シチュエーション
![]() 本棚の雑誌や本を整理していると乱暴な音がしてドアが開いた。目をあげると彼がそこにいた。 彼が興奮したり、ましてや乱暴な振る舞いをするのは見たことがなかった。 つかつかと私によってきた彼は、低い声で抑揚のない調子で質問をよこした。表情もない。 そこにいつもの面倒くさがりの子供っぽい彼はいない。 「助手を辞めるって?」 早耳だ。医局長に内々に言ったのはつい先程のことなのに。 「はい、あとで教授に正式に話をと思っておりました。報告が遅れ申し訳ありません」 総務から書類をもらって、彼の判がいる。 私の言葉は耳に入っていないようだ。手首を痛いくらいに捕まれる。 「どういうこと?」 「一身上の都合です。研究も論文にできましたし区切りがつきましたから」 「その都合は何だ。結婚か?それとも栄転か?」 手首が痛い。あざになるかもしれない。そこから小刻みな彼の震えが伝わる。――怒っている? けれどなぜそんなに怒るのか分からない。雑用兼処理係を失うからか? 雑用係はいくらでも人員がいる。処理係は少し面倒かもしれないが、彼なら不自由はないはずだ。 いや、もう彼に処理係など必要はない。 「どちらでもありません」 「俺から離れる理由は何だ?そんなに俺が嫌か。まあ愛想をつかされても仕方がないかもしれないが」 「嫌だなんて、そんなことはありません」 「じゃあ何故だ」 乱暴に本棚に背中を押し付けられる。彼の顔が別人のように見えて怖いと思った。 「教授、やめてください。ここは助手室です。人が来ます。……父の医院を継ぐんです」 押さえ込む彼の力が緩んで距離をとる。髪が乱れて眼鏡がずれた間抜けな格好をつくろう。 「父の医院を継いでくださっていた先生が体を壊されて引退するんです。 あと一年で医院の土地の借地権が切れます。それを更新しないことにしました。 急に閉院すると患者さんが困ります。診療を続けながら段階的に縮小して閉院に持っていきたいんです」 それに。 「教授に学長のお嬢さんとの縁談があるのを知っています」 彼とは、私ともだが同じ大学の大先輩の学長だ。学長の娘婿になれば彼の地位は磐石になる。 ゆくゆくは学会長や学長の座も夢ではないかもしれない。 お嬢さんは女らしくて、小さくて可愛い、守ってあげたくなる人だ。 ――私とは真逆の女性。年ばかり重ねて中身は一向に成長しない可愛げのない私とは。 彼にそんな話が出た以上、身辺整理をして身綺麗にしておく必要がある。 結婚すれば私は用済み。研究も一段落ついた今がいい引き際だ。 「教授の傍で手技が拝見できたことは幸せでした。どうぞお元気で」 そう言って彼に礼をする。 「君はどうしてこんな時まで……俺がなにを言っても、君はここからいなくなるのか」 それ以上は言わず、入ってきた時とはうって変わって静かに立ち去る彼の後姿を目に留めようとする。 彼の輪郭が滲んでぼやけた。 自分で終わらせることが、せめてものプライドを保つ行為だろう。 彼にすがりついて、しがみついて携帯の彼女のように迷惑がられる前に自分から終わらせることが。 ここからいなくなる。だから何も言えない。それは私も同じこと。 やっと気持ちに気付いたのに今更だ。本当に私は鈍い。 好きでなかったら何年も抱かれたりしない。彼じゃなかったら続けていない。そんな単純なことがようやく分かるとは。 いつからか私の中に芽生えていた感情はそれゆえに私を苦しめた。 ――好きだから、処理係が辛くなった。 ――好きだから、都合のいい女が惨めになった。 ――好きだから、重荷に、迷惑になるのが怖かった。 最後まで口には出さなかった想いは私だけの秘密。 元彼との別れの時でさえ浮かばなかった涙も――秘密だ。 そして私と彼は終わった。これでよかったんだ、いずれそう思えるだろう。 私は彼のいない人生を歩む。時が経てば感傷も癒える、はずだ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |