旦那様×メイベル11話目(非エロ)
シチュエーション


深夜。

メイベルは中庭で、膝を抱えていた。
大きな月。建物に囲まれた限られた面積の緑。
何かあったとき、彼女は、人目を忍び、真夜中の庭でこうして過ごした。
ここで風に当たると、不思議と心が落ち着いた。
3年と少し。その生活が、今、終わろうとしている。
メイベルは手のなかの手紙に目をやる。
そこに書かれているのは彼女の、次の行き先。

―君にはもう、飽きちゃったから。

彼の冷たい声の色。
不思議とショックは受けなかった。
きっと、受け止めたら耐えきれないからだ、と彼女は冷静に分析する。
この現実を。
彼が自分を、棄ててしまったことを。

意識は霧に包まれたように、ぼんやりとする。
冷たい風が吹く。
関節が痛み、体の奥がひりひりした。
繰り返されてきた凌辱に、彼女の体は摩耗していた。
しかし心は奇妙に落ち着いており、神経はどこまでも醒めている。
彼の冷たい眼、歪んだ空気、そして、乱暴な行為。
メイベルは、夢を見ているような気分で思い返す。
どこからどこまでが、自分の身に起こっていることなのだろう。
旦那様は初めからこうするつもりだったのだろうか。
みんなみんな、本気じゃなかったのだろうか。
たくさんの話をして、お茶を飲んだことも。
時には怒られて、叱られたことも。
優しく褒めてくれたことも。
からかわれて、笑われたことも。
抱きしめて、キスをしてくれたことも。
一緒に食事をして、お風呂に入ったことも。
そして何度も、やさしく抱いてくれたことも。

みんな、みんな、嘘だったんだろうか?
鼻の奥が、つん、と痛む。
いけない、泣いてはいけない。
そう自分を律しかけて、そして彼女ははっとする。

―何を言っているんだろう、わたしは。

彼女は我に返る。

―泣かないと誓ったあの人は。

もう、わたしのことなんて必要としていないのに。
それを合図にするように、ぼろぼろと涙が目から溢れだした。
だめだ。
糸が切れたように、彼女の心はあっけなく崩れる。
だめ。
もうこんなに彼が、自分の中に染み込んでいる。
彼の言葉は、一緒に過ごした時間は、
すっかりわたしを変えてしまって、もう、もとに戻すことができない。
あんな風に優しくされて、そして、ぐちゃぐちゃに傷つけられて。
それでも。
嫌いになれないなんて。好きだなんて。そばに置いてほしいだなんて。
使用人のくせに。
ばかみたい。
彼女は声を上げ、幼い子供のように大声で泣いた。

どれくらい時間がたったかはわからない。
泣き疲れて、もう声もまともに出なくなったころ、
やがて、手紙を涙で濡らしてしまっていたことに、彼女は気がついた。

―いけない、これを汚してしまっては。

封筒の中の手紙を取りだす。まだ目を通していなかった彼女の、新しい、行く先。

―こんなものもう、どうだって、いいのに。

それでも本能は、生き抜くため、これが自分にとって必要なことを知っており、
彼女の手は、意志とは無関係に手紙を開く。
行き先を見て、彼女は、驚いた。
そこにあるのは、有名な篤志家の名前と、住所であった。
孤児院をいくつも持っている、人格者として有名な老婦人の小さな邸宅だった。
わがままな主に振り回されることが多い使用人たちの誰もが、
広い屋敷の手入れに苦慮することの多い使用人たちの誰もが、
希望するような理想的な仕え先。
そこにメイベルは、確かに。

―彼の愛情を、感じた。

彼女は酷く混乱する。
旦那様は、なぜこんなところに手を回してくれたんだろう。
慎ましい生活を好むというあの老婦人は、使用人もほとんど使っていないと聞く。
まして新たな使用人など必要としていないはずだった。
頼み込んでくれたのだろうか?
この僅かな期間で?
あの忙しい彼が?
彼女は、クリフの費やした労力を考え、気が遠くなる。
飽きたなら、そのまま捨てればいい。
使用人の新しい勤め先なんて、わざわざ世話する必要はない。
メイベルは、メイドが性的に搾取されるのは珍しい話ではないことを知っていた。
その多くのメイドたちはいいように扱われた末、不要になればそのまま放り出されていた。

―でも、旦那様は、違う。

彼女は思う。
現実に彼はメイベルのために、これまで、多くのものを費やしている。
最初から、遊ぶつもりであれば、けしてこんなことはしない。
頭のいい彼ならば、その気になれば、もっと効率的にできたはずだ。

―なにか、事情があるのだ。

途端。
彼女の眼は醒めた。
泣いている場合ではない。
感傷に流されて、自分のことだけ考えている場合ではない。
逃げないと決めたのではなかったのか。
最初から許されない相手を好きになり、
その道行きが辛いことくらい、わかっていたことではなかったか。
それでも、彼のことを愛したのではなかったか。

―逃げるな、ロベルタ。

メイベルは自分に言い聞かせる。
もし、主が。
もし、自分のことを、まだ、愛してくれているなら、
事情が合って自分を遠ざけようとしているのなら、
彼は辛い気持ちでいるのに違いない。
自分だって、まだ、こんなに彼のことを思っている。
なのに、それを放り出して、
言われるままに、逃げるのか?
彼女は激しく左右に首を振る。
逃げてはいけない。
どんなに辛くても、痛くても。
遮断してはいけない。自分の体で受け止めなくてはいけない。
取り返しのつかないようなことが、起きたとしても。

―事情があるとすれば、何だろう。

彼が自分に言わない、言えない事情。
自分に何か、隠している、事。
ここ数日の彼の様子を思い出す。
彼女を抱いている時、彼はけして愉しそうではなかった。
むしろ、何かから逃げているような、溺れているような。
それが本当ならば。彼が辛い思いをしているのなら。
彼女は思う。

―何としても、彼を、助けなくては。

彼の様子が明らかにおかしくなったのは、いつからだろう。

彼女はベティが出て行った時のことに思い至る。
"使用人として許されないことをした"と彼は言った。
あのベティが、自分が話すことが主の気に障るかどうかくらいのことを、
見極められないはずはない。
ということは、彼女は、追い出されることを覚悟の上で彼に何かを言った。
前夜に会ったベティの様子を思い出す。
いつもと違うベティの強張った顔、なぜかメイベルをろくに怒ることもなく、
決心をしたような顔で主のもとへ向かった彼女。
ベティは何かを知っていたのだ。
そして、怒っていた。メイベルではなく、彼のしたことに。
なぜだろう?
そして彼女は言った。

―あたしは、お前が生まれるよりも前から、あの方のことを見てきたんだ。

彼女はその言葉に、はっとする。
以前に違和感を覚えたが、すぐに忘れてしまっていた、彼の言葉。

―仕えてもらってもう…今年で、そうだね、ちょうど16年。

メイベルは今年で19歳―つまり、19年以上前からベティは彼を知っていたという。
しかし、仕えたのは16年前から。
メイベルは、喉の奥に、奇妙な冷たさを覚え、ぞっとする。

―勘定が、合わない。

そして。
ベティがよく口にしていた"屋敷に仕えて20数年来"という言葉。
彼らの言葉がどれも正確だとするならば。
ベティは20年以上前から屋敷におり、16年前からクリフに仕え始めた。

つまり。

その以前に。彼女は。この屋敷で。
別な主に仕えていた。

―どういうことだろう?

開けてはいけない箱を手にしているという感覚に、メイベルの心臓が高鳴る。
しかし、もう、引き返すことはできない。
ベティの前の主人について、彼女は考える。
使用人が、同じ屋敷で別の当主に仕えるということ。
一般的に考えれば、前の主は彼の父親だという可能性が高い。
父親がいなくなった後にクリフが当主になった―
つまりベティは2代にわたってクリフの家族に仕えたというのが、
もっとも有り得る話であった。
しかし、使用人は普通、当主の家族全てに仕えるものであり、
彼の父に仕えていたならば、その間、彼女はずっとクリフにも仕えていたことになる。
そうなれば彼の"自分に仕えてもらって16年"という表現はおかしい。
つまり。
可能性として高いのは。

―16年前までは、彼と血縁関係にない者がこの屋敷の当主だった。

16年前。
現在33歳の彼が、17歳の時。
17歳?
その若さで、当主になるとは、どういうことなのだろう。
前当主が彼の父でないとすれば、家の資産を引き継いだというわけではなさそうだ。
家族はいない、と彼は言った。
いないというのは、どういう意味だろう。
なのに、なぜ彼がここの主となったのだろう。
前の主はどうなったのか。何者なのか。
そして、そもそも―
ベティはなぜ、彼が当主になる以前から、彼のことを知っていたのだろう?

メイベルは思い出す。
時折、主の様子がおかしかったことを。
装うのが上手な彼は、めったにほころびを見せることはないが、
それでも、違和感を感じることが時にあった。
個人的な話。そして、家族の話。

―君がなってくれるっていうなら、別だけどね

今思うと、彼はあの時、明らかに話を逸らした。
彼女にそれ以上、話したくなかったということ。
そして、話したくないということすら、彼女に悟られたくなかったのだ。
メイベルは注意深く記憶をたどる。
クリフは唐突に何かをすることが多かった。
突然キスをしたり、抱きしめたり、驚くような言葉を言ったり。
自分に動揺を与え、その反応を楽しんでいるのとばかり思っていたが、
その裏に、彼は巧妙に何かを隠していた。

―わたしは、何も知らなかった。

メイベルは今になって痛感する。
彼を見ているつもりで、何にも見ていなかった。
いつも自分の気持ばかりに振り回されて。
彼の考えてることにきちんと注意を向けていれば。
でも、今は後悔をしている暇はない。

思い出せ。
メイベルは呪文のように強く自分に言う。
なんでもいいから、思い出せ。なにか、おかしなこと。

―この手のカギはね、ちょっとしたコツがあるんだよ。

そうだ。
使用人室の鍵をなぜ彼は開けることができたのだろう。
豪奢で丁寧な作りの鍵と違い、内側から板を挟むだけの簡単なもの。
普段は使う機会など、全くないはずのそれを、彼は開けた。
思えば。
使用人たちの事情に、彼は驚くほど詳しかった。
日中ほとんど屋敷を開けているにもかかわらず、彼らの生活、仕事の内容。
そして使用人たちが隠れてつまみ食いをしていることまで。
そんな裏方のことを、他の屋敷の主人は、果たして知っているだろうか?

―まさか。

ぐらりと、視界が震える。
メイベルは動揺する。
自分の導き出した結論が、あまりに信じられない突飛なものであることに。

―でも。

メイベルは、思う。
主が、屋敷を空けてあちこちの地方に行くことが多いことも、考えてみれば珍しい。
屋敷を持つような特殊な階級の人間は、自分から動くようなことはあまりしない。
人を使って行かせるか、相手を自分の屋敷に招くかがほとんどであった。
しかし、彼はそれをしない。
それができない理由があった。自ら行かなくてはいけないような、理由。
それは、彼女の導いた答えと一致する。

行かなくては。
メイベルは、裾についた草を払って立ち上がる。
涙を吹く。腫れた瞼の感触がしたが、構わない。
綺麗に手紙を畳み直してポケットに入れる。

―今度こそ、泣いたりはしない。

前の主のことを調べよう。
そして、行くのだ。
もう一度。

―愛しいあの人のところへ。






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