シチュエーション
「本当に、よろしいのですか?旦那様」 メイベルは心配そうに、彼の顔を覗き込む。 「うん。買い手がついたから」 「だからって、そんな、簡単に―」 彼女は言った。 「ここを…お離れになるだなんて」 ―屋敷を、手放そう。 あの日。メイベルに全てを打ち明けた次の朝。 目覚めた瞬間に、彼はそう思った。 あれだけ執着していたこの屋敷。 ここを離れる決断を、自分がいとも簡単にできたことに クリフは今でも驚きを覚えていた。 上手くできるかはわからないけれど。 彼はこれまでにないほど澄みきった頭で考えた。 きちんとした形で、自分の生活を始めてみよう、と。 そして、今。 彼は長い時間を過ごしてきたこの書斎で、彼女にそれを告げた。 ここから、出ていくことにしたから、と。 「案外とんとん進むものだね。もっと早くこうしていればよかった」 「でも、大切なお屋敷だったのでは、ないですか?」 あまりに不安げなその顔を見て、彼は可笑しくなる。 メイベルが動揺する様子を見るのは、彼の密かな楽しみの一つであった。 「君は、反対?」 「そんなことはないですが、その、あまりに急ですし…」 彼女は言いにくそうに続けた。 「あの…ご無理をなさっているの、では…と」 メイベルの優しさを感じ、彼は少し思考を立ち止まらせる。 「もしかすると、そうなのかも知れない」 クリフは小さく息を吐いた。 「でも気が変わらないうちにと思って。ここにいたら、いつまでたっても…ね」 彼はメイベルのほうに向き直ると、言った。 「君のおかげ」 すぐ近くにある、メイベルの顔を彼は見つめる。 あどけなさの残る、幼い顔をした娘。 しかし彼女は、全身全霊で、自分を赦し、そして救おうとしてくれた。 メイベルはすこし黙った後、頬を染めながら小さな声で、はい、と答えた。 「とはいえ」 「はい」 「これからちょっと大変だなあ」 彼は他人事のようにあっさりと言った。 「荷造りもしなきゃいけないし、住む場所も探さなくちゃいけないし」 そして苦笑して続けた。 「ベティのところにももうちょっと通わなくちゃいけないみたいだし」 「まだ、会ってくださらないのですか?」 メイベルの言葉に、彼は肯く。 あれから、一月ほどが経った今。 彼は、ベティに謝るため、彼女の自宅に何度となく足を運んでいたが、 彼女はいまだに顔すら出してくれなかった。 「頑固だからね。こうなると時間がかかるんだよ、ベティは」 困ったようにクリフは笑った。 「でも、大丈夫。ちゃんと、分かってくれると思う」 冷静になった今では、ベティが火のように怒った理由を理解することができた。 きっと、自分のことを、誰よりも。 本気で心配してくれていたからなのだと。 「それに」 彼は意識を切り替える。 「ここで働いてくれてる人たちの、新しい勤め先も探さなくちゃいけない」 彼が言うと、彼女はきょとんとした表情を浮かべる。 「使用人を…お連れにならないの、ですか?」 「必要ないと思う。もうそんなに大きなところに住むつもりはないし」 「そう、ですか…」 彼女は少し不安げに答える。 「だから、君の仕事もおしまい」 メイベルの顔に戸惑いが浮かぶ。 「これからは」 彼女の困惑を打ち消すように彼は言った。 「メイドとしてじゃなくて。ただ一緒にいてもらえない?」 彼が言うと、メイベルは表情を失い、ぽかんと彼の顔を見返した。 純情なメイベルは、想像を超えたことがあるたびに、 すぐにこうして固まってしまう。 クリフは感慨のようなものを、覚える。 いつからだろう。 愛想のなかった彼女がこんな風に、くるくると表情を変えるようになったのは。 「言ってる意味、わかる?」 指を伸ばし、彼女の柔らかな頬に触れ、意識を自分の方に向けさせる。 「わ、わかります…」 不安定に揺れたメイベルの眼が彼を捉える。愛おしい瞳。 「今まで君にはたくさん酷いことをしてしまったし。 俺はこんなだから、君をきちんと幸せにしてあげられるかはわからないけど」 クリフは彼女の眼をまっすぐに見る。 困った顔。 頼りなげなその姿からは想像できないほど、彼女は強かった。 クリフは思う。 自分のことなんて、どうだってよいのだ。 失ったものや、じくじくと痛み続ける傷口を眺め続けるよりも。 これからは、この娘のためのことを。 彼女を幸せにするためのことを。 ―考えていけるように、なれたら。 かつての自分からはおよそ考えられないような、 その想いに彼の胸は満たされてゆく。 そして。 彼はメイベルの手をとると片膝をつき、言った。 「結婚して、いただけませんか?」 クリフは静かに返事を待った。 彼は自分の鼓動が速まるのを感じて、驚く。 沈黙がこんなに恐ろしいとは、と彼は思う。 不安になったり悩んだり迷ったり泣いたり。 彼女といるときの自分はあまりに見苦しく、何よりも人間らしい。 水をうったような静けさに耐えかね、 そっと彼女を見上げると、 メイベルは、顔を真っ赤にしたまま。 ぼんやりと、夢を見ているように茫然と、彼を見ていた。 「メイベル」 クリフは困り、彼女の名を呼ぶ。 「何か言って」 「あの…旦那様」 「ん?」 「けっこん、と言うのは…」 メイベルは初めて聞いた単語のように、それを繰り返した。 「知らない?」 「知ってます、でも…わたしの知ってるものは、あの、 旦那様が、おっしゃっている、ものと…違うかも、しれません、し…」 メイベルは、彼が予想した以上に混乱していた。 「君に奥さんになってもらいたいってこと」 みるみるうちにメイベルの顔色が変わる。 その素直な反応を見て、彼は自然と笑いがこみ上げてくるのを感じた。 「君が思ってたものと違ってた?」 メイベルはもはや言葉も出ない様子で俯くと、黙ったまま首を左右に振る。 確かに驚くのも無理はない、と彼は思う。 本来であれば、もう少し長く時間をかけて言うべきことなのだろう。 それ以前に、自分に言う資格のある言葉ではないのかもしれない。 だけど。 自分の気持ちに素直になったとき。 一番に。 彼女と家族になりたい、と彼は思ったのだった。 「君のことを愛してる」 彼は精一杯の気持ちを込めて、言った。 「返事を聞かせてくれる?」 メイベルは。 しばらく俯き、黙っていたが、 やがて、覚悟を決めたように顔を上げた。 動揺と混乱を必死に、押さえつけながら。 ごく小さな声で、しかし、しっかりと彼の目を見て。 メイベルは言った。 「…はい」 クリフは自分が感動していることを、驚きをもって受け止めた。 人が、負の感情ばかりでなく、陽の感情にもつき動かされるということを、 頭で理解する前に、彼はメイベルの体を引き寄せていた。 そして、口を塞ぐように、強引にキスをした。 「…んっ!」 メイベルが驚き、抵抗するように声を漏らす。 困ったな、と彼は思った。 愛しくて愛しくて、胸が苦しくなるほど。 こんなに誰かのことを、好きになってしまうなんて。 過去を反芻し形だけ生きているだけのような日々の中で、現れたメイドの娘。 そして、誰のことも信じることができなかった自分が。 愛情などというものに救われるなんて。 ―彼女なしでは生きられなくなってしまうなんて。 ゆっくりと腕の力を緩め、顔を離すと。 メイベルのその眼は潤み、唇は拗ねたように尖っていた。 「旦那様は、ずるい、です…」 彼女にしては珍しいその恨めしそうな表情に、クリフは苦笑する。 「何が?」 「いつも突然で、急で。そうやって…ご自分のしたいように、なさってばかり」 確かに彼女の言うとおりだ、とクリフは思う。 返す言葉もない。 「ごめん」 「反省…してます?」 「うん」 「じゃあ誠意を見せて頂かないと」 聞き覚えのある台詞に、彼の記憶がくすぐられる。 あれは、いつだったか― 「もっと…言ってください」 その甘い声に、彼の思考が分断された。 「愛してるって、言って」 かつて聞いたことのないような彼女の声に、彼は頭の芯が痺れるような感覚を覚える。 何度も何度もキスをしながら、クリフはその言葉を繰り返し囁く。 指を絡ませて、優しく。 まるで、どこにでもいる恋人同士のように。 二人は長い間、キスを続ける。 彼は祈るように考える。 もう二度と、彼女の顔を曇らせることがないように。 もう二度と、悲しい思いをさせることがないように。 ―いや、違う。 そこまで考えると、彼は思った。 二度と、なんていう誓いには意味がない。 きっとこれからも、彼女を悲しませたりすることがある。 きっと傷つけてしまうことも、ある。 でも、不安にのまれても。 見失うことがあっても。 何度でも立ち上がって進んでいこうという意志を持たなくては。 そう、彼女のように。 ―幸せから逃げないで、生きていけるように。 ふと気がつくと、メイベルは、その瞳からぽろぽろと涙をこぼしていた。 真っ赤な顔。無防備な瞳。その熱。 「泣いてる」 そっと指先で拭ってやると、彼女は初めてそれに気がついたように、驚く。 「あ…わたし…」 メイベルの髪を撫で、彼は笑う。 「君はよく泣くね」 「…はい…だめですね…ほんとうに…」 メイベルは泣きながら、困ったように笑った。 「あんなに泣かないって…約束したのに」 「約束って…」 彼はきょとんとして、尋ねる。 「…誰と?」 メイベルは一瞬目を丸くした後、 可笑しそうにクスクスと笑い始めた。 その顔は、柔らかくどこまでも幸せに満ちている。 不思議そうな表情を浮かべ続ける彼に向かって、 メイベルは泣きながら笑い、そして、答えた。 「秘密です」 SS一覧に戻る メインページに戻る |