シチュエーション
「クーパー」 「動脈切離」 「バイタルは安定しています」 器具の触れ合う音、電気メスの音と特有の匂いがするそこに、時折短い言葉が交わされる。 周囲の人間には肌寒いほどに冷房の効いたそこはライトの下の人間には暑い。 使い捨ての術衣を着こんでいるせいもあるけれど、緊張と高揚感からの汗も出る。 「ライトを調整してください。もう少し奥を」 術野から目を離さずに指示を出す。言いながら液体の吸引をする。にじみ出る体液をガーゼで押さえる。 助手として彼の仕事――手術に下っ端ではない助手としてつけるようにもなってきた。 彼が執刀する症例は一言で言って厄介なものが多い。 他所でお手上げと言われたとか基礎疾患が厄介で手術が困難な、とかだ。 いきおい時間はかかり難度は上がる。執刀するほうも、助手をするほうも気力体力を使う。 でもこのひと時は貴重だ。彼の手の動きも目線も私を捉えて離さない。 神と一緒の場にいられてその手技を誰よりも近くで見ることができる。 外からの検査でしか分からなかった病巣を目で見て手で触れて対処ができる。私には何よりの経験だ。 少し難渋はしたが病巣は摘出された。 止血後、周囲を郭清し術中エコーで追加処置の必要がないのを確認して彼が目を上げる。 「あとは任せる」 「お疲れ様でした。ありがとうございました」 彼に声をかけて後処置にうつる。彼は使い捨ての術衣を床に脱ぎ捨て、肩を揉み解しながら手術室を後にした。 手術開始とは逆に内から外へと閉じてゆく。 丁寧に、でも素早くと心がけて皮膚まで縫合して消毒し、ガーゼを当てる。 終了。 ほっとした空気が流れる。 「お疲れ様でした」 声が交わされ、患者さんの退出の準備や麻酔医のチェック、若手医師による病巣の計測や撮影、病理に提出するために割を 入れたりする作業など。緊張の解けた空間が一気ににぎやかになる。 私も心理的に重かった装備をはずして一息つく。そこに手術部の看護師がよってきた。 閉鎖空間のような職場にあって戦友のような存在だ。 「お疲れ様。教授と先生の手術はすっきり早く終われるから好き」 「そう?まあ教授が神業だからね」 彼女はそうね、と言いながら続ける。 「でも先生って次の器具とか手順や、細かいこととかの指示が早いし的確だし、教授みたいに手も早いし。あ、変な意味じゃなくて。 教授も手技だけに集中できるからか、普段でもすごいのにそれ以上に鮮やかにオペしているって、スタッフの間では言われているよ。 機嫌よさそうに見えるし。 教授の執刀だから結構大変な手術ななずなのに、患者さんの負担は軽くて済むし、周りは早く上がれるし。いいことずくめ」 そうなのかな、と思いながら術衣の上に白衣を羽織り、待機室のご家族に手術の説明をする。 数時間の緊張はご家族も同じ、いや普段身近ではないせいか緊張は大きいかもしれない。 それが解かれてほっとしたり涙を浮かべたりする方も多い。よい報告ができると私も嬉しい。 手術部でシャワーを浴びて医局へと戻る。これで私の今日の業務は一応終了だ。 手術に入った日だけは時間があればドリップコーヒーを淹れることにしている。 少しずつ落ちていくコーヒーの香りが神経をほぐしてくれるようで、もう儀式のようになっている。 手術記録を入力してカップを両手で持ちほっとしているところに彼から連絡が入る。 コーヒーを持ってきて欲しい、と。 飲みかけのカップとサーバーを持って彼の部屋へゆき、彼の部屋のカップに注いで机の上に置く。 「お疲れ様でした」 彼と手術に入った日はこうして一緒にコーヒーを飲んで手術のことを話し合う。 私の行動にも言及されて注意を受けたり、アドバイスをしてもらったり。 共通の困難な課題に立ち向かったせいか、達成感の後の二人の間に流れるこの空気は、好きだ。 飲み終えて出て行こうとすると決まって引き寄せられて軽く口付けられる。 「お疲れ、今日はありがとう」 その時の彼の口調は素直で、柔らかく抱きこまれて唇だけを合わせるのも、好きだ。 医局で洗い物をしてからICUへと足を向ける。 手術日だけは少量個別に挽いた自前の美味しいコーヒー豆にしているのを、彼は知っているだろうか。 彼と手術に入る、という私にとって特別な日のささやかな贅沢。 もっとこの機会と時間を増やせるように精進しなければ。 SS一覧に戻る メインページに戻る |