シチュエーション
![]() (どんなに酷いことをされても旦那様を嫌いになれなかった。幼い頃どれだけ優しかったかと胸に刻みこまれている。 長年失った父親の影を重ねていた旦那様。だからこそ、皮肉な事にも嫌いにもなれないが――女性として愛することは出来ない。) そして、ロルフさまの事で、旦那様に献身的に仕えようと思った。使用人のように。 それがアーネにとってできる、旦那様への精一杯の恩返しだった。 そんな日々を送るうちにアーネは気が付かなかった。 目をそらしていても、精神的にこの状況は彼女には辛すぎて。 気づけば、心はあの方に飛んでしまう。 その原因である旦那様に頼れるわけはなく、一人ぼっちで耐えて、耐えて。 吐いては、食欲がなくなっていく……貧血を起こすのは食欲がないから、そう思って自分を誤魔化した。 倒れて目を覚ませば、このお腹の中に旦那様と自分の子供が宿っているという。 自分が妊娠しているという驚きの事実に、浮かぶのはリスティンさまと奥様に顔向けできず、産めるはずのない罪の子だということだった。 辛い時に励まして支えてくれたリスティンさま。 おこがましくも弟だと思っていた彼の……皮肉にも弟を身籠っている。 その事実が、さらにアーネを打ちのめした。 この子を、産んでは……いけない。 他のお屋敷ではよく囁かれていた噂話を思い出す。 旦那様や上級使用人、お客様から手を付けられ、孕んだメイドはどんな理由があろうとも解雇される事が多い。 なので仲間内でそのことを庇い合い、その間にひっそりと産むか――堕ろすのだと。 アーネにとってはショックなことで、方法はあまり覚えていない。 あのころのお屋敷はとても秩序ある場所で、その時はこんな事になるとは思ってもみなかったから。 アーネは日々悩んでいた。 産んではいけない、でも今お腹の中にいる子供を殺すという事は、一つの命が消える事で。 そんな大罪を……望まれぬ子だとしても犯していいのかと。 その苦悩の表情とは反対に、旦那様はアーネが身籠ったことをことのほか喜び、気遣ってくれる。 アーネが子供を産むべきだと、信じて疑わない。 あれほど拒否しても無理矢理抱かれていた夜の務めも、腹の子の為と言ったら、ただ抱きしめるだけの添い寝になり。 その抱きしめる手つきは柔らかくて優しくて……腕の中で泣きそうになる。 ――本当に、旦那様は私と、お腹の子を愛している。 罪悪感に悩まされる。こんなに愛されているのに、のに。それでもアーネの望むのはたった一人だ。 そしてこの愛は本来向けられるべき人が居て、受け取るべきものでもない。 自然とお腹に手を置くことが増え始め、アーネは気が付いた。 私はこの子を産みたいと……思ってる。 許されない背徳の行為の為に出来て、産んではいけない初めての私の赤ちゃん。 心の痛手の為に狼狽して、そう思っていた――いや、思い込んでいた子供は。 「産みたくない」ではなく「産んではいけない」のだと。 子供の父親の事は愛していず、愛する人は――愛してると言う資格がアーネにはない人。 一人ぼっちで家族もいない、アーネにとって本当の意味でのたった一人の家族で……愛してもいい子供。 「私の、赤ちゃん」 そう囁き、お腹に手を当てるたびに、愛しさが募る。 いけないことだとは分っていても。 どうしていいかわからなかったアーネは、神様に救いを求めた。 愛人という立場上、日曜の礼拝に行くわけにはいかず……そして旦那様もアーネの外出を許さなかったので、遠ざかっていた場所。 外出を許されるはずがないとわかっていたアーネは、旦那様の留守時にこっそりと出かけることにした。 この屋敷に連れられてきたときに、両親の形見だから捨てないでくださいと、懇願した古ぼけたトランク。 そこの中に、昔母が着ていたドレスを仕立て直した服を入れていたので、それに着替えるとただの一介のメイドにしか見えない。 旦那様から与えられた豪華なドレスに身を包み、村の道を徒歩で通る勇気なんてアーネにはなかった。 その様子をこっそり見ていたメイドに、屋敷の裏門で追いつかれる。 使用人達は私語を厳禁されており、会話をしたことはなく、男性の使用人に至っては、近づくことも許されていなかった。 アーネより年下のメイドの少女は、出ていくのかと思ったのかアーネを止めたけれど。 しかし必死でアーネが教会に行きたいと懇願すると、明らかにほっとしたような顔を浮かべる。 顔に思ったことが出やすい、少女は普段からアーネに同情的だった。旦那様の帰宅予定は明後日だったが、予定を繰り上げる事は少なくない。 帰ってこないうちに、何事もなく帰ってこなければと、もしアーネが外出したと知ったら、教会であろうとも旦那様はお許しにならないだろう。 この少女に迷惑を掛けてはいけないとアーネは二人教会への道を急いだ。 やはり来てはいけなかったのかもしれない。 彼女には教会の入り口で待ってもらい、中に入る。厳かな雰囲気を醸し出している教会の中は、清らかで静謐で。 汚れているアーネにはここには居てはいけない、不似合いな場所に見えた。清らかなマリア像に、まるで責められているような気がして身が竦む。 そんな雰囲気の中人が入ってくる気配がして、アーネは不安から反射的に懺悔室に逃げ込んでしまった。 許しの為のストラが一瞬見えたような気がして、隠れてしまったことを恥じたが、しばらくすると、反対側の入り口から人の気配がする。 低く、硬く、どこか懐かしい響きを帯びる厳かな……声が、優しく訳を尋ねる。 聞いてくれる、私の話を。 その声にほっとして今まで誰にも言えなかった罪のすべてを、アーネは全て胸に残る毒を出すように話してしまった。 本当は愛している人がいるのに、愛しているからこそ、その方の心を踏みにじり別れた。 旦那様に、無理矢理強要された関係、そして授かった子供。 その子を産んでしまってもいいのか。 妻子もいる方、そして愛してもいない方の子を。 でも、子供は自分の子。今のアーネの支えで全てだと。 本当に愛してる人にはもう愛しているとは言えないから、愛を願ってはいけないから――だから愛する存在が欲しいと。 何と身勝手で、自分勝手で……生まれてはいけない、生まれたら旦那様の家庭に災いをもたらすとわかっているのに。でも心の底から誕生を祈ってる。 「貴女の事を神はお赦しになるでしょう」 あまりのふしだらな内容に、流石の司祭様も感情をあらわにするまいとしてか、声が震えていた。 しかし、本当に私は産んでいいのでしょうかと、不安と迷いの為、更に念を押して欲しくて尋ねる。 「貴方の子です……貴方だけの愛すべき存在です……生まれてくる子供に罪はない」 その返答に、涙がこぼれる。でもそれを拭うよりもお腹に手をあてた。 そう、この子は私の子。私だけの子――そう、子供には罪はない。 「たとえ、どんな困難が待ち受けても……生きていれば生きてさえくれていれば、変われる」 司祭様の声に失った思い出が鮮明によみがえる。ロルフ様もゆっくりアーネの言葉を聞いてくれて穏やかに言葉にした。 これは、天啓なのか。まるでロルフ様に励まされているように感じて、アーネは更に泣いてしまう。 泣き止んで懺悔室の戸を開けると、ステンドグラスの光を浴びたマリア様の像が、はじめと違って微笑んでいるように見える。 強くなろう、この子を……産むために。 そうマリア様に跪いて、祈る。それだけで、勇気づけられているように感じる。 心地よい静寂がアーネを包んで、暫く。 「こんな所で、君は何をしているのかな?」 アーネはそう声を掛けられて、怯えながら顔を上げた。 そこには笑顔だが、目が笑っていない、旦那様が立っていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |