シチュエーション
![]() ―メイベル。 あのひとの、声がする。優しい声。 大人の男の人の匂い。どこか甘くてくすぐったいような匂い。 ―どうしたの、ぼんやりして。 あの人の腕は長いから、わたしの体なんてすぐ絡め取られてしまって、 ぎゅうっと抱きしめられると、胸が苦しくなって、 もう、何も考えられなくなってしまう。 ―何を考えてるの? そんなの決まっている。 あなたの、こと。 あなたは。 いつも、わたしのことをたくさん言葉にしてくれる。 その言葉で、わたしは自分の形を知ることができる。 誰にも必要とされてこなかったわたしの存在が、 価値のないと思っていたわたしの人生が、 機械のように繰り返されるだけだったわたしの日々が、 あなたの温度に満たされる。 そして、わたしは知る。 毎日が、こんなに、美しいこと。 生きていくことが、こんなに、楽しいこと。 誰かを愛することが、こんなに、豊かだということ。 好きな人に抱きしめられることが、こんなに、幸せだということ。 あなたが喜んでくれるなら、わたしは、どんなことだってする。 あなたを守るために、わたしは、もっともっと、強くなる。 だって。 だって、わたしは― 「そうやって、ずっと逃げるんですか?」 気がつくと、メイベルは叫んでいた。 「自分にはできないって…。誰とも心を通わせることができないって!」 何が起こったのか理解できない様子で、主は茫然と自分を見ている。 真っ白な表情。 彼の頬を打った手が痺れる。 でもそれは、痛みのせいでは、ない。 「じゃあ、あなたはどうなるの? このまま、ずっとずっと、ひとりぼっちでいるの?」 だめ。 メイベルは思う。 こんな言葉じゃ、駄目。 「そうやって、平気な振りを、続けていくの?」 違う。 責めたいんじゃない。怒りたいわけじゃない。 この人の心が少しでも救われるような。 この人の苦しみが少しでも減るような。 そんな言葉を言ってあげたいのに。 「死んだみたいに生きていくの?」 なのに。 なにも浮かばない。 この人の深い苦しみを。凍りついたままの、長い時間を。 闇に取り込まれたままの、この人の手を。 強く引きあげられるような言葉が。 ない。 見つからない。 「そんなの…」 それ以上は続かなかった。 無力感に苛まれ、彼女が言葉に詰まった途端、ひとりでに涙が溢れていった。 ぼろぼろと、大粒の涙が後から後からこみあげては、雨の滴のように冷たい床を打つ。 ―泣かないと、決めたのに。 自分の声が嗚咽に紛れてゆく。 なんて、弱いんだろう。 なんて、無力なんだろう。 この人がこんなに苦しんでいるのに。 強くならなくちゃいけないのに。 なんにも、してあげられない。 今度こそ泣かないと決めたのに。 あんな小さな誓いすら、わたしは守れない。 こんなに強く思っているのに。 ―何ひとつ、言葉にすることができない。 だけど。 だけど。 身が焼きつくされるような悔しさに、彼女は必死に流されまいとする。 クリフは彼女をただ、信じられないもののように、見つめている。 迷子のような眼。その無表情の奥に潜む、大きな空洞。 メイベルは、涙に呑まれながら、両足で自分の体を支えて立ちつづける。 逃げちゃだめ。 目を逸らしてはだめ。 どんなに無力でもこれが、わたし。 そして。 このひどく傷ついた弱い人が、わたしが愛してやまない人、姿。 どんなにみっともなくても。届かなかったとしても。傷ついたとしても。 それでも。 ―わたしはこの人の手を、絶対に離さない。 そして、メイベルは、喉から言葉を絞り出した。 「愛してくれました」 その時。 静止していた彼の顔が。 固まっていた瞳が、彼女をとらえた。 「あなたは、わたしを愛してくれました」 自分のものと思えないくらい、静かに、はっきりと。言葉が、続いていく。 「ちゃんと愛してくれました。たくさん、いっぱい、あふれるくらい。 わたしにはわかります…あなたが、どれだけ、わたしを大切にしてくれたか」 彼女は思い出す。 彼が教えてくれたたくさんのこと。 いくつもの物語、フォークとナイフの使い方、身綺麗にすることへの喜び。 愛情の受け止めかた、注ぎかた。 そして。 ―メイドとしてじゃなくて、ただの、君の言葉が。 ―きちんと、話してごらん。 ―また君の悪い癖。 ―きちんと自分の意志で決めてほしかったんだ。 ―二人でいるときは、僕は君のことを使用人とは思ってない。 君もそうしてくれると嬉しいんだけど。 いつだって、彼は歩み寄り、メイベルを導き、そして待ってくれた。 主としてではく、対等な人間として。 彼女が答えを出すまで。 自分で考えることができるように、なるまで。 「あなたは人を愛せないわけじゃない。 ただ、自分を責めているだけ」 彼が目を見開く。 そう。 目を覚まして。 彼女は思う。 この、悪い夢から。 終わってしまったことから。 失ってしまったものから。 「自分が許せなくてただ自分が辛い道を選んでいるだけ。 自分が幸せにならないようにしてるだけ」 ただ、苦しみを与えるために、 自分を閉じ込めて、痛めつけてきた。 あなたは優しすぎただけで。 人より少し賢すぎただけで。 あなたが辛いのは、あなたのせいでは、ない。 あなたの人生はまだ、終わってはいない。 過去に閉じ込もっていないで、見て。 未来を、その先を、自分の幸せを。 「穏やかでいることなんて、ないんです。 傷ついたり傷つけられたりしてもいいんです。 辛かったら大声で泣いて、 楽しいことがあれば大声で笑って、 そうやって暮らせばいいんです」 メイベルは、両手で彼の頬を挟み、自分の方を向かせる。 その頬は、わずかに温かい。 死んでいない。 彼女は思う。 この人はまだ、確かに。 生きている。 「わたしはあなたが好き」 メイベルは、我を忘れて、叫ぶ。 「どんなあなたも、好き。 弱くても、意地悪でも、寝起きが悪くても。 今のあなたが、いちばん好き」 息が、苦しい。 喉が詰まって、声が出なくなる。 瞳が溶けてしまいそうになる。 「だから、お願いです…」 メイベルは思い返す。 主の、穏やかな、美しい笑顔。 つくりものの、よくできた上手な笑顔。 ―そして、めでたく俺はここを取り戻したという、わけ。 いままで見たことの、ないような。 悲しい顔。 「もう、あんな顔で笑ったり…しないで…」 彼女はそれ以上何も言えなくなり、俯いて目を閉じる。 瞼を閉ざしてもだらだらと、目から流れ落ち続ける涙。 苦しくて、愛しくて、頭に血がのぼる。 そして。 彼女は。 自分の体がクリフに、きつく抱きしめられたのを、感じた。 涙の熱が体にこもる。 時間が止まったような沈黙。 この世に二人きりになってしまったみたいな、静けさ。 気の遠くなるような、愛しさ。 「君は」 掠れた声が聞こえる。 「俺の為に、泣いてくれるんだね」 うわごとのような、たどたどしい言葉。 縋りつくような、弱い声。 体の温度。匂い。 体が折れてしまいそうなくらい強い、その腕の力。 「あなたが泣けないのなら…わたしが、代わりに泣きます」 メイベルは、彼の肩に、頭を押し付ける。 「あなたが、泣けるようになるまで」 彼は何も言わなかった。 しかし、彼のその肩が次第に震えてゆくのを、彼女は体で受け止めながら、理解する。 ―彼がようやく、苦しみを吐きだすことを、自分に許したということに。 クリフの呼吸が乱れてゆく。 体を押しつけるように、激痛に耐えるように、 メイベルの体を彼はきつく抱きしめる。 「大丈夫です」 メイベルもまた、彼の首に腕を巻きつけ、力を込める。 愛しい人の頭を引き寄せて、包み込む。 そして。 何かが崩れおち、決壊していくように。 彼が声をあげ、子供のように泣くのを、 メイベルはどこか安らぎを持って、受け止めた。 「大丈夫ですから」 彼の傷が癒えることはないだろう。 彼女は思う。 不安も痛みも彼の中の大きな空白も埋まることはなく、 これからも、苦しみは永く続くに違いない。 でも。 苦しみを吐きだすことができれば。 そこに寄り添うことができれば。 きっと、ほんの少しは、楽になる。 それが眼に見えないほど、ごく小さなものであったとしても。 一瞬の気休めに過ぎないものであったとしても。 そのためになら、わたしは。 何だって、差し出すことができる。 「わたしが、ずっと、おそばにいます」 泣きじゃくる主の耳元で、メイベルは囁く。 だって、わたしは― 「あなたを、愛しているから」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |