シチュエーション
「それでね」 椅子に腰かけながら、メイベルを膝の上に乗せ 後ろから抱きしめたような恰好のままで彼は言った。 ランプを一つ灯しただけの、薄暗い書斎。蒸らした紅茶の葉の匂い。温かく大きな腕。 「メイベル」 首の後ろに感じる、彼の吐息。 「…ちゃんと、聞いてる?」 主の声に彼女ははっとする。 「き、聞いて、ます」 こうして触れられても動揺しなくなったのは最近になってのことだ。 それでも時に、こうやってぼんやりと放心してしまう。夢ではないのか、と。 すぐ後ろで彼がクスクス笑った。耳元がくすぐられるようにぞくりとする。 静かな中で聞く、彼の囁き声。心臓に悪いと彼女は思う。 「それでその卵で、大きなパンケーキを焼くんだ」 「パンケーキ…、ですか」 「そう。それでみんなと大勢でパンケーキを食べる」 あれから、11時半は二人の逢瀬の時間となり、 彼女がワゴンに乗せて運ぶティーカップは二つに増えていた。 二人は、空白を埋めていくかのように、毎夜、こうして多くの話をした。 「それで、どうなるんですか」 「卵の殻に車輪をつけて、車にして、それに乗って帰る」 彼女は驚く。 「卵の殻で、ですか?」 「まあ、童話だからね」 「でも、鼠が2匹も乗れるのでしょうか?」 クリフは吹き出し、可笑しそうにくつくつと笑う。 「君は真面目が過ぎるね」 彼は博識だった。 仕事柄、色々な国に行ったことがあるらしく、 彼女の知らないような不思議な話もたくさんしてくれた。 たとえば、中東地方の変わったおまじないのこと。王族のわがままなお姫様の話。 寒い国での魚の獲り方。そして今日は、彼が昔に読んだ、絵本の話。 「つまんない話だと思ってる?」 「と、とんでもございません」 まともな教育というものを受けたことがなかった彼女にとって、 物語に触れるのは新鮮な体験だった。 そして、何より、それらが彼の口から語られることが、夢のような出来事だった。 「それならいいけど」 それに比べて、メイベルに出来る話はせいぜい一日の仕事や 使用人たちの間のささやかな出来事くらいのものであった。 彼女は、クリフを楽しませることができるかいつも不安に思ったが、 彼はいつも興味深そうに聞いてくれた。 そして彼は日中不在にしているとは思えないほど、 数多い使用人たちひとりひとりの名前や性格や癖をよく把握しており、 彼女の話も驚くほどよく理解してくれた。 「まだ慣れない?」 「そんなことは…」 メイベルが否定すると、彼はわざとそのまま黙って、彼女の言葉を待つ。 彼女はおずおずと訂正した。 「…申し訳ありません。まだ、少し、慣れません」 彼はよく、こうして、自分の思ったとおりの話をするように彼女に促した。 「やっぱり」 初めのうち、彼女は、緊張と恐れ多さでまともに彼に話をすることもできなかった。 彼はメイベルに多くの質問をし、少しずつ自発的に話すように促した。 こうして体を寄せ合うことが多いのも、自分への配慮でもあるのかもしれないと彼女は思う。 触れられているときは自分がただの小娘であることが実感できた。主に求められていることが分かる。そして、その温もりに甘えることができる。 体に深く染み付いた職業意識が吹き飛んでしまうくらいに。 彼には全てお見通しなのだろう、と彼女は思う。 「といっても、僕もまだ慣れないんだけど」 彼が、メイベルのうなじに唇を埋めて言う。 体ごと溶けてしまいそうだ、と彼女は思った。 彼は、彼女の頬に手を当て、優しく振り向かせる。 腕に抱きしめられたまま、見つめ合う形となるが、メイベルはまだ、近い距離で彼の顔を直視することはできない。 メイベルがどぎまぎしている様子を眺めると、彼は唇を近付け、挑発するように言った。 「どうしたの?」 クリフはときに、彼女の気持ちを分かっていながら、質問をする。主は見かけよりずっと意地悪だ。 しかし、彼が普段はけして見せない、その嗜虐的な目から目を離すことはできない。 彼女は胸の高鳴りを抑えることができず、思わずぎゅっと目を閉じる。 「君は本当に、可愛いね」 彼は低く笑うと彼女の頬を撫で、彼はキスをした。唇を割って、彼の熱い舌が分け入ってくる。 ゆっくりと口蓋をなぞられ、首を撫でられる。 何十回もキスをしてきたはずなのに、キスをされるたびに、気絶してしまいそうになる。 しかし、彼女はそれに溺れるたびに、自分の心の隅に巣くった不安の存在を意識した。 ざわついた気持ちを必死に抑えつけながら、この人の所有物になってしまえたらいいのに、と彼女は思った。 そして、いつしか彼女はひたすらに夜を待つようになっていた。 積み重ねるように行ってきた毎日の小さな仕事を、 もう以前のようにこなせなくなっていることに彼女は気がついた。 少し気を抜けば、目の前の時間の濃度はあっという間に薄くなり、 彼の事を思う。いけない、と彼女は思う。 家事労働すらまともにすることができない自分に、なんの価値があるのだろう。 しかし、そこから必死に自分を引きはがそうとしても、気がつけばクリフの事をぼんやりと考えてしまう。 彼女はこれまで、まるで恋というものに縁のない生活をしてきたため、それが自然なこととは思えなかった。 ―しかし。 彼女は思う。考えてみれば自分は最初からそうだったのだ。 いけないとわかっていながら、彼を慕い、視線を送り続けていたのだ。 自分の思いを律することもできない、未熟な使用人。 どういうつもりで主が、自分との親密な時間を持とうとするのかはわからない。 気まぐれとしか、彼女には思えない。 しかし。彼女はその可能性に思い至り、恐怖にとらわれる。 ―いつ、主の気が変わってしまうのだろう。 そして、時間とともに、メイベルの不安は膨らんでいった。 形のない闇が、実態をもって動き出すように、不安は悪意を孕んで膨れ上がる。 毎夜の逢瀬で彼のことを知れば知るほどに、そのしみのような闇は深まった。 彼の知識の量が、頭の回転の良さが、端正な顔立ちが、優しさが。 それを彼女に意識させる。 ―自分なんかと。 それは心に深く根付き、刺し、彼女の耳元でこう囁いた。 ―自分なんかと主が釣り合うわけがない。 そして、彼女はかつてからは考えられないようなミスをするようになった。 食器をとり落とす。ワックスをかけ忘れる。紅茶の量を間違える。 いままで完璧に出来ていたことが、手からすり抜けるようにして消えていく。 それは恐怖だった。 彼女が唯一、よりどころとしてきたものが、失われようとしている。 仕事が出来ない自分に価値があるとは思えなかった。 しかし彼はメイドでない自分のことが知りたいと言った。なぜだろう。理解ができない。 それでも彼女は彼のことを考えるのを、自分の意志で辞めることはできなかった。 気がつけば、進むことも戻ることもできないところに、彼女は迷い込んでいた。 そして、ある夜の11時半。 「ねえ」 紅茶を運びいれたメイベルに、彼は言った。 「どう考えても、おかしいと思うんだけど」 背筋を冷たい緊張が走る。ついに来た。彼女は思った。 死刑の執行日を待つ囚人のように、メイベルはこの瞬間を恐れていた。 「何がでしょうか」 「最近の君」 彼は覗き込むように彼女の顔を見た。 「元気がない。それに今だって。仕事用の顔になってる」 いつかこんな風に指摘されることが分かっていたはずなのに。 彼が自分の変化を見落とすはずはないのに。それでも彼女は見抜かれたことに動揺をする。彼は、メイベルの無表情を“仕事用”と称す。 彼女が仕事に徹するとき、考えていることを表に出すまいとする、顔。 「そのような事は…」 「顔色も良くない」 「…きっと、夏風邪をひいてしまったのだと思います」 彼女の思考はぐるぐるとめまぐるしく頭を駆け巡り、まとまらない。パニックになりそうな動揺と、ひた隠してきた気持ちを必死に押し込める。 「申し訳ありません。今日はこれで失礼いたします」 部屋を出なければ。考えるより先に彼女の体は動いた。ドアに。 しかし、それよりも早く、彼の腕が彼女の手首を捕まえる。 骨ばった華奢な、しかし大きな手の感触。 ぐん、と体ごと引っ張られ、彼女はすぐに彼の近くに引き戻された。 「なにかあると君は、すぐ逃げようとする」 彼の言葉に、彼女は金縛りのように動けなくなる。 クリフは石のように固まる彼女の横をゆっくりとすり抜けると、出口のドアに背中をもたせ、 退路を塞ぐ形で彼女に向きあう。 「でも今日は逃がしてあげない」 いつもと変わらない声であったが、彼の目はいつもと違って、笑っていなかった。 いつもと少し違う彼の様子に、胸の芯がぞくりと冷える。 恐怖。その感覚に、彼女は不思議な納得を覚える。 そうだ、自分は、いつも彼のことを怖がっていたのだ。 彼の優しさも、気まぐれも。いつ失われてしまうとも知れないことも。 彼は黙ってメイベルを見つめ、彼女が口を開くのを待っている。 少し空いたシャツの胸元から伸びる、長い首。 知的な印象を与える、眼鏡の奥の、涼しげな眼。 同じ人間のはずなのに、いつものランプの灯りに照らし出されるそれらは、 いつもと印象がまるで違う。 メイベルは、どうしていいのか分からなくなった。自然に足が勝手に震える。 彼を怒らせたいわけではなかった。しかし、自分の気持を言うことができない。 自然に目頭に熱がこもる。視界がぼやけ、涙が瞳いっぱいに溜っていく。 こぼれおちてしまわないよう、彼女は瞬きを抑えて懸命に耐えた。 「僕だった別に苛めようとしてるわけじゃない」 彼は静かに言った。彼女の顔を覗き込むかのように、少し首を傾ける。 「きちんと、話してごらん」 彼に隠し事ができるはずが、ない。彼女は観念した。 「…旦那様は、どうして私のような者に興味をお持ちになられたのでしょうか」 彼の表情が変わったのかどうか、メイベルの目は涙でぼやけ はっきりと見ることができない。 「旦那様とのお時間はとても…楽しいです。 ですが、どう考えても、旦那様のような方には私は相応しくないと思うのです」 一度口を開くと、言葉はどんどんと吐き出された。 まるで、傷口から血が噴き出すように、溢れて止まらない。 目からはひとりでにぼたぼたと涙が落ちていた。 いつからこんなに泣き虫になってしまったのか、と彼女は思う。 彼のこととなると、自分はいつも泣いてばかりだ。 「私は生まれも育ちも悪いです。 ろくに学校にも行けず、家族もなく、何一つ秀でたところもなく、 このお屋敷を放り出されてしまえば、行くあてもないような者です。 本来であれば手の届かないような旦那様にお近づきになれたことは身に余ることでした。 とても光栄なことでした。ですが…」 そこでメイベルの言葉は詰まった。それ以上が続かない。 途中で言葉を奪われてしまったかのように、彼女は黙りこむ。 「ですが?」 彼はその言葉を繰り返す。 「これ以上は、続けられない、と言いたいの?」 それは彼女がけして口にできなかった言葉であった。 今の状況は苦しかった。しかし、自分から彼の手を離すようなことはできなかった。 たとえ彼の気まぐれであろうと、関係が苦しくあろうとも、彼を、失いたくないのだ。 しかし、今の彼女には、その言葉を否定することすらできない。 メイドである彼女にとって主は王も同然であった。 自分から言えるはずもない。 ―自分の関係を終わらせないでほしい、などと。 黙りこむメイベルを見つめ、彼は言う。 「要するに…君は」 そこまで言うと、彼は額に手を当てた。涙を流したおかげで今は彼の表情が見える。 笑っている様子でも、不愉快そうな様子でもない。 それは完全な無表情だった。 「自分が僕に相応しくないから、身を引くと?」 彼はため息をつく。 「それとも、君は僕と居るのが嫌なのかな?」 「そんなことは…」 「僕に言わせれば」 彼女の言葉を彼は静かに、しかし乱暴に遮った。 「君の方が、ずっと手の届かない存在だ」 彼は射抜くような眼でメイベルを見た。その時、メイベルは気がついた。 彼は、声こそ荒げていないが。 ―怒っている。 メイベルはその言葉にも衝撃を受ける。 手の届かない?何を言っているかが理解できない。 「君はいつもそうだ。引け目を感じてるのか知らないけど、思ってることも言わない。 不安も恐怖も隠して、表面上は何もないように見せようとする。 僕の言ってる言葉を信じてもくれない」 彼は普段よりも早口だった。 「僕は同情で君に付き合っているわけじゃない。軽い気持ちでもない。 使用人としてじゃなく、ただ君に興味を持って惹かれてる。 前にも似たようなこと言ったね?」 メイベルは、始めて生身の彼を見た気がした。 それは、いつも余裕があり、温和で優しく、彼女の気持を先回りして 気遣いをしてくれる彼とは違う貌だった。 「もともとの関係があるから、普通に振舞うのが難しいというのは分かる。 だけど、君がそうやって壁を作ってる限り、僕はどうやったって君に近づくことはできない。 関係を続けることも、できない」 彼の言葉に、頭を殴られたようなショックを受けた。 何もかもが衝撃だった。自分の態度が彼を傷つけていたこと。 こんな風に強く思われていたこと、そして彼もまた葛藤していたこと。 メイベルは、自分に立場を踏み越える覚悟も、互いに心を開く努力も足りていなかったことに気がついた。 ただいつも怯え、手を差し伸べられるのを待っていたのだということにも。 「…申し訳ありませんでした」 長い沈黙を破り、彼女の口から自然と言葉が出た。 「わたし…」 彼女は自分から口を開いた。心臓が早鐘のように鳴る。 こんなことを言うなんておこがましい、と感じてしまう気持を抑える。 向きあうことから逃げてはいけない。 「これからはもっときちんとお話しできるように、 旦那様のことももっと知ることができるように努力します。 だから、どうかもう少し…お傍に居させてください」 言わなくては。自分の気持を。 彼女は高いところから飛び降りるような覚悟をもって、それを口にした。 「旦那様のことが…、好き、です…。一緒に、い…いたいです」 彼女は口にしてから、恥ずかしさに赤面した。 「本当に、ごめんなさい…」 彼女は顔をあげていられなくなり、床に視線を落とす。 彼からの視線を痛いほど感じる。 流れる沈黙。どんな顔をして見ているのだろう。 「本当に反省してる?」 頭の上から、彼の厳しい声が聞こえる。 まだ怒っているようだった。それも無理はない、と彼女は思う。 「はい…」 「だったら誠意を見せてもらわないと」 「せ、誠意…ですか」 彼女は焦り、思わず顔を上げると、思いがけず近くにいた彼と目が合う。 「僕の言うこと、聞いてくれる?」 彼は腕を組み、難しい顔を作っていた。メイベルは泣きそうになりながら、答える。 「はい」 「来週から仕事で2週間ほど屋敷を開けるから。君も一緒に来るように」 その言葉に、彼女は拍子抜けした。それは意外にも仕事の話であった。 これまでも、クリフは、長く家を開けるとき使用人を連れて行くことがあった。 旅先での身の回りの世話をする人間が何人か必要なのだ。 そのうちの一人に、自分を選ぶというのだろう。 「かしこまりました」 すぐに仕事の思考に切り替わり、彼女は返事をする。 「それで許してあげる」 彼はそういうと、ようやく笑ってみせた。 思わず目を奪われるようなその笑みに、メイベルの緊張はようやく解ける。 そして彼は何かの確認のように、ゆっくりと彼女にキスをした。 広い肩に視界が覆われ、生ぬるい唇が唇に被さる。 彼女は目を閉じ、それを受け入れる。今までのどの口づけよりも、彼を近しく感じる。 その匂いにメイベルは泣きだしてしまいそうなくらいの安心感を覚える。 ―なんて人を、好きになってしまったんだろう。 彼女は口づけに溺れながら、痺れる頭の片隅で思う。 「あ、そうそう。先に言っておくけど。今回の出張」 メイベルが退室する時に、彼はこともなげに言った。 「君ひとりだけで、ついて来てもらうから」 「え?」 メイベルはぼかんと彼の顔を見上げると、彼は口元に意味深な微笑を浮かべる。 「2週間、ふたりきりってこと」 クリフは顔を寄せ、彼女の耳元で低く囁いた。 「どういう意味か、よく考えておいてね」 SS一覧に戻る メインページに戻る |