旦那様×メイベル(非エロ)
シチュエーション


午後11時。厨房。

彼女は一人、儀式のように注意深く紅茶の葉を選んでいた。
午後11時半には必ず紅茶を。それが彼女の主の日課であった。
この時間になれば他の使用人たちはほとんど自室に戻り、ひたすらに広いこの屋敷は
建物ごと眠ってしまったかのようにひっそりと静まりかえる。
静かな書斎で一人、仕事を片付けている主に、彼女は、紅茶を運び、そして給仕をする。
そうして、彼女の一日が終わるのだ。
瓶に鼻を近づけ、中の葉の香りを確かめると、彼女は今日の紅茶を決めた。
当初、数多い使用人が代わる代わるに行っていたその役目は、なぜか今では彼女だけのものとなっていた。
主がなぜ取り柄のない自分を名指しするのか、メイベルにはわからない。

主は人目を引く端正な容姿をしていたため、他の年若いメイドたちは
特別な役目を与えられた彼女を口ぐちに羨んだ。しかし、寡黙なメイベルは黙って苦笑するだけだった。

「あんなにお近づきになれるのに、メイベルは旦那様に全然興味がないのね、もったいない」

他のメイドは言う。しかしその言葉に彼女は違和感を覚える。
自分はただのメイドであり、主人の身の回りの世話をする、ただの道具に過ぎない。
道具が主に興味を持つなどということが、許されるというようには、彼女にはどうしても思えなかった。

―だから、やめなくては。
彼女はティーセットを一式、ワゴンに乗せゆっくりと厨房を出る。
完璧な温度に温められたカップ。ポットの中では選び抜かれた葉がゆらゆらとたゆたっている。

―早く、やめなくては。彼のことを…思うのは。
11時30分。ちょうどの時間に彼女はその厚いドアを叩く。
ノックは決まって2回。

「旦那様、紅茶をお持ちいたししました」

メイベルが扉を開け、声をかけると、クリフは手元の書類に顔を向けたまま、上目づかいで彼女を見た。

「ああ、御苦労さま」

彼女はティーセットを載せたワゴンを室内に押し入れる。
大量の蔵書に壁が埋もれている暗い書斎。机上のランプだけが淡い光で室内を照らしていた。
クリフは机に向かい仕事の書類を整理しているようだった。
メイベルは手際良く、ワゴンを机の端にとめ、深々と頭を下げる。
そしてその端正な顔をいつものようにそっと盗み見る。いけない、と考えるが眼をそらすことはできない。
落ち着いた雰囲気と柔らかい物腰。そこにはある種の貫禄が感じられた。

「もうそんな時間になるんだね」

彼は書類から目を離すと、眼鏡をはずして両目頭を指で押さえた。
仕事のことで頭を悩ませていたのだろうか。
クリフに仕えて三年になるが、メイベルはクリフの個人的なことはほとんど知らされていない。
これだけの屋敷を、資産をどのような仕事によって保っているのか。
家族はどこでどうしているのか。聞いてみたい、知りたいという欲求はあっても、彼女はそれを口にすることはない。

「今日は、何のお茶?」

彼はまるでひとつひとつの言葉を訳していくように、丁寧な話し方をする。

「アールグレイでございます」

彼女は完璧な温度に温めておいたティーカップに、静かに紅茶をそそぐ。
ポットを置き、顔を上げた瞬間に、にっこりとほほ笑む彼と目が合うが、彼女は何事もなかったようなそぶりでそらす。

「いい香りだね」

低い大人の声色にそぐわず、少年のように屈託ない笑顔。
許されることではないと理解していながら、彼女は、胸がひとりでに高鳴るのを感じていた。
彼女が給仕をした紅茶に口をつけ、彼は眼を細めた。

「おいしい」
「ありがとうございます」

メイベルは深々と一礼し、ドアノブに手を伸ばす。いつも通りの無駄のない所作で今日の儀式がまた終わる。
しかし、彼の声がその一連の動作をおしとどめた。

「あ、ちょっと待って」
「はい」

彼女が背筋を伸ばし、答えると、彼は言いにくそうに笑った。

「うーん。ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
「なんでございましょう」
「…いいかな、聞いても」
「どうぞ、何なりと」

彼は、こともなげに言った。

「君は僕のことが…嫌いなの?」

それは意外な言葉だった。想像だにしなかった質問。
動揺した気持ちを無理やりに押さえつけ、彼女は必死に平静を装う。

「とんでもございません。私は旦那様にお仕えしている身でございます」
「でも、なんだか、いつもこっそり僕をじいっと、睨んでるみたいに見える。親の敵みたいに」

気づかれていた―メイベルは衝撃を受け、言葉を失う。クリフは驚いたように言う。

「おや、君でも顔色が変わることがあるんだ」

少し遅れて、かあ、と顔が熱くなるのを感じた。うまい言い訳も、言い逃れも思いつかず、メイベルは反射的に頭を下げた。

「申し訳ございません」

彼女は自分の目つきの悪さを密かに呪う。日頃から、いつも静かに射抜くように人を見る癖のある彼女は、
冷たい印象を人に与えることがよくあった。

「謝ることはないよ。ただ不思議だったんだ。職場環境について何か思うところでも、ある?」

足元がぐらつくような衝撃のあと、自分は使用人失格だ、と彼女は痛烈に思った。
彼女の思慕の視線は隠れてすらいず、不躾なものとして受け止められていた。
しかも彼は言葉を選び、使用人の自分が責められていると感じないよう、配慮しているように見え、それがかえって彼女を深く傷つけた。
主に気を遣わせている、どこまでも未熟な自分。

「親の敵っていうのは冗談だけど」

動揺している彼女の様子を見て、主は気分を害す様子もなく、のんびりした口調で言う。

「何か怒ってるわけじゃないんだね?」
「そんな…とんでもございません!」

思わず声が大きくなる。

「けしてそのような意味で拝見していたわけでは…」

誤解を解くには、もう正直に答えるほか、ない。

「あの…だ、旦那様の、お顔立ちが」
「ん?」
「その、す…、す…素敵でいらっしゃるので…」

彼女は頭を下げる。

「失礼と分かっていながら拝見しておりました。ご無礼をいたしました。申し訳ございません」

声だけはいつものように淡々としていたが、語尾は自然と震えていた。
顔から火が出るほど恥ずかしい。
彼女は紅潮する頬を抑えることすらできず、その場から立ち去ることもできずにただ、
頭を深々と下げ続けた。困惑や侮蔑の言葉が沈黙を破る瞬間を思い、膝が小さく震える。

「メイベル」

苦笑するような声が、不意に頭の上からした。

「もういいから、顔をあげてごらん」

顔を上げた瞬間。
息がかかるほど近くにクリフの顔があった。

「だ、旦那様…!」

心臓が跳ね上がる。眼鏡の奥の、切れ長の目が静かに自分をとらえている。
瞳はこちらをとらえて離さない。
メイベルは言葉を発すこともできない。5・6センチ先にある、憧れ続けた人の顔。

「こんな顔でよければ、好きなだけ見るといい」

クリフは優しく見つめ、そっと、音も立てずに彼女の右腕をつかんだ。頭の中が、真っ白になる。
腕に伝わる、骨ばった手の感触と温度。まっすぐに向けられた、貫くような視線。
おぼろげなランプの光の中でもわかるほどの長いまつ毛と、彼のかすかな匂いに心臓が早鐘のようになる。
思わず顔を背けようとしたその瞬間、彼は独り言のように呟いた。

「キスしても、いいかな」

メイベルがその意味を理解する前に、彼はそっと唇を重ねた。
驚いて後ろにのけぞった頭が後ろのドアにあたって音を立てた。
後頭部に少し痛みが走り、彼女はこれが現実であることを知覚する。
彼はそんなことなどまるで気が付いていないというように、唇を押しあて続ける。
生ぬるい唇。吐息。唇を重ねるだけの、丁寧な優しいキス。彼の前髪がメイベルの額を撫でる。
仕立ての良いシャツの、クリーニングの糊の匂い。そして、微かな”男”の体臭。

クリフは唇をそっと離すと、ティーカップを置くようにゆっくりと優雅な動作で
彼女の後頭部をなで、のんびりとした口調で言った。

「…頭、ぶつけちゃったね。大丈夫?」

彼女は言葉を忘れ、ただぽかんとクリフの顔を見上げている。彼は可笑しそうにくすくすと笑った。

「…ようやく年頃の女の子の顔になったね」

その言葉でメイベルは我に返る。キスをされたこと。こんなにも近くで見つめられていること。
そして自分がひた隠しにしていた、見られたくないものを見られたような気持ち。
彼女はまた動揺し声をあげた。
彼は犬や猫をめでるような眼で、彼女の顔をしげしげと眺める。

「あ、あの、だ、旦那様…」
「ん?」
「お…、お離し、く、ださい」

とにかくこの視線から逃れたかった。胸が苦しい。つかまれたままの腕を振り払おうとしたが、
彼の手は思ったよりもずっと強く自分の腕をつかんでおり、びくとも動かない。

「あ、あ、あ、あ…あの、いけません。どうか。私は。旦那様。もうお許しください」

クリフは彼女の声が全く聞こえていないかのように落ち着き払っている。彼女の様子をみて満足そうにほほ笑んだ。

「僕もね、君のこと、よく見てたよ」

彼は、独り言のように呟いた。

「真面目によくやってくれているけど、いつもあんまり事務的だから。
最初は、どんな子なのかな、ってね」

メイベルは、その視線につかまったまま、茫然と立ちつくし動けずにいた。彼が話していることが、
自分に関係のない世界のように思えた。自分のことを見ていた?そんなことが、あるはずがない。

「でもずいぶん前、僕といないときの君を見かけて、ちょっと驚いてね。
いつも粛々と仕事をしてるけど、僕のいないところでは全然違うんだなって。何だか悔しくて。それからは、もう…」

そこまで話すと、彼は突然何かに思い当ったように言葉を止めた。
少しの間のあと、きょとんとした顔で言う。

「いい年して、何を言ってるんだろう、僕は」
「…はあ」

彼は困ったような表情を浮かべ、まるで第3者に相談するように言った。

「しかも突然こんなことしちゃったけどどうしよう。君に嫌われたかもしれない」

助けを求めるように視線を送られて、思わずメイベルは吹きだした。

「そ、それを私めに…おっしゃるのですか?」

それは今までメイベルの知らなかった主の一面だった。
いつも落ち着き払い、冷静で有能で―しかし目の前の彼はのんびりと、子供のような表情で困っていた。
この人は、こんな顔も、するんだ。彼女は胸の奥が締めつけられるような思いがした。

まっすぐにこちらを見据える、澄んだ眼。この視線につかまると、あっという間に息ができなくなる。
彼女は体中から絞り出すようにして、勇気を出して言った。

「嫌いになるなどということは…あ、ありません」

メイベルは、自分の心臓の爆発しそうな鼓動を抑えることもできず、
ただ顔中を真っ赤にしてうつむいた。
彼は屈託のない笑顔を浮かべ、息をついた。

「よかった」

間近で見ても隙のない笑顔にさらに彼女の動揺は激しくなる。
彼はドアごと彼女に覆いかぶさったような格好のまま、じっとメイベルを見つめ、手を離そうとはしない。
その温度。彼女はどぎまぎしながら言う。顔から火が出そうだ。

「だ、旦那様…」
「なに?」
「あの…もう、お願いです…お離しください、あの。もう」
「でも、君がこんなに動揺するところが見られるなんて、そうないし」
「…そんな…でも」
「もう一度、キスしても、嫌われない?」

彼は今度はメイベルの言葉を注意深く待った。
彼女は長い沈黙の末、ごく小さな声で、答えた。

「は、い」

そのとき、すうっと彼の瞳から笑みが消えた。真剣な眼差し。

―この人は、こんな顔もするのか。
そこまで考えたところで、キスが彼女の思考を分断した。






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