シチュエーション
そして、彼は地面に膝をつき、嘔吐を繰り返していた。 喉の奥が酸と嫌悪感で焼けつく。 胃の中はとうに空っぽだった。吐き出せるものはもう何もないはずなのに、 体の奥を何度も不快感がせり上がり、彼は咳き込む。 酷い匂いだ、と彼は思う。 品のない香水と体液の匂い。そして猫の死体のような腐臭。 ―耐えろ。 彼は、自分に命じる。 ―もう少しだけ。あと少し、我慢すれば。 猛獣を宥めるように、自分の感情を押さえつける。 彼には、抑え込まれた不快感が自分を中心から確実にすり減らしてゆくことも、 その空洞が取り返しのつかないほどに広がってゆくことも、十分にわかっていた。 しかし、それでも、耐える必要が彼にはあった。 ふと、そのとき地面に影が落ちる。 顔を上げるとそこには、見慣れた顔がある。 彼女はそっと、彼の隣に水差しを置く。 いつもどおりの不機嫌そうなその顔には、侮蔑も哀れみも同情も浮かんでいない。 他の使用人たちが遠巻きに見ている中で。 彼女だけは。 そうやって。黙って近くに、いてくれた。 ―こうして昔のことばかり、思い出す。 クリフは思う。 どれも、何年もかけて奥底にしまい込んできた、見たくもないものばかり。 書斎で、ぼんやりと歪むランプの灯を眺めていた。 夜の闇を湛えた窓が、彼の姿を鏡のように映し出す。 彼は自分の顔が嫌いだった。 人に取り入るには便利な顔。しかし血の気のない死人のようなその眼を、 彼は直視することができず、こうしていつも目を背ける。 彼は絶望していた。 ブレーキの壊れた乗り物のように、自分が制御を失ってしまったことを。 自分の感情の箍が外れ、中から驚くような醜いものばかりが溢れでることを。 彼女の手足をもぐようにして、彼女の心を粉々にしたことを。 そして。 自分には、まともな形で人を愛することなど、出来ないということを。 ―自由にしてあげる。 それは彼に残された、最後の良心だった。 彼女をこれ以上壊さないように。 自分と同じような目に遭わせないように。 なんとか正気を保っていられるそのうちに。 いや。 しかしそれはただの綺麗事にすぎないのかもしれない。 本当は。 彼女の中にいるもう一人の自分に、出会うのが怖いだけなのかもしれない。 彼女が自分のせいで壊れていくことから、目を背けたいだけのかもしれない。 別人のように変わってしまった彼女に価値を感じなくなっただけなのかもしれない。 もう彼には、どれが本当のことなのかはわからなかった。 自分の考えも現実に起こっていることも、正しく理解することができなかった。 それでも、一つだけはっきりしていることは。 ―自分に彼女を幸せにすることはできない。 ノックの音が聞こえて、彼は振り返る。 こんなに時間に自分を訪ねてくるものは、 もう、ひとりしかいない。 ―メイベルだ。 雑音は止まない。薄ら寒い恐怖。胸は、張り裂けそうに痛む。 しかし、ドアが開くその時、彼はすぐに表情を作ることができた。 こんなときですら、嘘をつくことはたやすい。 彼は思う。 ずっと自分は、こうして嘘をついてきたのだから。 「失礼します」 彼女は、ドアのところで深々と頭を下げた。 メイベルは制服ではなく、 彼が贈ったワンピースを身に着けていた。 「何しにきたの?」 彼は出来るだけ冷たい口調で言った。 出ていくことを言い渡したあの日から、数日。 彼は一切メイベルを書斎に呼ばなかった。 紅茶の給仕も別な使用人にさせ、彼は徹底してメイベルを遠ざけた。 自分の気が、変わらないように。彼女に、悟られないように。 「どうしてもお話したいことがあって参りました」 メイベルは真っ直ぐに彼を見つめる。 クリフは、言葉を失う。 久々に見るその眼は亡骸のような、あの目では、ない。 「そんなもの、僕にはない」 「覚えていらっしゃいますか、旦那様」 彼の言葉が聞こえていないかのように、メイベルは静かに言った。 「わたしは前に、ここで、あなたに怒られました。 君は、思ってることを言わないで不安を隠して、うわべだけ繕うって。 人の言葉を信じようともしない って」 綺麗に梳かされ、整えられた髪。果実のように赤い、小さな唇。 クリフは驚く。 今なお彼女の美しさが損なわれていないことに。 そして、自分が彼女を求めてやまないことに。 「お話しくださいませんか?何を隠していらっしゃるのか」 「隠す?」 「クリフ様が急に人が変わったようになられたことに、何の理由もないとは思えません」 彼女は、目を逸らさずにはっきりと口にすると、頭を下げた。 「…ごめんなさい」 仕事の時の完璧な形のお辞儀とはまるで違う、不器用な謝り方だった。 「わたしはいつも自分のことばかり考えて、 クリフ様がお辛い気持ちでいらっしゃったことに、気がつきませんでした」 じり、と奇妙な感情が胸を刺すのをクリフは感じる。 勘づかれてしまったことへの焦燥、そして、苛立ち。 今更になって。彼は思う。 メイベルはなぜこんなことを言い出すのだろう? 「ずいぶんおめでたいんだね、君は」 自分の声がひどく不愉快そうな響きを帯びているのに気がつき その時、ようやく彼は、自分が彼女を憎んでいることを理解した。 「仮にも主人の僕が君を相手にすると、本気で思ってたの?」 自分は確かに、何もかもを隠しおおせようとしているその一方で、 そのことに彼女が全く気がつかずにいたことをどこかで憎み、 豹変した彼に抵抗すらしなかったことをどこかで― 身勝手に恨んでいた。 「僕は君の反応が面白かっただけ。でもそれももう、おしまい」 しかし、メイベルは、全く怯まなかった。 「それでも私は…あなたを信じます」 「残念だけど君の戯言に付き合ってる暇はない」 心臓が煩いくらいに高鳴る。しかし、彼は侮蔑するように冷たく笑う。 「出て行ってくれる?」 その時。 メイベルははっきりと、言った。 「それはできません」 クリフは驚く。 どこまでも従順だったメイベルが、はっきりと主の命を拒否した。 強い意志を宿した瞳。ベティと同じようなその目。 そして、メイベルの次の言葉に。 彼は耳を疑った。 「クリフ様は、16年前にこのお屋敷の主人になられましたね」 脊髄を引っ掻かれるような強烈な悪寒がした。 やめろ。と彼は思う。 まさか。お前は。 何を、知っている? 「わたし…調べました、このお屋敷の昔のこと」 彼は、言葉を失い、立ち尽くす。 自分の体の奥に眠っていた蟲のような不快感が、いっせいに騒ぎだす。 がさがさと蠢く、醜い羽音とけたたましい鳴き声。 「前のご当主のお名前はシャルロット・モンテーニュ」 血管の中身が沸騰する。 混濁した意識の中で、激しい嫌悪感が、体中をかきむしる。 ―クリフ。 また、あの声がする。 ―もっと近くで、顔を見せてちょうだい。 「そして、その前のご当主が…」 かっと、閃光のような衝撃が走り、考えるより先に、彼の体は動いた。 気がつけば。 彼は、彼女に馬乗りになり。 首を絞めていた。 ―おいで、クリフ。 何が現実なのかは分からない。 声も、雑音も、メイベルがここにいることも。 「黙れ」 どこからどこまでが現実なのか。 どうしたらこの酷い眩暈は治まるのか。 どうすれば彼女を憎まずに愛することができるのか。 どうやってこの悪夢から逃れたらよいのか。 クリフは手に力を込めたまま、彼女の体をがくがくと揺する。 「それ以上、口を利くな…!!」 メイベルは顔を歪め、彼の両手を指で引きはがそうとする。 柔らかで華奢な彼女の首。何度となく愛でた、美しい首筋。 ―クリフ。そう、とっても上手よ。 そして、 彼女の眼が再び彼を捕える。 そこに、怯えはない。 「やめません」 その声でクリフの手がわずかに緩む。 「わたしは絶対に逃げません!」 彼女は叫ぶ。 「あなたが思い出したくないと思っていらっしゃることはわかります! でも、そんなに苦しいことを、閉じ込めつづけたって、何にもなりません!! 目を背けてもなかったことにはなりません!」 「うるさい…」 メイベルの声がビリビリと体に響く。 その小さな体から出る、驚くほど強いエネルギー。 「だから…お話しください!なにがあったんですか?! 何がそんなにあなたを苦しめているのですか…?!」 「うるさい…!俺は…!!」 そして。 彼女は。 唐突にクリフの首に両手を巻きつけて引き寄せ、 キスを、した。 思考が真っ白に塗りつぶされる。 クリフはそれ以上何も考えることができなくなった。 その唇の温度。 柔らかなその優しい感触。 彼女の首を絞めたままの手が緩み。 体の力が抜けていく。 全ての音が失われるその中で、 彼女の声だけが、はっきりと聞こえた。 「嫌いになんてなりませんから」 紅茶の葉っぱと洗濯糊の清潔な匂い。さらさらとした髪。 メイベルにきつく抱きしめられながら。 しばらくの間、彼は茫然とそれを受け止める。 自分に注がれている、無償のもの。 ―絶対的な、愛情。 彼は、いつのまにか、自分の目から、涙が流れていることに気がつく。 音もなく、静かに、ただ容れ物から溢れるようにどくどくと。 それが自分の体から出ていくのを、クリフは認め、驚いた。 長い沈黙。 「涙なんて」 彼はメイベルの腕の中で、他人事のように呟いた。 「もう、出ないと思ってた」 体に力が入らなかった。 あれほどまでに彼を苛んでいた、どろどろに煮詰った感情の姿は、 今は、不思議とどこにも見当たらなかった。 メイベルは何も言わずに、そのまま彼を抱きしめ続ける。 彼が彼女にキスをし、多くの話をし、そして傷つけたこの場所で。 その腕は強く、彼を包む。 ここにいるのは、確かに彼の愛したメイベルの姿だった。 ―旦那様。 彼は思い返す。 メイベルのたくさんの言葉を。 ―旦那様の、お顔立ちが、その、素敵でいらっしゃるので… ―どうして私のような者に興味をお持ちになられたのでしょうか? ―旦那様でなければ、困ります。 ―あまり意地悪を、おっしゃらないでください。 ―旦那様のお陰で、変わらなくちゃ、って。 ―さしあげます、クリフ様に、みんな。 そして。 彼女の照れた、しかし、幸せそうなその顔を彼は、はっきりと思い出す。 ―旦那様のことなら、どんなことでも、教えて頂きたい、ですから。 「君の言った通り…俺がこの屋敷を手に入れたのは16年前のこと」 どれくらい時間が経ったのかわからないほどの静けさの後 彼の口は、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「それまで」 自分の心の揺れが止まったのを感じ、 彼は、静かに覚悟を決める。 「俺はここで使用人をしていた」 SS一覧に戻る メインページに戻る |