしまだ張りを残して
ぴん、とその頂をシドニーに主張している。舌先で転がすとおもしろいように組み敷いた身体は
跳ねた。放してやると、シドニーの唾液に濡れぬらりと淫靡に光り、シドニーを煽る。

「あ、っ……!」

空いたもう片方の乳房に手を伸ばし、掌に収まりきらないそれをゆるゆると揉みしだく。
頂を捏ねると、堪えていた口から甘さを含んだ声が上がった。

「や、だ……、シドニー……っ」

ミコトはうわ言のようにシドニーの名を呟きながら、ゆるゆると首を横に振る。
汗に濡れた黒髪が、紅潮した肌に張り付いている。誘うような熱さを含んだ吐息。 今まで
聞いたこともない声に喉が鳴る。
立場ゆえ自重していたので行為自体は久しぶりだったが、今まで女を抱いてきたことは
何度もあった。
だが、今までのどんなそれより、肌を伝う性感が心地いい。

――――こんなにも、違うのか。

求める女と身体を重ねることの快感に、シドニーは溺れた。


もうどちらのものかも分からなくなった唾液が、ミコトの口の端から零れて頬を伝う。

「……っあ……」

身体が、熱い。
逃れようと身を捩っても、燃えるような男の身体に強引に抱き戻される。
男の口が、舌が、指が、全身の肌が、ミコトの中も外も余すことなく這いずりまわる。
その度に悪寒に似た電流が背筋を走り、全身が震えた。だがその震えは寒さではなく
淫らな熱をもたらす。
じっとりと濡れた肌が、同じように汗に濡れた硬質な男の身体と隙間なく合わさる。逃げる
舌を絡め取られて吸われ、胸の飾りを指先で緩慢に愛撫され――無意識に内股を擦り
あわせている。
犯されていく。齎される快楽でぐちゃぐちゃになった頭でも、唯一それだけははっきりと
認識できた。

「ひゃっ!?」

いきなり耳朶をちろりと舐められ、びくりと肩をすくめる。驚いて見上げるとシドニーがじっと
見下ろしていた。
今まで見たことのない顔だった。いつもの無邪気な子どものそれでも、あの夜の冷徹な
貴族のそれでもない。熱が伝わってきそうな情欲を宿した目が、にミコトを見つめている。

――「男」の顔だ。
ミコトの中の「女」がそう囁く。

貴賎の差こそあれ、今までミコトはシドニーを上だとか下だとかに見たことはなかった。
だがこうして自分を組み敷く彼を見上げ、初めて女と男のそれを意識する。
シドニーは首筋に顔を埋め、舌で酷く緩慢に首筋を舐める。滑った感触が通り過ぎる度、
くすぐったさとも寒気ともつかないざわめきがミコトを芯から震わす。
堪らず押しのけようとするがっしりと四肢を抑えつけられどうにもならない。

「っ……ん、ぁっ……!」

目を瞑り耐えようとした。だが、却って目以外の感覚を研ぎ澄ませてしまう。段々と思考を
蝕んでいく熱に、自然と涙がこぼれる。

「やだ……こんなの、っやだ……!」

「本当に?」

ぞっとするようなやさしい声が降る。
見上げると、美しい人の形をした紅い獣がミコトを見据えている。

「本当に嫌か?」

嫌だと言いたかった。だが、喉の奥に石でも押し込まれたように声がでない。

「なら、なんでさっき逃げなかった?」

言い訳をしてしまいたい。だが、理由が浮かばない。

「本当に嫌なら、俺から逃げることぐらいお前には簡単なはずだろう?」
「それ、は……」

確かにそうだ。屋敷暮らしで身体がなまっているとはいえ、カゲの本性はミコトの中に確かに
根付いている。集団ならまだしも、体調が万全の今、男一人相手に後れをとりはしない。
ならどうして、逃げない。
自問の間に、顎に手をかけられ、長い指に口腔を犯される。舌を緩慢になぞられる度、酔った
ような気分になっていく。

「あ……」
「なぁ、ミコト」

瑠璃色の瞳に、知らない自分が映っている。

「本当に、嫌か……?」

耳元で吐息とともに囁かれ、背筋が粟立つ。

――魔性だ。

惹きつけ、絡め取っていく。その意味を、ミコトは肌で感じていた。
確かにシドニーの器量は友人のミコトでさえ見惚れるものがあるが、友人以上の感情を抱いた
ことはなかった。なのに今、ミコトは「男」としてのシドニーに恐怖さえ感じている。妖艶という
言葉が男にも当てはまるものなのだということをミコトは初めて知った。
知己の仲であるはずのシドニーが、全く違う何かに見える。

「舌、出して」

霞がかかった頭は何の疑問も持たず、言われるままにみずから揚げられた魚のように口を
あけて舌を差しだす。
自分のそれに絡みつく滑った熱い肉の感触に、思考が蝕まれていく。

二人の身体を覆っていた衣はいつしか、ベッドの外に追いやられている。

「ん……ふっ……!」

拙くシドニーに応える舌が心地いい。吸い上げると、必死になってしがみつく様が愛おしい。

「感じやすいんだな、お前」
「……?な、に……?」

熱に浮かされ潤んだ瞳に、どくりと怒張が重くなる。
「女」だ。今まで見知った姿からかけ離れた姿。
肌を紅潮させ、愛撫に甘い声で鳴き、柔らかな肉の体をくねらせる。
最早二人は友ではなく、単純な牡と牝でしかない。

「ここ、濡れてる」
「!?ふ、ぁあっ!」

いつの間にか下肢へ伸びていた手が、ぬちゃりと粘着質な音を響かせる。長い人差し指が
淡い茂みを分け入って濡れたすじをそっと撫で上げる。今までの愛撫の比較にならない性感に
ミコトの背が浮く。知らず、強請るように男の手に腰から下を擦りつける。

「!いっ――」

だが、指が穴に潜り込んだ途端、快楽に酔っていた表情が痛みに歪む。

――処女か。

拒むように締め付ける狭い内側の感触からシドニーは悟った。

身体を起こす。快楽から一時解放され、ミコトはほっと胸を撫で下ろしたのも束の間だった。

「ちょ……やだっ、なにを――!」

ミコトが油断している間にシドニーはその膝裏をひょいと持ち上げた。
「影」として修練を重ねたミコトの身体は柔軟だった。そのまま胸の辺りに膝が来るまでいとも
簡単に腿を押し上げる。自然、「そこ」が眼前に露わになる。

「や、やめ……っ!」

恥辱に耐えきれず、ミコトは目を背けて腕で顔を覆った。
空いた手で割れ目をそっと開く。紅色の複雑な粘膜が、蜜に濡れて蠢き淫靡に光る。
花に吸い寄せられる虫のように近づいて、舌を滑らせた。

「!?ゃあっ――・・・・・・!」

持ち上げた足がびくんと反応する。
一番敏感なそこに、男の舌が入り込んでいると分かってミコトの顔は更に紅潮した。やめてと
懇願されたが、シドニーはお構いなしに容赦なくミコトを犯す。
顔をのぞかせた陰核を舌先で嬲ると、腕で支えた身体が緊張した。

「ぁ、あ……!?や、あ、っ!」

髪を掴まれ痛みが奔るが、攻めは緩めない。敏感な芽を嬲りつつ、指をまだ誰も受け入れた
ことのない腔に埋め込んでいった。

「や、……、はぁっ……」

包皮を剥かれ、無防備なそこを嬲る。一番鋭敏な性感帯への刺激に、高い嬌声が上がり未だ
青い肉の鞘が、徐々に蜜に濡れていく。
舌の腹で撫で、指先で押しつぶし、舌先で擦る。自慰すらしたことがないだろうそこが、唾液と
混ざりあった愛液に塗れている景色は酷く淫らだ。

「――……ッ!?あ――!」

柔らかくなってきた咥内で指を折り曲げると、ある一点で押さえこんだ四肢が弾かれたように
跳ねた。

「ここ、いいんだな」
「や、ああっ!」

陰核と同時に責めると、嬌声が上がって指を更に愛液が濡らす。少し塩の味がするそれを
音をたててすすると、羞恥からか指を咥えた孔がひくりと震えた。

「あ、ぁ、っや、あっ――!」

中に入れた指を広げても肉の壁が抵抗の色を示さなくなったのを認め、シドニーは一気に
ミコトを攻め立てた。支える四肢が硬直し、声は悲鳴に近くなっていく。
止めのように指の腹で、陰核をぐ、と刺激する。

「――――っ……」

全身が震えて張りつめる。埋め込んだ指をぎゅ、と咥えこんで、ミコトは果てた。

「イったな」

指を引くと、くちゅ、と名残惜しそうに濡れた肉が絡みつき、シーツに透明な蜜が零れた。



「……はっ……あ、ぁ……」

初めての絶頂に、ミコトは陶然としていた。
シドニーの指と舌が離れても、秘所はまだ肉欲にひくついている。足を開いても抵抗の素振りも
ない。
すでに怒張は腹の近くまで反りかえっている。

「ん、っ……!」

先端を擦りつけると、誘うように腰が揺らめく。赤黒い肉棒が蜜に濡れる。
なるべく痛くしないよう、ゆっくりと腰を進めた。

「――!?あ、ああぁあ!」

雁首が入っただけで、たっぷりと時間をかけて塗り込んだ快楽も一瞬で消え失せたらしい。異物を
排除すべく、肉壁は再びきつい締め付けを再開する。

「〜〜……っ!」

声にならない叫びをあげるミコトの目じりからぽろぽろ涙がこぼれる。

「いたいっ……!シドニー、痛い!抜いてっ……!」
「ミコト、落ち着け。ゆっくり息しろ。そ、ゆっくり……」

荒い息を落ち着かせ、子どもをなだめるように頭を撫でる。

「痛いのは最初だけだ。俺が言うとおりにしてれば、だんだん楽になるから……ちょっとずつ、ちから
抜いてみな?」

触れるような口づけを、額や頬に繰り返す。
痛いほど勃った己を中途半端に挿れたままにするのは骨が折れたが、今までの豊富な性体験が
今、ミコトに苦痛を与えない方法を教えてくれた。
落ち着いてきたミコトに徐々に愛撫を再開する。舌を絡めて口づけ、胸の頂を舌で転がすと、頑なな
肉壺が少しずつ、少しずつ解けていった。その隙に肉の槍を、ミコトの中に押し進める。
長い時間をかけ、シドニーの全てがミコトの中に収まったころには、二人とも汗だくになっていた。

「……ぜんぶ、入ったぞ。ミコト」
「うん……」

疲労からミコトの上に倒れ込んだシドニーは、柔らかな上肢を力いっぱい抱きしめた。応えるように
胸を上下させながら、ミコトもシドニーの背に手を回す。
感度がいいといってもやはり処女だったミコトは辛そうだった。本音を言えばすぐにでも奥底に剛直を
叩きつけたい衝動が腰のあたりに燻っていたが、内壁の具合から察するに、今そこまでしてもミコトには
苦痛でしかない。ここまでにしようとシドニーは堪えた。

「いたいか……?」

問いかけに、胸の中でミコトがこくりと頷く。

「……うごかないでいてくれるかい。ちょっと、つかれた……」
「わかった」

そのまま腕の中で、ミコトは眠りに落ちた。そういえば、長い付き合いなのに寝顔を見るのは今日が
初めてだった。額にかかった髪を払い、抱き直す。

――好きだ。

出会った日。シドニーの手をとり、助けてくれた女の子。
その子が今、腕の中にいる。
去来するのはずっとそうしてみたかったような、喜びと――永遠にそうなりたくなかったような、痛み。

――お前が好きだ、ミコト。

腕の中の体温を感じながら、シドニーも眠りに飲まれていった。






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