シチュエーション
午後11時。厨房。 メイベルは、主がいつも使っていたティーカップを、探していた。 どれだけ探してもみつからないそれに、彼女は正体の知れない不安を抱く。 ―ベティが、屋敷を出た。 使用人たちがそれを知ったのは今朝のことだった。 誘導犬を失った牧羊たちのように、彼らは激しく混乱した。 屋敷のことを知り尽くし、ある意味で屋敷そのもののようであったベティ。 そしてそれを何よりも誇りに思っていた彼女。 彼女がいなくなる。それは、彼らにとってこれまで想像すらしたことのない事態であった。 メイベルは彼らの間で飛び交う噂を、静かに聞いていた。 ―まさか、ベティ様がお辞めになるなんて。 ―それもきっとみんな、あの子が。 ―どんな手を使って取り入ったのかしら。 ―興味のないふりをしていたくせに。汚い女。 別荘から戻って2日の間。 メイベルと口を聞いてくれるものはただの一人もいなかった。 自分は構わない。 代わりのティーカップを温め、紅茶の準備をしながら彼女はそう思う。 疎まれ、無視され、物を盗まれ、中傷されることが、けして辛くない訳ではない。 しかしこうなることは、ずっと前からわかっていたし、 実際、興味のないふりをしていたのも、主と関係を持ったのも本当のことだ。 そんなことよりも、彼女が心配しているのは主のこと。 ―半分、母親みたいなものかもしれない。 ベティの事を話すとき、感情をあまり表に出さない彼の顔に、 わずかに親愛の色が浮かぶのを、彼女は確かに認めた。 クリフはベティのことを大切に思っていたはずだ。 それなのに、なぜ彼女は屋敷を出なければならなくなったのだろう? 彼女にはわからなかった。 一つだけはっきりとわかっていることは、明らかに、自分が関係しているということだけ。 長い間、互いにかけがえのない筈であった二人。主従関係を超えたつながり。 それを自分が、引き裂いた。 鉛のように重く暗い罪の意識に、彼女の胸は潰れた。 ベティに、屋敷に戻ってすぐに、主との関係が彼女に感づかれたことを、メイベルは悟った。 しかし、不思議なことに、ベティは何も言ってはこなかった。 そして昨日の夜。 ―お前はもうお下がり。 この厨房で、彼女はティーポットをメイベルの手から奪った。 ―今日の給仕はあたしがやる。 口調はいつものぞんざいな調子であったが、様子は明らかにいつもと違った。 いつもは無遠慮なくらいな視線を向けてくるはずのベティの眼は 彼女を通り越してずっと遠くを見ていたし、 その横顔には今までにないような焦燥が見て取れた。 ―何をじろじろ見ているんだい。 ベティがそう言ってこちらを向くと、彼女の心臓は縮みあがる。 しかし強い罪悪感と恐怖を感じながらも、メイベルは不思議でならなかった。 なぜ彼女が何も言わないのか。言及することも、怒鳴りつけることも、しないのか。 すると、彼女は独り言のように呟いた。 ―愚図だよお前は。だから気をつけろと言ったのに。 その時、ようやくメイベルは、彼女がずっと前から 自分たちの関係を察していたことに気がついたのだった。 言葉に詰まるメイベルに、ベティは不気味なほど静かに言った。 ―お前は何にも知らない。でもあたしは、あの方のことをようく知ってる。 ポットの蒸気の向こうで、彼女は決意を固めるように唇をかんだ。 ―あたしは、お前が生まれるよりも前から、あの方のことを見てきたんだ。 屋敷の長く、暗い廊下。 ワゴンを押して歩きながら、彼女は不安を感じる。 なにかがおかしい。 ベティのいない空っぽの屋敷。大きな歪んだ変化。 自分の知らないところで、何かが起きている。 少しずつ、ズレのように。 日常に入り込んだ悪意のような不純物が、じりじりと、隠れたところで膨らんでゆき。 取り返しのつかない大きなものとなっていくような、違和感。 しかし、不安に囚われている場合ではない、と自分を奮い立たせる。 主と話をしなくては。 彼女がここにまた戻ってきてくれるように。 クリフには間違いなく彼女が必要なのだから。 ―そのためなら、どんなことでもする。 彼女は息を吸い込んで、ノックをする。 ノックは、決まって2回。 「失礼いたします」 重い扉の奥に足を踏み入れると、机に向かっている主が顔を上げた。 「もうそんな時間?」 彼が笑いかける。 優しい声、穏やかな表情。 メイベルは仄暗い違和感を覚える。 ベティを失ったにも関わらず、彼が、 いつもと何ら変わらない微笑を浮かべていることに。 「今日は何?」 彼女の不吉な予感は、主の顔を見ても消えることはなかった。 鼓動が少しずつ早まるのを感じながら、努めて静かに答える。 「ディンブラでございます」 紅茶を主に差し出した。 「いい香りだね」 クリフが紅茶に口をつけると、彼女は時を待たずに言った。 「旦那様、ご質問がございます」 彼が静かにカップを置いた。 「どうしてベティ様は…お辞めになったのですか?」 鼓動が胸を刺すように冷たく波打つ。 静かな暗い室内で、ランプ中の橙色が揺らぐ。 彼は、少しの間の後、口元から笑いを消し、静かに口を開いた。 「彼女は、使用人として許されないことをした」 そして付け足すように言った。 「僕としても、とても残念だったんだけど」 許されないことをした、ということは。と彼女は思う。 屋敷を出たのは、ベティの意志ではなかったのだ。 メイベルは、血の気が引くような感覚を覚えた。 ―彼がベティを解雇したのだ。 「でも、どうして…ベティ様が…」 クリフは、はっきりと言った。 「それを君に話す義務はない」 「私の、せいですか?」 メイベルは動揺し、主の言葉を遮るように口を開いた。 「私のことで、何か、ベティ様が…」 「それは少し違う」 メイベルの声が震えていることを、彼は気づきもしないかのように答える。 「これは、あくまで彼女と僕の問題だから」 「でも、そんなの、おかしいです!!どう考えても、私のせいで…!!」 思わず、彼女は声を上げた。 激しい罪悪感と動揺が、胸の中を駆け巡る。 「ベティ様がいなくては、このお屋敷は回りません!旦那様だってご存じの筈です! それに、旦那様は、ベティ様を…大事になさっていたのではありませんか?!」 「…メイベル」 彼は、遮るように、諭すように、彼女の名を呼ぶ。 しかし、興奮した彼女はそれを振り切り、早口に言葉を紡ぎ続ける。 「私のせいで、ベティ様が辞めるなんて変です! ご迷惑をおかけしたのは私の方です!それならば…」 「メイベル」 「私が辞めさせられるのが、本来なのではありませんか!?」 彼女は詰め寄り、喰ってかかるようにして、叫んだ。 その声の余韻が室内に染み込み、静寂が訪れるまでクリフは言葉を発しない。 彼は眉ひとつ動かさず、彼女の瞳を覗き込むように見ると、確認した。 「それ、どういう意味?」 そのとき、彼の眼からは一切の表情が消えていた。 しかし、平常心を失ったメイベルはそれに気がつかない。 「代わりに、私を首になさって下さい」 メイベルは怯まずに、彼をまっすぐに見つめた。 「そんなことを僕が認めると思う?」 「ベティ様をお辞めさせになるのなら」 それはメイベルを突き動かしてきた信念の問題であった。 勢いだけで言っているわけではない。 ただの一使用人の自分が。 個人的な問題のために屋敷の秩序をかき乱した上、 他人を、それもメイド長を、犠牲にするなどということは、 自分にとっては絶対に受け入れられないことであった。 それが、たとえ。 ―愛する彼と、二度と会えなくなることであろうと。 メイベルははっきりと口にした。 「私が出ていきます」 そして、その時。 メイベルはようやく、異変に気がついた。 ―彼が。笑っている。 「わかってないね」 彼は笑っていた。 くすくすと、さも可笑しそうに。彼女をからかって笑う時と、全く同じ顔で。 蛆のように、足元から這い上がる不吉な感覚。 彼女がそれを知覚するのとほぼ同時に、彼は言った。 「ロベルタ」 メイベルは、耳を疑う。 さあっと体中を寒気が走り抜け、彼女は思考のバランスを失う。 名前。 懐かしく。 恐ろしく暗い響き。 それは。 今まで人には話してこなかった、名前。 ―わたしの、本名。 「メイリーン・ロベルタ・ジャレット」 彼は、まるで歌の歌詞を諳んじてみせるように、すらすらとそれを口にした。 「生まれは貧しいスラム街。母親はろくでもない娼婦、父親は不明。 酒浸りの母親に、毎日のように殴られながら育ってきた」 状況が理解できない。 彼女の理性は、それを受け入れることを拒否していた。 膝だけが、がくがくと嘲笑うように震えていた。 ―これは。 彼女の脳は軋む。 ―夢? 「13歳の時に売春宿に売られ、客を取らされる一歩手前で逃げた。 そこをたまたま運よく、通りがかったアルバート家の令嬢に拾われた。 …あそこの一人娘はもの好きで変わり者でよくモノを拾うって、とても有名だ」 主ののんびりとした声はどこまでも、滑らかに続く。 多くの話を彼女に話して聞かせてくれた、それと同じように。 ―しかしこの聞き覚えのある、物語は。 「だけどそのお嬢様も程なく家出…行方知れずになってしまうと、 それ以上そこに居られなくなって、あっさりと追い出された。 だけどその屋敷で、血のにじむような努力をして、優秀なメイドになっていたから―」 彼の言葉は呪文のように、彼女の自由を奪う。 「その働きを買われてこの屋敷に来た。それが3年前。つまり」 彼はとびきりの笑顔を作ってみせた。 「16歳の時の、君」 確かにそれは、彼女が長い間焦がれ、憧れ続けた、その笑顔。 目の前にいるのは、間違いなく、彼女が愛してやまなかった。 自分の主人。 「もう一度、よく考えてごらん」 顔を少し傾け、彼は極めて優しくメイベルの言葉を促した。 「…僕から、逃げられると思う?」 彼女は思わずよろめき、ワゴンに手をつく。 茶器ががちゃん、と粗雑な音をたてた。 しかしその音も、うまく耳には届かない。 「…ど…どう、して…」 「使用人の素性を調べるのは、雇用主としては当然だと思うけど」 喉からようやく絞り出した彼女の言葉を、クリフはあっさり受け流す。 「屋敷に変な鼠が、紛れていると困るから」 そして、彼は立ち上がる。 ランプの光に照らされ、ほっそりとした長身が、壁に影を映す。 得体のしれないその黒い塊。喉の奥に走る、冷たい感覚。 知っているはずの、知らないはずの。端正な彼の顔。 その顔は、紙のように白く、まるで、死人のそれのような、色。 「…こ、…ないで…」 恐怖に駆られ、言葉が思わず彼女の口をついた。 「来ないで?」 その時。 それまで変化のなかった彼の表情が、見たことのない形に歪んだ。 「誰に向かって口を利いてるの?」 そして。 背中に大きな衝撃が走り、彼女は自分が床に引き倒されたことに気がついた。 クリフは覆いかぶさり、彼女の唇を塞いだ。 驚くほど冷たい舌に、口の中を犯されながら、メイベルは混乱する。 どういうことなんだろう。 主がなぜこんなことをするのだろう。 いつも優しかった主。宝物を扱うみたいに、大切にしてくれた彼。 これは悪い冗談なのだろうか。 いつもの意地悪で、私のことをからかっているだけで。本当は、ぜんぶ、嘘で― しかし、何をいくら考えても、彼女の体の震えは止まらない。 クリフの手が引き裂くようにして乱暴に、彼女の衣服の前を開く。 息が詰まるほど愛しく感じたその大きな手が、その広い肩が。 彼女に数え切れないほど多くのものを与えてくれた瞳が。 見たことのないような、悪意に染まっている。 「…あ…っ!」 ―なに? 恐怖と混乱に支配されながらも、メイベルは自分の体に触れられた瞬間、 火のつくような快感が走ることに、驚愕した。 ―なに、これ。体が。 次の瞬間、抗いがたい程の快感が、わずかに残された思考さえを奪おうとする。 「あ、あっ…!」 心はそれを拒否しているにも関わらず、 肉体はコントロールを失ったように狂おしいほどに彼を求める。 自分の体が、別の意志を持っているように、彼に服従している。 欲望に呑まれることを、望んでいる。 「君は僕のものだよ」 耳からぞっとするような声が、メイベルの思考に、割り入ってくる。 「い、や…っ!」 絶望。恐怖。愛情。混乱。絶望。悲しみ。快感。衝撃。嫌悪。 まとまりのないさまざまな感情に手足を引っ張られ、彼女はどうすることもできない。 「ねえ、わかる?」 彼は耳元で囁き続ける。 「君はもう、僕なしではいられないってこと」 「ん…んんんっ…!」 「本当に君は。どうしてこんなに可愛いんだろう」 ―いや。 彼は、烙印を押すようにして、言った。 「絶対に、逃がして、あげない」 略奪されるように、捕食されるように。 彼女の体は犯される。 「あ…ああ、いや…っ…あああ!」 呼吸が早まり、彼の冷たい指が、膚が、ぐちゅぐちゅと絡みつく。 彼女は解剖される蛙のように、体を開かれ、されるがままに嬲られる。 擦られ、かき回され、舐られ、まるで玩具のように扱われて。 凍りつくほど不快なのに、信じられないくらいに気持ちがよくて。 愛してやまないのに、心の底から恐ろしくて。 「はぁ…、ん、ぁ…ああっ…」 ―こんなの、いや。こんなの、おかしい。こんなの。 彼女の理性が、重力を失い、ばらばらに飛び散りそうになる。 ―もうやめて… 叫びは声にならない。 ―やめて… 彼女の声は、どこにも届かない。 ―やめて。 ぶつり。 その時、何かが切れるような奇妙な音がした。 快楽が体から蒸発するように消えてゆく。 気がつけば、彼女は現実から隔離され、不思議な程、落ち着いていた。 メイベルは思い出す。 これまでにも、こうした体験をしてきたことを。 母親に、酒瓶で一晩中殴られ続けたときも、 空腹のあまり盗みを働き、骨が折れるまで蹴られたときも、 前の屋敷で、他の使用人の気に障り、何時間も打たれたときも。 こうすれば、大丈夫だった。 体の感覚が切り離されれば、彼女はどこまでも安全で、守られた。 平気だ。なんのことはない。 彼女は思う。 いつだってこうして耐えてきた。ひとりで。 どんなにつらいことでも。 どんなに苦しいことでも。 どんなに悲しいことでも。 たったひとりで。 彼女は、ぼんやりと、自分に覆いかぶさっている男の姿を眺める。 底の見えない飢えに取り憑かれた男。 その肩越しに、窓の外がゆっくりと白んでいくのが見える。 樹が風に揺れ、鳥が鳴き、夜明けが来ることを彼女は知る。 ―はやく、どけてくれないかしら。 メイベルは醒めた目で男を見る。 じきに朝が来るというのに、いつまでもこんなことをしている暇はない。 ―わたしは 彼女は思う。 ―寝起きの悪いあの人を、起こしに行かなければならないのに。 SS一覧に戻る メインページに戻る |