旦那様×メイベル2話目(非エロ)
シチュエーション


午後11時。書斎。
クリフは一人、書斎に篭り仕事を片付けていた。
埃臭く、大量の本に囲まれた壁。真ん中に据えられた、大きな古い机。年代物のランプ。
これといって魅力的なところは一つもないはずなのに、
ここはどんな場所よりも彼の心を落ち着かせた。
机に向かっていた彼は、契約書の束から目を反らすと、頬杖をつき、ゆらゆらとランプ中で揺れる橙をぼんやりと眺める。

―今日は彼女は来るだろうか?
昨日の出来事を思い返し、彼はため息をついた。
2度のキス。
自分でも驚きだった。
ろくに会話らしい会話を交わしたこともない、歳も一回りも離れてるような小さな女の子。
それも、使用人に手をつけるような真似をするなんて。

彼女が屋敷に来たのは三年前。
メイベルはいつも目立たなかった。しかし質の高いメイドだった。
他のメイドたちが時に必要以上の詮索をしようとするのと比べ、いかなるときにも黒子に徹した。
誰の目にも触れないところで、誰よりも丁寧に。
どんな些細な仕事にも、少しの手間も惜しまずに。
他の使用人が―もしかすると彼女自身ですら―気が付いていなかった彼女の優秀さを、
彼はすぐに見抜いた。
クリフはそういうことに長けていた。
何かを見抜くこと。そして、それに気が付いていないふりをすること。

―いつからだろう。
彼女の視線が気になり始め、落ち着かない気持ちになったのは。
乱れなく纏められた髪、ぴんと延びた背筋に、左右に引き結ばれた口。
あどけない顔立ちに不釣り合いな、喜怒哀楽を封じ込めた硬い表情。
自分はなぜあんなことを言ったのか。
クリフは自分の気持ちを正しくつかみかねていた。

メイドに徹し続ける彼女をただ少し動揺させてみたかったのかもしれない。
彼女の視線の意味など、もちろん分かっていたのに。
生身の彼女を見てみたかったというほんの好奇心。
そして、得られた想像以上の反応。
ぽかんと口を開けてこちらを見ている幼い顔。
そして顔を真っ赤にして訴えるぎこちない表情。
キスなんてするつもりなんてなかった。
しかし気がついたら、体は動いていた。

11時30分。ちょうどその時間に彼はその厚いドアが叩かれる音を聞く。
ノックは決まって2回。

   *

「失礼いたします」

ドアを開けると紅茶を載せたワゴンとともに、彼女が入ってきた。

「よかった」

それは、本心だった。彼は息をつき、メイベルにほほ笑みかける。

「今日は来てくれないんじゃないかと思った」

返ってきた声は、意外なほど静かに言った。

「私にお申し付け頂いた仕事でございますので」

彼女は淡々と話したが、平静を装っていても、表情はいつもよりわずかに強張っている。
入口の近くで深々と一礼をする。動揺はない。むしろ不思議なほど落ち着いている。
どこか張りつめた空気の中彼女はワゴンを留め置くと、カップに紅茶を注ぎ始める。

「今日はなに?」

彼は普段通りを装って言葉をかける。

「ダージリンでございます」

机上のランプの淡い光で彼女のつるりとした顔が橙に染まり、眼鼻に陰影が刻まれる。
その顔は彼にいつもアンティークドールを思い起こさせた。
すこしひややかな雰囲気と簡単には人を寄せ付けないような宝石の眼。
そこからはいつもより色濃く、意志の固さが窺い知れる。
目の前に差し出された紅茶をクリフがすすると、彼女は時を待たずに行った。

「旦那様」
「なに?」

そして。

「辞めさせていただけないでしょうか」

彼女は、唐突に言った。

「これ以上、このお屋敷に置いていただくことはできません」

彼は驚かなかった。なんとなく想像はついていた。部屋に入ってきてからの、彼女の思いつめたような様子を見たときから。
真面目な彼女が、主と一時的にでも関係を持ったことに罪の意識を感じないわけがない。
彼女は責任をとろうというつもりなのだ、と彼は思った。

クリフは声色を変えずに言う。

「それは…昨日、僕が嫌な思いをさせてしまったからかな?」

うつむいたまま、彼女は動かない。
下を向いたまま、否定を続ける。白いうなじ。
結いあげられた髪はほころびの一つもない。

「そうではありません」
「じゃあ、どうして?」
「私は…自分を許すことができません」

そこからの彼女の言葉は、彼の予想から少し外れた意外なものだった。

「使用人の身でありながら旦那様をお慕いしてしまったことも
、不躾にじろじろと拝見してしまったことも、
分不相応に浮かれてしまったことも。
そして旦那様に…お情けを頂いたことにも…耐えられません」

彼女は顔をあげた。いつも通りの無表情だったが、
大きな目には涙がいっぱいに溜まっていた。
その言葉から、クリフは彼女の思考の道順を辿り、その意味を理解した。
彼女は、主と関係を持ったことよりも、むしろ使用人として相応しくない振る舞いをしたことが許せない、と話している。
そして、何よりも驚きなのが―

「情け?」

彼は軽い眩暈を覚える。

「要するに、君に気を使って僕がキスしたと思ってるの?」

彼は笑みを消し、静かに言った。メイベルはわずかに目をそらし、小さな声で言う。

「旦那様が、私のような者にあんなことをしてくださる理由が…他には思い当たりません」

自分のようなものが、主と釣り合う筈がない。
愛情を注いでもらえるわけがない。
その思いが、昨日の事象を歪め、彼女にその結論を掴ませた。

―あれは、自分を憐れんでの、キスだ。と。

「それは違う」

彼はいつしか自分が必死になっていることに気がついた。
使用人なんて、いくらでも代わりはいる。
なのにこの小さな娘を、今、引き留めようとしている。

「したいからした。突然あんなことをして悪かったと思っているけど、いい加減な気持ちじゃない」

自分でも驚くべきことに、その言葉に嘘はなかった。
メイベルの瞳に動揺が走る。信じたい気持ちと信じられない気持ち。
そしてその彼女の戸惑いに、安堵をおぼえている自分。

「君のことを見てたというのは本当だよ、興味があった。すごく、だから君の考えていることが聞きたかった。
メイドとしてじゃなくて、ただの、君の言葉が」

彼の中のもうひとりの彼は、本心とおぼしきものが自分の口から吐きだされるのを、問いところから、驚きをもって見ている。

「使用人じゃないほうの君のことが知りたいんだ。でも、そういうのは、君は嫌?」

メイベルは、彼の言葉に圧倒され、いつしか無表情から解放されていた。ぽかんと口をあけてこちらを見ている。事態がよくのみこめない、という顔だ。理解できないのだろう、と彼は思う。使用人としてでない自分に価値を置かれることを。

「なんだか昨日から、嫌かなって聞いてばかりだ」

クリフは自嘲気味に笑うと、混乱している彼女に向かって、噛んで含めるように話す。

「とにかく、余計な事は考えないで、僕の言葉はそのまま信じてくれないかな。
僕は、気を使ってもいないし、情けなんてかけてない。わかった?」
「は…はい」

彼は手を伸ばし、彼女の頬を両手で挟んだ。放心していた彼女の表情が、弾かれたように驚きに変わる。

「じゃあ、素直に答えて。君は僕と離れたい?」
「い、いえ」
「それなら、ここを出ていくことはない」
「…」
「返事は?」
「はい」

反射的に返事をしたメイベルの顔を覗き込み、彼はにっこり笑った。
彼の目に見つめられ、彼女の目がせわしなく瞬きを繰りかえす。

「よかった」

彼は大きく息をつき、言った。

「どうしようかと思った。いなくなっちゃったら」

メイベルは言葉を発せず、信じられないものを見るような眼で、ぼんやりとこちらを見ていた。
その頬がみるみる熱くなるのが、彼の手のひらに伝わる。頬の、きめ細やかな薄い皮膚。落ち着きなく動く、大きな瞳。
近くで見ると、驚くほど幼い顔をしている。小さな赤い唇がわずかに震え、息を漏らす。
舐めたら甘い味がしそうだ、と彼は思う。

「僕は、ずっとこうやって、触ってみたかったよ」

小さな赤い唇がわずかに震え、息を漏らす。舐めたら甘い味がしそうだ、と彼は思う。
彼は、彼女の顎に指をやりそっと上を向かせると、ゆっくりと顔を近付けた。
彼女はその意図を察すると、動揺を必死に抑え、ぎゅっと力をこめて目をつぶった。
恥ずかしさと緊張で力のこもった細い肩。不器用な所作。
その初々しい表情を眺めているうち、加虐的な気持ちがふつと湧きあがり、彼は囁いた。

「ねえ、君からしてくれる?」

彼女は驚き、勢いよくその目を開ける。期待通りのメイベルの反応に彼は満足感を覚えた。
いたずらっぽく言う。

「君がまた後悔したら困るから」

驚いたような顔がみるみる赤く染まり、恥ずかしそうな表情に変わる。

「だ、旦那様、そんな…」
「どうするか、自分で決めるといい」

困惑と動揺。彼は彼女から少し顔を離すと、黙って彼女を見つめた。
仕事中とはまるで違う、くるくると変わる表情は見飽きることがない。
しばらくの沈黙の後、彼女は決心したようにごくりと唾を飲むと、彼の両頬にゆっくりと両手を当てる。
背伸びをして唇が近づく。まるで、誓いのキスだ、と彼は考え、そして目を閉じる。

―俺は彼女のことを本気で好きになってしまったのだろうか?
小さな唇が触れた瞬間。違うと、彼は思った。
最初から好きだったのだ。おそらく。






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