旦那様×メイベル10話目
シチュエーション


今でも鮮明に思い出す。
1年ほど前、夜中に目を覚まし、たまたま、廊下から中庭に目をやった時に、
そこにいるメイベルを見つけた時のことを。
草花に囲まれ、制服でないぼろぼろの服を着た、長い髪の幼い娘。
しばらく見なければ彼女とはわからない程、別人のような彼女の姿。
彼女は真夜中の庭に腰をおろし、空を見上げ、所在なく手足を投げ出していた。
呆けたような、なにもかもから解放されたような、のびやかな表情。
目を閉じ、頬に受ける風を感じているその横顔。
その豊かな表情に、クリフは思わず息をのんだ。

―本当は、どんな子なんだろう?

―メイベル・ジャレットと申します。

3年前、彼女が初めて屋敷に現れたとき。
特に珍しくもないような、どこにでもいるような、若いメイド。
第一印象はそうだった。
しかし、その日から少しずつ、屋敷には
注意しなければ気がつかないようなわずかな変化がもたらされていった。
たとえば、それは、目立たないところにそっと飾られた花であったり、
タオルに少しだけ振りかけられている香油のよい香りであったり、
ぴかぴかに磨かれていた書斎の古びた掛時計であったり、
驚くほど鮮やかな風味の紅茶であった。
担当の名を尋ねると、その答えはいつもメイベルだった。
なかなか出来ることではない。
彼は思う。
若い使用人たちの多くは、自分たちの不遇さを嘆き、
毎日を生きてゆくためにただ与えられた仕事を表面的にこなし、
そして、隙あらば何かを得ようとした。
つまみ食いをしたり、手を抜いたり、時としてそれは盗みの形をとることもあった。
メイベルはその中で、異質だった。
徹底的な、あるいはそれ以上の仕事をしながらも
それをけして人目に触れさせようとはしなかった。
褒められても嬉しそうなそぶりひとつ見せなかった。
しかし、彼女の仕事には必ず誠意と真心があった。
彼女は意識的に隠しているのだ、とクリフは思った。

―自分に似ている。

メイベルは黒子のような使用人を完璧に"演じている"のだ、と。

そして今、クリフはメイベルの膚を撫でながら考える。

―果たして彼女は自分に似ていただろうか?

暗い書斎。
メイベルの体の曲線が、ランプの光を浴びて、闇に浮かびあがる。
荒い呼吸が、静寂をかき乱す。
ビクビクと痙攣するように彼女の体は反応する。
メイベルの体を愛撫しながら、彼は思いだす。
彼女の顔。
動揺して口ごもるときの、慌てた表情。
不安に囚われ、涙をにじませる、頼りなげな表情。
見つめたとき、恥ずかしそうに顔を背ける表情。
自分の考えを述べるときの、真剣な表情。
快感にうっとりと乱れる甘い表情。
彼女が見せてくれた様々な、

―そしてあれ以来、失なわれてしまった表情。

固い石の床で、机で、ソファの上で。
クリフはこうして毎夜のように、彼女の体を犯した。
メイベルは何の抵抗もせず、されるがままに抱かれた。
彼女の体は反応した。
しかし顔は、抜け殻のように何の表情も浮かべていなかった。

―どうしてこんな風になってしまったんだろう?

彼は、いまだに現実感を失ったまま考える。
失ってしまうくらいなら、いっそのこと閉じ込めてしまいたい。
逃げられないように、自分だけのものにしてしまいたい。
それは叶ったはずだった。
しかし。
彼は、腕の中で力を失っている彼女の体を眺める。
あの娘を囲うつもりか、とベティは言った。
そんなつもりはなかったのに、と彼は思う。
なのに今、現実に、自分は彼女をそうしている。
彼女を奴隷の身に貶めている。

―俺がしたかったのは、果たしてこんなことだったんだろうか?

彼は、焦燥と混乱に焼かれながら、奇妙な冷たさを感じる。
メイベルのことを、愛していただけなのに。
彼女を大切にしたいと思っていたはずなのに。
今も自分は恐怖に駆られ、彼女をこうして傷つけつづけている。
こんな風に彼女を抱きたくはない。
しかし、それ以外に、彼女をつなぎとめる方法が彼には、わからない。
彼女の心を、粉々にしてしまったとしても。

―身動きができない。

どうすればよかったんだろう?
体を寄せているのに感じる、この絶望的な孤独感は。
愛しているはずなのに、こんなにも恐ろしいのは。
体をつたう、凍りつくほど冷たい汗は。
これは悪い夢なんだろうか?
いたいけな小さな女の子。
驚くほどプロ意識が高く、不器用で自信がなく、
思い込みが強くてすぐ不安になる、愛しい娘。
その全てを自分は確かに愛したはずなのに。
なのに。

「ねえ、メイベル」

細い腰を引き寄せ、彼は彼女の名を呼ぶ。

「メイベル」

顎に指をかけ、こちらを向かせる。

「こっちを見て」

メイベルは、はい、と短く答え、その瞳をクリフに向ける。

空っぽの瞳。
クリフはぞっとする。
その瞳は、
人形のように乾ききり。
何の感情もなく、知らない人間を見るような目。
彼は悟る。
ここには、もう彼女はいない。
彼女は、もう、
失われてしまったのだ、と。
彼女の心を壊したのは、自分。
そして。
その眼の奥にいるのは。

―昔の自分。

恐怖で叫びだしそうになるのを彼は必死に呑みこみ、彼女の体を突きあげる。

俺は。
今、どこにいるんだろう。
何をしているんだろう。
家族を失って。
自分を失って。
ベティを失って。
そして、今。
メイベルを失って。
俺は。

―お前は。

ベティの冷たい声が聞こえる。

―死人も、同然だ。

「手紙を書いてあげる」

行為の後、仰向けに体を横たえたままのメイベルに、クリフは言った。

「新しい勤め先への紹介状」

その時、ぼんやりと天井を眺めていた彼女の顔が、わずかに動いた。
彼は顔を背ける。彼女の表情を覗き込む資格は、自分にはもはやない。

「自由にしてあげる」

彼は自分に命じる。

―さあ、笑え。

「君にはもう、飽きちゃったから」

彼は振り向く。
自分にできる最も美しい、笑顔を浮かべて。






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