旦那様×メイベル5話目(非エロ)
シチュエーション


夜明けよりもわずかに早く、メイベルの目は覚めた。
仕事はいつも日の出前から始まる、そんな暮らし以外を経験したことのない彼女は、
機械のようにこの時間にぴたりと覚醒する。
見慣れないベルベットの色の天蓋を目にし、彼女は一瞬で状況を思い出す。
違和感があるほど、なめらかな肌触りのシーツ。ただ眠るには広すぎるベッド。そして。

―そうか。私は、昨日…旦那様と。

横には主の寝顔があった。
彼女は思わず、その顔に視線を奪われる。
クリフは眠りこけていた。わずかに開いた形のいい唇、高い鼻梁。
改めて、美しい顔立ちだと思った。
メイベルは昨夜のことを思い返し、鼓動がひとりでにどくどくと高鳴るのを感じる。
今までに見たこともないような荒々しい主の姿。俺、という一人称。
経験したことのない甘い疼き。そして、体いっぱいになみなみと注がれる愛情。
―あんな風に求められるなんて。
彼女は一人、顔が熱くなるのを感じながらも、彼の寝顔から目をそらすことができない。
クリフは幼な子のように表情を緩め、すうすうと寝息を立てている。
彼女はしばらくの間、密かに慕っていた頃に戻ったように、クリフの顔を眺めていた。
彼の眼に見つめられると、動揺してまともに目が合わせられなくなってしまう。こうしてこっそりと、一方的に眺めていられる時間は、彼女としては得難いものだった。

彼は、背を丸め、横向きになった恰好のまま、呼吸するたびに胸を上下させている。
毛布から出た、裸の肩。彼の髪。愛しい、旦那様。鼓動が速さを増す。そっと触れてみようか。いけない。でも。
彼女が吸い寄せられるように指を伸ばした瞬間、外でスズメの鳴き声がし、彼女ははっと我に返った。

―仕事をしなければ。

彼女は自分を律し、体を起こした。鈍い痛みのために、思ったように動かない。
慣れない絹のシーツが、足にまとわりつくように絡まる。彼女はゆっくりと体を起こすと、床に散乱した、自分の制服を拾い上げ、音もなく部屋を出た。

彼女は使用人室に戻ると、念入りに体を洗い、髪を乾かした。
代えの制服を身につける。木綿のブラウス。黒いスカートとエプロン。頭飾り。
何回も洗濯され着古されたそれらは、膚のように馴染み、いつも彼女を安心させる。
鏡を彼女は眺める。彼とこんな風になるまでは、ろくに見もしなかった鏡。
これといって魅力があるとは思えない、堅い表情。表情のない瞳。
それでも彼は、可愛いと繰り返し囁いてくれる。

―可愛いよ、俺の、メイベル。

昨夜の声を思い出し、彼女の胸の奥がぞくりと、毛羽立つ。
鏡の中の女が頬を赤らめ、助けを求めるように、視線を彷徨わせる。
彼女は驚く。その表情が自分のものとは、およそ信じられない。
たまらず鏡から視線をそらすと、逃げるように台所に向かった。

食卓の上にナプキンを広げる。スープを温め、食器を並べる。
どんなときでも、炊事や家事を丁寧に行うと、それだけで彼女の気持ちは少し落ち着いた。
彼のことがとても好きだ。時間を重ねれば重ねるほどに感じる。
そして、彼は愛している、と言った。何度も、繰り返し。
彼との時間。体を重ねたこと。この上のない幸せだったのは間違いない。
しかし彼女は、自分がえも言われぬ罪悪感に打ちのめされていることを感じていた。
こうして早朝に眼が醒め、あの豪奢なベットに違和感を覚えるような自分。
何の疑問もなく、広い屋敷の中でただ秩序を守り、それだけのために生きてきた使用人。
今までに幾度となく感じてきた疑問。どんなに彼に否定されても拭いきれない不安。
主と自分の関係は、果たして許されるのだろうか。

―それに。

彼女には気がかりなことがまだあった。
自分が彼の個人的ことを、ほとんど知らないということ。

ここに来る前に、ベティに言われた言葉をメイベルは思い出す。
ベティはメイド長であった。初老と言ってよい年齢でありながら、今なお使用人たちを取り仕切り、いつも誰よりも大きな声を出す。
屋敷に仕えて20年来という彼女は、クリフから絶大な信頼を得ており、彼の身の回りのことをほとんどひとりで行っていた。
―紅茶だしのお前がね。
夜に紅茶を運ぶ役目を与えられていた彼女は、ときに、ベティにそう揶揄される。
今回の出張にメイベル一人が伴うとなり、ベティはなすべきことを厳しく、叩きこむように教え、必要なあらゆる情報をメイベルに与えた。
そして、彼女は絶望した。
彼の仕事のこと、一日の流れ、身の回りに必要なこと、彼の癖。
彼女を打ちのめしたのはその量の膨大さではなく、ひとつとして彼女が知っていることがなかったという事実だった。
自分は、と彼女は思う。彼のことをあまりに知らない。

―あの方は、いつまでたっても大きな子どもみたいなものだから。

ベティの言葉に、メイベルは胸の中のざわつきに蝕まれるような感覚を覚える。
子ども?それは、あの、穏やかで余裕があって理知的な、あの、主のことを言っているのだろうか?
そしてベティは言った。

―よく気をおつけ。

食卓の準備を終えると、彼女の体はひとりでに、主に運ぶ朝の紅茶の準備をする。
不安に簡単に脅かされる。きっとまた、主には怒られてしまうに違いない。しかし。
彼と自分に先があるのだろうか。
でも。

―好きだよ。

耳の奥に蘇る、低い囁き声。艶やかな視線。
彼女は不安と同時に、主の深い愛情を感じてもいた。
彼はいつも、メイベルを宝物のように丁寧に大切に扱ってくれる。
時に見せる意地悪な表情にも激しさにも、温かさがあった。
生まれて初めての誰かに必要とされるという感覚。
どうすればいい、と彼女は独りつぶやく。

紅茶を載せたワゴンを押し、彼女は混乱した頭を切り替えるため、大きく息を吸う。
いずれにせよ。彼女は寝室の前につくと、立ち止まって意識を整えた。
私はメイドだ。道具のように、今はただ、やるべきことをやるだけ。
他にできることなんて、なにもない。
メイベルは自分に言い聞かせると、静かにノックをした。

「失礼します」

ドアを開けると、彼は背を丸め、猫のように眠っていた。
先程あれだけ眺めたはずなのに、その表情に慣れることはない。彼女はどきりとする。

「旦那様、おはようございます」

返事はない。
メイベルは彼に近づき、もう一度声をかけた。
しかし、やはり彼は反応しない。

「旦那様?」

メイベルは、違和感を覚えた。何度も何度も、繰り返し呼びかけるが、主は全く動く様子がない。深く眠りに落ちたまま、呼吸を続けている。
―朝は必ず、予定の二時間前に、間違いなく、起こしに行くこと。
メイベルはベティの言葉を思い出し、はっとする。
その時疑問に感じた言葉。二時間前、の意味がようやくわかった。
主はおそらく。
朝にとても弱いのだ。

「だ、旦那様!」

彼女は面食らっている場合ではないことに気がついた。仕事は仕事であり、彼は今日も予定がある。
早く起こさなくてはいけない。
それにしても、主の寝起きがこんなに悪いとは。
意外に感じながらも、彼女は我慢強く彼を揺する。

「起きてくださいませ!旦那様!」

耳元で大声をあげ、がくがくと揺すり続けると、彼の表情にようやく変化が現れた。

「…ん…うん…」

クリフは眩しそうに眉間にしわを寄せ、長いまつ毛に隠れた眼をうっすらと開ける。
彼女は胸をなでおろす。

「旦那様!朝です。起きてくださいませ」

彼は眉間にしわを寄せたまま、焦点の合わない眼で彼女の方をぼんやりととらえる。
メイベルがそのまま反応を待っていると、ゆっくりと再び彼は眼を閉じる。
彼女は慌てて言葉を継ぐ。

「いけません!旦那様。起きてください。」
「ん…」
「旦那様!」

メイベルが必死に揺すると、彼は再び緩慢な動作で瞳を開ける。

「…ここ…?どこ…」

眼をこすりながら、彼はのろのろと口を開く。いつもの聡明さからは想像もできないようなその様子にメイベルは大きな驚きを覚えた。
しかし、仕事中だと言い聞かせ、彼女は冷静に、言葉を続ける。

「別荘でございます」

う少し、だけ…」

「いけません。起きてくださいませ」
「う…ん……」
「起きてください」
「…うー…もう、ちょっと」
「いけません。旦那様」
「…あれ?」

彼はメイベルの顔を見上げると、眼を細める。

「…メイベル?」

メイベルは、つきそうになったため息を必死に呑みこむ。

「そうです」
「…なんで…?」
「ただいま旦那様はご出張中で、ベティ様はいらしておりませんので。私が、代わりに…」

彼女の言葉が終わるのを待たず、がくり、と彼の頭が垂れる。

「いけません!旦那様」

彼女がひときわ大きな声で言うと、彼は顔を歪めた。

「ん…うるさい、なぁ…」

クリフはさも面倒そうに言うと、彼女の手を掴み、自分の方に引っ張った。

「きゃ…っ!」

寝ぼけているとは思えないような強い力で腕を引かれ、彼女はベッドの上に倒れこむ。
クリフは、そのまま、彼女の腰回りに腕を巻きつける。

「お、おやめください…だ、旦那様!」

彼女は頭が真っ白になり、必死に声をあげる。のしかかってくるクリフの体は重く、逃げることもできない。彼は胸元に顔を埋めると、甘えたような声でつぶやいた。

「ん…いい匂い」

メイベルは、かあ、っと体温が上がるのを感じた。

「だ、旦那様、だめ、です…!」

彼女は自分の声が、泣きそうになっていることに気がつく。
クリフが、耳の下にキスをする。

「…ひゃっ、そんな、駄目です…っ」

寝ぼけている時ですら、彼は彼女の弱い部分を外すことはない。
彼の唇の感触で、昨晩の出来事が蘇る。
いけない、今は何より、彼を起こさなくては。彼女は焦りを覚える。

「旦那様、起きてください!お願いですから!」
「…もう、いーから…」
「よくありません!旦那様!起きて、くださいませ!お仕事ですから…!」
「…おしごと…?」

始めて聞いた単語のように、彼は繰り返す。確かに大きな子供だ、と彼女は納得する。

「旦那様のです!それに、旦那様を起こしするのが、私の仕事です」

彼が寝ぼけた頭で考え込んでいるのか、眠りに落ちそうになっているのかはわからなかった。少しの沈黙を置いた後、のろのろと彼は、言った。

「んー…それって、そんなに大切?」

それ?
彼の言葉に、メイベルは意識に、視界が歪むような揺れを感じた。
仕事。それは今まで彼女の生きてきた全て。彼女にできる、ささやかで、唯一のこと。
それを、彼は確かに聞いた。
そんなに大切か、と。

「…旦那様は、わかってくださらないんですね」

喉から、驚くほど低い声が出た。
主の言うことだから、寝ぼけた人間の言うことだから。
そう言って、一笑に伏せるだけの余裕はその時の彼女には、なかった。

「私が、どんな思いで、旦那様にお仕えしているか」

一度言葉がでると、あとは坂を転がり落ちるように簡単に、彼女の自制心は決壊した。

「私のような者が、おこがましくも旦那様をお慕いして、愛して頂いて、信じられないほど幸せで、でも、同じくらい不安で心苦しくて。それでもどうしても、お傍から離れることができなくて」

ぐちゃぐちゃに絡まった思考が、整理されないままに彼女を突き上げる。自分でも何を言っているか、理解することができない。しかし、いったん開かれた口は、ただ感情の塊を、吐き出し続けることしかできない。勝手に眼から涙が零れる。

「私にはこれ以外には…何もないんです!!旦那様にお仕えして、仕事を続ける以外は、意味も、価値も…何も…!!」

涙で喉の奥がつんと詰まり、それ以上言葉を続けることができなかった。
主に感情をぶつけてしまったことを後悔する余裕もなく、彼女はただ絶望した。
こんなことを言いながら、今の自分には主を起こすことすらまともにできない。
いつもいつも、主のこととなると、直ぐに涙が出た。自分の惨めさ、浅ましさに吐き気がする。彼は何も悪くないのに。彼はこんなにも大切にしてくれているのに。時々どうしようもなく憎くなる。彼の余裕が。かけ値のない優しさが。立場の違いが。何より、自分の弱さが。

―もう、消えてしまいたい。

ひどく混乱した頭の中で、彼の声が聞こえた。

「…んー…なにー…むずかしい…」

彼女の動揺をよそに、どこまでものんびりした声。
クリフはいまだに寝ぼけている様子で、つぶやいた。

「そんなのより…おれはきみがすき…」

その瞬間。
彼女は我に返った。

「いちばんすき」

眼が覚めるように彼女の思考がクリアになる。
何が困るかでも何が不安かでもなく、大切なのは何が好きか。
そうだ。今の私の大事なものは、きっと仕事でも、立場でもない。

「わたしも…」

彼女はこみ上げる愛しさを必死に呑みこみ、涙声のままで、言った。

「旦那様が好きです。旦那様が一番、です…」

彼は、メイベルの首元に頭をこすりつけるようにすると、消え入りそうな声で言った。

「うん…いっしょに寝よ…」

こてん、と頭を揺らし、彼はそのまま動かなくなった。
メイベルは、彼を胸に抱いたまま、天井を眺めながら、気のすむまで涙を流した。
おそらく寝ぼけていたクリフは、メイベルの言葉をほとんど理解していないに違いない。
しかし、彼のシンプルな言葉は彼女を一瞬で負の感情から引きはがした。
こんな自分を、旦那様は、愛してくださっている。大切にしてくださっている。
これ以上、何が必要だろう?

―強くならなくては。

彼女は思った。
彼と過ごしたいのなら覚悟をしなくてはならない。たとえ失っても、傷ついても。
クリフを愛し続ける強さを持たなくてはいけない。不安に負けたりしてはいけない。
どんなに道のりが遠くても。逃げてはいけない。彼と対等な関係を築く努力を、していかなくては。

「クリフ様」

彼女は名前を大切に呼び、彼の髪を優しく撫でた。安心しきったような無邪気な寝息。
子供のような寝ぼけ方。
可愛い、と彼女は思った。
彼のことを知らないということは、こんな風に、まだ見ぬ彼の面をこれからも少しずつ知ることができるということだ、と思う。
それは無上の喜びでもあるに、違いない。
時計を眺めると、まだ少し時間には余裕があった。

「10分だけ、ですからね」

そして彼が眠りこけていることを確認し、彼女は彼の髪に口づけをし、そっと誓った。

「わたし、もう泣いたりしませんから」






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