旦那様×メイベル8話目
シチュエーション


午後11時。

彼は書斎にこもり自らの思考に沈む。
2週間前と何も変わらないこの場所で、彼はいつも、こうして物を考えてきた。
まるで現実感が湧かない、と彼は思う。
何もかもが他人事のように遠い出来事だ。
屋敷に戻ってきたことにも、
自分が情緒のコントロールを失っていることも、
そしてこれから―
自分が多くのものを失うであろうことも。
しかし冷え切った頭は不気味なくらいに回転する。

どこで道を間違えたのだろう?

彼は考える。
感情を押し殺し、彼はいつも色々なものを操作してきた。
最後には必ず自分にとって最良の結果が得られるように。
しかし今や自分は、子供の我が儘のような、この感情に抗うことがどうしてもできない。
道など間違えた訳ではない。彼は思う。
わかっていて、自分の意志で選んできたのだ。
時計を見る。
そろそろ紅茶の時間だった。
紅茶を運んでくるはずの、小さな愛しい影。

―嫌いになんて、なれるわけ、ありません。

彼はひどく醒めた目で、その記憶を眺めて、じっと待つ。
扉を叩くその音が聞こえるその時を。

数分後に聞こえてきたノックの音が
いつもと違う響きを帯びていたことに彼はすぐに気がついた。
クリフが状況を理解すると同時に、その扉が開いた。

「ちょうど良かったよ、ベティ」

彼は笑いかける。
視線の先にあるのは、想像通り、メイベルではなく。
老いたメイド長の姿だった。

クリフはいつもと変わらない微笑を浮かべ、彼女を迎え入れる。
しかし彼女の目つきは明らかにいつもと違っていた。

「そろそろ君の紅茶も飲みたいと思っていたところだよ」

クリフの言葉にも彼女はにこりともせず、黙ってワゴンを室内に押しいれる。

―ずいぶん早かったな。

彼は思う。ベティに何か言われるであろうことは、想像がついていた。
しかし、こんなに早く、こんなにも怒っているとは、思わなかった。

「あの娘は来ませんよ」

ベティはつっけんどんに言った。

「あの娘?」

クリフは彼女の言わんとすることをわかっていて、わざと聞き返す。

「紅茶出しの娘」

ベティは、自分の下の使用人の名前などは呼ばない。
こうして揶揄した呼び名を与える、それは彼女のみに許された絶対的な権利であった。
出会った時と比べてずいぶん年をとった、彼女の顔。
猟犬を彷彿とさせる、厳しい口調。
眼の下の皮膚は長い年月を経て弛み、顔には深い皺とともに、
自分だけを頼りにのし上がってきた者だけが持つ、誇りのようなものが刻まれている。
ベティはカップに紅茶を注ぐと、彼の手元にそっと置く。

「どうして?」

クリフが笑うと、彼女は下から覗き込むような鋭い視線をただ向けた。
その静かな彼女の怒りに、彼は驚きを覚える。
短気で偏屈で、日頃から何かと言うとすぐに怒鳴りつける彼女が。
今、沈黙している。

「あの娘に、何をなさいました」

質問には答えず、ベティは静かに、言う。
クリフは眉ひとつ動かさず、答える。

「彼女が何か言ってたの?」
「あの娘のことなんて」

いかにもくだらない質問だ、と言わんばかりに、彼女は笑う。

「見ればわかります」

それは大したものだ、と彼は感心する。

―もう、ご出発なさいますか?

今朝のメイベルの澄みきった声を思い出す。
関係を持つ前となんら変わらない、その無表情。
彼女は、主とどんなに近しくなろうとも、仕事の時間は徹底して仕えた。
主との時間を持つのは、仕事の終わりを告げられた後、夜の時間だけ。
不器用で真面目な彼女は、自分との関係に甘んじ仕事の質を下げることをよしとせず、
彼が何と言おうと、その態度を改めることはついになかった。
―私は、旦那様にお仕えしている身ですから。
彼が嫉妬を覚えるほどのその変わらぬ顔。
その奥の彼女の変化を、ベティは、すぐに見抜いてみせたのだ。

「さすがだね」

彼の言葉を無視し、叩きつけるようにベティが続ける。

「まさか、貴方様がこんな真似をするなんて」

クリフは抑えきれず、クスクスと笑いを漏らす。
それは彼の悪い癖だった。
追い込まれるほどに、恐怖を感じるほどに。
彼は真剣味を失い、こうして笑う。

「あの娘を、囲うおつもりですか?」

囲う。
それはすなわち、彼女を妾にするのか、という質問であった。

「囲うだなんて、ずいぶん古い言葉を使うね、君は」

とぼけ続けるクリフにベティはさらに冷ややかな目を向ける。

「これでは、まるで」

ベティは裁くような声で言った。

「…あの方と同じではありませんか」

その瞬間。
クリフは、自分の表情から、張り付いた笑いがはがれたのを感じた。
ひきつるように、痙攣のように、跳ねる鼓動。
喉がからからに乾き、冷たい汗が噴き出る。
ぬるぬるとした生温かい不潔な手が、自分の心臓を握っているような、不快感。

「ねえ、ベティ」

それは、我ながらぞっとするような無感情な声だった。

「言葉には気をつけた方がいいよ」

彼女がクリフに仕えて16年。
絶対に口にすることのなかったその話題。
彼は、失いかけた理性の隅で、ベティが心の底から怒っていることを理解する。

「思ったことを言ったまでです」

ベティはひるむ様子もない。

「本気だと言ったら?」

「本気?」

彼がきくと、しわがれた声で、ベティは不愉快そうに吐き捨てた。

「こんなに目立つ真似をしておいて?」

今や彼女は不快感を隠そうともしない。

「主人に特別扱いされた者が、他の使用人たちからどんな目で見られ、どんな目に遭わされるか。
旦那様ならばようく、お分かりでしょう」

確かにそんなことはわかっていた、と彼は思う。
二人で屋敷を空ければ、嫌が応にも他の使用人たちの眼につくこと。
噂は瞬く間に広まり、そして多くの使用人の中で彼女は孤立すること。
ここに仕え続ける限り、その生活を彼女はずっと強いられること。
だから、彼は、その意味でも、彼女に考える時間をあえて与えたのだ。

―どういう意味か、よく考えておいてね。

賢い彼女が、そのことに思い至らないわけがない。
自分の立場がそのあとでどうなるかを、よく理解した上で。
自分の意志で、選ばせるために。
彼女に覚悟をさせた上で、自分以外の全てを、奪うために。

「見損ないました」

ベティは、臆することなく言う。

「ずいぶんあの子の肩を持つね」

彼が平静を装い続けるほど、ベティの怒りは増していく。
敵意に満ちた声が張りを増す。

「あの子は、多少は使える娘だった」

彼女は続けた。

「少なくとも―お前よりはずっとね」

かあ、と頭に血が登り、彼は我を忘れる。
心臓の、音。
雑音。奇妙な静けさ。

―ガシャン。

少しの空白の後、何かが割れる音がして、
彼は自分がカップを床に叩きつけたということに気がついた。

「聞こえなかったのか?」

声が喉から勝手に漏れる。

「口のきき方に気をつけろ」

視界が歪むような恐怖。
我を忘れるような激情。
制御できない程の、醜い怒り。
悪い夢を見ているような、感覚。
その一方で、奇妙に冷え冷えとしている頭。

「本性が出たね」

彼女はひるまずに、鼻で笑う。
厳しく、言葉が悪いその裏に、いつも愛情のあったはずの、視線。
いかなることがあっても、彼から離れることをしなかった、唯一の存在。
そのベティの視線は、今やどす黒い侮蔑に塗りつぶされている。

「誰もかれもが見せかけに騙されると思ったら大間違いだよ!」

彼女の鋭い怒鳴り声が、頭に反響する。
口が悪く偏屈で、どこまでも厳しくて、限りなく優しいはずの、彼女。
背中の丸まった、小さな、年老いたメイド。
彼女が。

―どうして、こんな眼で俺を見る?

「少しは立場を考えて、物を言ったらどうだ?」

自分の声をまるで他人のそれのように聞く。
どこまでも無感情な、死人のような、声。
そして、こんなときにすら、
自分の口元にはおぞましい笑みがこびりついたように残っている。

「その歳で路頭に迷いたくはないだろう?」

ベティの剥き出しの敵意が引き裂くように彼を蝕む。
さも気持ちの悪い物を見るような。
不気味なものを見るような彼女の眼を見て、彼は理解した。
彼女の心が、完全に自分から離れたことを。

「お前はそうやって脅してばかりだね」

最大限の侮蔑をこめて、彼女は言う。

「殴って黙らすような度胸もない。卑屈で、臆病で、そのくせ傲慢で」

割れたカップからは血のような色をした紅茶が、床に流れる。
石畳の眼に沿って、模様を描くようにして広がるその色。

「いつまでたってもお前は変わらない」

彼女は迷いなく、言った。

「…尻尾振りのままだ」

刹那。

―ねえ、クリフ。

闇のように冷たい感覚が心を貫き、
その言葉を合図にするように、
聞こえるはずのない、声が。
確かに聞こえた。

―どうしたの、クリフ?

「黙れ…」

容赦なく、抉るように揺さぶるその声に、彼は思わず叫ぶ。

「お前に何がわかる!」

ベティは眼を見開き、そして眉をひそめた。

「じゃあ、俺はどうすればよかったんだ…?!」

なんだ、この、痛みは。焼けつくような、感覚は。
どこに逃げても追ってくるこの声は。

―あなたは、何にも心配しなくて、いいのよ。

ベティの眼は、彼を捕えて離さない。
その眼にあるのは、侮蔑と失望と、そして。
深い哀れみ。
その眼に射抜かれ、彼は立ちつくし、叫ぶ。

「俺は…!」

呟くように彼は言った。

「あの時に死んでいれば、よかったのか!?」
「わざわざ死ぬことはない」

ベティは容赦なく言った。

「お前はとうに、死人も同然だ」






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