旦那様×メイベル14話目(非エロ)
シチュエーション


―メイベル。

あのひとの、声がする。優しい声。
大人の男の人の匂い。どこか甘くてくすぐったいような匂い。

―どうしたの、ぼんやりして。

あの人の腕は長いから、わたしの体なんてすぐ絡め取られてしまって、
ぎゅうっと抱きしめられると、胸が苦しくなって、
もう、何も考えられなくなってしまう。

―何を考えてるの?

そんなの決まっている。
あなたの、こと。
あなたは。
いつも、わたしのことをたくさん言葉にしてくれる。
その言葉で、わたしは自分の形を知ることができる。
誰にも必要とされてこなかったわたしの存在が、
価値のないと思っていたわたしの人生が、
機械のように繰り返されるだけだったわたしの日々が、
あなたの温度に満たされる。
そして、わたしは知る。
毎日が、こんなに、美しいこと。
生きていくことが、こんなに、楽しいこと。
誰かを愛することが、こんなに、豊かだということ。
好きな人に抱きしめられることが、こんなに、幸せだということ。
あなたが喜んでくれるなら、わたしは、どんなことだってする。
あなたを守るために、わたしは、もっともっと、強くなる。
だって。
だって、わたしは―

「そうやって、ずっと逃げるんですか?」

気がつくと、メイベルは叫んでいた。

「自分にはできないって…。誰とも心を通わせることができないって!」

何が起こったのか理解できない様子で、主は茫然と自分を見ている。
真っ白な表情。
彼の頬を打った手が痺れる。
でもそれは、痛みのせいでは、ない。

「じゃあ、あなたはどうなるの?
このまま、ずっとずっと、ひとりぼっちでいるの?」

だめ。
メイベルは思う。
こんな言葉じゃ、駄目。

「そうやって、平気な振りを、続けていくの?」

違う。
責めたいんじゃない。怒りたいわけじゃない。
この人の心が少しでも救われるような。
この人の苦しみが少しでも減るような。
そんな言葉を言ってあげたいのに。

「死んだみたいに生きていくの?」

なのに。
なにも浮かばない。
この人の深い苦しみを。凍りついたままの、長い時間を。
闇に取り込まれたままの、この人の手を。
強く引きあげられるような言葉が。
ない。
見つからない。

「そんなの…」

それ以上は続かなかった。
無力感に苛まれ、彼女が言葉に詰まった途端、ひとりでに涙が溢れていった。
ぼろぼろと、大粒の涙が後から後からこみあげては、雨の滴のように冷たい床を打つ。

―泣かないと、決めたのに。

自分の声が嗚咽に紛れてゆく。
なんて、弱いんだろう。
なんて、無力なんだろう。
この人がこんなに苦しんでいるのに。
強くならなくちゃいけないのに。
なんにも、してあげられない。
今度こそ泣かないと決めたのに。
あんな小さな誓いすら、わたしは守れない。
こんなに強く思っているのに。

―何ひとつ、言葉にすることができない。

だけど。
だけど。
身が焼きつくされるような悔しさに、彼女は必死に流されまいとする。
クリフは彼女をただ、信じられないもののように、見つめている。
迷子のような眼。その無表情の奥に潜む、大きな空洞。
メイベルは、涙に呑まれながら、両足で自分の体を支えて立ちつづける。
逃げちゃだめ。
目を逸らしてはだめ。
どんなに無力でもこれが、わたし。
そして。
このひどく傷ついた弱い人が、わたしが愛してやまない人、姿。
どんなにみっともなくても。届かなかったとしても。傷ついたとしても。
それでも。

―わたしはこの人の手を、絶対に離さない。

そして、メイベルは、喉から言葉を絞り出した。

「愛してくれました」

その時。
静止していた彼の顔が。
固まっていた瞳が、彼女をとらえた。

「あなたは、わたしを愛してくれました」

自分のものと思えないくらい、静かに、はっきりと。言葉が、続いていく。

「ちゃんと愛してくれました。たくさん、いっぱい、あふれるくらい。
わたしにはわかります…あなたが、どれだけ、わたしを大切にしてくれたか」

彼女は思い出す。
彼が教えてくれたたくさんのこと。
いくつもの物語、フォークとナイフの使い方、身綺麗にすることへの喜び。
愛情の受け止めかた、注ぎかた。
そして。

―メイドとしてじゃなくて、ただの、君の言葉が。
―きちんと、話してごらん。
―また君の悪い癖。
―きちんと自分の意志で決めてほしかったんだ。
―二人でいるときは、僕は君のことを使用人とは思ってない。

君もそうしてくれると嬉しいんだけど。
いつだって、彼は歩み寄り、メイベルを導き、そして待ってくれた。
主としてではく、対等な人間として。
彼女が答えを出すまで。
自分で考えることができるように、なるまで。

「あなたは人を愛せないわけじゃない。
ただ、自分を責めているだけ」

彼が目を見開く。
そう。
目を覚まして。
彼女は思う。
この、悪い夢から。
終わってしまったことから。
失ってしまったものから。

「自分が許せなくてただ自分が辛い道を選んでいるだけ。
自分が幸せにならないようにしてるだけ」

ただ、苦しみを与えるために、
自分を閉じ込めて、痛めつけてきた。
あなたは優しすぎただけで。
人より少し賢すぎただけで。
あなたが辛いのは、あなたのせいでは、ない。
あなたの人生はまだ、終わってはいない。
過去に閉じ込もっていないで、見て。
未来を、その先を、自分の幸せを。

「穏やかでいることなんて、ないんです。
傷ついたり傷つけられたりしてもいいんです。
辛かったら大声で泣いて、
楽しいことがあれば大声で笑って、
そうやって暮らせばいいんです」

メイベルは、両手で彼の頬を挟み、自分の方を向かせる。
その頬は、わずかに温かい。
死んでいない。
彼女は思う。
この人はまだ、確かに。
生きている。

「わたしはあなたが好き」

メイベルは、我を忘れて、叫ぶ。

「どんなあなたも、好き。
弱くても、意地悪でも、寝起きが悪くても。
今のあなたが、いちばん好き」

息が、苦しい。
喉が詰まって、声が出なくなる。
瞳が溶けてしまいそうになる。

「だから、お願いです…」

メイベルは思い返す。
主の、穏やかな、美しい笑顔。
つくりものの、よくできた上手な笑顔。

―そして、めでたく俺はここを取り戻したという、わけ。

いままで見たことの、ないような。
悲しい顔。

「もう、あんな顔で笑ったり…しないで…」

彼女はそれ以上何も言えなくなり、俯いて目を閉じる。
瞼を閉ざしてもだらだらと、目から流れ落ち続ける涙。
苦しくて、愛しくて、頭に血がのぼる。
そして。
彼女は。
自分の体がクリフに、きつく抱きしめられたのを、感じた。
涙の熱が体にこもる。
時間が止まったような沈黙。
この世に二人きりになってしまったみたいな、静けさ。
気の遠くなるような、愛しさ。

「君は」

掠れた声が聞こえる。

「俺の為に、泣いてくれるんだね」

うわごとのような、たどたどしい言葉。
縋りつくような、弱い声。
体の温度。匂い。
体が折れてしまいそうなくらい強い、その腕の力。

「あなたが泣けないのなら…わたしが、代わりに泣きます」

メイベルは、彼の肩に、頭を押し付ける。

「あなたが、泣けるようになるまで」

彼は何も言わなかった。
しかし、彼のその肩が次第に震えてゆくのを、彼女は体で受け止めながら、理解する。

―彼がようやく、苦しみを吐きだすことを、自分に許したということに。

クリフの呼吸が乱れてゆく。
体を押しつけるように、激痛に耐えるように、
メイベルの体を彼はきつく抱きしめる。

「大丈夫です」

メイベルもまた、彼の首に腕を巻きつけ、力を込める。
愛しい人の頭を引き寄せて、包み込む。
そして。
何かが崩れおち、決壊していくように。
彼が声をあげ、子供のように泣くのを、
メイベルはどこか安らぎを持って、受け止めた。

「大丈夫ですから」

彼の傷が癒えることはないだろう。
彼女は思う。
不安も痛みも彼の中の大きな空白も埋まることはなく、
これからも、苦しみは永く続くに違いない。
でも。
苦しみを吐きだすことができれば。
そこに寄り添うことができれば。
きっと、ほんの少しは、楽になる。
それが眼に見えないほど、ごく小さなものであったとしても。
一瞬の気休めに過ぎないものであったとしても。
そのためになら、わたしは。
何だって、差し出すことができる。

「わたしが、ずっと、おそばにいます」

泣きじゃくる主の耳元で、メイベルは囁く。
だって、わたしは―

「あなたを、愛しているから」






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