旦那様×メイベル13話目・後(非エロ)
シチュエーション


「ねえ、クリフ」

名前を呼ばれても彼は振り向かない。
簡単に振り向かない方が"それ"が悦ぶことを、彼は知っているからだ。

「クリフ、こっちを向いて」

寒気のする猫なで声。
クリフはゆっくりとその声する先を向く。
きつい香水と、酒の匂い。
目の下の醜い皺。何度見ても慣れることのない、下品な顔。
しかし、彼はけして眉をひそめたりはしない。

「顔をみせてちょうだい」

広いベッド。
ぐちゃぐちゃと絡まって床に落ちているのは、シーツと趣味の悪い衣服。
こぶのように宝石が巻きついている指が、彼の顎を撫でる。
そして"それ"は、醜い舌で、彼の顔を舐めまわす。

―ひどい匂いがする。

喉の奥にこみ上げるおぞましさをおくびにも出さず、
彼は無邪気な笑みを浮かべて言う。

「やめて。くすぐったいよ」

しかし"それ"は貪欲に、彼の顔を愛で続ける。

「あなたの顔は本当に綺麗」

自分よりもはるかに年下の、幼い彼を相手に、"それ"は甘えたように繰り返す。
彼は身を捩り、その舌から顔を引き離す。
突然の彼の拒否に、一瞬で、"それ"の顔色が不快感で歪む。
"それ"は、なにか気に入らないことがあると、簡単に癇癪を起こした。

「クリフ、どうしたの?」

別人のように不機嫌そうな、高圧的な声。
それを合図に、クリフは伏せていた顔を上げる。

「ねえ、シャルロット様」

とっておきの悲しい顔をしてみせると、
"それ"の歪んだ表情が、途端に驚きに変わる。

「シャルロット様が好きなのは、僕の、顔だけ?」

上目づかいで。棄てられた猫のように。彼は言う。
途端に、"それ"の瞳には、えも言われぬ興奮の色が浮かぶ。

―化け物。

彼は胸の中で吐き捨てながらも、目に涙を溜めて唇を尖らせる。

「シャルロット様は、僕のことなんて全然見てくれない」

甘えるように、懇願するように。

「ねえお願い、僕のことを、見て。

顔だけじゃなくて、中も、みんな。
もっともっと、僕のことを」
彼は未成熟な、まだ少女のように細い首を、誘うように傾ける。
ぐらり、と頭が揺れ、彼は自分の体が、"それ"に押し倒されてゆくのを感じる。
彼は自分に、強く命じる。

―耐えろ。

「ああ、クリフ」

生臭い息。象のようながさがさの皮膚。熱。湿度。
彼は祈りの言葉のようにそれを繰り返す。

―耐えろ。

"それ"は、声を震わせて、彼の体にむしゃぶりつく。

「なんて可愛いの」

―耐えろ。耐えろ。耐えろ。

"それ"が息を荒くして、彼の体を奪ってゆく。

「クリフ」

"それ"は大声を彼の名を呼ぶ。
どこまでも執拗に。屋敷中に響く大声で。彼の名は呼ばれる。
感覚を遮断しようとしても、それは、紙から水が染み出すように、彼を浸食する。
生理的な不快感。暗いおぞましさ。
手足が、奪われる。
体が、ばらばらにされる。
心が、頭が、統制を失う。

―耐えろ。

たえるって?
彼の中の、まだ幼い部分が、訊きかえす。
なにを、たえるの?

「クリフ」

―耐えろ。
いきのびて、それがなんになるの?

―耐えろ。
ひとりぼっちの、ぼくが。

「クリフ、もっと、してちょうだい」

―耐えろ。
いきていたところで、なにか、いいことがあるの?

―耐えろ。
こわいよ、もう、いやだよ。

「上手ね、本当に、いい子」

―耐えろ。
きもちわるい、くるしい。かえりたい。

―耐えろ。
もうかえりたい。おうちに、かえりたい。

―耐えろ。
おうち?そう、おうちは…ここ。

―耐えろ。
ここを、このおやしきを、とりかえしたら。

―耐えろ。

「いいわ、クリフ。すごく、いい」

そうしたら、きっとまた、しあわせにくらせる。

―耐えろ。
おとうさまも、おかあさまも、きっと、戻ってきてくれる。

―耐えろ。
あのころみたいに。また、みんなで。

―耐えろ。
こわいこともなくなる。きっと、わかる。ぜんぶゆめだったって。

だから。
だから。
だから?

「好きよ、クリフ」
「うん、僕も」

だから―

「僕も、シャルロット様が、大好き」

彼は、"それ"の皮膚を舐めながら、焼きつけるように強く思う。


―そのためなら、どんなことだって、する。


そして今、クリフは微笑みを顔に張り付けたまま、静かに息を吐いた。
見慣れた、静かな書斎。
この屋敷で、唯一、彼が安らげる、場所。
あの女が足を踏み入れることのなかった場所。
仕事をする父親の姿のあった場所。
兄弟たちとかくれんぼをして、怒られたこの場所。
しかし。
今はその、どの影もない。
それらはどれも幻に過ぎず、今、目の前にあるのは。
床に座り込んだまま動かないメイベルの姿だった。
彼の長い話を、彼女は身じろぎもせずに聞いていた。
彼女に、全てを知られてしまうこと。
何よりも恐れていたこの瞬間を、彼は驚くほどあっけなく、
そして、静かな気持ちで受け入れていた、
あんなにもまとまりのなかった気持ちや感情は、
口に出そうと試みた途端に、美しく整列し、すらすらと彼の口をついて出た。
誰かに伝えられるその時を、まるで待っていたかのように。

「もう少し話を続けようか」

メイベルは、凍りついた表情のまま、食い入るように彼を見つめていた。

「そのあとすぐ、使用人はみんな辞めさせた。
せっかく屋敷を取り戻したのに顔なんて合わせたくなかったし、
彼らも俺なんかに仕えるのは嫌だったろうしね。
でもね…ベティだけは残りたいって、言ったんだ」

空っぽの誰もいない屋敷で、ぼんやりと一人、
座り込んでいるクリフに、彼女は雑務を言いつけるように言った。

―尻尾振り。私を雇うつもりはないかい?

彼は思わず、クスクスと笑う。

「あの言い方ったら、なかったな。
今思い出しても、とても、人にものを頼んでるとは思えないような、ね。
まあ、ベティらしいといえばそうなんだけど」

でも、とクリフが口ごもると、彼女は叱りつけるように、言った。

―お前は、そんなんで、これから生きていけるのかい?
 どうやって暮す?飯は?買い物は?掃除は誰がする?
 いくら金があったってね、生きていくことはできないんだよ。
 生活をしていくつもりがなきゃ、人間は、生きていけないんだ。
 お前のその腑抜けた面じゃ、あっという間にのたれ死ぬよ。

クリフがぽかんと口を開けると、ベティは不機嫌そうにまくしたてる。

―役に立たなければすぐ首にすればいい。雇う決心がつくまでは金もいらない。

彼女は啖呵を切るように言った。 

―だから、あたしを、ここに、置きな。

「それで彼女にはここに残ってもらったわけ。
実際、ベティは長くここにいて、屋敷の勝手をよくわかってたし、
とても優秀なメイドだったからね、すごく助かったよ。
資産家らしい振る舞いっていうのも俺は全く分からなかったけど、
思えば、そういうものもみんな、ベティが教えてくれた。
彼女は本当によくやってくれたよ」

彼女がいなければ自分は生きていけなかっただろう、と彼は思う。
ベティは。
口うるさく、彼を怒鳴りつけ、叩き起こし。
短気で、尊大で、偏屈で。
そして使用人とは思えない程の態度で。
いつも、彼を、見守っていてくれた。

「そして、少しして俺は仕事を始めた」

―旦那様のような、いい年の主人が、屋敷に籠っているとは何事ですか。

彼は、ぼんやりと毎日を過ごす自分に、ベティが言った一言を、思い出す。
―日が出ている間は、仕事をするものですよ。人間ならね。

「まあ、仕事をしててもね、大変だったよ。
上流階級っていうのは本当に狭い世界で、
あそこの人たちは家柄とか体面とかそういうものに、ものすごくこだわるんだ。
俺の家系は一度父親の代でつぶれてるわけだし、
どうしても胡散臭い目で見られちゃうから、
話を聞いてもらうだけでも凄く大変でね。
それでいまだに、俺は、あちこちに飛び回ってるわけ。
まあ、その方が、良かったのかもしれない。忙しい方が、気は紛れるのは確かだし」

彼はそこで言葉を切った。

「でもね」

自分がひどく滑稽に思えて、彼は歪んだ笑いを浮かべた。

「前みたいにここに住めるようになっても。
仕事をしても、時間がたっても、駄目だった。
俺の大部分はもう、それまでにとっくに死んでしまったんだろうね。
食べても食べても、腹はいっぱいにならないし、
どんなに体を洗っても、べっとりと染み付いた匂いが取れない。
なんていうのかな、何もかも、響いてこないんだ、中に」

そう。二度と戻らない。

彼はよく知っている。
取り返しのつかないことが、確かにこの世界に存在することを。

「屋敷から出てしまおうかと思ったこともある。
こんなところにいるからいけないんだってね。
でもね、どうしても出られなかった。
縛られたみたいに、出られないんだよ」

自分の声が早口になっていく。
感情の高ぶりに、その回転に、少しずつ、巻き込まれるような感覚。

「ねえ、わかる?
死ぬ思いで取り返した、この場所が。
あの女に嬲られて、家族が自殺して、そして君がやってきたこの場所が、
この世で唯一、俺が帰ることのできる場所なんだ。
どうかしてることくらいわかってる。
でも、どうすることもできないんだ。
そんな風にしか生きていけない人間なんだよ、俺は」

メイベルは目を見開いて彼を見た。

「そして挙句の果てに、俺は」

クリフは言った。

「君を、餌食にした」

メイベルの顔色が、さっと変わる。

「君の自由を奪って。他の使用人から孤立させて。そして、君の体を」
「違います…!」

メイベルの大声が、不快な音となり耳を裂く。
彼の心に、そのとき確かに怒りが湧いた。

「何も違わないよ」

彼女の気持ちは確かに、真剣なものだろう。
しかし。

「ベティにも言われた。俺は、あの女と同じだって」

彼女に同情されるのだけは嫌だった。
自分の過去を聞いたからと言って、
自分のしたことのなにもかもを許すような。
愛情の形をした哀れみならば。彼は思う。

―そんなものはいらない。

「それは…!」
「君を抱くときだって」

風のない日の湖面のようにあんなにも静かだった心が。
再び、吹き荒れるようにかき乱されていく。
行き場の失った感情たちが、かつて押し込められてきた悲鳴たちが、
刃となって、容赦なく彼女に切っ先を向ける。

「みんな、あの女に仕込まれたとおりにしてただけ」

メイベルが、はっと息をのむ。

「だって、そうすることしかできない。俺は、それ以外知らないんだから」

どうしてだろう。
彼は絶望する。
どうして、こうなってしまうんだろう。
彼女はこんなにも自分のことを受け止めようとしてくれているのに。
まるで当たり散らすような真似をして、今も自分は彼女を傷つけつづける。
好きで好きで。こんなにも好きになっていったのに。
しかし、彼女のことを愛すれば愛するほどに。
不安が憎しみが、限りなく膨れ上がっていった。

「君の気持ちはとっても嬉しかった。
こんな話を聞いてくれて、感謝してる。
でもね、君といると、時々、どうしようもなく辛くなる。
自分の醜さに、愚かさに、吐き気がして、気が狂いそうになる」

そうだ。
俺はいつも脅かされていた。
彼女の心が離れていく不安。
どこまでも純粋でひたむきなその心への嫉妬。
そして何より、彼女の愛情は、眩しすぎて、目が潰れてしまいそうになる。

「他人をどうやって大事にしたらいいかもわからない。
大切にするとか、愛するとか、そういうのは俺には分からない。
まともに誰かを思うなんてこと俺には、できない」


ぱしん。


その時。
空気が、破裂するような音がした。
渇いた痛みの後から、思考がついてきて。
彼はようやく。

メイベルに。
頬を、叩かれたのだと知った。






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