旦那様×メイベル7話目・前(非エロ)
シチュエーション


夕方5時。

別荘の掃除を一通り終えたメイベルは、使用人室に戻っていた。
狭い面積に小さな机と、2段ベットが詰め込まれているだけの、まるで囚人房のような部屋。
しかし彼女は豪華な装飾のある客間よりも、この場所に落ち着きを覚えるのだった。
主人が戻ってくるまでにはまだかなり時間があったので、
彼女は、家事をするうちに乱れてしまったまとめ髪をほどいて、そこに櫛を入れる。
髪の毛を気にするということはかつての自分からはおよそ考えられないことだった。
彼女は自分の変化をまたひとつ噛みしめ、机に立てかけた小さな手鏡を覗き込む。

―美しくなるにはどうしたらいいのだろう。

並の女性よりもずっと美しい主の顔をそばで見ていると、
彼女はこうしてすぐに、自信を失ってしまうのだった。
彼女は小さくため息をつき、彼に思いを馳せる。
今頃は仕事の相手と、会食でもしているのだろうか。
別荘で過ごしたこの2週間。かけがえのない、夢のような時間。

―でも、それも、今日でおしまい。

明日になれば二人は多くの使用人が待つ、屋敷に戻らなくてはいけないのだった。
もとの生活に戻れるのだろうか、と彼女は思う。
そして、彼の愛情に浸りきるようにして過ごしたこの何日間。
しかし屋敷に戻ってからのことを不安に思っても仕方がない。
時間が過ぎるのを惜しんでいる暇は自分にはない、と彼女は思う。
これから考えなくてはいけないことは、山ほどあるのだ。
鏡に映る、飾り気のない顔が、決意を固めるように唇をかむ。
これからの主との関係のこと、自分のこと、そして―

「ただいま」

その時、耳元で突然声がした。

心臓の内側が違和感で、ぞわりと跳ねる。

「ひゃっ!」

彼女は思わず大声を上げて振り向く。

「だ…っ!旦那様!」

そこには主の姿があった。
クリフは、仕事のときいつもそうするように、上等なスーツに身を包み、
髪の毛をオールバックにしていた。いたずらっぽい笑みを浮かべている。

「びっくりした?」

びっくりしたなんていうものではない、と彼女は思い、混乱した頭で考える。
なぜ、こんなところに、こんな時間に、旦那様が?

「ど、どうして、こちらに」
「どうしてって」

可笑しそうに口元を押さえ、彼は笑う。

「ここは俺の別荘だったと思うんだけど」
「あの、お仕事は…」
「今日は早く帰ってきたんだ、君とここで過ごせる最後の日だし」
「でもあの…か、鍵がかかっていた、はずでは…」

どこの屋敷でも大抵そうであるように、この別荘の使用人室にも、一応の鍵がついていた。
申し訳程度の、かんぬきのようなごく簡単な、しかし、内側からでなければ空かない鍵。

「この手のカギはね、ちょっとしたコツがあるんだよ」

手にかんぬきを持って、彼は鈴のように振ってみせる。
メイベルは目を丸くする。

「旦那様が、お…お開けになったんですか?」

彼は笑うと、まだ動悸がまともにおさまらないメイベルをよそに、
部屋の中をきょろきょろと見回した。

クリフは2段ベットに腕をひっかけると、
長い手足を折り込むようにして器用に屈め、下のベットに腰かける。
みすぼらしい簡素なベットと古い毛布の上にあまりにそぐわない、
その洗練された姿を見ていると、彼女は不思議な気持ちになる。
彼はメイベルに向かって両手を広げる。

「ほら、おいで」

こうして見つめられ、優しく呼ばれると、彼女は逆らえなくなる。
メイベルがその腕におずおずと体を預けると、すっぽりとくるむよう抱きしめられる。
見た目よりもずっと広い肩。主の匂い。

「というわけで」
「はい」
「今日は、君も、これで仕事はおしまい」
「…と、言いますと…」
「一緒に夕食を食べようと思って」
「ゆ、夕食…ですか?」

メイベルはまるで初めて聞いた言葉のようにそれをくりかえす。

「うん。それとも、もう食べちゃったかな?」
「いえ、私は…その、夜は…食事は採りませんので…」

彼は驚いたように、目を丸くして、腕の中の彼女の顔を覗き込む。

「え?夕食を食べないの?」
「あまり食べるのは、その…得意ではないんです」

メイベルは答える。
彼女は食が細く、貧しい生まれの者にしては珍しく、食べることも好きではなかった。

「道理で痩せてると思った。良くないよ」
「使用人はみな、そのようなものだと思いますが…」
「いや、みんな、結構隠れて食べてたりするから」
「旦那様はなんでもよくご存じなんですね」

彼女が感心したように呟いた瞬間。
クリフは突然、彼女の体をベットに倒した。

「きゃっ…!」

体を滑り込ませるようにして、クリフは彼女に覆いかぶさる。
突然のことにメイベルの思考は追いつかない。
彼はいつもそうやって、彼女に考える余地を与えなかった。
突然で、唐突で、驚かせるようなことばかりする。
狭い2段ベットの下は薄暗く、彼の顔は良く見えない。

「そう、なんでも知ってるよ」

耳に彼の唇が近づき、吐息が顔にかかる。

「君の体のことも、よーく、知ってる」

その艶のある囁き声に、胸の芯が締まるような感覚を覚える。
たまらずに彼女はきゅっと目を閉じる。

「綺麗な髪」

ほどかれたままの髪の毛をゆっくりと撫でられ、彼女は梳かしておいてよかったと、心から思う。
落ち着いたはずの心臓が鼓動を速めていく。体の芯がじわりと熱を帯びる。
この2週間、余すことなく彼に愛でられてきた体が。はしたなく分別を失った体が。
細胞を震わせ、彼に触れられることを、もうすでに望んでいる。

「だ、だ…んな、さま…」
「何?」

彼の顔がゆっくりと近づいてくると、彼女は金縛りにあったように動けなくなってしまう。
キスをされる、と思った次の瞬間。
彼は、彼女の額にこつんと自分の額を当てた。

「ごはんを食べようか」

キスを待っていた彼女は予想外の言葉に我に返る。

ごはん?

「洋服に着替えてダイニングにおいで」

戸惑いと物足りなさに支配され、彼女は困惑する。
その表情をクリフは満足そうに眺めると、思わせぶりな微笑を浮かべ再び彼女の耳元に唇を寄せた。

「続きはあとで、ゆっくりしてあげるから」

彼は音をたてて耳にキスをすると、あっという間に彼女の体から離れ、部屋を出て行った。
残された彼女は、ぼんやりと2段ベットの天井を眺める。
体にわずかに残った彼の重さ、体温、匂い。そして、耳に残る感触。
いつか彼に心臓を破裂させられてしまうのではないだろうか。彼女は真剣に、そう思う。

食卓を埋め尽くす多くの温かい皿の群。
どの皿にも、宝石のように美しく盛り付けられた食べ物が乗っている。
その食べ物が、口にしてみても、肉なのか、魚なのか、野菜なのかも彼女にはわからない。
コックが作る料理を運ぶことは数え切れないほどにあっても、実際に口にしたことは一度もなかったからだ。
ただ、ひとつわかるのは、それが恐ろしく美味だということだけ。

「大丈夫?」

彼は楽しそうに笑う。
左と右に、順序良く並ぶナイフとフォーク。彼女はそれらをうまく扱うことができず、悪戦苦闘を続けている。

「申し訳ありません、あの…見苦しい食べ方を…」

彼女はナイフやフォークは使ったことがなかった。
使用人の食事は大抵、手づかみで食べられるパンや、スプーンで救えるものばかりだ。

「料理はおいしく食べれば、それでいいんだよ」

彼は、天使のような完璧な笑顔を浮かべた。

「それ、似合ってるね」

彼女はクリフに贈られたワンピースを身にまとっていた。
花柄のいかにも女の子らしい服。

「そうしてると、全然いつもと雰囲気が違う」
「あ、ありがとう、ございます」

ただでさえうまく使えないナイフとフォークが、動揺でさらにカタカタと震えるのを、彼女は隠すことさえできなかった。

「とても可愛い」

彼は褒め言葉を、相手の瞳をまっすぐに見つめて、なんのてらいもなく口にする。
言葉を発するときも、受け取る時も、とても丁寧だ。
育ちがいいというのはこういうことをいうのか、と彼女は密かに思う。

「いつものメイド服もいいけどね」

彼が目を細めて笑う。彼女は夢ではないだろうか、と思う。

―使用人が旦那様と食卓を囲むなんて許されることではありません。

使用人室を出た後で、彼女は繰り返しそう伝えその誘いを断ろうとしたのだが、
彼は顔色一つ変えずにこう言ったのだ。

―俺には好きな女を食事に誘う権利もないのかな?

なんてずるい人なんだろう、と彼女は思う。
そんな風に言われて断われるわけがないことを知っていて、彼は言う。
一見提案の形をとっていても、彼の言葉を注意ぶかく考えると、それは多くの場合、彼女に拒否権のないものばかりだった。
しかし彼女はそれを不快に思ったことはない。
むしろ、そこにどうしようもない心地よさを感じていた。
そこには必ず彼の配慮や優しさが宿っていたし、同時に、メイベルは
彼がけして普段は人に見せないようなそのわがままさをとても愛しく感じていたからであった。

彼女は優雅にフォークを口に運ぶ、クリフの表情を盗み見る。
彼は。
やさしくて、細やかで、博識で、とても頭の回転が良くて。
その実、周到で、気分屋で、わがままで、意地悪で、朝にめっぽう弱くて。
どれも、ただ仕えていたときには知らなかった彼の顔。
しかし知れば知るほどに、もっともっと、多くのことを知りたくなった。
クリフはたくさんの話をしてくれたが、いまだに個人的なことは進んで口にはしない。
彼のことを何も知らないと思い悩んだ時もあったが
今考えると主が自分の話をしないのは自分に気を使ってのことなのかもしれない、とメイベルは思う。
資産家である彼の経歴は恵まれたものであるに違いなかった。
そんな話をすれば、貧しい自分との身分の差がより浮き彫りになるのは明らかだ。
メイベルもまた、主人に聞かれたことがなかったため、自分の経歴について詳しく主に話したことはなかった。
それでも彼女は、彼が望むのであればどんなことでも正直に話そう、と考えていた。

―主との関係からけして逃げないと決めたのだから。

明日からはこんな風に、二人で過ごす時間もとれなくなる。それならば。
ふと顔を上げると主の視線とぶつかる。

「あの…」

彼女は勇気を出して、言葉にする。

「旦那様のことを、お伺いしてもよいでしょうか?」

彼は意外そうな表情を浮かべる。

「俺のこと?」
「もしも、ご迷惑でなければ、旦那様のことを教えて頂きたいのです」

彼は目に笑みを宿したまま、聞き返す。

「どうして?」
「考えてみますと、私は旦那様について知らないことがとても多いので…」

彼が何も言わないので、彼女は慌てて言葉を継ぐ。

「で、でも、あの、ご迷惑であれば、無理にとは…」
「知らないことが多い、か」

クリフは秘密めかした様子で呟いた。

「君は誰より俺のことを知ってると思うけど?」

その意味深な言い方に、彼女は自分の顔が熱くなるのを感じる。

「あの、でも、わからないこともまだ。たとえば、お年ですとか…」
「年?」

彼は苦笑する。

「うーん…あんまり言いたくなかったんだけど」
「あ、あの、お嫌であれば…別に」
「いいよ。33歳」

33歳。彼女は不思議な驚きを覚える。
落ち着きや貫禄がありながらも、眼鏡を外すと驚くほど幼い顔をしているため、
彼の年齢については、いつも疑問に思っていたのだった。

「君から見たら、立派なおじさんだと思うけど」
「とんでもありません!そんなの、全然、気になりません」

彼は、大げさに眉間にしわを寄せ、わざと怒っているような表情を作ってみせる。

「ホントに気にならないなら、こんなこと聞くかな?」
「そうではなくて、あの、だ、旦那様のことなら…」

彼女はそこまで口に出してから、自分の言おうとしている言葉が
とても恥ずかしいものであることに気が付き、俯きながらそっと続けた。

「…どんなことでも、教えて頂き…たい、ですから」

彼はふっと微笑み、少し顔を傾けると、冗談ぽく言う。

「どうかな。何か聞いて、僕のことを嫌いになっちゃうかもしれないよ」
「そんなことありません…!私は…」

メイベルが思わず声を荒げると、彼は手を伸ばし、彼女の唇に立てた人差し指をそっとあてた。

「食事は静かにするものだよ」

突然唇に触れられたことに、彼の声色の艶やかさに、彼女は動揺する。
こういう一つ一つの所作が、いかに自分に効果的であるかを彼は知り尽くしている、
とメイベルは思う。
そしてその度に、彼は勝てないということを身にしみて感じるのだった。

「も、申しわけ、ありません」

小声で謝ると彼は余裕たっぷりに笑い、肯く。

彼はメイベルが満腹になったことを確認すると、皿を下げるようコックに命じた。
程なくしてデザートと紅茶が運ばれてくる。
生まれて初めて口にするケーキの美味しさにメイベルが大きな衝撃を受けていると、
クリフはもっと早くに食べさせてあげればよかったね、と笑った。
そんな風に主に言ってもらえるのなら、と彼女は思う。
もう二度とケーキが食べられなくてもいい、と。

「やっぱり君の淹れた紅茶の方が美味しいね」

彼は紅茶に口をつけ、しみじみと言った。

「とんでもありません、そんなことは…」
「だって、屋敷でも君の紅茶が一番美味しかったから、毎晩ああして頼んでるんだよ」
「あ…ありがとうござい、ます…」

彼女は何とも言えない喜びを感じ、下を向く。

「ベティの紅茶も美味しいんだけれど、彼女はちょっと口うるさいからね。
紅茶を持ってくるついでに小言をもらうことがあるから」

そこまで言うと、彼は思い当ったようにあ、と声を漏らし、付け足した。

「これはベティには秘密にしておいてね」

メイド長のベティは気が強く、主に向かっても必要と思われることは臆することなく口にした。
クリフは温和な主人であったため、ベティを特に咎めもしなかったが、
メイベルは初めて目にした時にベティの主人に対する物言いにとても驚いたものだった。
他の主人に仕えていたのであればとっくに彼女は、首を飛ばされている。
使用人にも厳しい彼女はメイドたちにも恐れられていたが、それと同時に、
あの大人数の使用人たちを、たったひとりで完璧に取り仕切ることは
彼女以外にはできないということを誰もが認めてもいた。

「お屋敷ではベティ様が、一番長いと聞いておりますが…」
「そう。仕えてもらってもう…今年で、そうだね、ちょうど16年」
「16、年…?で、ございますか?」
「そう。ベティはもう、半分母親みたいなものかもしれない」

使用人について主人がそんな風に口にすることにメイベルは驚いた。
母親みたいな、もの。それと同時に、今まで聞くことのできなかった疑問がひとつ湧く。
彼の、本当の母親は、家族はどうしているのだろう?
彼女は勇気を出して、それを口にする。

「あの、旦那様のご家族は…」
「いないよ」

彼はなんでもないことのようにけろりと言った。

「家族はいない」

彼女はその言葉に、大きな戸惑いを覚えた。
資産家というものは大抵、代々受け継がれた資産や屋敷を持っているものだった。
家族がいないのに、あの大きな屋敷を持っているというのは、どういうことなのだろう。
亡くなったということだろうか?それに、ベティが仕えたというのは―
彼女がそこまで考えたところで、クリフは言った。

「君がなってくれるっていうなら、別だけどね」

途端。
メイベルの頭は真っ白になった。
まるで停電を起こしたように、彼女の思考回路は急に停止する。
彼の言葉が理解できない。心臓が早鐘のように、鳴る。
いや、本当は理解していながらも、その意味がうまく、受け止められない。咀嚼できない。
それは?いまのは?聞き間違いなのだろうか。

―わたしが、かぞく、に?

クリフは何事もなかったかのように笑顔を浮かべると、言った。

「食事も済んだことだし、部屋に戻ろうか」






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