旦那様×メイベル13話目・前(非エロ)
シチュエーション


思い返せば、主は何度も言っていた。

―突然こんなことしちゃったけど、どうしよう。君に嫌われたかもしれない。
―嫌いになっちゃった?
―どうかな。何か聞いて、僕のことを嫌いになっちゃうかもしれないよ。

自分がもう少しよく見ていれば、とメイベルは思う。
冗談めかしたその言葉の響きの中に、怯えが含まれていたことに
気づくことができたのだろうか。
今ではわかる。
気まぐれや意地悪も、加虐的な言葉も。
きっと、不安の裏返しだったのだろう、と。
彼は演ずるのが上手なだけで、本当は誰よりも不器用なのだ、とメイベルは思う。
不安を表に出すことができない。
人を信じることができない。
気持ちを素直に言うことができない。
わがままで臆病で。
でも。
とてもとても、可愛い人。

―君が新しい人?

3年前、彼女が屋敷に来た時のこと。
主人に挨拶に行った彼女は、たちまち、視線を奪われた。
絵画のような美しい顔立ち。洗練された所作。そして、優しい声。
彼はそんなことには気がつかないように、にっこりと笑った。

―慣れるまで大変かもしれないけど、頑張って。

彼は主人にしては珍しいタイプの人間だった。
大きな屋敷を持っているにもかかわらず、
ほとんどの時間を書斎に籠って過ごし、
豪華なものや派手なものにはまるで興味を示さず、
屋敷に人を招くこともなかった。
質のいい服を着ているのも、大勢の使用人を使っているのも
彼に言わせれば、仕事をする上で便利だから、というだけの理由であった。
使用人たちにほとんど声はかけず、
しかし彼らと接するときには主はいつも穏やかであった。
若いメイドたちは、みな彼に憧れ、いつも彼の事を噂していた。

―おいしいね、君の紅茶は。

初めて彼が自分に話しかけてきたとき、彼女は酷く動揺したものだった。

―どうやって淹れてるの?

緊張を押し込めて淡々と説明をするメイベルの言葉を、
彼は注意深く、うんうん、と頷くようにして聞いた。
その瞳に自分を写されることを、申し訳なく思ってしまうくらいの端正な顔。
メイベルは思った。

―この人は、どうしてこんなに優しく笑うんだろう?

そして今、クリフの顔からは微笑みが剥がれ落ちていた。

「前の当主はシャルロット、その前の当主は…俺の、父親」

彼は言いながら、ゆっくりと椅子に腰かけ、眼鏡を外して机に置いた。
メイベルは初めて見る彼の表情に不思議な感情を覚える。
無防備な、迷子になったことに気が付いた子供のような、所在のない表情。

「もともと、ここは俺の父親の屋敷だったんだ。
俺はここで生まれて、家族と暮らしていた」

彼は、思いを馳せるように、遠くを見る。
しかし、その語り口は驚くほど軽かった。

「でも、俺が10歳かそこらの時かな。父親が騙されて、多額の借金を負ってね。
途端に親戚なんかにも、絶縁されてしまって。
誰も助けてくれる人はいなかったし、どうすることもできなかった。
それで父親が、家族で心中しようって言い出したんだ」

メイベルは、床に座り込んだまま、話し続ける彼の姿をただ見ていた。

「だけど、父親も、母親も、兄も、妹も。
家族はみんな死ねたのに、俺だけは死に損なってしまった」

クリフは、まるで自分とは関係のない出来事のように話し続ける。

「あの時は困ったな。
もう一度しようにも、もう自分一人ではできなかった。
よくわからない薬を飲まされたんだけどね、すごく辛いんだよ、あれ。
何の薬だったんだろう。喉が焼けるみたいに痛いし。
家族もずいぶん死ぬまで時間がかかってて苦しそうだったし。
死ぬにしても、方法ってものを選ばないと駄目だね」

彼は、おかしそうに笑った。
その過酷な内容と乖離した彼の話し方に、メイベルは強い既視感を覚える。
ベティがいなくなったときにも、自分が出ていくと言ったときにも。
彼は怒るでも悲しむでもなく、こうして笑っていた。
メイベルは気がつく。
こうして恐怖や不安を笑みの奥に押し込めることで、
彼はなんとか自分を保ってきたのだと。

「でも生き残ってると、父親の借金を背負わなくちゃならなくなるから。
その時屋敷にいた乳母がね、不憫に思って、
身元を隠して使用人として働くようにって、いろいろ手配してくれたんだ。
それで彼女は、自分だって仕事がなくなって大変な時に、俺の働き口を探してくれたわけ。
使用人は孤児だとか棄てられただとか、そういう身元が怪しい人間も多いから、
一人くらい俺みたいなのを紛れさせるのも多分そんなに難しくなかったんだろうね。
そして、俺は全然知らない他人の屋敷で、使用人として働くようになった。
住んでいた屋敷や資産はみんな、借金のかたにとられてしまった。
家族もいないし、贅沢な暮しもできなくなって、何が何だかわからなかった。
まあ、お屋敷で育った、甘ったれた子供だったからね、余計に大変だったよ。
それでも何とかやった。少しずつ色々なことを覚えてね。
でも屈辱だった。家族はいなくなったけど、せめて、絶対にあの家に戻ってやるって。
こんな目に自分を遭わせたやつに復讐してやるって。
そのことをずうっと考えてた

彼はそこで、言葉を継いだ。

「すると、ある日突然、驚くような話が来た」

クリフは、一切メイベルの方を見なかった。
ただぼんやりと虚空を見つめて、淡々と、彼は語り続ける。
まるで何かの記録のように、ひとりごとのように。

「15歳の時。
この屋敷で…俺が生まれたこの屋敷で、使用人が不足してるって話があって。
それで、ここで働くようにって声がかかって、俺はすぐにここに連れてこられた。」

彼は額に手をあて、顔を僅かに傾けて可笑しそうに笑った。

「そりゃ、確かにね、俺はずっと屋敷に戻りたいって考えてはきたけど。
生まれた家に使用人として戻るなんてあんまり酷い話だと思わない?、
でも、もしかしたら、屋敷を取り返せるかもしれないって思った。
そして、親の敵に復讐するチャンスもあるかもしれないってね」

親の、敵?
その言葉の聞き覚えのある響きに、彼女ははっとした。

―いつもこっそり僕をじいっと、睨んでるみたいに見える。親の敵みたいに。

初めてキスを交わしたあの日。
この場所で。
彼が確かにそう言ったことを思い出す。
親の敵。
こんな経歴のある彼が、無意識的にそんな言葉を使えるはずがない。
彼は意識的にああ言ったのだ。
メイベルはぞわりと、背筋が寒くなるのを感じた。
なぜ、あんなときに、彼は?
どうしてそんなことを言ったんだろう。
どんな気持ちで言ったんだろう?
それが一種の皮肉のようなものだったのか
どういう意味を持つのかは、彼女にはわからない。
しかしそこにメイベルは強い異常性を感じ、立ち竦む。

―まともではいられなかったんだ。

彼女は思う。
平静を装うことに彼があまりに長けていたから。
誰もそれに気がつかなかっただけで。
今日までずっと。
おそらくは、今この瞬間も。
気の遠くなるほど長い間、この人は。

―異常な、精神状態のまま、だったのだ。

「それで、その時主だったのが、さっき君が言ってたシャルロット」

メイベルが凍りついていることにも気がついていない様子で、彼は言う。
そして、その時からここのメイド長だったのが…ベティ」
彼の話は、おおむねメイベルの予想の通りであった。
なのに、その一つ一つの単語は、
そしてそれ以上に、あまりに自然な彼の様子が、
容赦なくメイベルの心を押しつぶしていく。

「ねえ、メイベル」

クリフは話を中断し、突然、彼女に話しかける。

「どうやって調べたの?前の主なんて」

彼の顔には、憑き物の落ちたような、奇妙な晴れやかさがあった。

「…このあたりの事情に詳しいお年寄りを探して、その…聞きました」
「どうやって?」
「近くの家を訪ねて…」
「家なんて、このあたりにあった?」

屋敷は市街地から離れた場所にあり、近くに建物はほとんどない。

「それぞれ5〜6キロくらい、離れてはいますが…」
「それを、一軒一軒?」
「はい」

彼は驚く。

「凄いね、それ。まさか君がそこまでするなんて」
「あの…ご、ごめんなさい」
「いいや」

クリフは笑う。

「ありがとう」

メイベルはその美しさにどきりとした。
そのほほ笑みは、いつもよりもずっと柔らかく、見たことのないほど素直なものだった。

「それで?」

彼は目を細めて、先を促す。

「え?」
「その人たちは、何か、言ってた?シャルロットのこと」

メイベルが口ごもり、言葉を選んでいると、
彼はメイベルの顔を覗き込むようにして、上品に笑った。

「やっぱり。色々聞いたみたいだね。
あの女を良く言う人間なんてこの世に一人だっていないよ。
シャルロットは独り身で、親の残した財産で生活していたんだけど、
かなり問題のある女でね。
癇癪持ちで、底意地が悪くて、気まぐれで、醜くて。
たとえばね、気に入らないことがあると、使用人に物を投げるんだ。
フォークでも、皿でも、ランプでも、近くにあるものを何でも。
それを避けると余計に怒るから、使用人はきちんとそれに、当たらなければいけない。
中にはそれで、失明した者もいた」

彼は天井を見上げて、ため息をついた。

「そういうことが日常的にあるから、使用人がひっきりなしに変わるわけ。
あの女に首にされたり、怪我させられたり、あるいは使用人が逃げたりしてね。
使用人が足りないって俺が呼ばれたのもそういう理由だってすぐにわかった。
ベティも毎日苦労してた。彼女もずいぶん酷い目に遭ってたよ」

そして、彼はまた遠い目をして、自分の物語にひとり、沈んでいく。

「シャルロットはその時、確かにここに住んでいたけれど、
実際に父親を騙したのがあの女だったのかはわからなかった。
この屋敷が売りに出されたのを買っただけなのかもしれないし、
人を騙せるほど頭がよさそうにも見えなかったし。
父親の一件に関係してるのかも判然としなかった。
当時は俺も15,6の子供だったし、それ以上調べる手立てもなくてね。
でも毎日、辛かったよ。
自分が住んでいた家で、性根の腐った女の召使いをして、惨めな思いをした。
でもね。今思えばあの時なんて、俺の人生の中ではずうっと良いほうだった」

彼は小さくため息を吐く。

「それからしばらくして―」

主はそこで、言葉を奪われてしまったように、唐突に黙った。
部屋を沈黙が支配する。
クリフは窓の方を向き、メイベルからはその表情が見えなくなる。
メイベルは、その沈黙に不吉な予感を感じ取る。
なにか、決定的なものが。
とても太刀打ちのできないような大きなものの、気配。
彼は静かに言った。

「毎晩のようにあの女の相手をさせられるようになった」

メイベルはすぐに、彼の言葉を理解することができなかった。
ただ彼女の眼は、主の手が僅かに震えているのを、無感動に捉えていた。

「初めは何が起こったのか分からなかったなあ。
俺の顔が、大層お気に召したらしくてね。
年端もいかないような子供相手に、あの女は―」

彼は言葉を飲み込むと、
感情を排するようにして言った。

「逃げられないように、他の使用人に監視されて。
ほとんど軟禁状態みたいなものだから、逃げることもできなかった。
わざと他の使用人たちにも分かるように、大声で俺の名前を呼ぶんだ、あの女は。
他の使用人たちが遠巻きに俺を見るんだ、汚いものを見るような目で。
それで、夜になるとまたあの女が俺を呼びつける。
気が狂いそうだった」

彼の声は乾いていた。

「でもベティだけは俺を特別扱いしなかったなあ。
優しい言葉一つ言わないけど、心配してくれてたんだと思う。
俺がこっそり吐いてると、いつも水を持ってきてくれたよ。
まあ、普段は厳しかったし、容赦なかったけどね」

彼はそこで、少し黙った。
その沈黙は永遠のように長く、
メイベルは強い衝撃に全身を打たれ、
磔にされたように身動きができなかった。
想像を絶するような彼の話を、まともに受け止めることすらできず、
彼女は自分の膝がわなわなと震えていることに気がついた。
それは果てのない無力感と、憎しみに似た激しい疑問だった。

どうして。
なぜ。
こんなに優しくて。
こんなに繊細なこの人が。
ここまで追いつめられて
ここまでに恐ろしく、
ここまで苦しい思いをさせられる必要が。 

一体どこにあったと、いうのだろう?

「酷い生活だった」

クリフは、ゆっくりと言葉を継いだ。

「自分の人生を呪ったよ。見張られて、自殺すらできないし。
あの時、最初に、家族と死んでいればよかったのかって何度も思った。
何がいけなかったのか、何をどうすればよかったのか、俺にはわからなかった。
それでも、生き延びるためにどうしたらいいか。
考えたらもう一つしか、なかった。
あの女に取り入って、油断させて、隙を伺うこと」

自嘲するように彼が笑った。

「あの女に玩具にされながら、
俺は機嫌を取りつづけたわけだ。
ベティに尻尾振りって呼ばれてたくらいだからね、
それはもう、ぞっとするくらい上手かったんだと思うよ。
そうして、2年」

彼は指先で、とん、と机を叩いた。
まるで、機械の調整をするように。
自分の意識を、引き戻すように。

「…長かったよ。
気が遠くなるほど長かった。
ようやく、あの女が俺を、養子にしたいと言い出した。
自分が死んだら財産はみんな俺にくれるってね」

彼は、平坦な声で言った。

「そこからは案外簡単に事が進んだよ。
養子縁組をして。そして、財産についての文書に、ちょっとだけ細工をして。
頭の悪い女だったから大して苦労はしなかった。
全ての資産を奪い、そしてあの女を無一文で屋敷から放り出した」

クリフはようやく、顔をメイベルの方に向けた。

「そして、めでたく俺はここを取り戻したという、わけ」

彼はにっこりと微笑んだ。
しかし、その笑顔が作りものであることくらい、彼女にはわかっていた。






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